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普通に、自然に#2

 その日は、俺の声優としての出番がなかった。

 事務所の用事を終えてスタジオへ寄った。今日は収録を少し見学させていただけないか、頼むつもりだった。

 普段なら、出演者が座る側にいる。

 ブースの中のマイクの前。

 ガラスの向こうに監督や音響スタッフがいて、何か話しているのは見える。

 でも、何を話しているのかまでは聞こえない。

 今日は逆だった。

 俺はガラスのこっち側にいる。

 監督の後ろ、スタッフ席の端。

 正直、迷惑だろうなとは思っていた。

 それでも、一度ここから見てみたかった。

 少し前、ミールファームで成瀬にそんな話をしたことがある。


「見学したいんだけど、迷惑だよな」

「迷惑でしょうね」

「即答だな」

「でも、頼み方じゃないですか」

「どう頼むんだよ」

「こういう時は、小さい賄賂が必要です」

「賄賂?」

「飲み物とか」

「それ賄賂って言わねえだろ」

「気持ちです。監督が何飲むかくらい調べておいた方がいいですよ」

「お前、そういうのどこで覚えるの」

「生きてたら覚えます」


 十九かそこらの学生に言われるのも癪だったが、やってみた。

 監督には無糖の缶コーヒー。

 音響のエンジニアにはカフェラテ。

 ディレクターには炭酸水。

 受付の人にもペットボトルのお茶。

 事前に聞ける範囲で聞いた。


「すみません。今日、邪魔にならないところで見学をさせていただけませんか」


 飲み物を渡しながら頭を下げる。

 監督が缶コーヒーを見た。

 それから俺を見る。


「モデルくん、気が利くなあ~」

「その呼び方やめてくださいよ」

「モデルの仕事でこんなの教えてくれるのか?」

「違うところの後輩に教わりました」

「声優の?」

「飲食店の」

「何やってんだお前」


 笑われた。

 結局、


「邪魔しないなら」


 という条件で座らせてもらえた。


     *


 最初の十分で、少し後悔した。

 聞かない方がよかったかもしれない。


「今の、全然駄目だな」

「ですね」

「声だけ格好いいんだよ。誰に喋ってるんだよ、これ」

「本人はかなり作ってきてると思いますけど」

「だから作りすぎなんだよ」


 ブースの中では若い声優が台本を見ている。

 こちらの声は聞こえていない。

 監督がボタンを押す。


「もう一回いこうか。今度はもう少し力抜いて」

『はい!』


 明るい返事。

 ボタンが切られる。


「力抜いてって言ったら、今度は抜きすぎるんだろうな」

「たぶん」

「難しいですね」

「難しいんじゃなくて、まだ分かってないんだよ」


 俺は黙った。

 次の人。


「滑舌はいいんだけどな」

「全部同じですよね」

「怒っても泣いても告白しても、声が同じ」

「器用なんですけどね」

「器用な奴ほど面倒なんだよ。できてると思ってるから」


 次。


「この子はまだいいよ」

「そうですか?」

「下手だけど、言ったら変わるから」

「ああ」

「下手なのは教えられる。聞かない奴の方が困る」


 かなり毒々しい。

 俺が普段言われている、

 もっと普通に、もっと自然に。

 なんて、ずいぶん優しい言葉だったのかもしれない。

 俺についても、こういう会話をしているんだろう。

 いや。

 間違いなくしている。

 清水は格好つけすぎ。

 自分の声好きすぎ。

 モデルやってるから見せ方ばっか覚えてる。

 そんなことを言われていても、おかしくない。

 胸が少し痛んだ。

 でも、不思議と帰ろうとは思わなかった。

 見たかった。

 聞きたかった。

 何を見て、何を聞いて、何を駄目だと思っているのか。

 こが分かれば、何か掴める気がした。


     *


 収録が終わった。


「モデルくん」

「はい」

「タバコ付き合え」

「俺、吸わないですよ」

「知ってる。付き合えって言ってんの」

「はい」


 スタジオ裏の喫煙所。

 監督が火をつける。

 俺は隣で缶コーヒーを飲んだ。


「どうだった」

「……結構言いますね」

