4.アリスとヒューバートの誕生
女性蔑視の表現があります。
エリオット伯爵は部下から報告を受けていた。今日はサレン家や、トマス伯爵家、ウォルポール男爵家からなる、主要五家で話し合いが持たれていた。
「領内の開発事業ですが、どれも進捗は問題ありません。ただこの後、雨期の季節に入りますから、どうしても工事に支障が出るでしょう」
「進捗率はどれも良いのでしょう?」
「三年前の土砂災害のようなケースがありますから」
「確かに……」
そういった話をしていたが、皆の内心の関心はレオナルドの婚約についてだった。レオナルドの婚約を再編した事による損失や、今後アバン侯爵家をどこまで利用できるかなど、様々な疑問……というより不安が出た。
「損な役回りをさせてすまなかったな。サレン卿。ロザリンド殿との婚約は、上手く行っているか。なんでも言ってくれ」
「まあ、上手く行っているようです。息子のベンジャミンが先日、『ロザリンド様はか弱いから守ってやらないと』、などふざけた事を言っておりました」
「なんだそれは、冗談が上手いな」
「本人は本気です」
「またまた」
「本気なのです」
会議室の中は静かになった。時間が止まったのではと思う中、控えていたキップリング侍従長が聞いた。内々の話のためざっくばらんだ。
「ベンジャミン殿は、ロザリンド様が『か弱い』と思っているのですか。あ、いや、確かに女性ですから、物理的には弱いですが」
「本気で言っているのですよ。それにロザリンド様も、息子の前では妙に可憐に振る舞っています」
「「「またまた」」」
「この際だから言わせて貰いますが、今回の婚約変更の件は、侯爵家だけでなく、ロザリンド様も絡んでいると思います。おそらく狙いはうちのベンジャミン……」
会議室の中はまた静かになった。静かになった理由としては、「そんな馬鹿な」ではなく、「ロザリンド様ならやりかねない」とこの場にいる人々が思ったからだ。サレン卿はまた口を開いた。
「ところで皆様から見て、ロザリンド様はどんな人物に見えるのでしょう」
「まあ、頼もしいですな。次代を任せられます」
「堅実かと。しっかりされています」
「冷静沈着なところがよろしい」
「用意周到で頼りになります」
「野心家な面も」
「…………怖い」
時間をおいてキップリング侍従長が言った。すごくいい笑顔なのに冷や汗が流れていた。
「だってうちの女房と似ているのです。笑顔なのに睨まれている気分になるというか」
「「「「「わかる」」」」」
「まあ、うちのベンジャミンは、言うのですよ。そのロザリンド様をつかまえて、『俺がついていてやらないと』と。とにかく二人は上手くは行くと思いますよ」
その言葉通り、学院で、ベンジャミンとロザリンドは上手くやっていた。レオナルドとエラもだ。それぞれの様子を見に来たジーニアスとロウと雑談すると、二人とも安心したように微笑んだ。
「上手くやっているようではないか」
ロウが明るくかけてきた問いに、ベンジャミンは答えた。
「まあ、それなりに」
「ええ」
ロザリンドはほがらかだが、ベンジャミンは旧友二人の前で、照れが出てしまい落ち着かなかった。それに気がついたジーニアスとロウが、冷やかすのだった。
「相性も良さそうで良かったな」
満面の笑みで言うロウに、冷やかされるのに慣れないベンジャミンは、赤くならないようにするので精一杯だった。そしてそれは上手く行かず、またロウに冷やかされてしまう。その繰り返しだった。
◇◇◇◇◇◇
学院を卒業してすぐ、レオナルドはエラと結婚した。そして一人目の子ども、ヴァージニアが生まれたのだ。ヴァージニアは生まれた時からしっかりした子どもで、大人の手を煩わさなかった。もしヴァージニアが普通の手のかかる子どもだったら、なにかが違ったかもしれない。だが手のかからない第一子を見て、レオナルドとエラは、子どもというのはこんなものなのだろうと思った。第一子にきちんと向き合わず、放置したのだ。
そして第二子としてアリスが生まれた。アリスは泣くわ、喚くわ、癇癪を起こすわ、夜泣きがひどいわ、というまったく普通の子どもだった。
レオナルドとエラは、自分の子どもという切り離せない存在で、かつ、まったく思いどおりにいかない存在に衝撃を受けた。
