第32話:揺れたままの一歩
少年の腕と、天使の双剣がぶつかる。
衝突の瞬間――空間が、わずかにずれた。
斬撃は確かに届いていた。
だが、その軌道は途中で歪み、少年の身体をすり抜けて背後のビルを斬り裂く。
「……あれ?」
少年――リクス=ヴァイアは、自分の腕を見下ろした。
傷は、無い。
「今、当たってたよね?」
軽い口調。
まるで、現象を確かめるように。
天使は応えない。
複数の目が同時に開き、空間を捉える。
次の瞬間、踏み込む。
速度が急激に跳ね上がる。
「おっと」
リクスの姿が、半歩分だけ横にずれる。
本来そこにあるはずの位置から外れたことで、天使の刃は空を切る――はずだった。
だが。
斬撃は、止まらなかった。
空間ごと、ねじ切るように。
刃はずれた位置にまで到達し、リクスの頬を掠めた。
遅れて、血が一筋。
「……あれ?」
今度は、明確に違う声色だった。
指先で血をなぞり、リクスはそれを見つめる。
「今の、ちょっとおかしくない?」
天使は構えを崩さない。
次の一歩。
更に踏み込む。
『簡単な話だ』
内側から響く声。
『格が違えば、能力なんかは関係ない』
剣が振るわれる。
リクスは今度は大きく距離を取る。
空間そのものを遠ざけるように。
数十メートルの隔たり。
だが――
天使は、そこにいた。
「……は?」
一瞬の間。
距離という概念を無視したかのように、眼前へと現れた刃が振り下ろされる。
少年は受け、衝撃が腕を走る。
コンクリートが砕け、地面が沈む。
「へぇ……」
リクスの口元が、僅かに吊り上がる。
「いいね、それ」
押し返す。
だが天使は後退しない。
むしろ、さらに踏み込む。
一撃ごとに空間が歪む連撃。
意味が反転し、距離が崩れ、軌道が壊れる。
それでも。
「当たるんだ」
リクスの腕には、確かな衝撃が伝わる。
浅いが、確実なダメージ。
「普通じゃないね、君」
天使は応えない。
ただ、斬るだけだ。
理屈も、整合性も関係なく。
そこにいるから、斬る。
その在り方そのものが、異質だった。
「いいよ」
リクスの瞳が、僅かに赤く染まる。
「もう少し、ちゃんと見てあげる」
空間が歪む。
今度は浅いものではない。
戦場そのものが書き換えられる。
上下が反転し、距離が圧縮され、意味が崩壊する。
踏み込めば離れ、離れれば近づく。
攻撃は防御に、防御は被弾へと変わる。
――戦いそのものが、成立しなくなる。
だが。
天使は、止まらなかった。
狂った座標の中で、最短距離を通ってくる。
剣が振るわれる。
あり得ない軌道。
あり得ない到達。
「本当に言ってる……?」
リクスは一歩、後ろへ下がった。
初めての後退だった。
その一瞬を逃さず、天使はさらに距離を詰める。
連撃が重なり、衝撃が連鎖する。
コンクリートが弾け、空気が裂け、空間が悲鳴を上げる。
押しているのは、天使だった。
「はは……」
リクスが、小さく笑う。
「いいね。すごくいい」
楽しそうに。
心から面白がるように。
「でもさ」
指先が、僅かに動く。
次の瞬間、天使の斬撃が無かったことになる。
振るったはずの軌道が消え、結果だけが消失する。
「まだ、早いよ」
その瞬間。
リクスが一歩踏み込む。
今度は、逆だ。
歪められた戦場の中で、リクスの一撃が正しく届く。
天使の身体がわずかに浮く。
だが、着地と同時に再び踏み込む。
「……ほんとに壊れてるね」
リクスの声に、わずかな熱が混じる。
「じゃあ――」
次の段階へ移ろうとした、その瞬間。
空気が、変わった。
天使も、リクスも、その違和感に気づく。
そして――
衝突の余波で崩れかけていたビル群が、軋みながら静止する。
砂塵が落ちる途中で止まり、音が一瞬だけ遅れて消えた。
天使とリクスの間に、ひとつの影が立つ。
「――そこまで」
静かな声だった。
だが、その一言だけで、戦場の位相が揃う。
天使の剣が止まる。
リクスの腕もまた、わずかに動きを止めた。
「……あぁ」
リクスが小さく息を吐く。
「やっぱり来るんだね、こういうの」
視線の先。
そこに立つのは、葉狩レナ。
何もしていない。
ただ立っているだけ。
それだけで、これ以上進めば終わると理解させる圧があった。
「まだ殺させない」
レナは天使を見るでもなく、そう言った。
まるで結果が既に決まっているかのように。
「殺す気はないよ」
リクスは肩をすくめる。
「ただ、ちょっと観てただけ」
「観察は終わり?」
「うん。だいたい分かった」
軽い口調。
だが、その視線は一切逸れない。
次の瞬間。
レナの姿が、消えた。
気づいた時には、リクスの眼前にいた。
振るわれる一撃。
それは速度でも威力でもない。
当たれば終わるという結果だけが先に存在している攻撃。
「……っと」
リクスの身体が、横にずれる。
だが完全ではない。
わずかに遅れた。
レナの一撃が頬を掠め、空間ごと抉り取る。
遅れて、背後のビルが無音で崩れた。
「……やっぱり速いね」
リクスは血を指で拭う。
その声音に、初めてわずかな緊張が混じる。
「君、ここでそれやって大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
即答だった。
「だけど、圧縮して当てれば良いだけ」
言葉と同時に、レナの周囲の空間が軋む。
