第0話・後編:外宇宙
「いっくよー!! 変身!!」
少年は、オレンジ型のアイテムを玩具のベルトに装填する。
手順は正確だった。
何度も繰り返した動作は、迷いなく完了する。
両手に握った双剣を構えたとき、その目は、異様なほどに輝いていた。
「私も行くよ! 変身!!」
少女は石の嵌め込まれたベルトに触れ、少しだけ遅れて、変身の動作をなぞる。
二人は、そこにいない敵を見る。
少年は剣を振るう。
軌道は乱れているが、どこか整っていた。
少女は拳を突き出す。
力の流れは未熟だが、確かに戦いの形をしていた。
何も起きない。
敵もいない。
変身もしていない。
それでも――
このとき、二人は確かにヒーローだった。
――――――――――――――――――――――
何かが、へばりついている。
内宇宙ではない。
定義できる存在でもない。
ただ、「触れている」という事実だけがある。
ネヴ=ソスは、それを理解した。
外宇宙を最も感じ取る個体。
ゆえに、それが異物であることも理解できる。
ネヴ=ソスは、目を開いた。
「目覚めたね。次期皇帝」
それは、声ではなかった。
意味の塊が、直接流れ込む。
純粋すぎる混沌。
かつて一度、思考の縁に現れた存在。
それが今、完全な形で纏わりついている。
ネヴ=ソスは、わずかに姿勢を落とした。
跪く、という行為に近い。
外宇宙では成立しないはずの動作。
だが今は、それが最も適切だった。
「力を抜きな。殺すつもりはない」
混沌は、愉快そうに揺らぐ。
「お前とは対等に話したい」
「……了解した」
思考が整列する。
「要件は」
「簡単さ。お前が眠っている間に起きたことと――
これから、お前がやるべきことだ」
混沌は形状を変え、ネヴ=ソスを撫で回すように這った。
「お前の妹――その内宇宙に落ちた」
ネヴ=ソスの位相が、わずかに乱れる。
それは外宇宙において、極めて稀な動揺だった。
「……生存は」
問いは短い。
だが、その内部には明確な偏りがあった。
「断定はできない」
混沌は、即答した。
「だが、完全に消滅したとも言えない。
あの個体は――優秀だからね」
言葉の終端が歪む。
評価なのか、嘲りなのか、区別はつかない。
「現在、我々は一つの内宇宙と交戦状態にある」
空間が、わずかに軋む。
それは戦闘の余波ではない。
戦闘という事実そのものが、外宇宙の均衡に干渉している。
「対象は、人間」
それにネヴ=ソスは反応しなかった。
だが内部で、何かが引っかかる。
「お前も観測しただろう? あの種族は面白い」
混沌が、笑う。
「内宇宙に属しながら、外宇宙に干渉しようとする。
そんな星だけど、救出計画がある」
混沌は続ける。
「だが、問題がある」
「……破壊できない、か」
ネヴ=ソスは言った。
「その通り」
即答。
「地球ごと消せば、妹も消える。
だが、あの星は既に単なる惑星ではない」
わずかな間。
「人間が、変質させている」
理解はできない。
だが否定もできない。
「何体か送り込んだが、戻ってきていない」
その言葉に、温度はなかった。
「その中には――お前の残滓も含まれている」
ネヴ=ソスの思考が、一瞬停止する。
「……残滓」
「そう。 お前が皇帝として最適ではなかった場合に備え、生成されるはずだった可能性」
混沌が、わずかに形を歪める。
「選ばれなかった未来、とでも言うべきかな」
それはすでに、地球に到達している。
「そしてその残滓は――別の存在と融合した」
ネヴ=ソスは理解しない。
だが、融合という概念だけが、内部で反響する。
「地球は未知数だ」
混沌は、初めてわずかに真面目な揺らぎを見せた。
「だからこそ、お前が必要になる。
一族は、お前を送り込むつもりだ」
ネヴ=ソスは、動かない。
「拒否は?」
「可能だよ」
混沌は即答した。
「だが、その場合――別の存在が動く」
その瞬間。
外宇宙の深層が、わずかに歪む。
それは圧力ですらない。
存在の前提が変質しかける感覚。
「……観測されている」
ネヴ=ソスが呟く。
「そうだね」
混沌は楽しげに応じた。
「あれは門であり、全てだ」
それ以上の説明は不要だった。
干渉が始まれば、外宇宙そのものが書き換わる。
「あれと私が戦えば、何が起きるかは明白。
だから反対できない」