レオナルドとエラは、いままで人生を、「女の子は花が好き」という、マニュアル方式でやり過ごしてきた。だがアリスにはそれがきかないのだ。それは当たり前のことだった。
「子どもはこういうことが好き」というのを、ただ真似をしても、上手く行くわけではない。
当たり前のことに、二人は強いストレスを受けた。どうしようもできないことにぶつかったら、じっと耐えるか、受け流すか、時を待てば良い。別に気に病む必要すらないのだ。だってどうしようもないのだから。
だが二人はつねに白か黒の世界で生きていて、物事はその場で解決しないといけないと、思い込んでいたのである。痣がある人を見たら、いくら怒られても、理由を聞かずにはいられないように。そしてそれができないことがストレスだった。
二人が直接子育てをするわけではないのに、アリスの存在が重荷だったのだ。
だからレオナルドとエラは、アリスを無視し否定しようとした。しかしそれはできなかった。さすがの二人も、親が子どもの存在を無視するのは許されない、という常識がわかっていたのだ。だがこれは返って悪い方向に働いた。いっそ完全に無視したほうが、アリスは正常に育っただろう。
アリスは両親に無視されていることを敏感に感じ取った。そんなアリスに唯一感情を向けてくれて、そして受け止めてくれるヴァージニアにしがみついた。アリスは始終ヴァージニアにまとわりつき、ヴァージニアからなにかを貰おうと必死だった。感情でも良い、物でも良い。ヴァージニアはアリスの心の泉だったのだ。
周囲の使用人たちも、アリスに愛情を注ぎ、アリスは親がいなくても大切にされて育った。
だがやはりどこか足りなかったかもしれない。三歳ぐらいになっても、ヴァージニアに愛情の試し行為を行った。強い我が儘を言い、理不尽に感情をぶつけた。癇癪を起こし、泣き喚いた。
そうやって両親の前で暴れていると、ある時、ヴァージニアが愛用のタオルを貸してくれたのだ。それはヴァージニアがおねむの時間に使うタオルで、薄汚れていたが、絶対に手放さないものだった。アリスはそんな大事なものを貸して貰えて、自分の心が暖かくなり笑顔になった。
それまで台風のように荒れていたアリスが、大人しくなったのを見て、レオナルドとエラは驚愕した。この時、誰もがわかっていたことを、レオナルドとエラはわからなかった。アリスが喜んだのは、物ではなく、ヴァージニアの行為だった。ヴァージニアにとって、とても大事なものを貸してくれるほど、アリスのことを大事に思っているという、その心がアリスを喜ばせたのだ。
だがレオナルドとエラは、短絡的に「子どもなんだから、何かを与えれば、単純に喜ぶんだろう」と受け取った。いつものマニュアル方式で、「子どもには物を与えれば良い」と思ったのだ。だからアリスが癇癪を起こすと、物を与えるようになった。
だがアリスが欲しいのは、「アリスを見守ってくれている」という愛情だ。だからヴァージニアにまとわりついた。そうすると、レオナルドとエラは、その時ヴァージニアの持っている物を取り上げ、アリスに与えた。そして笑顔で言うのだ。
「これが欲しいんだろう?」と。
まだ幼児のアリスは、訳がわからなかった。今まで無視してきたレオナルドとエラが、急に構ってくるようになったのだ。いまだに、二人にまとわりつこうとすると、逃げ出すにもかかわらずだ。ヴァージニアにまとわりついていると、ヴァージニアのものを取り上げ、アリスに与える。そしてレオナルドとエラは満面の笑顔を浮かべ、褒めてくれる。
だが褒めて貰えるのは悪くなかった。
そのうちアリスは学んだ。
ヴァージニアからなにかを取り上げれば、『両親』から認めて貰えるのだと。
ヴァージニアからなにかを得ようとする、アリスの行為は、両親によって補強された。
レオナルドとエラは、それまで自分たちを蝕んでいたアリスという「解決できないもやもや」が、ヴァージニアを使えば解決できることがわかった。
後はもう坂道を転がり落ちるだけだった。
◇◇◇◇◇◇
ヴァージニアの乳母も、アリスの乳母も、この事態を憂慮した。だからヴァージニアは極力、二人やアリスから遠ざけて養育された。またこの事態は家臣たちに共有され、エリオット伯爵は激怒した。その結果、アリスはたった一人、心という暖かい感情を向けてくれる、ヴァージニアという存在から切り離されたのだ。
