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哭き裂く天使  作者: Norn
第六章:天使の残骸
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第54話:天使、その名を知る者

 地面を蹴る。

 次の瞬間、澄羽がいた場所へ、黒い牙が突き刺さった。


 虚界牙断(ヴォイド・ファング)。

 牙の形へと圧縮された虚界が、地面を噛み砕く。


 コンクリートが砕けたわけではない。

 そこに存在していたものが、根こそぎ消え失せていた。


 「……っ!」

 澄羽は着地と同時に身体を捻る。

 頭上で、再び黒い牙が閉じた。


 僅かに遅れていれば、頭部ごと噛み砕かれていた。

 さらに右から一つ。

 澄羽は半歩だけ後退する。


 牙が眼前を通過した。

 軌道からは風圧すら感じない。

 触れれば消える、それだけが直感的に理解できた。


 「玲司!」

 返事はない。

 玲司は槍を構えたまま、澄羽を見ていた。

 その瞳は、先ほどまでのものではない。


 「……止まって!」

 澄羽が叫ぶ。

 だが。


 「――」

 玲司は答えない。

 口元だけが、僅かに歪んだ。


 次の瞬間、複数の黒い牙が澄羽を取り囲んだ。

 逃げ場がない。


 「……!」

 一斉に牙が閉じる。

 澄羽は、その瞬間まで動かなかった。


 一瞬。

 牙同士が重なる、そのわずかな隙間。

 澄羽は身体を低く沈めた。


 そして、前方へ滑り込む。

 背後で牙が閉じた。

 空間そのものを噛み砕くような、鈍い音が響く。


 「っ……!」

 完全には避けきれない。

 澄羽の制服の袖が、僅かに虚界へ触れた。

 布地の一部が、跡形もなく消える。


 澄羽は転がるように距離を取る。

 そのまま地面へ手をついた。


 全身を冷たい汗が流れる。

 人間の姿のままでは、一度でもまともに受ければ終わる。


 それでも、澄羽は玲司から目を逸らさなかった。


 「……本当に、戦うつもりなの?」

 玲司は答えない。

 ただ、槍を持ち上げる。


 その背後で。

 再び、黒い牙が形作られていった。


 『逃げるのも一つの手だ』

 ネヴ=ソスの声が響く。


 「……嫌」

 『何?』

 「玲司は……倒したくない」


 黒い牙が、再び口を開く。

 澄羽はゆっくりと立ち上がった。


 「だから、逃げるだけじゃ……終われない」

 次の瞬間、玲司が槍を振り下ろす。

 頭上と目の前。

 二対の牙が、澄羽へ向かって同時に迫った。


 噛み砕かれる。

 そう思われた、その時だった。


 ――白い閃光が走る。

 牙の軌道が止まった。


 そこには双剣を交差させ、二つの牙を受け止める天使がいた。

 この一瞬で、変身したのだ。


 虚界の牙が、双剣の刃を侵食していく。

 刃の一部が、黒い虚界へ飲み込まれ、徐々にその姿を失っていく。


 それでも、牙は天使を押し切れなかった。

 消滅の力が刃を蝕むよりも早く、天使の膂力が牙を押し返していく。


 ――力が、上回っている。

 天使が双剣を振り抜いた。

 二対の牙が弾き飛ばされる。


 同時に、天使は大地を蹴った。

 凄まじい勢いで上空へ飛翔する。


 玲司も、それを追った。

 雲を突き抜け、さらに上へ。


 空気が薄れていく。

 やがて、酸素すら存在しない領域へ到達した。


 それでも二人は止まらない。

 青い空が遠ざかる。

 眼下の地球が、急速に小さくなっていく。


 そして――

 冷たい暗闇が、二人を包み込んだ。


 無数の星々。

 遥か彼方に浮かぶ天体。

 音すら存在しない、静寂の世界。


 天使にとって、ここで戦うのは二度目だった。

 だが、前とは何もかもが違う。


 天体を揺るがしながら繰り広げた、トゥ=レイヴとの戦闘。

 リクス=ヴァイアを倒したことで、地力はその時よりも増している。


 「……」

