5.
森の動物たちに頼まれて、雪を溶かして春を呼ぼうと決心したお姫様ですが、いざ取りかかろうとすると、さあどうすれば良いのかしら、と困ってしまいます。
砂漠の国で魔物や盗賊や、気に入らない色んなものを燃やした時は、目の前のものにいなくなれと思うだけで十分でした。ゆうべウサギを乾かしてあげた時も、すぐそこにいるウサギを助けたいと思ったらそうなっていたのです。
でも、春を呼ぶためには何をすれば良いのでしょうか。お姫様が首を傾げていると、動物たちが口々に教えてくれます。
「雪が溶けないのは地面が凍ってしまっているからだ。種が根を張ることができるように、芽が顔を出せるように、土を温めてくれないか」
「水が冷たすぎるのも良くないんだ。魚が泳ぎ出さないと捕まえることもできやしない」
「でも熱くなりすぎると種も魚も死んでしまうわ。ちょうど良く、でお願いね」
お姫様が今までにしてきたのは燃やすことだけ、ちょうど良く温めるなんて考えたこともありませんでした。ゆうべのウサギはあくまでもたまたま、だったのです。
「分かったわ」
でも、動物たちの目があまりにもきらきらと輝いて春を待ち望んでいるのが分かったので、お姫様はやっぱりできないなんて言えません。それに、春が来ないままではみんな困ってしまいますから。助けてあげたいという気持ちは変わっていなかったのです。
お姫様は両手を胸の前で組み合わせると、風や水や大地、周りの全てのものに対して、どうか氷の鎧を解いて、温かく優しいところを見せて、と祈りました。燃やしてしまえ、と思った時は頭ごなしに命令するような調子だったのですが、これは心からのお願いでした。そして、魔法使いが言っていた通り、他の者を傷つけようとする力は決して通さなかった水晶玉も、お姫様がどうかお願い、と手を差し伸べるように風や水や大地に呼びかけた力をさまたげることはなかったのです。今まで何度も熱と炎で壊そうとしてもできなかったのが嘘のように、他の者を助けるための力と想いはあっさりと水晶玉をすり抜けて辺り一面へ広がっていきました。
その力とは、お姫様の綺麗な朱金の鱗でした。溶かした熱い金を薄く広げたような鱗の一枚一枚が、お姫様の尻尾から剥がれて水晶玉をすり抜けて舞っていきます。誰も見たことがない花の花びらが風に乗って飛んでいるかのように。
ある一枚は、川の水面の凍ったところへと舞い降りました。硬い宝石のように輝いていた鱗ですが、氷に触れるとそちらの方が氷だったかのように跡形もなく消えてしまいます。そして鱗が消えたところはちょうどその形に氷が溶けているのでした。
ある一枚は、ひらひらと高く舞い上がって重い雪でしなだれた木の枝に留まりました。これも雪に触れるとすっとふわりと溶けて、やっぱり同じくらいの量の雪を溶かします。
空高く飛んでどんよりとした雲に触れたもの。地面を覆う白い雪に降り注ぐもの。お姫様の朱金の鱗がたくさんたくさん舞い散って、綺麗な花びらが空から降ってきたかのよう。でも、そのどれもが何かに触れると消えてしまって、赤い色の淡雪が降っているようでもあります。そして朱金の鱗が消える時に、雪や氷や寒さも少しずつ消えていくのでした。
そうしてお姫様の鱗が減っていくにつれて、辺りはだんだん暖かくなっていきました。雪は水になって川に注ぎ、地面も真っ白から秋に枯れたまま凍っていた草の茶色がのぞくようになりました。一番暖かい、お姫様の水晶玉のすぐ下では、もう小さな若葉が顔を見せ始めています。お姫様の周りから、季節は冬から春へと移ろっているのでした。
動物たちが歓声を上げて春の柔らかい風や優しい香りを味わう横で、お姫様の尻尾からはどんどん赤い色が減っていっています。それに水晶玉も、溶けていく氷のようにどんどん薄くもろく、今にも壊れそうになっています。必死に祈り続けるお姫様も、春に喜ぶ動物たちも、誰も気づいていなかったのですが。
お姫様の鱗の最後の一枚が剥がれて飛んで消えた時、お姫様は何かが割れるような音を聞いた気がしました。それから、お姫様の髪と頬を冷たい風が撫でました。水晶玉の中には風なんて吹かないのに不思議なことです。でも、とてもたくさんの力を使ってとても疲れてしまったお姫様は、深く考えることもしないで眠りについてしまいました。
べしゃ、べしゃとぬかるみを踏む足音でお姫様は目を覚ましました。いったい何の動物かしら、あんなに大きな足音を立てるなんて間抜けだわ、なんてぼんやりした頭で考えながら。
そしてぱっちりと目を開けて、身体を起こして足音の主を確かめようとして――
「あ」
「あ」
人間の男の子と目が合って、お姫様は凍り付いたように固まってしまいました。
男の子と目の高さが近いので、お姫様は水晶玉がなくなって元の大きさに戻っているのに気が付きました。雨や雪にさらされて、埃が積もっては流れてできていた水晶玉の汚れもなくなったから、男の子の目をまん丸にした顔がはっきりと見えます。
どうしよう、怖いわ。お姫様が最初に考えたのはそんなことでした。北の国で小さな子供たちにまで転がされてつつきまわされたことを思い出したのです。何が起きても壊れなかった水晶玉がなくなってしまって、守ってくれるものがもうないのも心配でした。お姫様なら、何に襲われたとしても一瞬で燃やしてしまえるはずなのですが、ずっと閉じ込められていたからそんなことも忘れてしまっていたのですね。
