第0話・後編:神降ろし
レナがお神様になってから約五年。
レナは十七歳になった。
かつての神のように、村に恵みを齎し続けた。
枯れた畑は実りを取り戻した。
雨が降らない年には雨を降らせた。
病が流行れば癒やし、獣が現れれば追い払った。
かつて貧しかった村は豊かになり、人々は笑顔を取り戻していった。
村人たちは彼女を敬った。
畏れた。
崇めた。
誰もが口を揃えてこう言う。
「お神様のおかげです」
その言葉を聞くたびに、レナは笑顔を返した。
昔と同じように、何も変わっていないかのように。
だが、実際には何もかもが変わっていた。
誰も知らない、誰も気づかない。
レナだけが知っていた。
世界は、地獄だった。
目を閉じても見える。
耳を塞いでも聞こえる。
海の向こうで起きている戦争、飢餓、病、虐待、殺人、事故、絶望。
誰にも届かない悲鳴。
誰にも知られない死。
世界中で生まれ続ける苦しみが、休むことなく流れ込んでくる。
最初の頃は助けようとした。
遠い国で飢える子供がいるなら食べ物を生み出した。
病人がいるなら癒やした。
災害が起きれば被害を減らそうとした。
だが、終わらない。
一つ救えば、十の悲劇が生まれる。
十を救えば、百の悲劇が現れる。
世界はあまりにも広く、人はあまりにも多かった。
やがてレナは理解した。
全知とは、世界中の苦しみから逃げられないことだと。
知りたくないことまで知ってしまうことだと。
そして、全能とは。
その全てに手を伸ばせてしまうことだと。
レナは自室の窓辺に腰掛ける。
山の向こうへ沈む夕日を見つめながら、小さく息を吐いた。
村人たちは知らない。
自分がどれだけ苦しんでいるか。
いや、知れるはずがない。
彼らにとって、自分は神なのだから。
弱音など吐かない。
迷いなどしない。
苦しみなどしない。
そう思われている。
だから誰にも言えない。
言える相手がいない。
そして、それ以上に、レナには恐れているものがあった。
自分自身だ。
十七歳の少女の手で、世界など容易く消し飛ばせる。
星を砕ける。
運命の流れを変えられる。
人の命を奪うことも、人を生き返らせることすら、理論上は可能だった。
あまりにも大きすぎる力。
あまりにも軽すぎる命。
もしも自分が怒ったら、間違えたら、心が壊れたら。
その時、何人が死ぬのだろう。
考えるだけで恐ろしかった。
だからレナは今日も笑う。
優しい神様を演じ続ける。
誰も傷つけないように。
誰も怯えないように。
そして何より――
自分自身を恐れないで済むように。
夕陽が山の向こうへ沈む頃。
レナは窓辺に腰掛け、外を眺めていた。
山の向こうで何が起きているのか。
世界のどこで誰が泣いているのか。
どこで争いが起きているのか。
レナは知っている。
全部知っている。
だからこそ、昔のように外へ憧れることもなくなった。
「……寂しいな」
呟きは部屋の中へ溶ける。
返事はない。
誰もいないのだから当然だ。
レナは布団へ倒れ込んだ。
天井を見上げる。
ふと、考える。
味方が欲しい、と。
何も隠さなくていい相手。
お神様ではなく、葉狩レナとして話せる相手。
そんな人がいたら、どれだけ楽だろう。
――叶うだろうか。
そこでレナは小さく笑った。
「ううん」
叶うかどうかじゃない。
自分は全能なのだから、叶えてしまえばいい。
レナは目を閉じた。
理想を思い描く。
自分の話を聞いてくれて、怒る時は怒ってくれて、苦しい時には傍にいてくれて、それでも離れていかない人。
そんな存在を。
ゆっくりと、ゆっくりと、形にしていく。
そして。
「……シュウくん」
その名前を呼んだ。
返事はない。
当然だ。
まだ誰もいない。
それでもレナは続ける。
「シュウくん」
もう一度呼ぶ。
その時だった。
『……どうした?』
