32-1 記録では追いつかない日
その日は、朝から鐘の音が多すぎた。
本邸の執務室に最初の報告が届いたのは、朝食の前だった。港近くの施療院で、出産を終えた女性が発熱したという。薬師は呼ばれているが、清潔な布の残数が心許ない。続いて、孤児院からは台所番が倒れ、産後の母親に出す粥の支度が遅れているとの知らせが入った。
三通目は、修道院からだった。炊き出し用の薪が雨で湿り、朝の煮炊きが遅れている。産後の女に温かい湯を渡す予定だったが、湯そのものが足りない。四通目では、王都外れの小さな孤児院から、夜番の女中が眠れぬまま朝を迎え、赤子の泣き声に気づくのが遅れたと報告があった。
どれも一つ一つは、致命的な事故ではない。記録に残し、原因を探し、次の手順を直せばよい出来事だった。けれど、同じ朝にまとめて届くと、紙の上の文字は急に重くなる。
「港の施療院には布を。孤児院には台所番の代替を。修道院には乾いた薪を。西区の施療院には、昨日の疲労対策の確認を……」
セシリアは机の上に報告書を並べた。施設名、問題、必要な物、人手、緊急度。いつものように項目を分けようとしたが、次々に届く知らせがその線を押し流していく。どこも困っている。どこも助けが必要だ。けれど、手元にある布も人も馬車も、無限ではなかった。
五通目の報告を受け取ったとき、セシリアは思わず羽ペンを取り落とした。インクが紙の端に黒い染みを作る。普段ならすぐ拭き取るのに、その日は手が動かなかった。
「記録すれば、次に直せる。そう思っていました」
セシリアの声は、自分でも驚くほど小さかった。記録は大切だ。隠さないことも、責めないことも、次の手順を見つけることも、すべて間違っていない。けれど今、目の前にあるのは次ではなく、今日だった。今日熱を出している母親。今日粥を待つ人。今日眠れていない女中。今日乾いていない布。
「次に直す前に、今日をどうするか決めなければならないのですね」
エリアスはすぐに人を呼び、使える馬車と人員を確認させた。だが、王都のあちこちへ同時に向かわせるには足りない。どの施設を先に助けるべきか。何を後回しにしてよいのか。セシリアは報告書を見下ろし、初めて、優しさだけでは順番を決められないのだと思い知らされた。
「リディア様に、すぐ相談します」
それは逃げではない。そう言い聞かせなければ、胸が潰れそうだった。自分で判断できるようになりたい。けれど、自分一人で抱え込んで判断を誤れば、誰かの生命に関わる。助けを求めることも、今の自分の務めなのだ。
セシリアは緊急用の薄い便箋を取り出し、いつもの丁寧な前置きを省いた。
『リディア様。複数の施設から同時に報告が届いています。港近くの施療院では産後の発熱と布不足。孤児院では台所番が倒れ、粥の支度が遅れています。修道院では薪が湿り、湯が足りません。別の孤児院では夜番の疲労で赤子への対応が遅れました。さらに五通目の報告も届き、整理が追いつきません』
『記録すれば次に直せると思っていました。けれど、今は次ではなく今日の問題が重なっています。布も人も馬車も足りません。どこを先に助けるべきか、何を後回しにしてよいのか、判断がつきません』
『私は、すべてを救いたいと思ってしまいます。けれど、すべてを同時に救うことはできません。優先順位を決めるための考え方を教えてください。緊急の手順が必要です』
書き終えたセシリアは、封をする手を一度止めた。泣き言に見えるだろうか。未熟だと思われるだろうか。そんな迷いがよぎったが、彼女はすぐに首を振った。
助けを求めるのが恥なら、白い花の箱など最初から置くべきではない。足りないと言える場所を作ってきたのに、自分だけが足りないと言えないのでは意味がなかった。




