廃墟と暗い夢 4
目が覚めると、そこはさっきまでネアが寝ていた寝室ではなかった。薄暗く雑然とした倉庫のような場所だ。中央の空間を取り囲むように棚がいくつも平行に並んでいて、木箱が積まれているのが見えた。棚の周辺に雑多なものが立てかけられ、散らばっている。
長いこと掃除されていないのか壁も床も黒ずんでいて、天井には蜘蛛の巣が張っている。床に触れていた部分は砂のざらついた感触がした。空気が澱んでいて、鉄錆のようなにおいがする。
「ここは……」
身体を起こそうとして、ネアは手足を縛られていることに気づいた。手首足首に縄が食い込んでいる。
横たわっていたときに片腕が身体の下敷きになっていて、すっかり痺れてしまっていた。それに腹の辺りに異物感があり、寝間着のポケットにものを入れたままだったことを思い出した。
手足が自由に動かせない中で苦労して上半身を起こすが、それだけで身体も頭もずきずきと痛んだ。ここに連れて来られるのに手荒に扱われてあちこちぶつけたのか、パンに滲み込んでいたなにかのせいか。
「おや、起きたようだね」
ネアがいるところからは死角になっていた棚の影から、青年が出てきた。確か兄がセリムと呼んでいた客だ。セリムは小脇に重そうな袋を抱えていて、ネアの前に来ると袋を投げるようにして下ろした。その袋から呻き声が聞こえ、ネアは肩を跳ねさせた。
「中に、人が……?」
「よくわかったね。君に見せてあげようと思ったんだ」
袋の口を開け、中身を引きずり出す。手足を縛られたネアと同じくらいの年の子供が出てきて、芋虫のように床の上で動く。まだ生きていることにほっとしたが、その子供の顔にはあざがあり、腕や足は血が滲んでいた。
セリムは子供の猿轡を外し、首根っこを持つようにしてネアのほうに顔を向けた。
「その子……」
病院の前で遭遇した少年だった。彼はネアを見たかと思うとセリムの手から逃れるように身体をよじり、這うようにして後ずさった。
「な、なんなんだよおまえは! おれをこんな目に遭わせて、ただで済むと思ってんのか!」
威勢のいい言葉は、恐怖で震えていた。
「済むんじゃないかな。わりと露見しないものだよ、下町の子供を攫っても」
「んなわけねえだろ! すぐに自警団が捕まえに来るっての」
「君たちに親がいて、子供がいなくなってすぐに対策を打つならそうなるかもしれないね」
少年の肩が跳ねた。
「ネア、そしてフーゴ。君たちは親がいない。保護者に厄介者扱いされている」
ネアの脳裏に兄の姿が過ぎった。病気の妹がいるからヒスキは働きづめで、どれだけ働いても治療費と薬代で出て行って、暮らしは楽にならない。
いくら優しい言葉をかけてくれても、気遣ってくれても、ヒスキが妹のことを本心ではどう思っているかなんて、わからない。
「いらない子なんだよ。だから、殺してあげよう」
神の言葉を下々の人間に伝える託宣のように、セリムはそう告げた。
「そ、そんな簡単に殺せるわけねえだろ!」
「おや。君は子分を引き連れて、弱くて抵抗できない子を殴ったり蹴ったりしていたじゃないか。簡単に他者に危害を加えていたんだから、自分がやられることも想定してしかるべきだったんだよ」
「あ、あんなのただの遊びだろ! 下町の子供は強くないと生きていけねえんだ。弱いやつはここではこうなるって教えてやったんだよ!」
「残念ながら、君が英雄ごっこと称してやってきたことは、暴力であり傷害でしかないんだよ」
「それは――」
「反省する気もないようだね。泣いて謝るなら手心を加えてあげようかとも思っていたんだけど」
「じゃ、じゃあ――」
「それで、ここに君が暴言をぶつけた被害者がいるんだけど」
「ご、ごめん! 悪かった! そんなつもりじゃなかっ――」
セリムはフーゴの頭を踏みつけた。硬い音がして、やがて顔の下から血が流れてきた。
「この期に及んで言い訳を吐いて自分を擁護するとは、余裕があるね。悪事を行った者が逆境に立たされた際、自己弁護したり自分も苦しんだとか言うのは実に滑稽だ」
「……う」
「さっきまで自分の行いは正しいと主張していたじゃないか。それを最後まで押し通す気概があればよかったのに」
足に力を込めたのか、フーゴが身じろぎした。
「君も弱者でしかないんだ。無様だね」