 天使が、玲司を見据える。

 その時、玲司の身体が突然震えた。


 『……もっとだ』

 サーベラスの声が、玲司自身の声と重なる。

 『もっと、戦え』


 次の瞬間。

 玲司の右腕が、黒い外殻に覆われた。

 人間の腕ではなく、獣の前脚を思わせる、異形の腕。

 その指先から、虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)の力が漏れ出す。


 「……ああ。 これなら……まだ戦える」

 黒い外殻が、肩へ、胸へ、背中へ、全身へと広がっていく。


 やがて、人間だった面影はほとんど消えた。

 そこに立っていたのは、玲司ではある。

 しかし、もはや人間の姿ではなかった。


 天使は、玲司の変化を見ていた。

 その瞳からは、一切の感情を読み取れなかった。

 異形の玲司の背後で、無数の星々が静かに瞬いていた。


 ――さらに先、別の宇宙なら、もう何も気にする必要はない。

 天使は双剣を構える。

 玲司も槍を構える。


 「……来い」

 その声に、かつての玲司の面影はほとんど残っていなかった。


 天使が、宇宙空間を駆ける。

 その後を、異形と化した玲司が追う。


 二つの閃光が、宇宙を駆けた。


 地球は、もう遥か彼方だった。

 青かった星は瞬く間に小さくなり、やがて一つの光点へと変わっていく。


 それでも二人は止まらない。

 天使がさらに速度を上げる。

 白い巨体が星々の間を突き抜ける。


 玲司も、それを追う。

 黒い異形の身体から虚界が噴き出し、進行方向に存在するものを次々と呑み込んでいく。


 星々、惑星、そして光さえも。

 だが、それでも距離は縮まらない。


 玲司が吼える。

 声というより、獣の咆哮に近かった。


 「待て……!」

 だが、天使は振り返らない。

 ただ、前へ進む。

 その速度は、もはや光速などという尺度では測れなかった。


 星々の配置そのものが、後方へ流れていく。

 銀河が過ぎる。


 また一つ。

 さらに一つ。

 無数の銀河が、二人の背後へと消えていく。


 やがて――

 何もなくなった。

 星も、銀河も、光すらも。


 そこにあるのは、ただ果てのない暗闇だった。

 玲司が周囲を見渡す。


 「……?」

 天使も、初めて速度を緩めた。

 その先には、何もない。


 宇宙の果て。

 そう呼ぶことすらできない場所。


 だが、天使は止まらない。

 四つの翼状の突起が大きく開く。


 そして、突き進んだ。


 世界そのものを、空間を、時間を。

 宇宙を構成していたあらゆるものを、天使の身体が突き抜けていく。


 ……何かが割れた。

 音など存在しないはずの場所で、確かに何かが砕けた。


 玲司も続く。

 黒い異形が、その亀裂へ飛び込んだ。


 その瞬間、世界が反転した。

 あらゆるものが意味を失い、二人の身体を無数の光景が通り過ぎていく。


 星が生まれる。

 星が消える。


 まだ存在していない宇宙。

 すでに存在しなくなった宇宙。


 それらが一瞬のうちに現れては消えていく。

 玲司には、それが何なのか理解できなかった。

 理解する必要もなかった。


 ただ一つ。

 目の前を飛ぶ天使だけを追っていた。


 そして――

 突然、視界が開けた。

 暗闇が消え、光が戻る。

 玲司が顔を上げた。


 そこには、見たことのない宇宙が広がっていた。


 星の配置が違う。

 銀河の形も違う。

 見慣れた宇宙に存在していたはずの星々が、一つもない。


 まるで――

 世界そのものが違う。


 天使が静かに停止する。

 その背後から、玲司も姿を現した。


 黒い異形の身体から、虚界がゆっくりと消えていく。

 玲司は目の前の光景を見つめる。


 「……ここは」

 答える者はいない。

 天使が、ただ前を向いている。

 その視線の先には、無限に広がる星々。


 そして。

