雪の中の幻影 4
一階の主要な大部屋や個室はあらかた調べたという頃、アスタが部屋の中を見渡してから廊下に戻ると、白い影が曲がり角を横切ったように見えた。
「あれ、いま……」
「どうかしたか?」
ヨルンの問いかけを背中に聞きつつ、曲がり角まで早足で近づいて角の先を見る。そこには誰の姿もなかった。なにかを連想した気がしたが、なんだっただろうか。
「誰もいませんね」
「さっきから人の姿を見ていないんだ。この辺りの部屋は全部見たし、無人の城だったという調査結果でいいんじゃないか」
追いかけてきたヨルンの言葉に頷きかけ、ヨルンの背後の廊下が目に入った。誰もいない。
「ヒスキさんは部屋の中ですか?」
「さあ。見に行こう」
アスタが覗き込んでいた部屋を見ても、その周辺の部屋の扉を開けても、ヒスキの姿はなかった。
「先に帰ったんでしょうか」
「無責任だな」
「あ、いえ、まだ調べるところは沢山あります。上階へ行ったのかも」
「僕たちに声もかけずに?」
ヨルンと顔を見合わせ、沈黙が落ちた。
「迷子……?」
「子供じゃあるまいし」
「そ、そうだとしても探しましょう。ただでさえ本来存在しなかった城ではぐれたんです。なにかあったのかもしれません」
「自分から行くと言ったのに、手がかかる……」
そう言いながらも、ヨルンはヒスキを置いて帰ろうとは言わなかった。
それからしばらく周辺を探し、一度調べた一階を全体的にざっと見回り、城の外を見てから玄関ホールから伸びている階段を上がって二階を少し探してみたが、ヒスキは見つからなかった。
「いませんね……」
ホムンクルスは体力があるといっても、さすがに精神的に疲れてきた。広い城の中を行ったり来たりして、どこにいるかもわからない同行者を探しているのだから。
そこまで考えて、アスタはヨルンのほうを振り返った。
「ヨルンさん、大丈夫ですか? お疲れでは」
「大丈夫だ」
即答された。しかし見るからに足取りは遅くなっていて、顔には疲れが滲んでいる。
「じゃあ広間で休憩しましょうか。あそこなら、外に出ようとする人がいたら気づきます。遭難したときのために持ってきたご飯と飲み物もあることですし」
「いや、人の話を」
「わたし、歩き回ってお腹が空いたんです」
「……そうか」
ヨルンとともに玄関ホール近くの広間へ行った。暖炉に火が灯っていて、雪が舞う外よりはもちろん、廊下よりもずっと暖かい。
その隣の部屋を見ると、厨房と食料庫のようだった。無人の城なのに、食料庫には新鮮な肉や野菜やパンや丸ごとのチーズが沢山詰まっていた。
広間の暖炉の近くにソファが置かれていて、二人は荷物を下ろしコートを脱いで腰かけた。手袋を取った手をヨルンはすり合わせる。
窓の外を見ると、雪が強くなっているようだった。大粒の雪が舞い、強い風が吹いている。防音性能が高いのか、外の音が聞こえないから気づかなかった。
「館に帰れないんじゃないか……?」
雪だけでなく、外も大分暗くなってきている。長々と調査をするつもりなどなく、陽が落ちるまでに館に戻るつもりだったのだが、準備をしてから森を歩いて城の中を調べて回るうちに、意外に時間が経ってしまったらしい。
「食べるものは持ってきましたし、すぐそこの食料庫でも発見しました。一晩くらいはどうにかなりますよ」
「誰もいないのに、妙だな」
「誰かが住んでいて外出中なのかもしれません。主が帰ってきたら対価を支払いましょう」
水筒に入れてきたお茶を厨房で温め直し、暖かい部屋で夕食を食べた。食後のお茶を飲んでいると、身体が温まってぼんやりしてきた。
「カティヤさんのお屋敷も素敵ですが、こんなお城で過ごすことになるなんて思いませんでした」
「そうだな」
「意外に居心地がよくて気が緩んじゃいますね。ヒスキさんもどこかでゆっくり過ごしているといいんですが」
ぱきん、と氷が割れるような音を聞いた気がした。
なんだかひどく眠い。誰を探していたんだっけ。どうしてここに来たんだっけ。
「……ひとまず睡眠をとりましょう。明日になればきっと館に帰れます」
「ああ……」
城の中の豪華な個室を勝手に使わせてもらうことに躊躇していたのは、最初のうちだけだった。個室のベッドはふかふかで、上掛けや毛布の肌触りは最高で、とてもよく眠れた。
「おはようございます、ヨルンさん。朝食を作りましたよ」
「……この野菜は冬にとれるものじゃないはずだが」
「細かいことを気にしても仕方ありませんよ」
暖炉がある部屋は暖かく快適で、厨房の食材を使って作った料理はおいしい。個室のクローゼットには誂えたように寝間着や衣服も収まっていた。着替えに困ることもなさそうだ。