声がした。
「あのね、私は……!」
その日からレナの日常は、以前よりも彩られたものへと変化していた。
「お神様……」
「お神様!!」
毎日のように神として崇められる。
そんな無色の世界が塗りつぶされたかのように。
一日が終わるごとにレナはシュウに語りかける。
癒せない傷跡を癒すために。
埋められない心を埋めるために。
「今日はね、お婆ちゃんが漬物を持ってきてくれたの」
『へえ』
「凄く美味しかったんだよ!」
『よかったじゃないか』
そんな他愛もない話。
神には必要のない会話。
だがレナにとっては何よりも大切だった。
村人たちは優しい。
長老たちも大切にしてくれる。
けれど誰もがレナをお神様として見ている。
弱音を吐ける相手はいない。
泣ける相手もいない。
だがシュウだけは違った。
『それで? 本当は何があったんだ?』
いつだったか、そう聞かれたことがある。
「え?」
『そんな顔してるのに、漬物の話だけなわけないだろ』
レナは言葉を失った。
神になってから初めてだった。
自分の笑顔の奥を見抜かれたのは。
その日、レナは初めて泣いた。
世界中の苦しみが怖いこと、誰も理解してくれないこと、自分自身の力が怖いこと。
全部、吐き出した。
シュウには何も解決できなかった。
世界は相変わらず地獄だった。
苦しみも消えなかった。
それでも。
『そうか……。大変だったな』
たったそれだけで。
レナは少しだけ救われた。
季節が巡る。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎていく。
レナは今日も村に恵みを与える。
畑を実らせ、病人を癒やし、雨を降らせる。
神としての役目を果たし続ける。
そして夜になると、窓辺に腰掛けて話した。
シュウと、世界のことと、村のことを。
自分のことを。
いつしかレナは気づいていた。
世界を見る時間よりも、シュウと話す時間の方が好きになっていることに。
そして。
「ねえ、シュウくん」
『なんだ?』
「ずっと一緒にいてくれる?」
珍しく弱々しい声だった。
シュウは少し黙った後。
『レナが望むなら』
そう答えた。
レナは微笑む。
その言葉が嬉しかった。
ただ、それだけだった。
その時のレナはまだ知らない。
その願いが、本当に叶ってしまう日が来ることを。
レナが十九歳になった年のある日――
地球に新たな脅威が現れた。
宇宙外生命体と呼ばれるそれらは、地球を攻め始めた。
最初は遠い国の出来事だった。
海の向こう。
名前も知らない土地。
見たこともない街。
そこへ突如として現れた、現象にも近い生命体。
人々は逃げ惑い、軍隊は応戦し、多くの命が失われた。
世界中のニュースは、連日その話題で持ちきりになった。
だが、この山奥の村に住む人々はそれを知らない。
テレビは無い。
外界との交流もほとんどない。
彼らにとって世界とは、この村そのものだった。
だから村は変わらない。
畑を耕し、山へ入り、季節の移ろいを眺める。
いつも通りの日々。
――レナ以外は。
「……また」
夜、自室で膝を抱えながら、レナは震えていた。
見えてしまう、聞こえてしまう。
宇宙外生命体に襲われる街。
瓦礫に潰される人々。
家族を失う子供。
逃げ惑う群衆。
今までの戦争や犯罪とは違う。
そこにあったのは、人類という種そのものが脅かされる恐怖だった。
「やめて……」
耳を塞ぐが、意味はない。
全知は視覚でも聴覚でもない。
世界そのものが頭へ流れ込んでくる。
止められない、逃げられない。
助けようとした。
何度も、何度も。
しかし限界があった。
一人を救えば別の場所で十人が死ぬ。
十人を救えば百人が死ぬ。
被害は広がり続けていた。
「どうして……」
誰に向けた言葉でもない。