「何が」

「中の人のこと」

「当たり前だろ」

「俺も言われてます?」

「聞きたい?」


 一瞬迷った。


「……やめときます」

「正解」


 監督が笑いながら煙を吐く。


「清水くんみたいな子、何人もいたよ」

「俺みたいな?」

「真面目でさ。何が駄目か知りたい。監督が何考えてるか知りたい。スタッフ側から見たら分かるんじゃないかって」

「はい」

「で、見学する」


 タバコを灰皿に落とす。


「大体、心折れる」

「……」

「だから今日だけにしなさい」


 監督の乾いた笑い声がした。


「こっちは役者を傷つけようと思って話してるわけじゃない。作品作ってるだけだから。でも役者本人が聞いたら、まあ傷つくよ」

「そうですね」


 俺は缶を両手で持った。

 せっかくここまで来た。

 素直に言おうと思った。


「俺、意図を理解するのが下手なんです」


 監督がこっちを見る。


「だから、なるべく監督たちがどこを見て、どういう意図で言ってるのか知りたくて、今日はお願いしました」

「うん」

「迷惑でしたか」


 監督は即答した。


「迷惑だよ」

「ですよね」

「うん。普通に迷惑」


 少し笑ってしまった。


「すみません」

「でもまあ、理由は分かった」


 監督がまた煙を吐く。


「ただね、意図なんて一日二日見学しても分からないよ」

「はい」

「俺だって作品ごとに違うし、演出家が変われば全部変わる。台本も違う。相手役も違う」

「はい」

「だから、意図を盗もうとするより」


 少し考えるように、監督がタバコを見た。


「清水くんは、自分を出しすぎてるんじゃないかな」

「自分を?」

「うん」

「……どういう意味ですか」

「俺はこう演じたい。こう聞かせたい。ここで格好よくしたい。ここは俺ならこうする」


 胸に刺さる。

 かなり思い当たる。


「悪いことじゃないよ。何もないよりいい」

「はい」

「でも、全部清水宗介から始まってるんだよ」


 監督と目が合った。


「もっと素直になったら?」

「素直」

「台本に、演出に、相手に」


 監督が笑う。


「技術は、そのうち何とかなると思うし」

「そうですか」

「声はいいしな」

「ありがとうございます」

「顔もいいし」

「それ声優に関係あります?」

「モデルくんだから」

「またそれですか」


 笑われた。

 監督は吸い殻を灰皿に落とした。


「まあ、悩めるうちは悩みな」

「はい」

「でも今日聞いた悪口は忘れろよ」

「無理ですよ」

「じゃあ酒飲んで忘れろ」

「それも無理です」

「面倒くさいなあ、お前」


     *


 家に帰った。

 机の上に、次の仕事の資料を広げる。

 短いドラマCD。

 俺が担当するのは、主人公の先輩。

 出番は多くない。

 後輩が仕事で失敗して落ち込んでいるところへ声をかける。


『まあ、そんな日もあるよ』


 たった、それだけ。

 俺なら。

 少し笑う。

 余裕を出す。

 年上らしく。

 最後を少し柔らかくする。

 ……俺なら。

 そこで手が止まった。


「俺……」


 俺なら…俺ならこうする。

 今日、監督が言った。

 全部、清水宗介から始まっている。


「……俺じゃないからか」


 台本の中のこいつは、清水宗介じゃない。

 この先輩は、後輩が失敗したことを知っている。

 励ましたいのか。

 笑わせたいのか。

 気にするなと伝えたいのか。

 そもそも、この人はどういう人間なのか。

 俺がどう言いたいかじゃない。

 この人なら、どう言うんだ。

 でも。

 考え始めると、また俺が作っている気もする。


「分かんねえ……」


 椅子の背に身体を預けた。


     *


 理恵の言葉を思い出した。

 最初に夜を過ごした時だった。

 飲み会の後。

 成瀬が幹事をしていた、あの大人数の飲み会。

 酔って、葉山理恵の家へ行った。

 身体を重ねた後、二人とも眠れず、ベッドで仕事の話をしていた。


「声優って不思議だよね」


 理恵が言った。


「何が?」

「人が書いた台詞を読むんでしょ」

「まあね」

「私も似てる」

「バレエ?」

