第34話:二つの呼び声
通仙という架空の地名が登場しますが、イメージとしては京都のようなイメージです。
天使の刃が、レナの眼前で止められた。
あと数センチ。
だが、それ以上進まない。
レナの剣が、正確に軌道を殺している。
「……いい線いってる」
静かに告げる。
「でも、まだ届かない」
そのまま、軽く弾く。
それだけで、天使の体勢が崩れた。
踏み込もうとした瞬間。
「――見てなさい」
レナの声がした。
次の瞬間、消えた。
否、消えたようにしか見えない。
気づいた時には――
レナは、遥か上空にいた。
天使の視界が引き上げられる。
雲よりも上。
異様な高度だ。
そこに、レナは立っていた。
足場など無いはずなのに。
「一回だけよ」
そして剣を構えた。
その動作には、一切の無駄がない。
――嫌な予感が全身を駆け巡る。
ネヴ=ソスの気配が、強く波打つ。
『観測しろ』
彼の声で理解する。
これは、避けるものじゃない。
理解するものだ。
レナが、剣を振る。
ただ、それだけ。
だが――
何も起きない。
一瞬の静寂。
そして、視界の端で山が消えた。
一つではない。
二つ、三つ――
連なる山脈の一部が、音もなく削り取られていた。
遅れて、世界が崩れる。
大地が揺れ、空気が震え、遅延した破壊が一斉に襲いかかる。
天使はその場に立ったまま、動かない。
いや――
動けなかった。
「……今のが、圧縮の完成形」
いつの間にか、レナは目の前にいた。
着地の気配すら無い。
「広げない。 漏らさない。 逃がさない」
指先で、天使の胸元を軽く叩く。
「全部、そこに置く」
トン、と。
それだけの接触だった。
だが、天使の身体がわずかに沈む。
内側に、何かが押し込まれた感覚。
「わかったでしょ?」
レナは笑う。
「あなた、まだ使ってるだけなのよ。 その力を」
視線が鋭くなる。
「支配しなさい」
崩壊音だけが遠くで続いている。
天使の複数の眼が、ゆっくりと閉じる。
そして、再び開く。
先ほどとは違う光。
低く、確かな意思。
レナは満足そうに息を吐いた。
「いいわね」
剣を構える。
「じゃあ次は――」
一歩、踏み出す。
その瞬間、空気が張り詰める。
「当てるじゃない。 壊しに来なさい」
その言葉と同時に。
『斬り裂け』
ネヴ=ソスが告げる。
直後、世界が再び歪んだ。
今まで以上に洗練された一撃。
天使の一閃が、レナの頬をかすめた。
ほんのわずかだが、確かに届いた。
風が遅れて走る。
数秒遅れて、背後の山が縦に裂けた。
轟音が響き、崩壊が連鎖する。
レナは動かない。
その場に立ったまま、ゆっくりと頬に触れる。
指先に、ほんの僅かな赤。
「……へぇ」
小さく笑う。
「やっと当たる場所に来たじゃない」
天使は何も言わない。
ただ、構えたまま動かない。
複数の眼が、レナを捉え続けている。
だが、それ以上踏み込めなかった。
レナは剣を軽く振り、構えを解いた。
「今日はここまで」
あっさりと告げる。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
(……終わり、か)
思考の波が、微かに揺れる。
レナは肩をすくめた。
「十分すぎる成果よ」
周囲に視線を向ける。
削れた山。抉れた大地。
原型を留めていない景色。
「最初は地面しか壊せなかったのに、今はどう?」
軽く顎で示す。
複数の山が崩れ、遠くで煙を上げている。
「力も、速度も、精度も。全部別物」
視線を戻す。
「でも――」
少しだけ、間を置く。
「まだ遠く及ばない、ね」
天使はゆっくりと剣を下ろした。
(……わかってる)
レナは満足そうに笑う。
「いいわね、その顔」
そして、一歩近づく。
天使の胸元に指を当てる。
トン、と軽く叩く。
「ちゃんと残ってる」
澄羽の意識に向けた言葉。
そのまま離れる。
「じゃ、戻るわよ」
レナが指を鳴らす。
空間が歪み、光が集まり始める。
その直前。
天使は、ふと空を見上げた。
崩れた山々の向こう。
静かに広がる青。
どこか、現実味が薄い。
戦い続けていたせいか、世界との距離がずれているような感覚。
「……」
胸の奥が、わずかに軋む。
――ここじゃない。
そんな感覚。
『帰ろう』
ネヴ=ソスの声。
淡々としているが、どこか確信めいている。
「……ああ」
短く応じる。
次の瞬間、光が弾けた。
視界が切り替わる。