答えが返ってくるはずもない。
それでも。
『レナ』
聞き慣れた声がした。
レナは顔を上げる。
シュウだった。
いつものように、心の中にいる。
たった一人の味方。
『また無理をしてるな』
「……だって」
声が震える。
「助けられるかもしれないのに」
『全部は無理だ』
「分かってるよ……!」
レナは思わず叫んだ。
そしてすぐに後悔する。
シュウは悪くない。
それくらい分かっている。
だが、苦しかった。
あまりにも苦しかった。
全知であるが故に、世界中の絶望を知ってしまう。
全能であるが故に、それを見捨てることもできない。
助けたい。
でも助けきれない。
その矛盾が、レナの心を少しずつ削っていた。
「……怖いの」
ぽつりと零れる。
『何がだ?』
シュウの声は優しい。
だからこそ、本音が出てしまった。
「私が私じゃなくなるのが」
レナは自分の手を見る。
細い指の、少女の手。
だがその手は山を消し飛ばせる。
星を滅ぼせる。
運命すら変えられる。
人々が恐れる神話の怪物よりも、きっと自分の方が恐ろしい。
「いつか壊れちゃったらどうしよう」
「誰かを傷つけちゃったらどうしよう」
「シュウくんまで傷つけちゃったらどうしよう」
しばらくして、シュウは静かに言った。
『その時は俺が止める』
レナは目を見開いた。
『お前がどんな姿になっても、どれだけ壊れても、俺だけはお前の味方でいる』
その言葉に。
レナは泣きそうになった。
神ではなく、救世主でもなく。
ただの葉狩レナとして、救われた気がした。
「シュウくんが本当にいたら良いのに」
レナは静かに目を閉じる。
「この手で触れたい。 この腕で抱きしめたい。 この体で感じたい」
シュウはしばらく黙っていた。
まるで答えを探すように。
そして小さく言った。
『……そうだな。 もし本当に会えたら、俺も嬉しいと思う』
レナは少しだけ笑った。
「会えるかな」
『分からない』
シュウは即答した。
『でも、お前は諦めないだろ』
その言葉にレナは目を細める。
確かにそうだった。
神になってから。
苦しくても、辛くても、投げ出したことだけは無かった。
『だから、いつか会えるかもしれない。 俺はそう思う』
しかしレナは気づいていた。
自分が全知でなく、無知にならなければ。
シュウと出会うことを心の底から受け入れることはできない。
全能は調整できる。
だが全知は違う。
常に世界の全てが頭へ流れ込み続ける。
(神としての全知なんていらない)
レナは布団を抱き寄せた。
(だから、どうか……)
涙が静かに頬を伝う。
(シュウくんと、一緒に……)
枕へ顔を埋める。
そのままレナは眠りについた。
鳥のさえずりが聞こえる。
窓の外から差し込む朝日が、部屋を薄く照らしていた。
レナはゆっくりと目を開く。
昨夜は随分と泣いた気がする。
目元に残る違和感が、それを物語っていた。
「……朝か」
小さく呟く。
いつも通りの朝、いつも通りの部屋。
何も変わらないはずだった。
しかし、違和感がある。
頭の中に、あらゆる情報が流れてこない。
そう思いながら上体を起こした。
その時だった。
視界の端に、人影が映った。
「……え?」
部屋の隅、窓の近くに。
一人の青年が立っていた。
見覚えのある顔。
何度も見た顔。
毎日のように話してきた顔。
レナの思考が止まる。
青年もまた、驚いたようにこちらを見ていた。
しばらくの沈黙。
やがて青年が口を開く。
「……おはよう」
聞き慣れた声だった。
レナの瞳が大きく見開かれる。
「……シュウくん?」
声が震える。
青年は困ったように頭を掻いた。
「多分」
「多分って何!?」
思わず叫んでいた。
青年は苦笑する。
「俺も状況が分からないんだ。 気づいたらここにいた。
昨日までは、確かにレナの中にいたはずなんだけどな」