 その宇宙の更に向こう側、先ほどの移動を無限に繰り返そうとも到達不可能なほどの領域。

 そこの何かが、二人の存在に気づいた。

 しかし、天使も玲司も、その存在に気づくことは無かった。


 玲司の黒槍が、光を切り裂きながら突き出される。

 天使は咄嗟に剣を構え、攻撃に備えた。

 槍が天使の双剣の片方を掠めたが、それだけでも天使の体を揺るがすには十分だった。


 一突きの瞬間にできた隙を見逃さず、もう片方の剣で玲司に剣を振るう。

 顔を覆う外郭に裂傷が刻まれた。

 しかし、玲司は止まらない。

 むしろ、その一撃を受けながら槍を引いた。


 そして、再び突く。

 天使は身体を捻るが、槍の穂先が頬を掠め、白い外殻の一部が弾け飛んだ。


 そのまま天使は踏み込み、右の剣を振るう。

 玲司は槍の柄で受け止める。

 続けざまに左の剣を振るう。

 今度は槍を回転させ、刃を弾いた。


 互いの武器がぶつかり、甲高い音が静寂の宇宙へ響き渡った。


 槍と双剣が、何度も交差する。

 玲司の槍は長い。

 天使の双剣は短い。


 距離を取れば玲司が有利。

 懐へ入れば天使が有利。

 だからこそ、二人は互いに一歩も譲らない。


 玲司が槍を横薙ぎに振るう。

 天使は身を屈めて避け、そのまま懐へ潜り込む。


 双剣が交差する。

 玲司は槍を縦に構え、二本の刃を受け止めた。


 しかし――

 天使の腕に力が込められる。

 黒い外郭が軋んだ。

 玲司の身体が、僅かに押し込まれる。


 「……!」

 玲司は槍を捨てるように手放した。


 天使の双剣が空を切る。

 その瞬間、玲司の腕が黒い異形の形へと変形した。


 鋭い爪が振り下ろされる。

 天使は双剣を交差させて受け止めた。

 衝撃で、二人の身体が同時に吹き飛ぶ。


 だが、それでも二人は止まらない。

 天使が空中で身体を翻す。

 玲司もまた、黒槍を掴み直す。

 そして同時に突進した。


 白と黒が、一直線に交差する。

 双剣と黒槍がぶつかった。

 刃と穂先が擦れ、無数の光が散る。


 そのまま二人は、さらに遠くへ飛んでいく。

 星々を越える。

 銀河を越える。


 そして――

 また一つ、宇宙の境界を越えた。


 別の宇宙。

 その中でも、二人の戦いは終わらない。


 玲司が槍を構える。

 天使も双剣を構え直す。

 互いに傷を負いながらも、なお戦おうとしていた。


 玲司の槍の穂先から、虚空が噴き出した。

 虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)。

 双剣ごと、天使の身体を呑み込もうとする。


 天使は咄嗟に後方へ飛び退いた。

 だが、玲司は既に目の前へ迫っていた。


 黒槍が横薙ぎに振るわれる。

 天使は身を屈めて躱す。

 その頭上を通り過ぎた槍が、何もない空間を穿った。


 天使はさらに距離を取った。

 しかし、玲司は逃がさない。

 虚界を纏った槍を何度も突き出し、天使の逃げ道を一つずつ潰していく。


 上、下、左右、あらゆる方向から迫る虚界の牙。

 天使は双剣で弾き、時には翼のような突起を盾にして凌ぐ。


 だが、少しずつ押されていた。

 一本の刃が、虚界に呑まれる。

 続いて、もう一本。

 天使が咄嗟に剣を手放す。


 その瞬間、玲司の槍が天使の胸元を掠めた。

 白い外殻に亀裂が走る。

 それでも天使は倒れない。


 無数の赤い眼が、玲司を捉える。

 玲司は槍を構え直した。


 ――もっとだ。

 頭の中に、声が響く。


 ――まだ戦える。

 ――まだ足りない。


 サーベラスの声だった。

 玲司の身体が、再び前へ出る。


 「虚界牙断(ヴォイド・ファング)」

 無数の牙が、一斉に開く。

 天使の周囲を取り囲む。


 次の瞬間、全ての虚界が天使へ向かって収束した。

 白い身体が、黒に呑まれる。

 玲司は、その中心へ槍を突き出した。

 外郭は幾つもの牙に穿たれ、消滅していく。


 (――終わる)

