1.望まぬ縁談
伯爵家の東の離れには、午後になると柔らかな陽が差し込む。
窓際に置かれた長椅子の上で、リディア・エルフォードは膝に広げた本から顔を上げた。庭では白い小花が風に揺れ、侍女のメイが干したばかりのレースを取り込んでいる。屋敷の本館からは少し離れているため、ここまで届く音は鳥の声と、時折風に鳴る木々の葉擦れくらいだった。
静かで、退屈で、そして安全な場所。
リディアはこの場所が好きだった。社交界の噂も、令嬢たちの見栄の張り合いも、舞踏会での品定めの視線も、ここまでは簡単に入り込んでこない。病弱であるという建前は、十四歳の頃から続いている。はじめは家族を心配させたが、今では伯爵家の者たちも心得たもので、リディアが人前に出たがらない理由を深く追及しなくなっていた。
本当に病弱なわけではない。むしろ、毎朝庭を歩き、昼には刺繍をし、夜には分厚い歴史書を読みふける程度には健康だった。
ただ、リディアには人に言えない記憶がある。
日本という国で暮らしていた記憶。電気の灯り、消毒液の匂い、白い天井、規則正しく鳴る機械音。そして、意識が遠のく直前に聞こえた誰かの慌ただしい声。
赤ん坊の泣き声を聞いたのかどうか、リディアにはもう分からない。ただ、自分が出産の最中に生命を落としたのだという確信だけが、冷たい棘のように胸の奥に残っていた。
この世界では、出産はもっと危うい。医療は前世ほど整っていない。清潔という概念も家によって差があり、産後に熱を出して亡くなる女性の話も珍しくなかった。貴族であれば多少はましだとしても、生命の危険が消えるわけではない。
だからリディアは、結婚などしたくなかった。
恋に憧れたこともない。誰かに胸を焦がすより、暖炉の前で毛糸を選んでいる方がよほど心が落ち着く。甘い言葉を囁かれるより、好きな茶葉を好きな濃さで淹れられる自由の方が大切だった。
そんなリディアの平穏は、その日の午後、銀盆に載せられた一通の封書によって破られた。
「お嬢様。旦那様がお呼びです」
メイの声はいつもより少し硬かった。リディアは本に栞を挟み、彼女の手元へ視線を落とす。封蝋には、翼を広げた鷹の紋章。国内でも指折りの名門、グランヴィル侯爵家のものだった。
「……縁談ね」
問いではなく、確認だった。
メイは困ったように目を伏せる。否定しないということは、そういうことだ。
父の書斎へ向かう廊下は、普段より長く感じられた。磨き込まれた床に映る自分の姿は、伯爵令嬢としては申し分ないのだろう。淡い金の髪、青灰色の瞳、血色の薄い頬。病弱という噂にも都合がいい容姿だった。
書斎には父と母、そして兄がいた。三人とも深刻な顔をしている。机の上には開封された書状が置かれ、父はそれを見下ろしたまま重いため息をついた。
「リディア。グランヴィル侯爵家から、おまえとの婚姻を望む申し入れがあった」
「お相手は?」
「嫡男のエリアス様だ。近く侯爵位を継がれる見込みだと聞いている」
兄が苦々しく口を挟んだ。
「断れない相手だ。だが、おまえが嫌だと言うなら、父上も私もできる限りのことはする」
母はリディアの手を取った。指先が冷えているのは、母の方だった。
「あなたを無理に嫁がせたいわけではないの。けれど、侯爵家からの正式な申し入れを理由もなく拒めば、伯爵家にもあなたにも傷がつくわ」
「分かっています」
リディアは静かに答えた。胸の内で恐怖が暴れることはない。なぜなら、彼女はもう何度も考えていたからだ。いつかこういう日が来る。伯爵令嬢として生まれた以上、婚姻の話から完全に逃げ切ることは難しい。
問題は、結婚そのものではない。
妻となり、夫婦となり、跡継ぎを求められること。それだけは、どうしても受け入れられなかった。
「お父様。その縁談、少し調べる時間をいただけますか」
「調べる?」
「はい。エリアス様がどのような方なのか。侯爵家がなぜ今、この婚姻を望むのか。条件を知らなければ、判断できません」
父は目を細めた。娘が泣き崩れることを覚悟していたのだろう。だが、リディアは泣かなかった。泣いても状況は変わらない。変わらないなら、使える情報を集め、最も安全な道を選ぶしかない。
「三日だけ待とう」
「十分です」
その夜、リディアは机の上に白紙を広げた。侯爵家。嫡男。近い当主交代。伯爵家への縁談。条件。利益。危険。
羽ペンの先が、紙の上で小さく音を立てる。
翌日には、兄が密かに集めた情報が届いた。エリアス・グランヴィルは評判のよい青年で、放蕩の噂はない。領地経営にも熱心で、使用人への態度も悪くないという。そして、もう一つ。
「恋人がいらっしゃるのね」
リディアは渡された報告書を読みながら呟いた。相手はセシリア・ラングフォード子爵令嬢。家格の差を理由に侯爵が結婚を認めず、エリアスにはよりふさわしい家の令嬢を正妻に迎えさせるつもりらしい。
「なるほど」
点と点が、静かにつながっていく。
侯爵家が欲しいのは、家格の釣り合う正妻。エリアスが欲しいのは、愛する女性と生きる未来。伯爵家が避けたいのは、侯爵家との不和。そしてリディアが欲しいのは、妊娠と出産から遠ざかった静かな生活。
ならば、答えは一つではないか。
リディアは新しい紙を取り出し、上部に大きくこう記した。
【 契約婚姻に関する提案書 】
その文字を眺めて、リディアは小さく息を吐いた。
「結婚が避けられないなら、せめて誰も泣かない形にしましょう」