レナは言葉を失う。
理解できない。
理解できるはずがない。
だが、心が告げていた。
目の前の存在は幻ではない。
夢でもない。
確かに存在している。
心の中だけにいたはずの存在が、今、目の前にいる。
レナは震える足で立ち上がった。
一歩、また一歩、青年へ近づく。
青年は逃げない。
ただ静かに立っている。
レナは恐る恐る手を伸ばした。
肩に触れる。
温もりがあった。
確かな感触があった。
幻ではなく、そこにいる。
「……本当に」
声が震え、涙が溢れる。
「本当にいる……」
シュウは何も言わず、ただ静かに見ていた。
レナは堪えきれなくなった。
そのまま青年へ抱きつく。
強く、離さないように。
消えてしまわないように。
「シュウくん……!」
涙が服を濡らす。
ずっと欲しかったものがそこにあった。
理解者であり、味方であり、孤独ではない証。
シュウは少し戸惑った後。
ゆっくりとレナの背中へ手を回した。
「……そんなに嬉しいか?」
レナは顔を埋めたまま何度も頷く。
言葉にならない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
葉狩レナはこの日、生まれて初めて。
本当の意味で一人ではなくなった。
その時。
「……! シュウくん、私……!」
レナは先ほどまでの違和感の正体に、ようやく気づいた。
レナは全知ではなくなっていたのだ。
普通の人間のように、無知でいられることがどれほど幸せか。
レナは初めて知った。
世界中の悲鳴が聞こえない、誰かが死ぬ瞬間も見えない、遠い国で起きる戦争も。
誰かの絶望も、誰かの悪意も、何も流れ込んでこない。
静かだった。
あまりにも静かだった。
「嘘……」
レナは自分の頭を押さえた。
何も聞こえない、何も見えない。
ただ自分の鼓動だけが聞こえる。
それが嬉しかった。
「無い……」
震える声が漏れる。
「無いの……」
シュウは黙っていた。
ただ静かに見守っている。
「苦しくない……」
レナはその場に座り込んだ。
笑っているのか泣いているのか、自分でも分からない。
「私、苦しくないよ……!」
神になってから七年。
ずっと離れなかった呪い。
当たり前になっていた地獄。
それが消えていた。
「シュウくん……!」
レナは勢いよく顔を上げた。
「私、知らないことがある!」
「……そうか」
「山の向こうで今何が起きてるか分からない!」
「うん」
「今日の天気も全部は分からない!」
「うん」
「知らないことだらけ!」
子供のように語るレナを見て、シュウは少しだけ笑った。
「嬉しそうだな」
「嬉しいよ!」
レナは即答した。
「だって、やっと普通になれたんだもん!」
その言葉を聞いた瞬間。
シュウの笑みが少しだけ弱くなった。
だがレナは気づかない。
気づけない。
彼女は喜びでいっぱいだった。
シュウは窓の外へ目を向ける。
朝日が山を照らしている。
その景色を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……そうか」
それだけ呟く。
レナは知らない。
なぜ全知が消えたのか。
どこへ行ったのか。
誰が受け取ったのか。
ただ一つだけ分かることがある。
今日という日は、葉狩レナにとって、生まれて初めて世界が優しく見えた朝だった。
部屋の扉が叩かれた。
「レナ様、朝食をお持ちしました」
聞き慣れた声。
世話係の女性だった。
レナは思わず顔を見合わせる。
シュウも少し困ったような顔をした。
「どうしよう……」
「どうするも何も」
シュウは肩を竦めた。
「俺は隠れた方がいいか?」
「でも……」
レナは迷う。
隠したくなかった。
ようやく会えたのだから。
誰よりも大切な存在に。
「レナ様?」