 天使は、不意にそう考えた。

 だが、玲司の手が止まった。


 槍の穂先が、天使の胸元で静止する。

 玲司の身体が震えた。


 「……?」

 天使は動かず、玲司を見ている。

 その無数の眼に映っているのは、敵ではなかった。


 ――もっと戦え。

 ――殺せ。

 ――まだ終わっていない。


 サーベラスの声。

 玲司は歯を食いしばる。


 「……うるさい」

 初めて、玲司自身の声が返った。

 サーベラスの気配が、一瞬だけ揺らぐ。


 「……俺は」

 槍を握る手に力が入る。

 「お前のために戦ってるんじゃない」

 身体が再び震える。

 サーベラスが、さらに力を押し込む。


 ――戦え。

 ――もっとだ。


 玲司の腕が、無理やり槍を振り上げる。

 天使へ向かって、再び虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)が放たれる。


 しかし、その軌道が僅かに逸れた。

 天使の横を掠め、遠くの虚空へ消えていく。

 玲司自身が、攻撃の方向を変えたのだ。


 「……俺が戦いたいんじゃない」

 玲司は、苦しそうに呟く。

 「お前が……戦いたいだけだ」


 黒い身体の表面に、亀裂が走った。

 サーベラスの力と、玲司自身の意思。

 二つが、同じ身体の中で衝突していた。


 不意に、玲司の体が黒く光り始める。

 槍に虚界牙断(ヴォイド・ファング)が収束する。


 宇宙が大きく軋み始めた。

 発動すれば、この宇宙だけではなく別の宇宙――天使たちの宇宙にまで被害が及んでしまうかもしれない。


 「Le Diable boiteux……!!」

 黒槍は放たれ、一切の音が消失した。

 無と表すことすら本質にならない無が、迫っていた。

 一か八か、天使は拳に青白いプラズマの粒子を纏わせ、波動砲のような青い炎を放った。


 青白い光と、黒い虚無が衝突する。

 音も、光もなかった。


 ただ、二つの力がぶつかった場所から、宇宙そのものに亀裂が走った。


 亀裂は瞬く間に広がっていく。

 星々が砕け、銀河が崩れる。

 遥か彼方に存在していた無数の天体が、音もなく暗闇へ落ちていった。


 それでも、天使と玲司は互いを見ていた。

 黒槍は、まだ天使の前にある。

 青白い炎も、まだ消えていない。


 やがて限界を迎えたように、二つの力が同時に弾け飛んだ。


 玲司の身体が吹き飛ばされる。

 天使もまた、遥か後方へと飛ばされた。


 静寂、それだけが残った。

 否、静寂の中で、何かが崩れる音がしていた。


 遥か遠く、砕けた星の残骸が、ゆっくりと崩れていく。

 その隣にあった銀河の残骸も、続いて崩壊する。


