王都の夢見人 5
「ヨルンさん、ただいま戻りました」
ローゼンブラド卿の屋敷のヨルンの客室の扉を開き、アスタは中にいる人物に声をかけた。
ヨルンは薄暗い部屋の中で手元だけ明かりをつけていて、作業に没頭していた手を止めて振り返った。
「劇団に見学に行くんだったか。その顔からすると……」
「面白かったです!」
心からの感想をアスタは即答した。
「カティヤさんが緊張して挙動不審になっているところなんてはじめて見ました。憧れの人を前にしたらそうなりますよね」
「アスタはどうなんだ?」
「サイン欲しかったです。けど、この世界での客としての文化を知らないので自重しました」
「そうか。ところで、あまり人の格好についてあれこれ言う気はないんだが……」
外出するたびに華美になっていく気がするドレスを見下ろし、アスタは苦笑いした。
「豪華で見ている分には素敵なドレスですが、動き難いですね。着脱するのにも一苦労ですし」
王都の屋敷に滞在することになってから、しばらく経過していた。生活するのに不自由はなく、むしろ過剰なくらいに様々なものを与えられている。
素材からして街の大通りで買っていたものとは値段が違いそうな、手間暇かけられたおいしいご馳走。綺麗なドレスや装飾品。客室の内装や調度は言うに及ばず、日用品一つ取っても高級感があるものだ。
ディックはたびたびアスタとカティヤを王都へ連れ出した。滞在初日に武器や鎧を見せて反応がいまいちだったことを受けてか、それ以降はディックなりにアスタたちの好みを考えたのだと思える行き先だった。
敷地内にある薔薇園には、見事な薔薇が咲き誇っていた。よく手入れされた広い庭には木々や花が植えられていて、綺麗に植えられた初夏の花が目を楽しませてくれた。
馬車で出向いた先は、クーユオの街では見られないような荘厳な景色が広がっていた。その先にある洞窟では珍しい鉱石が採れると教えてくれて、ヨルンは釈然としない様子ながらもアスタやノーラとともに採取していった。
昔話の劇を見ていたロジャーが、殺陣の参考にと剣技を披露してくれて、演劇で再現できるような型を教えてくれた。
カティヤが券を取れなかったと嘆いていた劇を観に行った。王都の中でももっとも広い劇場で、席は最前列。生の演技は大層迫力があった。
つてがある劇団があったらしく、今日見学に行かせてもらった。貴族に会わせるなというヨルンの忠告を守る気はあるらしく、行き先は貴族がかかわっていない、歴史ある劇団だった。
アスタはかつらを被って露出している肌が素よりも濃く見えるような化粧をして、入念に変装した結果、鏡を見たらホムンクルスらしさが随分薄れていた。
財力に頼るだけでなく、気を引きたい者を喜ばせたいというディックの考えが伝わってきた。最初は失敗しても即座に対応策を立てていい結果を出せるのも、次期当主の器ということなのかもしれない。
思えば、最初ディックはアスタをホムンクルスと呼び、そのように扱っていたが、人と同じ意思を持っていると知ってからは、人間扱いしているように感じられた。
上から目線なのは相変わらずだが、ディックの性格を考えると、彼は自分より偉い王族や公爵や親以外には誰に対してもあんな態度だろう。
ヨルンたちが普通に人に接するようにかかわってくるから忘れがちだが、ホムンクルスは人間ではない。それを考えると、ディックのような者がこうした態度で接してくれるのは、珍しい事態なのではないだろうか。
そこまでしてくれるなら、「売ってくれ」という主張も是非とも取り下げて欲しいものだが。
ヨルンは最初のうちはアスタが行く先に同行したが、最近ではカティヤやイレネ、ノーラが傍にいるのだから大丈夫だろう、という結論に達したようだ。
ここ数日はすっかりいつもの黒衣姿で、用意された客室に引きこもっている。部屋の外を歩く際は外出用の上着を羽織っているが、作業に集中し出すと適当になっていく身だしなみは、貴族の館からは浮いていた。
ヨルンにも着替えが用意されているだろうから、ここにいる間くらいしっかり着込んでも罰は当たらないだろうに。
そう考えてから、この屋敷での豪勢な暮らしに慣れつつあるからそんな風に思ってしまうのだろうか、と自省した。
