廃墟と暗い夢 1
裏路地で見かけたその子供は、下町の子供とは思えない立派な身なりをしていた。
波打つ亜麻色の髪に鳶色の瞳。染み一つないシャツに、仕立てのいいベストとズボン、艶のある革靴。ヒスキが着ている着古した服とはまるで違う。
好奇心を覚えて、ヒスキはその少年に声をかけた。
「お前、貴族?」
「まさか。商人の家の子供だよ」
それにしたってこの周辺の子供とは別格に思えた。十歳になったばかりのヒスキと同じくらいの年に見えるのに、余裕のある話し方や初対面の人間に対して浮かべられた笑顔も、大人びて見えた。
拒絶されなかったのをいいことに、ヒスキは少年に近づいて話を続けた。
「なんで商人の子供がこんなところにいるんだよ。いかにも金持ちらしい格好でこの辺一人でうろついてると、悪い大人に攫われるんだぞ」
「それは大変だ」
「年上の悪ガキの標的にされるかもな」
「君がされたことがあるような口ぶりだね」
図星だった。下町には暴力沙汰を好む人間が多々存在し、そうした親のもとに生まれた子供はそれが当たり前だと思って子供のうちから力を行使しようとするのだから。
そして強者に向かっていくような武闘派は少数派で、大体の攻撃的な人間は自分より弱い者を狙う。勝てそうな相手を選んで喧嘩を売っている。
「やり返してやったっての。この下町じゃ、自分の身は自分で守るしかねえんだよ」
拳を握り締めてそう主張すると、少年はふうん、と納得したのかしていないのかわからない反応を返した。
「理不尽な目に遭ったら、その相手がいなくなればいいのに、って思わない?」
「そういうやつに限っていつまでものさばり続けるんだよ」
「おや、気の毒に。余程酷い目に遭ったようだね」
「武勇伝語ってんのに同情すんな」
「気に障ったなら謝るよ。でも、君みたいにやり返せる勇気がある人はそれでいいんだけど。そうでない人はどうしたらいいんだろうね」
穏やかな口調で少年は空を見上げながら語る。
やっぱりこいつはこの辺のやつらとは違う、とヒスキは思った。常日頃から荒事と隣り合わせの下町の住人は、そんなことを考えている余裕すらないのだから。
「邪魔者や無駄に攻撃してくる者は、どこに行っても存在する。いつまでも不快なことが続くのなら、自分の身を守っているだけじゃなく、現実を変えないと」
「それ、商人として成功する教えかなんかか?」
「そんなところ。ところで、オレはセリム・ギルデン。君は?」
「ヒスキ・ストラング」
「よろしく、ヒスキ。さっきは助言をありがとう」
にこやかに笑うセリムに手を差し出されて、ヒスキはきょとんとしてから握り返した。
それが、セリムとの出会いだった。
それからもセリムとは下町で何度か会った。セリムの上等な服が砂埃にまみれていたり、怪我をしていたりしたことはなく、ヒスキの心配を余所に厄介事に巻き込まれることなくうまく立ち回っているらしかった。
「そういや、結局お前はなんのためにこの辺に来てるんだ?」
出会い頭の疑問が晴れていないことにふと気づき、ヒスキは問いかけた。
「商人としての勉強だよ。この辺りには、表通りにはない店もあるからね」
親の跡を継ぐことが決まっているだけではなく、努力も欠かさない。つくづく自分とは正反対だとヒスキは思う。
「いやいや、俺だって豪商の家に生まれてたら、ちったあやる気に……」
「うちはそこまで豪商というわけじゃないよ」
「でかい屋敷に住んで、でかい馬車であちこちに売買に行けるなんて時点で十分豪商だっての」
この辺りの住人はもとより、ヒスキの家とは大違いだ。
ヒスキの両親は結婚を期にこの街に住むことになり、これまでの蓄積も権威も周囲からの信頼もなく、苦労したらしい。そしていまも質素な生活が続いている。
子供の頃は両親が部屋の奥から出してきたものを金に換えに行くのを見かけたが、最近ではそれもなくなったように思う。父親の収入でやり繰りできるようになったのか、売るものがなくなったのか。子供心にも余裕のなさがよくわかる家だった。
「セリム、うまい肉や魚を毎日食ってんだろ。畜生、羨ましい」