再び扉が叩かれる。
返事が無いことを不審に思ったのだろう。
「入りますよ」
扉が開き、女性が部屋へ入る。
そして、固まった。
視線の先に、見たことのない人物。
村人ではない。
ましてや男。
この部屋にいるはずのない存在だった。
「……誰ですか」
女性の声から温度が消える。
シュウは何も答えない。
レナが慌てて立ち上がった。
「だ、大丈夫です!」
「大丈夫ではありません」
即座に否定された。
女性は一歩後退る。
その目に浮かぶのは恐怖だった。
お神様の部屋。
そこに突然現れた見知らぬ男。
それは村の常識では説明できない。
「レナ様、離れてください」
「違うの!」
「こちらへ」
「違うってば!」
レナは声を荒げた。
だが女性は聞いていない。
視線はシュウへ向けられたまま。
「侵入者だ……」
小さく呟く。
「誰か!」
そして叫んだ。
「誰か来てください!!」
その声の直後。
廊下には人が集まり始めていた。
長老、守り人、世話係達。
村の大人達が次々と駆けつける。
全員の視線がシュウへ向けられていた。
異物、理解できないものを見る目。
そして――恐れる目。
「レナ様、その者から離れてください」
守り人の一人が前へ出る。
腰には狩猟用の鉈。
山で獣を狩るための武器だ。
「違うの!」
レナが叫ぶ。
「シュウくんは悪い人じゃない!」
「名前まで知らされているのか」
誰かが呟いた。
空気がさらに険しくなる。
「捕らえろ」
長老が言った。
その一言で、守り人達が動く。
シュウへ向かって。
レナは目を見開いた。
「やめて!!」
誰も止まらず、シュウは動かない。
ただ静かにレナを見ている。
まるで結果を知っているかのように。
「やめてって言ってるのに!!」
守り人の一人がシュウの肩へ手を伸ばす。
その瞬間、世界が止まった。
正確には違う。
止まったように見えただけだった。
レナの願いが全能によって実行されたのだ。
――シュウに触れさせたくない。
ただそれだけの願い。
次の瞬間、守り人の腕が消えた。
肩から先が、まるで最初から存在しなかったかのように。
「……え?」
誰かが呟く。
守り人自身ですら理解できない。
数秒遅れて、鮮血が噴き出した。
絶叫が建物を揺らす。
「ぁ、あ……」
レナは固まった。
やってしまった。
そう理解するより早く、周囲が混乱に包まれる。
「お神様が!!」
「逃げろ!!」
「違う!」
「あの男だ!!」
村民の言葉が聞こえた瞬間。
レナの心が大きく揺れた。
「違う……」
震える声が漏れる。
「私は……」
守りたかっただけなのに。
シュウが危ないと思っただけなのに。
「違うのに……」
だが混乱は止まらない。
数人は逃げ出し、数人は武器を構える。
そして一人の守り人が叫んだ。
「その男を殺せ!!」
レナの視界が真っ白になる。
次の瞬間、武器を構えた数人が。
音もなく消えた。
その場に立ち尽くし、手を見つめるレナ。
自分がやってしまったのか。
固まるレナに、シュウは語りかける。
「レナ、外に逃げよう」
シュウの言葉に、ようやくレナは我を取り戻す。
涙を堪え、シュウの手を取り外に飛び出す。
「あっ! お神様だ!」
「誰か一緒だ〜」
広場にいた子供たちは無邪気に駆け寄ろうとする。
だが、大人たちは違った。
建物から飛び出してきた村人たちの顔は青ざめていた。
「離れろ!」
「近付くな!!」
「その男を捕まえろ!」
怒号が飛び交う。
混乱は既に村全体へ広がっていた。
レナは足を止める。
どうして。
どうしてこんなことに。
シュウくんは何も悪くないのに。
「レナ」
シュウが呼ぶ。
だがその声すら遠い。
村人たちが武器を持って集まり始める。
鍬、鉈、猟銃。
山村で生きるための道具が、人を傷付けるために向けられていた。
その先にいるのはシュウだった。