貴族の暮らしをしたいわけではない。現在のこの日々は、滅多に体験しないことだからこそ、新鮮で物珍しいのだ。
そうは思うがそれはそれとして、ヨルンがパーティーに参加したときのような服を身にまとっているのを、また見たかったが。
着替えたアスタがカティヤの客室に顔を出すと、カティヤはまだ興奮冷めやらぬ様子で顔が緩んでいた。
「ねえ、アスタ。今日寝たら、夢に昼間の劇団の様子が出て来るかもしれないわ」
「それほどまでに印象的だったんですね」
「それはもう。それに、雲の上の存在だと思っていた役者と話ができたのよ。惜しむらくは緊張してなにを話したのか、よく覚えていないことね」
カティヤはうっとりとそう言った。
「よかったですね、カティヤさん」
「ええ。……でも、喜んでばかりもいられないわよね。この状況を提供してくれている相手は、アスタを所望しているのだから」
「だ、大丈夫ですよ。滞在期間が終わるときにきっぱり断ります」
「ならいいけれど。アスタってヨルンたちを振り回しているわりに、押しに弱いところもあるから」
去年の演劇の際にアスタたちを強引に仲間に引き入れた主演兼演出の評がそれだった。
アスタとカティヤの会話を、イレネが穏やかな微笑みを浮かべて聞いていた。
夕食時に顔を合わせたディックは、客人たちを見渡して豪快に笑った。
「今日はアスタもカティヤも満足してくれたようだな。実によかった」
「はい、ありがとうございました」
カティヤは昼間熱に浮かされた様子をディックに見られたのが恥ずかしいのか、優雅な仕草で料理を口に運ぶことに専念している。ヨルンはいつもと変わらずに無言で食べていたので、アスタが応対したのだった。
「うむ、いい返事だ。周囲の者に喜んでもらえると、清々しい気分になるな」
そうした発言を聞いていると、ヨルンが言うような悪徳貴族とは違う、他者のために力を尽くせる若者に見えるのだが。
「では、俺のものになる気になったか?」
「いえ、それはちょっと……」
「なぜだ? 望みのものはすべて与えてやると言っているのだぞ」
心底不思議そうに言うディック。それに対して、アスタはふと悪戯心が沸いた。ようはディックでは叶えられない望みがあればいいのだ。
「だったら人並みの寿命が欲しいですね」
その言葉に、ディック、カティヤ、ヨルンがそれぞれ食事をしていた手を止めた。
「そうか、なるほど。ホムンクルスの活動年数は十年ほどだったな」
ディックは顎に手をやり、アスタに問いかけた。
「アスタが作られたのはいつだ?」
「去年の春です」
「ならば残り九年か」
そうやってはっきりカウントされると、普段意識しないようにしていた事実が否応なく突きつけられる。
「……待って、アスタ。私、その話初耳だわ」
「そうでしたっけ。カティヤさん、領主の娘ですからホムンクルスに詳しいんじゃなかったんですか?」
「専門家じゃないし、家にホムンクルスがいるわけじゃないから詳しくないわよ。お父様が出資していて、いざというときにホムンクルスの手を借りられると知っていただけで。ああ、でも確かに……子供の頃見かけたあの館のホムンクルスは、最近は見かけないわね」
カティヤは難しい顔をして考え込んでしまった。アスタに向けられる瞳には憐憫が宿っているかのようだ。
「ええと……カティヤさん、唐突に知らせてしまったようでごめんなさい。でも、ホムンクルスはそういうものなので気にしないでください」
「ええ、そうね……こちらこそ変な空気にしてしまったわね」
互いに相手の反応を窺いつつ、この場を収めようとする。そこに空気を読まない一言がディックから投下された。
「女性陣が困っているぞ、ヨルン。意思があるホムンクルスを作れるのなら、活動年数くらい延ばせないのか?」
「無理だ」
「そうか、ホムンクルスを作った錬金術師ですら無理なことか。それほどの奇蹟が必要なようだな」
「現実ではありえないことだから奇蹟というんだ」
「奇蹟を起こす力を持つのは英雄や天に選ばれし者だ。その奇蹟を起こせたなら、アスタは俺のものになるというわけだな」
「だから、そんなことできるはずが」
「まあ見ていろ」
なにか考えでもあるのか、ディックは自信満々にそう請け負った。