夜明けの朝日に照らされた、見慣れた街並み。
さっきまでとは違う、重さ。
天使の身体が、ゆっくりと元の形へと戻っていく。
歪み、縮小し、人の形へ。
澄羽が、その場に立っていた。
数秒の間、何もせずただ立つ。
「……軽い」
ぽつりと呟く。
身体が軽いのではない。
力の置き場がわかる感覚。
以前のように、溢れない。
静かに、内側に収まっている。
拳を、軽く握る。
空気が、わずかに震える。
それ以上は何も起きない。
「……」
ゆっくりと手を開く。
視線を上げる。
何かが、決定的に変わっている。
そのまま、一歩踏み出す。
足音が、やけに静かに響いた。
「……今日は行かないと、な……」
シャワーを浴び、一息ついてから制服に袖を通す。
学校へ行く意思さえあれば、変わらないはずのルーティン。
だが――
どこか、現実味が薄い。
最近、夜美と顔を合わせていない。
互いに家にいる時間が、噛み合わなくなっていた。
「お姉ちゃん……嫌いだけど……寂しいな」
ぽつりと呟く。
玄関へ向かう廊下を歩く。
その途中で、足が止まった。
夜美の部屋。
ドアが、少しだけ開いている。
――入るべきじゃない。
そう思った。
それでも。
わずかな躊躇いの後、手をかける。
ゆっくりと、扉を開けた。
鼻を刺す匂い。
アルコールと、煙草と、淀んだ空気。
思わず息を止める。
床には、吸い殻が散乱していた。
踏み場もないほどに。
空き缶。酒瓶。
無造作に投げ出された求人誌。
折れ曲がったままの書類
生活保護の明細。
生活の痕跡が、形を保てていない。
「なに……これ……」
声が漏れる。
答えはない。
当然だ。
そこにあるのは、結果だけ。
理由も、過程も、何も見えない。
ただ――
壊れている、という事実だけがあった。
視線が、ベッドへ向く。
そこだけが、不自然に整っていた。
まるで――
そこだけが、最後の居場所だったみたいに。
「……っ」
それ以上、見ていられなかった。
澄羽は顔を逸らし、そのまま部屋を出る。
扉を閉める。
匂いが、遮断された。
それでも、胸の奥に残っていた。
何をしているのか分からなかった姉。
ずっと、見ようとしていなかっただけなのかもしれない。
「……行ってきます」
誰に向けたわけでもなく、そう呟く。
靴を履き、ドアノブに手をかける。
一瞬だけ、動きが止まる。
「――この家、こんなに静かだったっけ」
澄羽は校門をくぐった。
目に映るは、見慣れたはずの風景と生徒たち。
それなのに、どこか遠い。
(……遅刻、ギリギリ)
時計を見る。
ホームルーム開始まで、あと数分。
澄羽は足早に校舎へと向かった。
廊下に入ると、ざわめきが耳に入る。
「ねえ、もうすぐでしょ?」
「うん、旅行学習! めっちゃ楽しみなんだけど!」
「どこ行くか、もう決まってるのかな?」
――旅行学習。
その単語に、澄羽は足を止めた。
(……聞いてないな)
小さく息を吐き、廊下の窓から外を見る。
変わらない街並み。
けれど、そのどこかに――
「おはよー、澄羽!」
背中に声が当たる。
振り向くと、美空が手を振っていた。
「……おはよ」
少し遅れて返す。
美空はいつも通りの笑顔で近づいてくる。
「聞いた? 旅行学習のこと!」
「……旅行学習、聞いてないんだよね」
「あっ、確かその日休んでたよね! 絶対楽しいよ! 班とか一緒になれたらいいね!」
無邪気な言葉。
少しだけ、胸が痛む。
「……そうだね」
短く返す。
美空はそれに気づいた様子もなく、続ける。
「でもさ、急に決まったよね。やっぱり最近のアレのせいかな」
声が少しだけ落ちる。
「外に出た方が安全ってことなのかなって思ってさ」
(安全、か)
頭の中に、昨日の戦闘がよぎる。
玲司。燈莉。
そして――リクス=ヴァイア。
「……どうだろう」
それだけしか言えなかった。
美空は少しだけ考えた後、笑った。
「まあでも、考えても仕方ないよね! せっかくなんだし楽しもうよ!」
その明るさが、少し眩しい。
「……うん」
教室のドアを開ける。
中は既に半分ほど埋まっていた。
席に着く。
周囲からは旅行の話題が飛び交っている。
「どこ行きたい?」
「温泉とかよくない?」
「班誰と組む?」
その中に、自分の名前はない。
自然なことだ。
いつものこと。
「……」
机に視線を落とす。
その時、ほんの一瞬だけ。
何かの気配を感じた。
(……?)