知らない場所への警戒心はいつの間にかどこかへ行っていた。まるでずっと昔からここで過ごしていたかのようだ。
ヨルンもいつになく穏やかで機嫌がよさそうだった。二階を探索したときに図書室を見つけて、暇を潰すものにも事欠かなくなった。
「現在出回っていない珍しい本がある」
図書室の背表紙を眺めるヨルンは、知識欲で目を輝かせていた。
「寝食を忘れてぶっ通しで読み続けないでくださいよ」
「わかっている」
そう言いながらも、ヨルンは本を開いて文字を目で追い出した。せめて暖炉がある広間に持って行って読んで欲しかった。
ふと窓辺の棚に目をやると、室内に置くには不釣り合いなものが目に入った。不釣り合い。そうだろうか。窓の外の光景と合わせると、別におかしくはないような。
本を数冊選んだヨルンを広間に連れて来て、アスタはお茶を淹れるために厨房へ向かった。暖かい部屋でゆっくり過ごしているのならそれに越したことはないはずなのだが、以前徹夜と食事抜きで倒れた姿を目にしたからか、どうにも信用ならなかった。
「そうですよ。あのときはびっくりしましたけど、最近ではそこまで不摂生はしていない様子で……」
あれから色々あった。印象的な出来事だったはずなのに、なぜか遠い昔のことのように思える。館や街の光景が朧気に感じられた。館に他にもホムンクルスがいて、街で同年代の人たちと知り合って、そのうちの一人と一緒にここまで来たはずだった。
「そう、現在大変なことが起きていて、だから――」
そこまで考えた直後、お湯が沸いてアスタはお茶を淹れる続きに取り掛かった。言いかけた言葉の続きが明確な形になることは、なかった。
寝て起きて、一日経ち、二日経ち――。
「やみませんね、雪」
広間の窓の外の雪景色を見て、アスタは言った。
「もっと適度な雪なら、外に出て雪かきをして――そういえば、結局雪だるまもあれ一つしか……」
そこまで言って、はっとした。
雪だるま。いつか館の自室で本を読んでいたときに声をかけてきた白いコートに黒いボタンの少年を見て、絵本の挿絵に描かれていた雪だるまを連想したのではなかったか。黒い瞳も、雪だるまに埋め込んだ黒い石のようだった。
そしてこの城で見かけた白い服を着たシルエットは、その少年に似ていたような。
「そうです、なんでここにずっと滞在してるんですか。調べに来たんですよ。あと、ヒスキさんと合流しないと」
「ヒスキ……?」
ソファに座り本を読んでいたヨルンが顔を上げて、反復した。
「しっかりしてください、ヨルンさん。この場所のせいでしょうか……一度館に戻りましょう。でもヒスキさんも心配……」
「大丈夫だ。彼はもうここにはいない」
ヨルンの言葉で、誰を心配していたのかわからなくなった。覚えていないのなら、重要なことではなかったのだろう。
「これだけ雪が降っているんだ。館に帰ることはできない。ずっとここにいればいい」
「……はい。そうですね」
主がそういうのなら、それが正しいのだろう。本来ホムンクルスは錬金術師に従うものなのだから。
食材をふんだんに使った夕食を食べて、個室のベッドに潜り込んだ。目を閉じるとアスタはすぐに眠りに落ちた。
夢を見た。黒髪の男の子の夢。
話し相手ができたけれど、捨てられてしまった。家族がいたが死んでしまった。ひとりぼっちになってしまった。
男の子は成長して、錬金術師の跡を継いで、ホムンクルスを作った。そのホムンクルスに意思が宿った。
ホムンクルスを自由にさせて観察しようとすると、館の外に出て行った。それを彼は見送った。
手を伸ばしかけたこともあった。その手がホムンクルスの手をつかむことはなかった。
「……なんでそんなに寂しそうなんですか」
これではアスタがヨルンを見捨てたかのようだ。
領主の屋敷の二階から落ちた。その程度なら、ホムンクルスは大丈夫だ。
首にナイフを突き刺して床に倒れる少女を、ヨルンは見下ろす。その瞳には、諦観が宿っていた。
この娘もじきにいなくなる、とでもいうように。
「わたしはいなくなったりしません。怪我は治ったし、ヨルンさんの傍にいます!」
必死に声を張り上げたが、ヨルンに届いている様子はなかった。
「そうかな」
冷たい声が響いた。振り返ると、白いコートの少年がいた。
「あなたは……」
「きみはヨルンとは正反対だ。ヨルンの考えを否定する。だから」
「そんなことは」
反論しようとして、いつかアスタが言った言葉が聞こえた。
――独りだと寂しいですよ。
――少しずつでも人とかかわってみませんか?