ある日の朝食の後、バルコニーで屋敷の庭を眺めながらアスタがカティヤと過ごしていると、急いた様子でディックが近づいてきた。
「悪いが急用ができた。朝食の席で言った今日の予定は延期だ」
「わかりました」
「ああ、そうだろう。さぞや悔しい想いをしていることだろう。その想いはよくわかるぞ! なにせ俺の計画は完璧だからな」
「お気遣いなく。どうぞディックさんの用事を優先してください」
アスタたちと王都を巡る計画に余程の自信があったのか、予定が潰れたことを客人が嘆いていると思っているらしいディックに、アスタはそう返した。
「しかし客人をもてなすのは招いた者の務めなれば」
「ディック様、お客様の相手は帰ってからでもできますから。いまは準備に専念なさってください」
選んでいる途中らしき何着かの服を腕にかけたロジャーが追いかけてきて、主に進言した。
「おお、そうだったな」
「早くしないと今日中に戻って来られませんよ」
「わかっておる。ではな、アスタにカティヤ」
ディックは名残惜しそうに去って行った。
それと入れ替わるように、モーゼスがやって来た。彼はディックに同行しないのか、いつもと変わらない悠然とした佇まいだ。
「そういうわけで、ディック様は今日は屋敷にいらっしゃいません。もしかしたら訪れた先で一泊して来るかもしれませんね。いかがいたしましょうか」
「ここ最近、連日のように様々な場所に連れて行っていただいたので、屋敷で休ませてもらうわ。出かけるとしても私の従者を連れて行くのでお構いなく」
カティヤがそう言い、アスタも頷いた。
「そもそも次期当主ともあろうお方が、よく半月ほど客の相手という名目であちこち出歩いていられたわね」
「ええ、本当に。夕方や夜の社交には顔を出していましたが、それ以外は適当な理由をつけて欠席したりと、無理をきかせたようです」
「だ、大丈夫なんですか?」
自分の予定があるのにキャンセルしてまで客につき合わなくてもいいだろうに、とアスタは焦った。
「おかげで絶対赴かなければならない用事まで、直前になっても忘れていた始末です。もう成人しているというのに、困った次期当主ですね」
本人が近くにいないからだろうか。モーゼスの評は、なかなかにシビアだった。
「そうだわ。ディックがいないなら、いまのうちに帰ってしまえば……」
「互いに納得しておられない形で最初の約束を違えると、ディック様は憤慨なさるでしょうね」
「そうよね。まあ、あと半月くらい、この屋敷での生活も悪くないかもしれないわね」
「そうですね」
「あるいはアスタ様がディック様のものになると早々に結論をお出しになれば、カティヤ様とヨルン様は街へお帰りになれますよ」
モーゼスの提案に、アスタは肩を跳ねさせた。
「ディック様の様子を見ていてわかるでしょう。欲しいものが手に入らなくて、どうにかして入手しようとしている子供と同じです。子供の我がままと違うのは、アスタ様を懐柔できると信じていて、そのために金も時間もかけることを惜しむつもりがないというだけで」
モーゼスのレンズの奥の黒い瞳がアスタを捕らえる。丁寧な言葉、洗練された所作。だがかけてくる言葉の温度は低い。
「案外、一度手に入れてしまえば、しばらく構った後に見向きもしなくなるかもしれませんね」
ローゼンブラド家の先祖が集めたという収集品の数々を思い出した。あれだけ集めて部屋の中に整然と並べても、たびたび観賞されているものがいくつあるのだろう。そもそも熱心に集めていた先祖は、いまはもういないのではないか。
アスタもそれらの収集品と同じだ。家宝の宝石ほどの特別感があれば別だろうが、そうでなければいずれ飽きられる。
そうなったときにホムンクルスがどういう扱いをされるかなんて、この屋敷にホムンクルスがいない以上、わからなかった。
「アスタを脅すようなことを言うのはやめてちょうだい。彼女は貴族じゃないのよ。裏を読み合うような会話なんてできないの」
カティヤの言葉で、アスタは顔を上げた。
「これはこれは、手厳しい。すみませんでした。ただ、ディック様の日頃の行いを教えて差し上げようと思ったまでです」
「あなた、次期当主をあまり敬っていないようね。彼の護衛と違って」
「私の主は侯爵で、仕えているのはこの家ですよ」
そう言い残して、モーゼスは去って行った。