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哭き裂く天使  作者: Norn
第四章:共存と排除
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第32話:揺れたままの一歩

 少年の腕と、天使の双剣がぶつかる。

 衝突の瞬間――空間が、わずかにずれた。


 斬撃は確かに届いていた。

 だが、その軌道は途中で歪み、少年の身体をすり抜けて背後のビルを斬り裂く。


 「……あれ?」


 少年――リクス=ヴァイアは、自分の腕を見下ろした。

 傷は、無い。


 「今、当たってたよね?」

 軽い口調。

 まるで、現象を確かめるように。


 天使は応えない。


 複数の目が同時に開き、空間を捉える。

 次の瞬間、踏み込む。

 速度が急激に跳ね上がる。


 「おっと」

 リクスの姿が、半歩分だけ横にずれる。

 本来そこにあるはずの位置から外れたことで、天使の刃は空を切る――はずだった。


 だが。

 斬撃は、止まらなかった。

 空間ごと、ねじ切るように。


 刃はずれた位置にまで到達し、リクスの頬を掠めた。

 遅れて、血が一筋。


 「……あれ?」

 今度は、明確に違う声色だった。

 指先で血をなぞり、リクスはそれを見つめる。


 「今の、ちょっとおかしくない?」

 天使は構えを崩さない。

 次の一歩。

 更に踏み込む。


 『簡単な話だ』

 内側から響く声。

 『格が違えば、能力なんかは関係ない』


 剣が振るわれる。

 リクスは今度は大きく距離を取る。

 空間そのものを遠ざけるように。

 数十メートルの隔たり。


 だが――

 天使は、そこにいた。


 「……は?」


 一瞬の間。

 距離という概念を無視したかのように、眼前へと現れた刃が振り下ろされる。


 少年は受け、衝撃が腕を走る。

 コンクリートが砕け、地面が沈む。


 「へぇ……」

 リクスの口元が、僅かに吊り上がる。


 「いいね、それ」

 押し返す。

 だが天使は後退しない。

 むしろ、さらに踏み込む。


 一撃ごとに空間が歪む連撃。

 意味が反転し、距離が崩れ、軌道が壊れる。

 それでも。


 「当たるんだ」

 リクスの腕には、確かな衝撃が伝わる。

 浅いが、確実なダメージ。


 「普通じゃないね、君」

 天使は応えない。

 ただ、斬るだけだ。

 理屈も、整合性も関係なく。


 そこにいるから、斬る。

 その在り方そのものが、異質だった。


 「いいよ」

 リクスの瞳が、僅かに赤く染まる。


 「もう少し、ちゃんと見てあげる」

 空間が歪む。

 今度は浅いものではない。

 戦場そのものが書き換えられる。


 上下が反転し、距離が圧縮され、意味が崩壊する。

 踏み込めば離れ、離れれば近づく。

 攻撃は防御に、防御は被弾へと変わる。


 ――戦いそのものが、成立しなくなる。


 だが。

 天使は、止まらなかった。

 狂った座標の中で、最短距離を通ってくる。


 剣が振るわれる。

 あり得ない軌道。

 あり得ない到達。


 「本当に言ってる……?」

 リクスは一歩、後ろへ下がった。

 初めての後退だった。


 その一瞬を逃さず、天使はさらに距離を詰める。


 連撃が重なり、衝撃が連鎖する。

 コンクリートが弾け、空気が裂け、空間が悲鳴を上げる。

 押しているのは、天使だった。


 「はは……」

 リクスが、小さく笑う。

 「いいね。すごくいい」


 楽しそうに。

 心から面白がるように。

 「でもさ」


 指先が、僅かに動く。

 次の瞬間、天使の斬撃が無かったことになる。

 振るったはずの軌道が消え、結果だけが消失する。


 「まだ、早いよ」

 その瞬間。

 リクスが一歩踏み込む。

 今度は、逆だ。


 歪められた戦場の中で、リクスの一撃が正しく届く。

 天使の身体がわずかに浮く。

