2.『女の子は花が好き』
「ロザリンド様を見たか? お美しい方だな」
「おいおい、主君の婚約者だぞ。軽々しく言うな」
ジーニアス・トマスの褒め言葉を、ベンジャミン・サレンが諫めた。その横に座っているロウ・ウォルポールは、めずらしくどこかぼんやりしていた。
ジーニアス・トマスは、マーガリートの兄だ。
エリオット伯爵家の家門には多数の家が所属しているが、その中でも主要五家と呼ばれる五つの家がある。その内の、トマス伯爵家の長男がジーニアスだ。ベンジャミンはその中のサレン家、ロウもその中のウォルポール男爵家の長男だ。
ジーニアスは、将来はエリオット伯爵家家門の屋台骨を務める人間だが、まだまだベンジャミンや、ロウと、軽口を叩き合う少年だった。
三人はレオナルドの側近だった。
「ロザリンド様が使う控えの間から見える花壇のために、花を取り寄せて欲しいと言われてな」
そう言ったジーニアスの家は、かなり手広く商売を手がけている。特に妹のマーガリートはお茶や花などが得意分野だった。
「どんな花がお好きなんだ?」
そう聞いたベンジャミンを横目に、ロウは目の前の茶器を取って眺めていた。
「青い色がお好きだそうなんだ」
「へえ」
その後は、同世代の子どもがするような、他愛もない会話が続いた。
ベンジャミンとジーニアスが帰ろうとすると、先に帰ると言ったはずのロウが、廊下にぼんやりと立っているのが見えた。
「ロウ、どうしたんだ?」
話しかけられたロウは曖昧に笑った。
廊下から見える庭にはこの季節の花が咲き乱れ、特に桔梗の花が見事だった。
◇◇◇◇◇◇
レオナルドとロザリンドは十五歳になった。
その頃になると、レオナルドの性格も変わってきた。思春期が本格的に訪れたのだ。
レオナルドは明るくほがらかで、それでいて軽薄で無慈悲だ。だが子どもの頃は、まわりの少年も少女も、自分と同じ人間として扱っていた。だが自分が青年に近づき、女性がまるで違う生き物だと実感してくると、振る舞いが変わったのだ。
「ロザリンド。君、花が好きだろう」
そう言ってレオナルドは、ロザリンドに花を渡そうとした。
寸前でロザリンドの侍女が手を伸ばし、その花を代わりに受け取った。ロザリンドが花を好きなのは間違っていない。だがロザリンドは一部の花の花粉にアレルギーがあるらしく、時々くしゃみが出てしまうのだ。しかも体調によって変化するため、どの花が駄目なのかよくわからなかった。だから侍女は花をロザリンドに近づけないのだ。
そのことはレオナルドに伝えてあった。だからレオナルドはずっとロザリンドに、花を手渡さなかった。
ちゃんとわかっていたはずなのだ。
ところがレオナルドはある日突然、ロザリンドに花を手渡して言った。
「女の子って、花が好きなんだろう?」
その時にもう一度、花粉アレルギーについて言った。しかしまた花を手渡された。そのためまた言った。その後何度も言った。ロザリンドは花粉アレルギーだと。
だが何度言っても、「女の子は花が好き」という情報で、上書きしてしまうのだ。
その後、次々に同じ現象が起きた。
今まで、ロザリンドがレオナルドとの交流で積み重ねてきたものは、すべて友人や噂で聞いたという、「女の子って」という情報で上書きされてしまった。
ロザリンドの好きな色は、鮮やかな青。好きな花はリンドウ。それをレオナルドは覚えていて、プレゼントもしてくれた。でも今は、「女の子の好きな色はピンク、好きな花はバラ」と言う。
「今日は友人が来ているんだ。一緒にボードゲームをしようではないか」
レオナルドはほがらかに誘ってきた
「……男性ばかりのところにお邪魔でしょう。私はこちらにおります」
「そうか? みんな気にしないと思うがな」
ロザリンドは行く気にはなれなかった。たとえ行っても、知らない人の中で、孤独なロザリンドに気を遣ってくれる訳ではないのだ。そして友人たちの方が気を遣い、レオナルド以外が気まずくなる。レオナルドは、気を遣うということが致命的にできなかった。
そもそも婚約者と会う時間に、友人を連れて来ている時点で気遣いに欠けているのだ。
ロザリンドはこの婚約が、レオナルドの成長につれて、良い方向に変わるだろうと思っていた。だがここに来て不安のほうが強かった。自分がこれからどうなるのだろうと。