きっとそれは、他者に壁を作って閉じこもっている人間からしたら、一番言われたくない言葉。
前世で親から言われたから知っている。呪いをかけられて育てられた子供は、自分を構成している呪いを吐くことしかできない。撤回したところで、一度口から出た言葉は相手に影響を与えてしまっている。心を突き刺している。
それでもヨルンは街に出てくるようになって、他者とかかわるようになった。渋々とだとしても、不本意だとしても。
そう思ったところで、覚えのある光景が映し出された。雪かきをしているアスタを、ヨルンは窺う。
「雪で行動が制限されると、家にいるしかなくなるから」
そう言うヨルンは、どこか安心したような顔をしていた。
場面が飛んだ。足を怪我した日のこと。アスタが館を出た後、ヨルンは心配そうに窓の外を見つめていた。
その日の夜、ベッドに腰かけたアスタにヨルンは本を差し出し、部屋から出て行った。アスタの部屋の扉を閉めてから、ヨルンは俯く。
「大人しくしていてくれると思ったんだが」
嘆息とともに、独り言がこぼれた。
――わたしはヨルンさんを傷つけた。
罪悪感が募るアスタに、突きつけられる言葉があった。
「主の言うことを聞けないホムンクルスは、必要ないと思わないかい?」
軽く押されたような感触があり、海に沈んで行くように、アスタは落ちて行った。
過去の――前世の光景が浮かんでは消える。
病院で入院していたときのこと。長くは生きられないと宣告されたとき。母親が泣いているのを見たとき。
ああ、そうか、と腑に落ちた。
――わたしはずっと、寂しかった。友達が欲しかった。
同じように寂しさを抱えた人のもとに転生したのに、その寂しさをわかってあげられなかった。
ヨルンはずっと、アスタのことを案じてくれていた。
最初こそ干渉して来なかったが、いまは違う。気遣ってくれている。心配してくれている。親しくなりたいと思ってくれたのかもしれない。
前世で入退院を繰り返していた頃、久しぶりに登校できたとき、病弱な少女は気後れしてクラスメイトに声をかけられなかった。
ヨルンも街に出て行くアスタに対して壁を感じ、疎外感を覚えていたのだろうか。概してこういうとき、当事者はなにもできない。
――言ってくれればよかったのに。
だけどその一言を言う勇気が出ないということも、よく知っていた。
「……ごめんなさい、ヨルンさん」
そのつぶやきは、誰もいない空間に溶けて消えた。
「……アスタ、アスタ!」
名前を呼ばれ、揺り起こされた。自分を見下ろしている茶髪の少年がいる。ぼやけていた視界がだんだんはっきりしていき、像を結んだ。
「ヒスキさん?」
目を覚ますと、そこは暖かい部屋などではなく、冷たい氷の城だった。起き上がると、床に横たわっていたからか身体が冷え切っていた。
「お前だけか。ヨルンは?」
「ヨルンさん……」
先程の少年の言葉と、夢で見た光景を思い出した。ヨルンがアスタに対して感じていたことが、アスタを突き刺す。
だが文句なら後でいくらでも聞ける。いまはヨルンと合流してここから出ることが先決だ。
「そうだ、白いコートの少年を見ませんでしたか? 彼がこの事態の関係者かと思われます」
「見てねえな」
「夢は、見ませんでしたか」
「夢……」
ヒスキは顔をしかめた。
「見たぜ。雪山で遭難したときに見るような、最悪な夢を」
「そうですか」
「ヨルンも見てるのかもな」
その夢がいい夢だったならば――目覚めることを、望むだろうか。