家臣に守られたヴァージニアはなんとかまともに育ったが、残されたアリスは難しかった。
アリスの激しさに直面した人々は、レオナルドの子どもの頃を思い出した。レオナルドは思いやりがなく浅はかな子どもだったが、優しいところもあった。アリスも同じだ。だから悪い面は慎重に、良い面を伸ばし教育した。だがどうにもならない面があった。
両親によって強化されてしまった、ヴァージニアに対する執着だ。アリスには他に人の感情を返してくれる家族がいないのだ。小さな内はなんとか制御できていたが、ある程度大きくなると、父親と母親を利用して、ヴァージニアにまとわりつくようになった。
これには使用人総出でヴァージニアを守り、アリスの教育に乗り出した。そしてレオナルドも周囲から厳しく叱責されるようになった。
これを見て決断したのがレオナルドの父、エリオット伯爵だ。ヴァージニアはこの伯爵家の跡継ぎなのだ。そのため伯爵は、母親のエラからヴァージニアに関する権利を取り上げ、自分の妻ヴィクトリアに渡した。ヴィクトリアはフィン家の出身で、これがきっかけで、ヴァージニアは長くフィン家を頼ることになるのである。
◇◇◇◇◇◇
トマス伯爵家のジーニアスの妹、マーガリートは忙しなく働いていた。
マーガリートは働くのが好きだ。動いている間、頭がすっきりするし、時間もあっという間に経つからだ。
四十年前の、スーナンの戦いを始めとする戦争が落ち着き、この国も高度成長期を迎えている。それに関係して、マーガリートが手がけている、高級なお茶やお花などの贅沢品が、良い値段で取引されるようになっていた。
マーガリートには、つらい記憶がある。
マーガリートは、こめかみにあざがあり、皆、それをないものとして振る舞ってくれる。
だが、十五年前、エリオット伯爵家に詰めていた時、跡継ぎのレオナルド卿にいちいち指摘されたことがあるのだ。大人になってみると、大したことではないと思った。だが当時の自分がどう感じたか、よく覚えている。どうしようもなく、つらかったのだ。
しかしそれがきっかけで、上手く行っていなかった家族、特に父親と仲直りをすることができた。父親はマーガリートに謝ってくれたのだ。
それからは平穏な日々だった。だがそういったできごとがあっても、あざが消えるわけではないし、結婚もできないままだ。父親には無理をしなくて良いと言われているが。
このまま自分は一人老いていくのだろうと思っていたが、ある日贈り物があった。
伯爵家にキングズレー卿が訪れたのだ。
キングズレー卿は、現エリオット伯爵の長男レオナルドの弟で、現当主の次男にあたる。大変な美丈夫として知られ、女性に関する武勇伝でも有名だ。その人物が近くで任務があるから、しばらく泊めて欲しいとやってきた。
その時なぜか伯爵家の主立った人間が不在だったため、普段表に出ないマーガリートが対応したのだ。
マーガリートはこんなにきれいな人間を初めて見たと感激し、しばらく目が離せなかった。そしてキングズレー卿は言ったのだ。
「そうか、マーガリートと言うのか。きれいな名前だ」
小説にはしょっちゅう出てくる台詞だ。だがマーガリートは、現実の世界で聞いたのは初めてだった。言われた直後から、キングズレーのその言葉が、何度も何度も頭をまわってしまうのがわかった。
マーガリートはそれまで小説に出てくる、そういった描写に実感が湧かなかった。だがはじめて実感したのだ。頭の中がキングズレーで一杯になって、なにも手につかなさそうだった。
マーガリートはまわりから冷静で、聡明だと評価されていたが、そんなものはキングズレーの前では吹っ飛んでしまった。
しかしトマス伯爵家は、エリオット伯爵家に比べるとそこまで裕福ではない。そのためマーガリートみずから台所に入って、軽食や夕食の準備を指揮した。そしてそれをキングズレーに提供したところ、おいしさに驚きあっという間に食べてしまったのだ。
「マーガリート、これはすごくおいしい。
マーガリートは料理上手だな。最高だ。
マーガリートの手料理をもっと食べさせてくれないか。
マーガリート、素晴らしい味だ。
マーガリート、私の前に現れてくれてありがとう」
こんなに手放しで誉められたことが、あっただろうか。