そこへ開いたままの扉から、部屋に入ってきた青年がいた。ベンジャミンだ。ベンジャミンは不思議そうに部屋を見渡して、レオナルドの姿を探した。
「どうしたの。ベンジャミン」
「レオナルドはどこへ行きましたか」
「今し方、お友達とゲームをしに行ったわ」
ベンジャミンの眉が不快さで、くっきりと寄せられた。ロザリンドは笑った。
「前にも言ったでしょう。いつもそんなに眉根を寄せていたら、しわが刻まれてしまうわ」
そんなことよりロザリンドには気になるものがあった。ベンジャミンがさりげなく隠している花束だ。
「ベンジャミン、それは……」
ベンジャミンの後ろに回った、ロザリンドの侍女が歓声をあげた。
「まあ、なんて綺麗なんでしょう」
その声を聞きつけ、ベンジャミンの周りに人が群がった。使用人や侍女だけでなく、侍従や護衛までいる。ベンジャミンは、瑞々しいカンパニュラを持っていたのだ。一世代前のスーナンの戦いを始めとする戦争で、カンパニュラは生息地が荒らされ、今ではほとんど見られなくなっていた。初めて見るものも多く、美しい花を前に皆がうっとりとした。
「なんて美しいんでしょう。私の好きなリンドウの花に似ているわ。ベンジャミン、これはどうしたの?」
「今日、父の仕事でお会いした方が、庭で栽培しているそうなんです。貴重なものですし、主君のレオナルドに渡せば、点数稼ぎになるかと思いまして」
「あらまあ、素敵。ということは、レオナルドから結局は私に回るわね。ほら、寄越しなさいな」
わざと無邪気な顔で言ったロザリンドは、両手を差し出した。だがベンジャミンはためらった。
「花粉が危ないでしょう。具合が悪くなったらどうするのですか」
そう言って一本だけ抜き取り、侍女に渡した。侍女は少しはしゃぎながら、その一本をロザリンドに近づけた。ロザリンドが花の香りを吸い込んでも、なんともないようだった。ロザリンドは目を輝かせながら花に口づける。
「なんて可憐なの」
アレルギーが起きないことに、ロザリンドよりもベンジャミンのほうがほっとしていた。ロザリンドは花を直接貰おうとしたが、それでもベンジャミンは「だめです」ときっぱりと言った。
「後から具合が悪くなることもあります。いいですか、花に近づくのは家に帰ってからにして下さい」
「はあい」
ロザリンドはその言いつけを守り、馬車に乗る。侍女が言った。
「こんな貴重な花、わざわざ手に入れて下さったんですね」
「……」
ロザリンドは馬車に揺られながら窓の外を眺め、じっと考え込んでいた。
ベンジャミンはロザリンドが帰った後、レオナルドに一言言いに行った。婚約者が来ているのに、友人と遊ぶとは何事だと。婚約者が来ている時は、婚約者を優先するのがルールだと教えると、しぶしぶ「わかった」という答えが返ってきた。その愚痴を、同じく伯爵家に来ていたロウにもらした。
「ところで、ベンジャミン。カンパニュラを、ロザリンド様に差し上げたんだって? あんな珍しい花どこから手に入れたんだ?」
「ああ、あれは……仕事の関係で、たまたま手に入ったんだ」
「……ふうん」
ロウはそれ以上聞いてこなかった。
なんだか鬱々とした日々が続いた。少しずつなにかの歯車が狂っていくようだった。だが楽しい思い出もあった。
ある日、いつものように遠乗りがしたいというレオナルドに付き合って、ジーニアスやベンジャミン、ロウたちみんなで付き合った。
ジーニアスの愛馬は美しいタテガミの栗毛の馬だ。その馬上で、遠くの木を見たジーニアスがしげしげと考え込んでいた。
「なんだかこんもりと実がなっているな。なんの実だろう」
「「「……」」」
「鳥も食べていないから、甘くないのであろうか」
「「「……」」」
その仕草を見て、その場にいるものはこらえきれず笑い出した。
ジーニアスの馬は、ジーニアスそっくりの慎重な性格だ。似すぎていて、たまにジーニアスと馬が、同じ動きをすることがあるのだ。今のようにジーニアスが遠くの木を見ながら、首を振ったり、頭をかしげたりする時に、愛馬も同じ動きをする。これをされると見ていた者は我慢できず笑い出してしまう。
不思議なことに何度指摘しても、本人たちは自覚がないのだ。