 まるで、宇宙そのものが戦いの終わりを待っていたかのように。


 崩壊は止まらなかった。

 戦いによって生まれた無数の亀裂が、宇宙全体へと広がっていく。


 「……っ」

 天使が、ゆっくりと浮き上がる。

 その視線の先、玲司が宙に浮かんでいた。


 黒い身体には、無数の亀裂が走っている。

 それでも、まだ槍を握っていた。


 「……まだ……」

 玲司の口から、声が漏れる。

 「まだ、戦える……」

 その声に重なるように、サーベラスの声が響いた。


 ――まだだ。

 ――立て。

 ――もっと戦え。


 玲司の腕が動く。

 だが、動かない。

 槍を握ったまま、玲司の腕が震えていた。


 「……違う」

 小さな声だった。

 サーベラスの声が止まる。

 「俺は……」


 玲司は、自分の手を見た。

 黒く染まった手。

 その手で、何度も槍を振るい、天使を傷つけた。


 それでも、天使は逃げなかった。

 戦うことをやめなかった。

 自分を殺そうともしなかった。


 ただ、ずっと。

 玲司を止めようとしていた。


 「……澄羽」

 その名前が、口から零れた。

 天使の無数の眼が、玲司を見つめる。


 「……俺を、殺さなかったのか」

 返事はない。

 けれど天使は、ゆっくりと双剣を下ろした。

 玲司の身体から、力が抜ける。


 「……そうか」

 黒い外殻に、さらに亀裂が走る。


 「……終わりだ」

 槍から、力が抜けた。

 黒槍が、虚空へ落ちていく。


 同時に、玲司の身体を覆っていた黒い外殻が、崩れ始めた。


 「俺は……もう、戦わない」

 その言葉を最後に。

 サーベラスの声が、消えた。


 玲司の身体が力を失う。

 天使はすぐさま飛び出した。

 落下していく玲司を、その身体で受け止める。


 その瞬間、背後で宇宙が崩れた。

 巨大な銀河の残骸が、音もなく砕け散る。


 その光景を見ながら。

 天使は、玲司を抱えたまま振り返った。


 この宇宙には、もう長く留まれない。

 天使は翼のような突起を広げる。


 そして、崩壊していく宇宙を背に、二人はその場を離れた。




 郊外の森に着く頃には、夜の帳が下りていた。

 二つほどの宇宙を越え、天使と玲司は帰還した。


 天使の外郭が崩落し、澄羽の姿へと戻る。

 その時には、玲司も人間の姿へと戻っていた。


 澄羽は、玲司を抱きかかえた。

 放ってはおけない。

 身体には、まだ戦いの傷が残っている。


 玲司の呼吸を確認すると、どうやら命に別状はないらしい。


 「……よかった」

 安堵した、その時だった。

 背後の茂みが揺れた。


 振り返るが、そこには何もいない。


 (……気のせい?)