いやそもそもこんなに誉める人なんて、見たことがなかった。
キングズレーは今や尊敬のまなざしで、マーガリートを見ている。マーガリートがキングズレーを気になっている……というか好きになっているという点をのぞいても、キングズレーは女性の扱いが上手かった。さりげない会話、さりげない褒め言葉、そして本心からの好奇心。一緒にいてとても楽しい人物だったのだ。
しかしどんな楽しい時間にも、終わりが来る。明日の任務のために、部屋に戻って休むキングズレーは言った。
「明日からは、かなり危険な任務だ。今日はとても楽しかった。ありがとう」
自室に戻ったマーガリートは悶々とした。キングズレーに会えるのは今日この時をのぞいて、もうないかもしれないのだ。だから自分の今までの人生だったら、絶対にしない選択をした。キングズレーの寝室に忍び込み一夜を共にしようとしたのだ。
「私のような醜い年寄りに、どうぞ情けを」
「なにを言う。マーガリートは若くて美しい。そんなところに立っていると冷えるぞ。こちらへ来い」
キングズレーは優しく抱き寄せると、流れるようにそのままマーガリートを寝台に横たえた。
マーガリートは例え遊ばれても構わなかった。自分のような痣のある女が、人並みの幸せを一瞬でも良いから手に入れたかったのだ。こんな関係になってしまったら気まずくなり、二度と会えないだろう。
キングズレーにもう会えないなんて、胸が引き裂かれそうだが、それでも良かったのだ。キングズレーとの思い出が欲しかった。
「腹が減った。マーガリート、今日もなにか食べさせてくれ」
翌日もキングズレーは来た。
どうもキングズレーには「気まずい」という感覚がないようだった。そうでないと港、港に女がいる生活は務まらないだろう。
家の者は気がついていたが、黙っていた。相手は主家の次男だ。おまけにマーガリートは行かず後家の二十五歳。お情けをかけていただけるだけで、感謝しなければいけない組み合わせだ。
その後キングズレーは定期的に来るようになり、とにかくマーガリートの料理の腕をほめた。時には時間がないのに遠くから食事だけしに来ることもあった。
それまで自分の気持ちというのを、マーガリートは制御できるものと思っていた。そしてそれが大きな勘違いだったことを気づかされた。
そんな時に自分の妊娠に気がついたのだ。マーガリートは真っ青になった。なぜなら小説や話に聞く男というものは、女が妊娠すると逃げるものだからだ。
キングズレーに逃げられるくらいなら、マーガリートは妊娠を隠したかった。それがどれだけ馬鹿馬鹿しく、意味がないものかはわかっていた。でもそうせずにはいられなかった。
だが話を聞いた父親が言ったのだ。自分からキングズレー卿に話そうと。
「キングズレー卿、実は娘のマーガリートが妊娠しまして」
「本当か。おめでとう。良かったな」
「卿の子どもです」
「そうか。まあ、でも、おめでとうだな」
それを聞いていたマーガリートは、安心して泣き出してしまった。
父親にはキングズレーが、なにも考えていないようにしか見えなかったが、娘が普通の女性のように一喜一憂しているのは、悪くないものだった。
父親のトマス伯爵は、大事な点を切り出した。
「それで娘の子どもに、なにか証をいただけませんか。卿の子どもだという証しを」
「わかった」
キングズレーはご飯を食べた後しばらく姿を消し、久しぶりにまたご飯を食べに戻ってきた。指輪と短剣、硬貨が入った小袋を持ってきた。
「キップリングのじいさまに話したら、お小言を喰らってな。きちんとするようにと」
キングズレーは台所の簡易机で、がつがつと食事をしながら、キップリング侍従長の叱責への愚痴をこぼした。
生まれた子どもはヒューバートと名付けられ、マーガリートは大切に育てたが、教育環境を整えるため、トマス伯爵の次男の家、トマス男爵家に預けられた。
トマス伯爵は、ヒューバートの成長を逐一キップリング侍従長に報告した。キップリング侍従長は言った。
「成長が楽しみですね」と。
トマス伯爵は、マーガリートになにかを無理強いするつもりはなかった。だからキップリング侍従長共々、ここまで上手く事が運ぶとは思っていなかった。だが、幸運にも転がり込んできた大将駒で、こっそり布石を打っている人々はいたのだ。