ベンジャミンの愛馬は軍馬の血が入ったずんぐりむっくりした馬で、速さはそこまでではないが、とにかくたくましい馬だ。やはり性格はベンジャミンに似ていると言われ、面倒見が良く、ベンジャミンに黙って付き従ってくれる優しい性格だった。
人間だけでなく、個性豊かな馬たちと、王都の郊外まで走ると、自然にほがらかな気分になった。ついてくる護衛の騎士たちも楽しそうだ。
ロウの馬が先ほどからイヤイヤと首を振っているのを見て、ロウはわざわざ、一度馬から降りて背中をかいてやった。ベンジャミンと違って、小柄なロウが、がっちりした馬の鞍の奥まで手を入れると、まるで馬に食べられてしまったように見える。中々馬が思ったところに届かないらしく、ロウが丁寧にあちらこちらをかいてやると、急に馬が大人しくなった瞬間があった。
「ここか?」
そう言ってロウが力を込めてごりごりとかくと、ゆったりとし気持ちよさそうにしている。ロウは馬が満足するまで時間をかけてやった。ご機嫌になった馬は、急にレオナルドたちの馬の群れに、取り残されていることに気がついたらしい。ロウが乗り直すと、なにもしていないのに焦ってレオナルドたちに合流するように走り出した。
ロウの愛馬も軍馬の血が少し入っている、少しむっちりした馬だ。ロウは領地との往復によく使うため、丈夫な馬を愛用している。馬を家族のように大事にしていた。本人は否定するが、ロウの馬は負けん気が強い割には、繊細なところがロウに似ていた。
レオナルドの馬は、大事に世話をしてもらったロウの馬を見てうらやましくなったらしい。自分も背中をかいてほしいと首を振ったが、レオナルドは気づかず走り出した。レオナルドは馬を見た目で選ぶところがある。一頭一頭には自分の馬という愛着がわかないらしく、自分の馬を持っているのに、厩舎にいる適当な黒い馬を選ぶことが多い。乗馬の腕は下手ではないが、馬と呼吸がかみ合っていなかった。
「こうやって馬に乗っていると、子ども時代に返ってしまうな」
ジーニアスがそう言うと、護衛の騎士たちが笑った。
「我々もですよ。子どもに戻った気がします」
ロウが先駆けとばかりに走り出し、その後をレオナルドが続いた。ロウの馬は誰が見ても、機嫌が良く、主を乗せて疾走した。ベンジャミンもジーニアスも続き、皆笑顔を浮かべていた。こうやってほがらかに笑い合っていると、レオナルドの人格に問題があるようには見えなかった。確かに足りない点はあるが、それ以上に君主としての能力は高かった。だがこの頃から齟齬が起きていたのだ。
◇◇◇◇◇◇
レオナルドとロザリンドは、国の王立学院に入学した。
レオナルドとロザリンドは、優秀な一クラスに入った。
レオナルドは数学や理科が得意で、得意科目だけを見ると学年トップだった。だが暗記物はそこまでではない。一方ロザリンドは歴史や外国語が得意だった。そのためお互いに苦手科目を協力し合えば良いと、レオナルドから提案があった。
だがそれはすぐに破られた。
なぜならレオナルドは、学院でエラという女生徒と出会ったからだ。エラはリンガム男爵家の娘でひじょうに優秀であり、美しい女性だった。レオナルドとエラは出会った瞬間に恋に落ち、その後ぴったりと寄り添うようになった。
「エラ、花を持ってきた。女性は花が好きなんだろう」
「そうね。統計では八割くらいかしら」
「バラの花が好きなんだろう」
「そう言うわね」
「今日はチョコレートも持ってきた。女の子に人気なんだろう」
「あら、これ親友のメアリーが話していたわ。レオナルドはよく知っているわね」
裏庭の東屋で、レオナルドとエラは提出物をまとめていた。二人とも理系なため数学や理科系の課題は得意だった。二人は新しく習い始めた統計の基礎について、熱心に会話を交わしていた。話したいことがたくさんあるらしく、お互いに早口すぎて、聞き取れないほどになっている。その様子を何人かの側近が見ていた。
レオナルドは、これまで順風満帆だった人生に、多少の変化が生じていた。レオナルドが学院でエラに会いに行こうとすると、ベンジャミンを始めとする側近の生徒たちに止められるのだ。そして人目につかない裏庭に連れて行かれ、誰かが代わりにエラを連れてきてくれる。そして言われるのだ。