抑え込まれている。
明らかに何かを制限している。
それでもなお、届く。
「……なるほどね」
リクスが小さく笑う。
「フルじゃないのに、それか」
わずかに姿勢を低くする。
今度は、受けではない。
応じる構え。
空間が歪み、上下が崩れ、距離が反転し、意味が壊れる。
戦闘が成立しなくなる領域。
だが――
レナは、その中心に立っていた。
歪みを無視するでもなく、打ち消すでもなく。
ただ、正しい位置にいる。
「……それ、意味無いのにまだ使うんだ」
「使うよ。観るためにね」
次の瞬間、両者が同時に動く。
歪んだ世界の中で、唯一成立する軌道が交差する。
――そのはずだった。
「そこまでだ」
声が落ちる。
世界が、止まった。
完全な静止ではない。
崩れかけた瓦礫はそのまま、振りかけた腕もそのまま、踏み出しかけた足もそのまま。
その状態が正しいものとして固定される。
レナの指先が、わずかに止まり、剣を下ろした。
リクスもまた、動きを止めたまま目だけを動かす。
その中心に、一人のスーツの男が立っていた。
顔は中年にも青年にも見える。
「……トゥ=レイヴ」
リクスが小さく呟く。
「それ以上の戦闘は不要だ」
トゥ=レイヴは淡々と告げる。
周囲の空間は、完全に戦闘前の状態として固定されていた。
壊れかけたビルも、崩れない。
放たれかけた攻撃も、発生しない。
「終わってない」
レナが言う。
眼光は相変わらず鋭く、トゥ=レイヴを突き刺す。
「この地点での交戦は、無駄だ」
わずかな沈黙が走る。
レナの瞳が、トゥ=レイヴを捉える。
その奥で、何かが軋む。
だが。
「もしかして……この星が壊れたら、何か困る?」
小さく息を吐くレナ。
周囲の圧が、わずかに緩む。
「――そうだ」
トゥ=レイヴは頷くこともなく、ただ結論を受け取る。
視線を横へ。
「回収する」
「はいはい」
リクスが軽く笑う。
「じゃあ、今日はここまででいいや」
不満はない。
むしろ納得している様子だった。
トゥ=レイヴの周囲に、歪みとは違う確定した空間が生まれる。
その中に、リクスの存在が固定される。
「またね」
軽く手を振る。
そのまま、二人の姿がそこにいなかったことになる。
痕跡は、残らない。
音が戻る。
瓦礫が落ちる。
風が吹き抜ける。
戦場だけが、取り残された。
レナは一歩だけ前に出る。
視線の先には、天使がいる。
しばしの沈黙。
そして――
「……まだ、足りない。 郊外の山に連れていくから、付き合いなさい」
その時、内側から声がした。
『あの者からは殺気を感じない。 強くなるため、特訓には付き合うべきだ』
起きていた状況を飲み込めないまま、天使は光に包まれる。
周囲には戦闘前の状況が固定されていた。
そして――止まっていた状況は流れ始めた。
A.E.O.I.中央基地、通路。
戦闘から戻ったばかりの空気が、まだ身体に残っている。
消毒液の匂いと、乾いた静寂がそれを無理やり現実に引き戻していた。
足を止めると、視線の先――壁にもたれるように立つ少女がいた。
「……来たのね」
ローゼは、最初から分かっていたかのように口を開いた。
視線だけが、ゆっくりと燈莉へ向けられる。
逃げ場はない。
「ローゼ上官……」
言葉を選ぶ間もなく、喉が重くなる。
それでも、逸らさない。
「お願いがあります」
「でしょうね」
即答だった。
微笑みすら浮かべず、ただ事実として受け取る声音。
「自宅に、戻りたいんです」
一瞬の沈黙。
空気がわずかに張り詰める。
「理由は?」
「……少し、考える時間が欲しくて」
「そう……」
ローゼの目が、わずかに細められる。
ただ、じっと見ている。
値踏みするように。
「あなた、あちら側に傾いてるの?」
静かな声だった。
だが、その一言には刃がある。
「違う」
即答だった。
自分でも驚くほど、迷いはなかった。
「私は……まだ信じたいんです」
「何を?」
問いは短く、逃げ道を与えない。
燈莉は、息を吸う。
あの姿を思い出す。
それでも――
「……天使が味方である可能性を」
ローゼの表情が、ほんのわずかに変わる。
興味か、警戒か。
そのどちらとも取れない変化。
「敵よ」
即答だった。
迷いは一切ない。
「宇宙外生命体は討つべき存在。例外はない」
それがローゼの正しさだった。
揺るがない、絶対の基準。
「でも」
燈莉は、一歩踏み出す。
「それでも、私は自分で見て決めたいんです」
数秒にも満たない沈黙が、やけに長く感じる。
やがて、ローゼは小さく息を吐いた。
「……いいわ」
あまりにもあっさりとした許可。
だが、その目は笑っていない。
「ただし条件付き」
予想通りの言葉だった。
「天使が少しでも妙なことをしたら、その場で排除するわ」
背筋に走る、冷たい声と確かな殺意。
燈莉は、目を閉じなかった。
「……わかりました」
ローゼは一歩離れる。
何事もなかったかのように。
「行ってきなさい」
その言葉に、優しさはない。
ただの許可に過ぎないのだから。
燈莉は小さく頷くと、踵を返した。
背後からの視線が、消えない。
それでも、止まらない。
廊下の先へと進みながら、胸に手を当てる。
微かに、異なる鼓動。
そして、あの姿。
「……お姉ちゃんは、何て言うかな……」
誰にともなく呟く。
その声は、わずかに震えていた。