「振付師が振りを作って、作曲家が音楽を作って、演出家が舞台を作る」

「うん」

「その上で私が踊る」

「そうだな」


 理恵は天井を見ていた。


「あなたも私も、人が作りあげるものの上で踊る人だね」


 その時の俺は、


「声優は踊らないけど」


 なんて返した。

 理恵に、


「そういう意味じゃない」


 と笑われた。

 彼女の指摘通り、俺はその言葉を理解していなかった。

 今になって、その言葉が戻ってきた。


「……あ」


 俺が作るんじゃない。

 もう、あるんだ。

 台本がある。

 物語がある。

 演出がある。

 相手の芝居がある。

 俺はその上に乗る。

 自分を消すわけじゃない。

 でも最初に自分を置くんじゃない。

 人が作ったものの上で。

 その中で、自分が動く。


「……これか?」


 分かったような。

 まだ分かっていないような。

 でも、昨日までとは少し違った。


     *


 次の収録。


「清水くん、もう一回いい?」

「はい」

「今の、ちょっと作ってるかな」

「はい」

「もっと自然に」


 来た。

 ずっと嫌だった言葉。

 もっと自然に。

 前なら、自然って何だと思っていた。

 今日は一度、台本を見る。

 俺じゃない。

 格好よく言わなくていい。

 この人は、後輩が落ち込んでいるのを見ている。

 励ましたい。

 でも、大げさに励ます人じゃない。

 俺はブースの向こうを見る。

 相手役がいる。

 さっきの、その人の芝居を思い出す。

 落ち込んでいた。

 声が小さかった。

 だったら。


「お願いします」


 音が入る。


『まあ、そんな日もあるよ』


 言った。

 何もしていない気がした。

 技術を使った感覚もない。

 声を格好よく聞かせようともしていない。

 ただ、その人に言った。

 短い沈黙。


「清水くん、今のいいよ」


 一瞬、意味が分からなかった。


「……ありがとうございます」

「それでいこう」

「はい」


 ヘッドホンの中で次の指示が始まる。

 俺は台本を見るふりをした。

 笑いそうだった。

 嬉しかった。

 たった一言。

 今のいいよ。

 今まで何度もモデルの現場で言われてきた。

 いいね。

 格好いい。

 その表情。

 完璧。

 何百回と言われた。

 なのに今日聞いた、今のいいよ、それがずっと嬉しかった。


     *


 収録が終わり、時計を見る。

 理恵は今日、本番だったはずだ。

 たぶんもう終わっている。

 連絡する。


『今どこ?』


 少しして返事。


『帰り』

『家行っていい?』

『いいけど疲れてるよ』

『知ってる』

『なにそれ』


 スタジオを出る。

 途中でドラッグストアに寄った。

 前なら。

 何か食べ物を買っていたかもしれない。

 今日はやめた。

 理恵は本番帰りで足が疲れている。

 マッサージをしてあげよう。


 いや。


 まず聞こう。

 マッサージしていいかと。

 嫌なら、やめる。

 それから今日のことを話そう。

 監督に言われたこと。

 台本を見て考えたこと。

 理恵が昔言った言葉を思い出したこと。

 今日初めて、


「今のいいよ」


 と言われたこと。

 理恵のおかげだって言おう。

 たぶん彼女は、


「私、何もしてないけど」


 って言う。

 それでもいい。

 俺には分かった。

 少なくとも、今日は俺がどう見えるかじゃない。

 俺が何をしたいかだけでもない。

 目の前の相手を見る。

 その人が何をしているのかを見る。

 人が作ったものを見る。

 その上に立つ。

 そして初めて、自分が出てくる。

 駅の階段を上りながら、少し笑った。

 声優になれるかなんて、まだ分からない。

 次の現場では、また駄目だと言われるかもしれない。

 それでも。

 今日は一つだけ。

 昨日より、やりたいことに近づいた気がした。

 理恵に会いたかった。

 それを、一番最初に報告したかった。

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