「捕まえろ!」
一人が叫び、村人たちが前へ出る。
レナの呼吸が止まる。
駄目。
また傷付く、また奪われる。
せっかく会えたのに。
ようやく――
ようやく一人じゃなくなれたのに。
「やめて」
誰にも届かない声。
村人たちは止まらない。
「やめて」
声が震える。
シュウは黙り、その目だけがレナを見ていた。
止めない、助けない。
選ぶのはレナ自身だとでも言うように。
「やめて……!」
空気が震えた。
山を覆う雲が不自然な速度で渦を巻き始める。
村人たちが足を止めた。
誰もが空を見上げる。
レナの髪が風に揺れた。
その瞳から涙が零れる。
「もう……やめてよ……」
次の瞬間、轟音が山々を揺らした。
地面が震え、山肌が崩れ始めた。
木々が倒れ、岩が砕け、悲鳴が上がる。
そして雲からは、花を腐らせるほどの大量の雨が振りしきる。
レナは何もしていない。
ただ、この光景を終わらせたいと願っただけだった。
だが全能は願いを叶えることが可能だ。
どんな形であろうと、容赦なく。
「逃げろぉぉぉ!!」
誰かが叫ぶ。
しかし遅い。
山そのものが崩れ始めていた。
村を囲む斜面が音を立てて滑り落ちる。
土砂が家々を呑み込む。
石畳が割れ、広場が裂ける。
人々の叫びが木霊する。
レナはその場に立ち尽くしていた。
目の前で自分が育った村が。
自分を育ててくれた人たちが。
崩れていく。
消えていく。
「……違う」
震える声。
「こんなのじゃない……」
望んだのはこんなことではなかった。
ただ、シュウと一緒にいたかっただけなのに。
ただ、幸せになりたかっただけなのに。
やがて人々の叫びは途絶えた。
煙の向こうには、崩れ落ちた村だけが広がっている。
シュウは静かにレナの肩を抱いた。
「レナ……」
その時だった。
遠くから、一台のバイクのエンジン音が響く。
レナは顔を上げた。
かつて全知だった頃、幾度となく見た光景。
戦場を駆ける鉄の騎馬の音。
戦争が、もうここまで近づいているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、その音は急速に近づいてくる。
次の瞬間、黒いバイクが煙を切り裂くように現れた。
車体を横滑りさせながら減速し、二人の前で停止する。
雨に濡れた土が舞い飛ぶ。
青年はヘルメットに手を添え、ゆっくりとバイザーを上げた。
その視線がレナとシュウを捉える。
「シュウくん……あれって……」
レナは隣を見る。
だが、シュウの様子は明らかにおかしかった。
今まで冷静であり続けた彼が、今だけは違う。
僅かに眉をひそめ、決して目を逸らさないまま青年を見据えていた。
そして低く呟く。
「……絶対に手を出すな」
レナの心臓が跳ねた。
「え……?」
「絶対だ」
シュウの声は強張っていた。
「レナでも勝てない」
レナは息を呑む。
青年は二人を眺めながら、小さく呟いた。
「これほどの力を、人類が引き出せるなんてね」
感心したような声だったが、そこに驚きは無い。
「二人なら、もっと向いている場所がある」
青年はそう言うと、何もない空間に手を伸ばした。
次の瞬間、その手の中に二つのヘルメットが現れる。
まるで最初からそこに存在していたかのように。
レナは目を見開いた。
青年は気にした様子もなく続ける。
「宇宙外生命体が現れ始めたことは知っているはず」
確認ですらない。
知っていることを前提にした口調だった。
「それに対抗するための組織が作られた」
青年は片手でヘルメットを放る。
レナとシュウは反射的に受け取った。
「二人には、その方が都合がいい」
淡々とした声。
善意とも悪意とも取れない。
ただ事実だけを告げているようだった。
そして青年はバイクのエンジンを吹かす。
「乗りな。 基地の近くまで送るよ」