 だが、着地と同時に再び踏み込む。


 「……ほんとに壊れてるね」

 リクスの声に、わずかな熱が混じる。


 「じゃあ――」

 次の段階へ移ろうとした、その瞬間。

 空気が、変わった。

 天使も、リクスも、その違和感に気づく。


 そして――

 衝突の余波で崩れかけていたビル群が、軋みながら静止する。

 砂塵が落ちる途中で止まり、音が一瞬だけ遅れて消えた。


 天使とリクスの間に、ひとつの影が立つ。


 「――そこまで」

 静かな声だった。

 だが、その一言だけで、戦場の位相が揃う。

 天使の剣が止まる。

 リクスの腕もまた、わずかに動きを止めた。


 「……あぁ」

 リクスが小さく息を吐く。


 「やっぱり来るんだね、こういうの」

 視線の先。

 そこに立つのは、葉狩レナ。


 何もしていない。

 ただ立っているだけ。

 それだけで、これ以上進めば終わると理解させる圧があった。


 「まだ殺させない」

 レナは天使を見るでもなく、そう言った。

 まるで結果が既に決まっているかのように。


 「殺す気はないよ」

 リクスは肩をすくめる。


 「ただ、ちょっと観てただけ」

 「観察は終わり?」

 「うん。だいたい分かった」


 軽い口調。

 だが、その視線は一切逸れない。

 次の瞬間。


 レナの姿が、消えた。

 気づいた時には、リクスの眼前にいた。

 振るわれる一撃。


 それは速度でも威力でもない。

 当たれば終わるという結果だけが先に存在している攻撃。


 「……っと」

 リクスの身体が、横にずれる。


 だが完全ではない。

 わずかに遅れた。

 レナの一撃が頬を掠め、空間ごと抉り取る。


 遅れて、背後のビルが無音で崩れた。


 「……やっぱり速いね」

 リクスは血を指で拭う。

 その声音に、初めてわずかな緊張が混じる。


 「君、ここでそれやって大丈夫?」

 「大丈夫じゃない」

 即答だった。


 「だけど、圧縮して当てれば良いだけ」

 言葉と同時に、レナの周囲の空間が軋む。

 抑え込まれている。


 明らかに何かを制限している。

 それでもなお、届く。


 「……なるほどね」

 リクスが小さく笑う。


 「フルじゃないのに、それか」

 わずかに姿勢を低くする。

 今度は、受けではない。

 応じる構え。


 空間が歪み、上下が崩れ、距離が反転し、意味が壊れる。

 戦闘が成立しなくなる領域。


 だが――

 レナは、その中心に立っていた。


 歪みを無視するでもなく、打ち消すでもなく。

 ただ、正しい位置にいる。


 「……それ、意味無いのにまだ使うんだ」

 「使うよ。観るためにね」


 次の瞬間、両者が同時に動く。

 歪んだ世界の中で、唯一成立する軌道が交差する。


 ――そのはずだった。


 「そこまでだ」


 声が落ちる。

 世界が、止まった。


 完全な静止ではない。

 崩れかけた瓦礫はそのまま、振りかけた腕もそのまま、踏み出しかけた足もそのまま。


 その状態が正しいものとして固定される。


 レナの指先が、わずかに止まり、剣を下ろした。

 リクスもまた、動きを止めたまま目だけを動かす。


 その中心に、一人のスーツの男が立っていた。

 顔は中年にも青年にも見える。


 「……トゥ=レイヴ」

 リクスが小さく呟く。

 「それ以上の戦闘は不要だ」


 トゥ=レイヴは淡々と告げる。

 周囲の空間は、完全に戦闘前の状態として固定されていた。


 壊れかけたビルも、崩れない。

 放たれかけた攻撃も、発生しない。


 「終わってない」

 レナが言う。

 眼光は相変わらず鋭く、トゥ=レイヴを突き刺す。


 「この地点での交戦は、無駄だ」

 わずかな沈黙が走る。

 レナの瞳が、トゥ=レイヴを捉える。


 その奥で、何かが軋む。

 だが。


 「もしかして……この星が壊れたら、何か困る?」

 小さく息を吐くレナ。

 周囲の圧が、わずかに緩む。


 「――そうだ」