「ご自分でリンガム男爵令嬢に会いに行かないで下さい」
「お二人で会う時は人目につかないところで」
だがレオナルドは、なにかを我慢すると言うことができない性格だ。だから気にせずエラに会いに行った。そしてレオナルドは、人から見てどう見えるのかがわからない性格だ。だから人前でもエラに親しく振る舞った。そうすると家令に呼ばれ、懇々と説教されたのだ。軽挙妄動は慎めと。レオナルドは不満だった。一方側近たちは苦労していた。なにせ同じ学院、同じクラスに婚約者がいるのだ。入学して半年ほどたつと、レオナルドとエラの関係はすっかり噂になった。
そしてある日二人が会っている裏庭にやってきたのだ。ロザリンドが。
「ここから先はなりません」
「どきなさい」
そういった声が聞こえてレオナルドが顔を上げると、側近のジーニアスに制止されているロザリンドがいた。
「やあ、ロザリンド。どうしたんだい?」
レオナルドはなんのてらいもなく、明るく言った。
「……二人きりで会っている女性がいると聞きまして」
「エラのことかい。紹介するよ。リンガム男爵令嬢のエラだ」
エラは立ち上がり、ロザリンドに挨拶した。何の気負いもなく微笑んでいる。まるでここにいることの、何が悪いのかわからないといった風情だ。ロザリンドは少しうつむきながら、つらそうに彼女に目をやった。
「優秀な女性だとお聞きしていますわ」
「ありがとうございます」
エラは嬉しそうに無神経に答えた。
「そうなんだ。数学は私と同じトップの成績だ。それに美しい。ぜひとも彼女と結婚したいんだ」
その場の空気が凍った。ベンジャミンが身を乗り出してくる。
「レオナルド。なりません、今の言葉をすぐに撤回して下さい」
「本当のことではないか。私はエラと結婚したいのだ。ああ、もちろんロザリンドのことを憎く思ってのことではない。ただエラと結婚したいだけだ」
「レオナルド。撤回を」
少し顔色が悪くなったロザリンドは、何度かつばを飲み込むと、一気に言った。
「我がアバン侯爵家が、そのようなことを許すはずありません。どうしてもエラ嬢と結婚したいのなら、婚約を解消される私に、この婚約と同じだけの価値がある殿方や条件を出していただけないと、釣り合いが取れません。そんなことできるわけがないでしょう」
言い終わった後、ロザリンドは軽く息を荒げ、まるで睨むようにレオナルドを見つめた。ベンジャミンがまたレオナルドを制止するように名前を呼んだ。
「やってみないと、わからないではないか」
レオナルドが本気だと知ったロザリンドは愕然とし、両手で顔をおおった。泣くのを我慢しているのか、肩が小さく震えている。何度も深呼吸して息を整え、消え入りそうな細い声でようやく言った。
「それにエラ嬢だって、出自が男爵家なら、エリオット伯爵家には見合いませぬ。どこかに養子に出すなりしないと……」
「それはそうか」
レオナルドはロザリンドの言ったことに納得し、考え込んだ後、しばらくしてからこう言ったのだ。
「そうだ、ロザリンドの家で養子に取ってくれないか」
その場の空気が完全に凍り付き、今や誰かが少し動いただけで壊れそうだった。耐えきれなかったらしいロザリンドはわっと泣き出すと、裏庭から足早に立ち去った。
「レオナルド、なんてことを。すぐに追いかけて下さい」
「え、なぜだい?」
「いいから追いかけるのです」
不思議そうな顔で、まったく動かないレオナルドに見切りをつけ、ベンジャミンはロザリンドを追いかけた。ベンジャミンが今いた場所から裏庭のレンガ敷きの小路に出ると、少し遠くをロザリンドが歩いているのが見えた。人気のない場所に入っていく。いくら学院の敷地内とはいえ、令嬢としてあまりにも不用心な行動だった。自暴自棄になっているらしいロザリンドに追いつくと、ロザリンドは振り向いた。その時目に一杯たまった涙が、ぽろりと頬を伝った。ロザリンドの姿はあまりにも美しく、儚げで、このまま消えてしまうのではと、ベンジャミンの胸は不安で一杯になった。
「申し訳ありませんでした。レオナルド卿があんな事を」
ベンジャミンがそう言うと、ロザリンドの目から涙が次々に落ちていった。そして小さくつぶやいたのだ。
「ベンジャミン、助けて……」
ロザリンドは泣き顔まで美しかった。




