17.冬の夜会
王宮主催の冬の夜会は、貴族社会において一年の締めくくりに最も近い社交の場だった。
王都の有力貴族はもちろん、地方領主やその家族までもが招かれる。誰が誰と踊り、誰が誰に挨拶し、誰がどの席に案内されたか。それだけで翌年の勢力図が語られるような、きらびやかで息苦しい場所である。
その招待状がグランヴィル侯爵家本邸へ届いた日、エリアスは封を切る前から眉を寄せていた。
「王宮からであれば、断る理由はほとんどない」
セシリアは読んでいた帳簿から顔を上げた。彼女の前には、同じ日に届いたエルフォード伯爵家とラングフォード子爵家への招待写しも置かれている。ヴァレリー伯爵が望んだ通り、三家は同じ夜、同じ場所へ呼び出されることになった。
「リディア様は……」
「欠席だ。長距離移動は体調に障る、という理由で押し通す。問題は、王宮の夜会ではその理由だけで済まないことだ」
王宮は、侯爵家の体面を重んじる。新婚の侯爵夫人が一度も姿を見せないとなれば、興味を持つ者は必ず出る。しかも今回は、エルフォード伯爵家とラングフォード子爵家も同席する。誰か一人の返答が揺れれば、そこから噂は広がるだろう。
その日の夕方、三家の間で急ぎの書簡が交わされた。王宮夜会における立ち位置、挨拶の順番、誰が誰のそばに立つか、問われたときにどの程度答えるか。華やかな夜会に向かう準備というより、まるで小さな戦の布陣を決めるようだった。
リディアからの返書が届いたのは、夜会の三日前である。封を切ったセシリアは、最初の一文を読んで思わず息を漏らした。
『夜会は戦場ではありません。戦場に見せたい人がいるだけです。ですから、武器を持つ必要はありません。皆で同じ方向を向いて、同じ温度で微笑んでください』
続く頁には、リディアらしい細かな指示が並んでいた。エリアスはセシリアを一人にしないこと。エルフォード伯爵家はリディアの幼少期について聞かれても、病弱ではなく静養を好む気質として語ること。ラングフォード子爵夫妻は、セシリアを卑下するのではなく、任された務めを果たす者として扱うこと。
『大切なのは、誰かが隠れているように見せないことです。私は領地で務めを果たす。セシリア様は王都で務めを果たす。家族はそれを当然のこととして語る。それだけで十分です』
夜会当日、王宮の大広間は無数の燭台に照らされていた。磨かれた床には貴族たちの衣装の色が映り、楽師の奏でる旋律が高い天井へ吸い込まれていく。セシリアはエリアスの半歩後ろに立ち、胸元に忍ばせた白い花の刺繍布を意識しながら、ゆっくりと息を整えた。
最初に近づいてきたのは、王宮儀礼官だった。彼は侯爵夫人の欠席を確認し、形式的な見舞いの言葉を述べる。エリアスは穏やかに礼を返した。
「妻は領地で冬支度と慈善品の制作を続けております。王宮へご挨拶できぬことを残念に思っておりますが、無理をさせぬことも夫の務めと考えております」
その言葉に、周囲の空気がわずかに和らいだ。病弱な妻を隠しているのではなく、守っている。さらに領地での務めもある。リディアが用意した筋書きは、王宮の礼儀の中でも不自然ではなかった。
やがて、ヴァレリー伯爵が姿を現した。彼は穏やかな笑みを浮かべ、エリアスへ祝いの言葉を述べたあと、何気ない調子でアルバートへ話を向ける。
「妹君は、王宮の夜会にもお出ましになれぬほどお弱いのですかな」
「弱いというより、無理をなさらぬお方です。今は侯爵領で、ご自分にできる務めを見つけておられます。兄としては、王都で倒れられるより、領地で元気に針仕事をしている方が安心です」
そばで聞いていたラングフォード子爵夫人が、自然に微笑んだ。
「そのおかげで、娘も王都で学ぶ機会をいただいております。奥様は、ご自分の務めだけでなく、周囲に役目を分けることがお上手なのです」
セシリアはその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。自分は隠された存在ではない。役目を分けられ、任され、支えられてここに立っている。リディアの手紙と、両親の言葉と、エリアスの隣にある場所が、彼女の背筋をまっすぐにしてくれた。
「侯爵夫人は、良い采配をなさる方なのですね」
ヴァレリー伯爵は笑った。だが、その笑みの奥には、苛立ちがある。誰に問いを投げても、返ってくる答えは同じ方向を向いている。病弱だから隠れているのではない。領地で務めを果たしている。代理は偽物ではない。任された者である。
やがて舞曲が始まり、エリアスはセシリアに手を差し出した。一瞬、周囲の視線が集まる。侯爵家の嫡男が、正妻ではない令嬢と踊る。その意味を探ろうとする目が、いくつも向けられた。
だが、エリアスは少しも怯まなかった。
「妻の代理として務めてくれている貴女に、今日の礼を」
それは恋人への甘い誘いではなく、公の場での感謝として響いた。セシリアは差し出された手を取り、静かに一礼する。曲が始まると、二人は広間の中央へ進んだ。
踊りながら、セシリアは小さく言った。
「怖いです。でも、逃げたいとは思いません」
「それなら十分だ。君はもう、ただ守られるだけの人ではない」
曲が終わる頃には、集まっていた視線の色が少し変わっていた。好奇心だけではない。侯爵家の若き当主候補が代理に礼を尽くし、代理は節度を持ってそれを受ける。その姿は、醜聞よりも秩序に近かった。
ヴァレリー伯爵はそれを見て、扇を持つ妻へわずかに目配せした。正面から崩せないなら、もっと別の揺さぶりが必要だ。彼の視線は、今度は王宮の奥に立つ一人の文官へ向けられる。
その文官は、貴族家の婚姻記録や相続書類を扱う部署に出入りする男だった。
夜会が終わり、馬車へ戻ったセシリアは、深く息を吐いた。大きな綻びはなかった。三家は同じ方向を向き、リディアは不在のまま、確かにその場を支えていた。
「リディア様に、報告を書きます。今日は、少しだけ胸を張れたと」
「きっと喜ぶ。いや、まず休めと書いてくるかもしれないな」
セシリアは疲れた顔で、それでも笑った。
同じ夜、ヴァレリー伯爵の屋敷では、別の書類が机に広げられていた。婚姻記録、式の証人名、花嫁の体調による退席届、領地静養の届け出。そのどれもが整いすぎているほど整っている。
「書類に隙がないなら、次は書類そのものを疑わせればよい」
伯爵は薄く笑い、王宮文官へ送るための短い書状に封をした。