 トゥ=レイヴは頷くこともなく、ただ結論を受け取る。

 視線を横へ。


 「回収する」

 「はいはい」

 リクスが軽く笑う。


 「じゃあ、今日はここまででいいや」

 不満はない。

 むしろ納得している様子だった。


 トゥ=レイヴの周囲に、歪みとは違う確定した空間が生まれる。

 その中に、リクスの存在が固定される。


 「またね」

 軽く手を振る。

 そのまま、二人の姿がそこにいなかったことになる。

 痕跡は、残らない。


 音が戻る。

 瓦礫が落ちる。

 風が吹き抜ける。


 戦場だけが、取り残された。

 レナは一歩だけ前に出る。


 視線の先には、天使がいる。

 しばしの沈黙。

 そして――


 「……まだ、足りない。 郊外の山に連れていくから、付き合いなさい」


 その時、内側から声がした。


 『あの者からは殺気を感じない。 強くなるため、特訓には付き合うべきだ』

 起きていた状況を飲み込めないまま、天使は光に包まれる。


 周囲には戦闘前の状況が固定されていた。

 そして――止まっていた状況は流れ始めた。




 A.E.O.I.中央基地、通路。

 戦闘から戻ったばかりの空気が、まだ身体に残っている。

 消毒液の匂いと、乾いた静寂がそれを無理やり現実に引き戻していた。


 足を止めると、視線の先――壁にもたれるように立つ少女がいた。


 「……来たのね」

 ローゼは、最初から分かっていたかのように口を開いた。


 視線だけが、ゆっくりと燈莉へ向けられる。

 逃げ場はない。


 「ローゼ上官……」

 言葉を選ぶ間もなく、喉が重くなる。

 それでも、逸らさない。


 「お願いがあります」

 「でしょうね」


 即答だった。

 微笑みすら浮かべず、ただ事実として受け取る声音。


 「自宅に、戻りたいんです」

 一瞬の沈黙。

 空気がわずかに張り詰める。


 「理由は?」

 「……少し、考える時間が欲しくて」


 「そう……」

 ローゼの目が、わずかに細められる。

 ただ、じっと見ている。

 値踏みするように。


 「あなた、あちら側に傾いてるの?」

 静かな声だった。

 だが、その一言には刃がある。


 「違う」

 即答だった。

 自分でも驚くほど、迷いはなかった。


 「私は……まだ信じたいんです」

 「何を?」

 問いは短く、逃げ道を与えない。


 燈莉は、息を吸う。

 あの姿を思い出す。


 それでも――


 「……天使が味方である可能性を」

 ローゼの表情が、ほんのわずかに変わる。

 興味か、警戒か。

 そのどちらとも取れない変化。


 「敵よ」

 即答だった。

 迷いは一切ない。


 「宇宙外生命体は討つべき存在。例外はない」

 それがローゼの正しさだった。

 揺るがない、絶対の基準。


 「でも」

 燈莉は、一歩踏み出す。


 「それでも、私は自分で見て決めたいんです」

 数秒にも満たない沈黙が、やけに長く感じる。

 やがて、ローゼは小さく息を吐いた。


 「……いいわ」

 あまりにもあっさりとした許可。

 だが、その目は笑っていない。


 「ただし条件付き」

 予想通りの言葉だった。


 「天使が少しでも妙なことをしたら、その場で排除するわ」

 背筋に走る、冷たい声と確かな殺意。

 燈莉は、目を閉じなかった。


 「……わかりました」

 ローゼは一歩離れる。

 何事もなかったかのように。


 「行ってきなさい」

 その言葉に、優しさはない。

 ただの許可に過ぎないのだから。


 燈莉は小さく頷くと、踵を返した。

 背後からの視線が、消えない。

 それでも、止まらない。


 廊下の先へと進みながら、胸に手を当てる。


 微かに、異なる鼓動。

 そして、あの姿。


 「……お姉ちゃんは、何て言うかな……」

 誰にともなく呟く。

 その声は、わずかに震えていた。

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