お姫様と向かい合った男の子も、びっくりして口を聞けないでいます。ほとんど素っ裸の綺麗な女の子が突然森の中にいたのだから無理もないことなのですが。金と宝石だけで飾り立てたお姫様の姿は、太陽の輝く砂漠のお城や小さな水晶玉の中ならばそんなにおかしなこともないのですが、雪が溶けたばかりの森の中だととても目立ってしまうのでした。
君は誰なの。どこから来たの。
男の子も尋ねようとしますが、口をぱくぱくさせるばかりで言葉がうまく出ません。と、その時――
「くしゅん」
お姫様が小さくくしゃみをしたので、男の子ははっと気がつきました。この子に何があったかは分からないけど、とにかくまずは着るものが必要だ、と。
「ちょっと待ってて! すぐ戻るから!」
そう叫ぶなり、男の子はくるりと振り向くと来た道を駆け戻っていきました。どういう訳か一夜にして雪が消えたので首を傾げながら、でももう薪の残りを気にしながら火を熾して雪を解かさなくても良いと知って、弾む足取りでやってきた行きよりもずっと早く。両手に抱えていた重い木桶も放り出して。
残されたお姫様は、どうしてくしゃみなんかしたのかしら、とやっぱり首を傾げています。炎をまとうお姫様には風邪の虫なんかも近づけませんから、今までくしゃみをしたこともなかったのです。水晶玉が消えてしまったからかしら、何かおかしなことがあったかしらと辺りを見回したお姫様は、信じられないものを見つけました。
「え、なんで? どういうこと?」
お姫様の見事な尻尾、溶けた金が流れるような綺麗な朱金の鱗はみんななくなってしまっていました。そして鱗が剥がれたあとに、綺麗な人間の二本足があったのです。白く細くすらりとして、つま先には珊瑚の色の爪がちょこんとついています。お姫様のお顔や腕や腰と同じようにとても整ってすらりとしているのは良いのですが、でも、いったいどういうことなのでしょう。
お姫様がびっくりしているうちに、男の子がお母さんや村のおばさんたちを連れて戻ってきました。森の中に見知らぬ女の子がいるなんて信じられなかったのですが、とにかく男の慌てようが普通ではなかったのでみんな来てくれたのでした。
「あらまあ、本当に女の子が」
「こんな綺麗なお嬢さん、いったい何があったの?」
おばさんたちの勢いに驚いたお姫様が何も言えないでいるうちに、おばさんたちは次々と持ってきた服を着せていきました。ごわごわとした麺の下着に、毛布から仕立てたスカート。太い毛糸で編んだ重い上着。どれもお姫様には馴染みのないものでしたが、女の人たちが家族のことを思って一生懸命作った、何だか安心する匂いがします。それが暖かい、ということだと、お姫様はまだ知らないのですが。
「きっと大変なことがあったんでしょう! もう安心して良いからね!」
しっかりと上着の前を留めながら語り掛けてくれるおばさんたちに、お姫様は何て答えたら良いか分かりませんでした。
砂漠の国からやってきた竜のお姫様です、なんて言っても信じてもらえるものでしょうか。綺麗な朱金の尻尾はもうなくて、見た目はただの人間の女の子になってしまったのに。それに、どうしてここまで来たの、なんて聞かれたら困ってしまいます。怒ってばかりいたから水晶玉に閉じ込められてしまったなんてとても恥ずかしいことですから。いえ、それよりも、何でも、誰でも燃やしてしまっていたことを怖がられて追い払われたらどうしましょう。
「すぐに何でも話さなくても良いから。少しずつでも大丈夫」
でも、あの男の子がそっと手に触れてささやいてくれたので、お姫様も少し安心できました。不安なことがあること、それを慰めてもらえること、どちらもお姫様にとっては初めてのことです。慣れないけれど、くすぐったいけれど――でも、とても気持ちの良いことです。
「ええ。ありがとう」
お姫様が微笑むと、男の子は真っ赤になってうつむいてしまいました。どうしてかしら、と不思議に思いながら、お姫様はおばさんたちに手を引かれて村への道を歩き出します。
べしゃ、と。これも履かせてもらった木靴がぬかるんだ雪を踏んで音を立てます。初めて触れた雪は、ふわふわと降る粉雪や美しくも静かに降り積もった光景から想像していたのとは違って、何だか気持ち悪い感触です。でも、お姫様はあんまり気にしませんでした。足元の雪の感触よりも、二歩足で歩くのに慣れていないお姫様の手を引いてくれる男の子の手の温かさが気持ちよくて、そちらのほうに気持ちがいってしまっているのでした。
それに、お姫様にも分かっています。雪は今だけしかないものではないのです。来年も、その次の冬も、いくらでも色んな雪を見て触って味わうことができるのでしょう。きっと、手を握ってくれる男の子や、服をくれた村のおばさんたち、森の動物たちと一緒に。
それでも、初めて自分の足で雪の上を歩いた今の一瞬、この感覚はとても大事なもの。だから、しっかりと覚えておかなくちゃ。
お姫様は――いいえ、竜のお姫様だった人間の女の子は、とてもわくわくした気持ちで春の晴れた空を見上げるのでした。