混沌は言う。
「これは選択じゃない。 既に決定している流れだ」
短い沈黙。
「……一つ、確認する」
ネヴ=ソスの思考が、わずかに鋭くなる。
「お前は、何だ」
混沌は笑った。
その瞬間、意味が崩壊する。
「今さらかい? 私は――」
それは名乗りではなかった。
概念そのものが流れ込む。
「ナイアルラトホテップ」
理解した瞬間、理解したという事実が歪む。
「さて」
混沌は、離れる。
「行け、とは言わない」
前と同じ言葉。
「だが、お前はもう見ている」
ネヴ=ソスは、動く。
外宇宙の流れに逆らい、一つの内宇宙へと位相を合わせる。
境界を越え、円環構造が織り成す塔の一つを目掛けて一直線に。
目標座標の内宇宙の、いくつか隣の多元宇宙に侵入する。
その過程で――
迎撃が始まった。
光、衝撃、因果の逆流。
無数の宇宙で、人間が待ち構えている。
ネヴ=ソスの外殻が削られる。
それでも、進む。
そのとき。
剣の軌道が、脳裏を過る。
理由はない。
だが――
それが最も効率的だった。
剣を生成し、振るう。
ただ切断し、突破する。
その動作は、外宇宙の戦闘様式とは明らかに異なっていた。
「……なぜだ」
理解はできない。
だが、身体は知っている。
やがて彼はいくつもの多元宇宙を越え、一つの内宇宙へと入り込む。
そして銀河団の一つ、惑星群の一つ、その内の一つの惑星へと彼は落ちた。
青い星。
大気。
重力。
すべてが、過剰だった。
その直後、地表が近づく。
衝突はまもなく起こった。
ネヴ=ソスの熱により、周囲は一瞬にして焼き尽くされた。
惑星の大気が、ネヴ=ソスの熱を一気に奪う。
ネヴ=ソスの外殻は崩れ、存在の消失が近づく。
内宇宙の惑星は、外宇宙の存在にとって害を及ぼすものだった。
ネヴ=ソスは残された力で、蟲のように地を這い回る。
そこに、一人の少女がいた。
体の半身が焼失し、既に生命活動は停止していた。
やがてはネヴ=ソスも同じ運命を辿るはずだ。
この環境では、維持できない。
終わりは既に、確定したようなものだ。
その瞬間、何かが、強く引き寄せられた。
少女の存在に。
理由はないが、確かに知っている。
「――」
言葉にならない、懐かしい、失いたくない。
それだけが、残る。
ネヴ=ソスは、選択した。
生存のためではなく、理解できない衝動に従って。
位相を重ね、境界が崩れる。
二つの存在が、混ざる。
侵食か、
共存か。
その定義は、成立しない。
ただ一つになる。
鼓動が、鳴る。
それは本来、不要なはずのもの。
だが。
切り離せなかった。
――私は、私という境界を持たない。
私は流れであり、構造であり、是正の方向だ。
だが、この身体は違う。
この心臓の鼓動は、必要ない。
この恐怖は、不要だ。
——それでも、切り離せない。
この少女が死ねば、私も終わる。
それは任務上の問題ではない。
理由を、私は理解している。
理解してしまったこと自体が、致命的だ。
――――――――――――――――――――――
何かが起こった気がする。
夢を見ていたような、そんな感覚だけが残っている。
痛みも、恐怖も、確かにあったはずなのに、
思い出そうとすると、指の隙間から零れていくみたいに、うまく掴めない。
……でも、一つだけ。
あのとき、何かを「選ばなかった」ことだけは、覚えている。
何を選べたのかも、どうすればよかったのかも、わからない。
ただ――
後悔だけが、形もないまま残っている。
目を覚ましたとき、私は、普通に生きていた。
病院でもなくて、自分の部屋でもなくて、焼け焦げた瓦礫の中で。
何もなかったみたいに、朝が来ていた。
助かったんだ、と思った。
理由はわからないけど、もう全部終わったんだって、そう思った。
……でも。
胸の奥に、何かがいる。
心臓とは違う、でも確かに脈打っている「何か」。
それは、痛みじゃない。
苦しさでもない。
ただ、そこにある。
消えてくれない。
あのとき、終わったはずなのに。
私は、まだ生きている。
それが、少しだけ――嫌だった。
……でも、もういいや。
どうせ、何も変わらない。
……帰ろうか。
歩くだけで、足が重い。
夕方の帰り道は、誰もいない。
私もいないほうが、たぶん正解なんだろうなって、そんなことをぼんやり考えていた。