夜の山道をバイクが駆ける。
冷たい風が頬を撫でた。
レナは青年の後ろに座り、シュウはその後ろに掴まっている。
見慣れた山々が少しずつ遠ざかっていく。
生まれてから一度も出たことのない世界。
その入り口へ向かって。
レナは振り返った。
遠く、月明かりの下に沈む故郷が見える。
もう戻れない。
戻る場所もない。
それなのに、不思議と涙は出なかった。
「……シュウくん」
風に負けそうな声で呼ぶ。
「どうした?」
背後から返事が来る。
レナは少しだけ笑った。
「これから、どうなるのかな」
シュウはしばらく黙っていた。
そして。
「分からない」
そう答えた。
分からない、未来が見えない、知らない。
だからこそ。
「そっか」
レナは心の底から、笑った。
「楽しみだね」
山道を黒いバイクが駆け抜ける。
世界は燃えていた。
人類と宇宙外生命体の戦争は始まっている。
多くの人々が絶望している。
けれど、二人にとっては。
その日が初めての旅立ちだった。
――――――――――――――――――――――
痛い。
最初に浮かんだ感覚は、それだった。
身体ではない。
頭でもない。
もっと奥、心の奥底を無数の針で掻き回されるような痛み。
息ができない。
視界が定まらない。
それなのに、見える。
知らない国の戦争。
焼け落ちる街。
瓦礫の下で泣く子供。
誰にも知られず死んでいく人間。
化け物に喰われる兵士。
助けを呼ぶ声。
絶望、憎悪、苦痛、悲鳴。
それら全てが、一瞬で頭の中へ流れ込んでくる。
終わらない。
止まらない。
まるで世界そのものを脳に押し込まれているようだった。
喉が震え、床に手をつく。
吐き気が込み上げる。
しかし、吐こうにも胃の中は空だった。
代わりに、涙だけが零れ落ちる。
どうして、どうしてこんなものを、レナはずっと抱えていた?
毎日、ずっと。
たった一人で。
理解した瞬間、胸が締め付けられた。
苦しかった。
壊れそうだった。
世界は、こんなにも醜かったのか。
こんなにも救いが無かったのか。
こんなもの、知らなければよかった。
知らないまま、生きていたかった。
その時、不意に気づいた。
――自分は誰だ?
葉狩シュウ。
そうだ。
それが自分の名前。
だが、本当に?
頭の中にある記憶。
山奥の村、子供たちとの日々、閉ざされた世界。
レナの笑顔、涙、孤独。
……それは、本当に自分の記憶なのか?
違う、これはレナの記憶だ。
なら、自分は何だ?
どこからが葉狩シュウで、どこまでが葉狩レナなんだ?
境界が分からない。
自分の輪郭が、曖昧になる。
胸の奥が、空っぽだった。
自分は結局、何なんだ。
レナが寂しさを埋めるために作った、都合の良い人形か?
味方が欲しいから。
一人が嫌だから。
苦しい時に寄りかかれる存在が欲しかったから。
だから生み出されたのが、自分なのか?
その考えが浮かんだ瞬間。
胸の奥に、黒い感情が滲んだ。
――ふざけるな。
初めて抱いた、自分自身の感情だった。
だが、その怒りは長く続かなかった。
視線の先、部屋の隅で、レナが小さく震えている。
自分と同じように。
いや、それ以上に。
怯えていた。
世界を知ってしまった少女が、壊れないよう必死に呼吸をしていた。
それを見た瞬間、怒りは消えた。
嫌いになれなかった。
なれるはずがなかった。
自分はきっと、レナを救いたいという願いから生まれてしまった存在だから。
彼は、ゆっくりと立ち上がる。
壊れそうな頭を押さえながら、世界中の悲鳴に耐えながら。
それでも、震える少女へ向かって歩き出した。
「……大丈夫」
そんなはず、ないのに。
自分も壊れそうなのに。
それでも、そう言うしかなかった。
なぜなら、彼女を安心させられる存在として、自分は生まれてしまったのだから。