顔を上げる。
そこには変わらない風景が広がっている。
――何も、異常はない。
「気のせい……?」
小さく呟く。
その違和感は、すぐに消えた。
教室の扉が開く。
「席につけー」
担任が入ってくる。
ざわめきが徐々に収まっていく。
「今日は大事な連絡がある」
その一言で、空気が変わった。
教室のざわめきが、完全に静まる。
担任は教卓に資料を置き、クラスを見渡した。
「さっきから話題に出てるみたいだな。 そうだ、旅行学習の件だ」
数人が小さく歓声を上げる。
「正式に決まった。三日後から、県外での宿泊学習を行う」
教室の空気が一気に明るくなる。
「やった!」
「マジで!?」
笑い声と期待が広がる。
担任は軽く手を上げて、それを制した。
「ただし、今回はいつもと少し事情が違う」
その一言で、少しだけ空気が落ちる。
「知っての通り、この燈朝市周辺では最近、異常事態が続いている」
直接的な言葉は避けている。
だが、生徒たちは理解している。
「安全確保の観点から、今回は一時的に県外へ移動する形になる」
「じゃあ避難みたいな感じ?」と誰かが小さく呟く。
担任は少しだけ間を置いた。
「……そう捉えても構わない。 ただし、あくまで学習だ。そこは履き違えるなよ」
教室に微妙な沈黙が落ちる。
それを打ち消すように、担任は資料をめくった。
「行き先は、通仙府。 西の方の寺社がたくさんある府だ。
日程は三日間。 自由な班行動を中心に進める」
ざわめきが戻る。
「班は四人一組。今から決めてもらう」
その一言。
教室の空気が、一気に動き出した。
「よし、じゃあ俺らで――」
「ねえ一緒にやろ!」
声が飛び交う。
椅子が動く音。
人が集まる音。
関係が、形になっていく。
担任はそれを一瞥し、淡々と付け加える。
「時間は十分やるが、余った奴はこっちで適当に振り分けるからな」
その言葉は、軽く言われた。
しかし、澄羽の中ではやけに重く響いた。
「……」
誰にも呼ばれない。
動く理由もない。
周囲だけが、賑やかに遠ざかっていく。
視線を上げる。
美空と目が合う。
――来ようとしてくれている。
だが。
「ねえ美空、こっち入ろ!」
一軍の女子に腕を引かれる。
「え、ちょ……」
断れない。
そのまま、美空は連れていかれる。
視線が、一瞬だけ戻る。
申し訳なさそうな顔。
「……いいよ」
小さく呟く。
だが聞こえていない。
教室の音に、かき消される。
気づけば、周りはほとんど埋まっていた。
残っているのは――
自分だけ。
「……どうしよ」
その時だった。
「まだ決まってないの?」
声が、横から落ちた。
知らない声だ。
振り向くと、男子生徒が一人立っていた。
見たことがあるような、ないような顔。
だが。
どこか、違和感がある。
「……うん」
短く答える。
男子は、少しだけ首を傾げた。
「そっか」
それだけ。
無理に笑うでもなく、気を遣うでもない。
ただ、自然にそこにいる。
「一人で回るつもり?」
軽く聞く。
澄羽は少し考える。
「……まだ決めてない」
男子は小さく頷く。
「じゃあ、ちょうどいいかもね」
視線が、まっすぐ向く。
「俺も、別に誰と組むつもりもなかったし」
教室の喧騒が、妙に遠く感じる。
「……名前、なんていうの?」
「天城 理」
「……よろしく、理」
放課後。
教室の空気が一気に緩む。
「ねえ、どこ回る?」
「とりあえず温泉じゃない?」
「夜も楽しみだよね!」
旅行学習の話題で、教室は満たされていた。
その中で――
「……」
澄羽は静かに席を立つ。
理は、席に座ったままだつg。
頬杖をつき、窓の外を眺めている。
まるで――
最初からそこにいたかのように。
「……」
声をかけるべきか、一瞬迷う。
だが。
「また明日でいいよ」
先に口を開いたのは理だった。
視線は外のまま。
「どうせ、すぐ会うことになるし」
意味の分からない言葉。
だが、軽い調子で続ける。
「じゃあね、澄羽」
呼ばれた瞬間、胸がざわつく。
「……うん」
短く返す。
それ以上は、何も言えなかった。
教室を出て廊下を歩く。
人の流れに紛れながら、校舎を抜ける。
外の空気が、少しだけ冷たい。
(……なんか、変な感じ)
理のことを考えようとすると、思考がぼやける。
その時。
ポケットの中で、端末が震えた。
「……?」
取り出す。
表示された名前に、目を見開く。
――花守燈莉。
一瞬だけ、呼吸が止まる。
それでも、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『白鷺さん?』
どこか張り詰めた声。
「……燈莉」
『この後、時間あります?』
単刀直入な問い。
「……あるけど」
『なら、会いたいです』
間を置かずに続く。
『話したいことがあります』
その言葉。
拒否する理由は、思いつかなかった。
「……どこで?」
『燈朝市の外れの外れ、あの高架下』
「……うん」
『待ってます』
通話が切れる。
画面が暗くなる。
小さく息を吐く。
足が、自然と動き出す。
向かう先は――燈朝市の外れ。
(どうして、今……)
あの時のことが頭をよぎる。
正体がバレた瞬間の、燈莉の視線。
「……逃げるわけには、いかないか」
ひと言、呟く。
空を見上げると、夕焼けが街を染め始めていた。
その色は、どこか――
血のようにも見えた。
そして。
その色の中へと、澄羽は歩いていく。