そしてフーゴを見下ろしていたセリムは、ネアのほうに視線をやった。
「ネア。君、こいつに酷いことを言われたんだよね。どうしたい?」
ごくりとつばを飲み込む。飲まされたものの味が残っているのか、乾ききった口の中は癖のある味がした。
「殺し方に希望があるなら聞いてあげるよ」
「こ、殺さないで……」
「どうしてだい? 君のような下町の気風を苦手にしていそうな子は、悪意をぶつけられたら簡単に忘れられることなく、いつまでも気にしているだろう? 言われたことは真実だったんじゃないか、自分に落ち度があったのではないか、ってね」
図星だった。ここ数日悩んでいた原因は、フーゴの言葉のせいだった。
「その原因となった子は、消えればいいのにくらいは思ったんじゃないのか?」
「そんなことは……」
「誰だって邪魔な人間の一人や二人、存在する。そうした存在は常に周囲にいて、平穏な生活を脅かしてくるものだ」
セリムは懐からナイフを取り出し、フーゴを転がすようにして仰向けにした。鼻が歪んでいて、血が顔にこびりついている。
「オレはそうした誰かにとっての邪魔な人間を殺してあげている。願いを叶えてあげているんだよ」
そしてセリムはフーゴの胸を一突きにした。フーゴは口から血が吐き出し痙攣する。見開かれた瞳は血走っていて、視点が定まらない様子で揺れる。
「心臓からは外したから、もうしばらくは生きているかもね」
手心を加えたら即死させてあげたのに、と言いたいかのようだった。
それからネアは再びセリムと目が合う。
「さて、次は君の番だ」
赤味がかった茶色の瞳を三日月の形にして、人を殺したばかりの青年は笑った。
「自分は安全だと思ってたかい? なにがあってもお兄ちゃんが守ってくれるって」
立ち上がれない状態で、ネアはセリムから逃れるようにじりじりと後ろに下がって行く。セリムはそれを楽しむように、ゆっくりと近づいて行った。こつ、こつ、と響く靴音が、ネアの残り時間を数えているかのようだった。
「フーゴは抵抗したから痛めつけたけど、君は本当に無力な子供だね。オレはあいつに言ったように、弱者をいたぶるのはあまり好きじゃないんだけど」
極限状態でうまく呼吸ができない。口から荒い息が吐き出される音が、ネア自身の耳にも聞こえてきた。
「具合も悪そうだね。そうだ」
距離を詰めてきたかと思うと、セリムはネアの足を縛っていた縄をナイフで切った。
「十数える間、待っていてあげるから逃げてみるかい? ほら、扉はあっちだ」
セリムは後ろを振り返り、まっすぐに指さした。
「運がよければ逃げ切れるかもしれないよ」
立ち上がろうとしたネアは、足がもつれて転倒した。縄で縛られていた足首が痛い。血が通っている気がしなかった。
一。ことさらにゆっくりと数を数える声が響いてくる。身体を起こすのさえうまくできず、時間がかかる。
二、三。転ばないように足を踏み出す。セリムの横を早足で抜けようとしたときは、生きた心地がしなかった。
四、五。扉までが酷く遠く感じた。
六。必死に足を動かして、扉に辿り着く。だが、遠目ではわからなかったことがあった。
「閂が……」
考えてみたら当たり前だ。人を殺していて、鍵の一つもかけないはずがなかった。
七。後ろを向いて、縛られたままの手でどうにか閂を外そうとする。だが縛られた手はうまく上に上がらず、閂は重くて、そもそもネアの身長からしたら上のほうにあった。
八。周囲を見渡す。棚に立てかけられているのは農具や鎌、矢や糸が外れた弓。農具は金属部分が錆びていて、本来の道具としての力を発揮できるかも怪しい。この場を打開できそうなものはなかった。
九。
「だ、誰か……助けて! 閉じ込められているの! お願い!」
手が縛られていて力が足りないなら声しか自由になるものはないと、ネアは叫んだ。だが乾いた喉からは、掠れたか細い声しか出てこなかった。
無力な子供。弱者。セリムから言われた言葉が頭の中で反響する。
十――という言葉が無慈悲に響く中、扉の外から声がした。
「ネアさん、扉から離れてください!」
目を見開く。よく知っているはずの声が、普段より遥かに頼もしく聞こえた。
「は、はい!」
転がるようにして扉の横の空間に駆け込んだ直後、閂ごと扉が破壊された。
扉が外れ埃が舞い、残骸が散らばる中、外から光が差した。