「いつも食べたいものを食べられるわけじゃないけど」
「食い扶持減らすために間引いたりしねえだろ」
「例えが両極端だね」
「知り合いがよく親に言われてんだよ。悪さばっかするなら捨てに行く、食い扶持も減って一石二鳥ってな」
危険区域がなかった時代から伝わる物語には、森や山に捨てられた子供が魔物に遭遇する話がいくつもあり、この話のように、と例に出されることもあるそうだ。
それらは子供に言うことを聞かせるための脅し文句や教訓を含んだ物語なのだと、最近わかってきた。
もっともヒスキ自身は、親からそうした話はされたことはなかった。寡黙で温厚な父親とおっとりした母親は、この辺りに住む大人のように子供に対して手を上げることも、きつい言葉で行動を縛り付けることもなかった。
周囲の子供が語る親の印象とはまるで違う。もっと幼い頃は周囲に対して疎外感を覚えていたものだが、最近は両親の性格に対しては諦めの境地に達した。
「そういやさ。親ってなんで子供が欲しいんだと思う?」
「唐突だね。種の存続は生物としての本能なんじゃないの」
難しいことを言われたので、流すことにした。
「うちさ、妹がいるんだけど」
「へえ、いいなあ」
セリムが瞳を輝かせた。
「赤ん坊ってほどでもなくなってきたから、親がつきっきりになることも減ると思ってたけど。病気になってばっかで、手がかかるのは生まれた直後と変わらねえ感じでさ」
「ふうん」
「家で休ませてもどうにもならなくて医者に診てもらったら、その月の食費吹っ飛んだって言ってたし。なんでそうまでしてひ弱な子供を産もうと思ったんだか」
そんな話をするつもりはなかったのに、いつからか愚痴になっていた。別に妹のことも親のことも、嫌いなわけではないのに。
話を打ち切ろうとセリムのほうを見ると、彼はポケットからなにかを取り出して差し出してきた。
「じゃあ、これあげるよ」
「なんだこれ」
渡されたのは、液体が入った小瓶だった。
「願いが叶うかもしれないよ」
中身がなにかも言わずに、セリムはそう言った。
医者に診てもらったネアは、診察の間近くの店で買い物して来ると外に出ていたヒスキを病院の前で待っていた。足元には枯葉が落ちていて、風に吹かれてかさかさという音を立てた。
滅多に外に出て来ないからこそ、そのたびに風が冷たくなっていくのがわかる。秋が深まってきている。北の地の長い冬がもうしばらくすれば来るのだろう。
気温が下がると体調が悪化することが増える。また兄に迷惑をかけることになると思い、ネアが溜息を吐き出したとき、声をかけられた。
「ストラング家のネアってやつ、おまえだろ」
声がしたほうを見ると、ネアと同じくらいの年の男の子と目が合った。額を出した黄土色の短髪で、薄い眉が吊り上がっている。下町の子供らしい古着を着ている。声変わり前の声は、相手を見下した響きがあった。
「おまえ、親に捨てられたんだってな」
続けられた言葉に、ネアは肩を跳ねさせた。
その反応に満足したように、さらに少年は矢継ぎ早に話し出した。
「うちの親、言ってたぞ。あの家の夫婦は余所者だからなにをするかわかったもんじゃない、この街にも子供にも愛着なんてなかった、だから簡単に捨てられるんだ、って」
大股で近づいてきて、三白眼でネアを見下ろす。
「下町の子供はおれたちくらいの年でも働いてるのに、おまえはそれすらやってねえし。病気で金がかかる妹がいなけりゃ、おまえの兄貴ももっと楽な暮らしができたんじゃねえの。ほんとお荷物だな」
――そんなこと、今更言われなくてもわかっている。
言い返したいのに言葉が出て来なかった。胸がどんよりと重くなる。
「なあおまえ、なんのために生きてんの?」
存在を否定する言葉が投げかけられ、突き刺さった。
悪意をぶつけられる感覚。その痛みを、知っている気がした。
「ネア、待たせたな。……と。友達か?」
兄の声がして、目を閉じて首を振る。
「……違う」
閉ざされた視界の中で、軽い足音が去って行くのが聞こえた。少年は逃げたようだ。