 そう思った瞬間。

 森の暗闇から、複数の光が灯った。


 赤い照準。

 それが、澄羽の身体へ向けられている。


 「……!」

 澄羽は玲司を抱えたまま、後退する。


 「動くな」

 低い声が響いた。

 木々の間から、一人の人影が現れる。

 鋭い眼差しの中年の男。

 その後ろには、武装したA.E.O.I.の隊員たち。

 澄羽は玲司を庇うように立った。


 「……A.E.O.I.」

 「そうだ」

 男は淡々と答えた。

 そして。


 「白鷺澄羽」

 その名前を呼んだ。

 澄羽の身体が固まる。


 「……どうして」

 「泳がせておいた」

 男は視線を玲司へ移す。


 「お前たちが二つの宇宙を越えて戻ってくることも、予測していた」

 澄羽は周囲を見回した。

 完全に包囲されている。

 逃げようと思えば、逃げられる。


 だが、腕の中には玲司がいる。

 今の状態で、彼を連れて戦うわけにはいかない。

 「……私を、どうするつもりですか」


 男は少しだけ黙った。

 「殺すつもりはない。 話がある」

 意外な言葉だった。

 澄羽が目を見開く。


 「お前は既に、あの日に私が見た『天使』の領域に片足を踏み入れている」

 男は静かに続ける。


 「お前には、この戦いの真相について、語る必要がある」

 男が手を上げる。

 隊員たちが一斉に動いた。


 特殊な拘束装置が展開される。

 澄羽は一瞬だけ抵抗しようとした。


 だが、腕の中の玲司を見る。


 「……分かりました」

 ゆっくりと、玲司を地面へ横たえる。


 そして両手を差し出した。

 拘束具が腕に巻き付く。


 「ただし」

 澄羽は男を見上げる。

 「玲司を傷つけないでください」


 「約束しよう」

 男は即答した。

 その声には、敵意がなかった。


 玲司はゆっくりと目を見開く。

 そして、男の姿を捉えた。


 「司令官……」

 その言葉に、司令官は反応する。


 「相当な負荷が掛かっている。 休養を取れ」


 数分の後、郊外の森は静寂に包まれた。




 廃墟となったチャペル。

 忘却に葬られた神聖な場に、三人の影が現れた。


 アルク=ディア。

 グラ=ゼル。

 イシュ=ノクス。


 「リクス……お前まで……」

 グラ=ゼルは、僅かに俯いた。

 その呟きは、静寂の中へ溶けていく。

 しかし、次の瞬間には覚悟を決めたように、表情を固めた。


 「奴らが、この戦いに加わるそうだ」

 アルク=ディアが、姿勢を崩すことなく口を開いた。


 「闇に囁く者を始めとして、我々の領域から、この地球へ来るそうだ」

 「そうなれば……すぐに終わるかもしれないな」

 二人の会話が、静寂を塗り潰していく。

 しかし、イシュ=ノクスが呟いた。


 「……人間側には、ネヴ=ソスがいるぞ」

 トゥ=レイヴも、リクス=ヴァイアも、奪われた。

 普段は沈黙を貫くイシュ=ノクスも、この状況には危機を感じていた。


 しかし、アルク=ディアは動じなかった。


 「ネヴ=ソスがいるかどうかは、重要ではない」


 その瞬間、気づいた時には、チャペルの中にもう一つの影が増えていた。

 以前、アルク=ディアだけが言葉を交わした、黒髪の女性。


 「天使……」

 女性は身体を揺らしながら、楽しそうに呟く。


 「……会うのが楽しみね」

 「やはり、兄に会うのは楽しみか」

 「えぇ」

 女性は微笑む。


 「兄妹ならば、当然でしょう?」

 その言葉に、アルク=ディアは瞳を閉じた。

 そして。


 「ソティア」

 静かな声が、チャペルに響く。


 「次期皇帝として、相応しい行動を」

 「えぇ」


 ネヴ=ソティア=ルゥは、微笑みながら頷いた。


 その一連のやり取りを見ていたグラ=ゼルとイシュ=ノクスは。

 ただ、それだけで理解した。


 格が違う。

 この女は、自分たちとは違う。

 その存在そのものが、そう語っていた。





 A.E.O.I.中央基地、女性寮。

 ローゼは、端末に映し出された映像を見つめていた。


 そこに映っているのは。

 天使の形態から人間へと戻り、拘束される澄羽だった。


 旅行学習の際に言葉を交わした少女、白鷺澄羽。

 しかし、ローゼは、あの時と同じようには澄羽を見ていなかった。


 「……そう」

 ローゼの口元が、僅かに歪む。


 「貴女だったのね……」

 身体が震え始める。

 そして。


 「……ふふ」

 小さな笑い声。

 それは、次第に大きくなっていく。

 ローゼは立ち上がった。


 「ふふ……あはははは……!」

 狂ったような笑い声が、誰もいない部屋に響き渡る。


 待ち望んでいた瞬間が。

 ようやく、近づいてきた。

 天使をこの手で殺し、悲願を成し遂げる。

 その瞬間が。

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