「もしかして、なんかちょっかいかけられたか? しょうがねえなー。ネアが儚げで可愛いから、ついいじめたくなるんだろ。ま、女の子とかかわるのに慣れてねえガキはそんなもんだ」
少年がさっきまでいた場所と兄を見比べて、ネアはぽつりと問いかけた。
「なんでお父さんやお母さんの悪口を言われたのに、お兄ちゃんはさっきの子を庇うの?」
ヒスキは目を見張った。
「……悪い。勝手に決めつけて、適当なこと言って」
「ううん」
「他になんか、嫌なこと言われたか?」
忘れようとしていた内容が頭を過ぎる。言われたことをヒスキに伝えたくなくて、ネアは黙り込んだ。
「さっきの子供、多分知り合いの弟だな。最近そいつとは会ってなかったけど――ネアを家に送ってったら、ちょっと探して殴ってくるか」
「しなくていいよ!」
「こういうのはきっちりケジメつけといたほうがいいぞ。どっちが強いかわからせてやらんと、また同じことをされるかもな」
「だ、大丈夫だから。叩かれたりしたわけじゃないんだから」
「叩かれて傷ができてたら半殺しだな」
「喧嘩はよくないよ」
「喧嘩じゃねえ。粛清だ」
口では荒っぽいことを言いつつも、兄の顔は笑いが混じっている。本当にやりに行くことはないだろう。
ただの子供同士のちょっとした軋轢。それだけのこと、と心の中では思っているはずだ。
ヒスキがいなければネアが生きていけないし、よく面倒を見てくれて頼もしいが――人と人はわかり合えないものなのだという一番の実例が、血を分けた兄でもあった。
下町は酒場や夜のお店があって、賑やかで騒がしくて雑多なものや人があふれている。粗野な男の人が沢山いて、その子供も露悪的な物言いをすることをよしとしている。
ヒスキにとっては暮らしやすいかもしれないが――ネアのような子供からしたら、家の外は凶暴な魔物がいるという危険区域の壁の向こうと同じに思えた。
家に帰り食事をした後、ヒスキは最近整理をしていなかった棚の奥からものを引っ張り出しはじめた。
「なにやってるの?」
「ちっと探し物。昔見た覚えがあるから、捨ててないならありそうなんだけど……ああ、うるさいから眠れねえか」
「今日は体調いいし、すぐに寝なくても大丈夫だよ」
「んなこと言ってると、また寝込む羽目になるぞ」
お決まりと化したやり取りを交わしながらヒスキはあちこちの引き出しを引き抜いて、床に並べ出した。床には棚の中にあった大きなものも出されて、収納の周辺は雑然としている。
ナイフや大工道具が並べられた引き出し、裁縫道具や端切れが詰まった引き出しが目に入った。父と母がそれぞれ私物を入れていた場所らしい。両親はこれらのものを家に残したままどこかへ行ってしまい、帰って来ていない。
最近使っていないような雑多なものが入れられた引き出しには、よくわからない細々としたものが入っていた。表面が滑らかな変わった模様の石、金属片、硬い殻の木の実。もしかして兄が子供の頃に集めていたものだろうか。
年が離れている兄は、ネアが物心ついた頃には年上の兄として存在していて、その辺にあるものを拾ってくる子供時代のことが、うまく想像できなかった。
ヒスキはかつて自分が溜め込んでいたかもしれないもののことなど見向きもせずに、探し物に夢中だ。
ネアは引き出しの中身をじっと見つめ、その中に小瓶があることに気づいた。なにも入っていないのかと思ったが、取り出してみると液体が入っているようだ。
「……これ」
「ほら、ネア。夜は寒くなってくるし、そろそろ寝たほうがいいんじゃねえ?」
「う、うん」
ネアは立ち上がり、自分の寝室に向かった。手には小瓶を持ったまま、布団の中に潜り込む。冷たいガラス瓶の感触が伝わってきた。蓋を緩めると、甘いにおいが鼻孔を突いた。
兄に忘れられたであろう子供の頃の収集品に、両親に連れて行ってもらえなかった自分を重ねた。捨てられたんじゃない。そう思いたかった。
――そうだよ。だってお父さんとお母さんは……。
朧気になっていく意識の中、自問自答のような言葉が浮かんでは消え、夢に溶けていった。




