9.就寝
午前9時頃。僕は筑波空港にいた。これは飛行機の都合上仕方なく、このことは事前に彼女の父親に伝えていたので、医療機関にも少し遅れるかもしれないことは彼女の父親から伝わっているはずだ。
僕は彼女の父親に電話をかけた。どうやらしばらく待っていたようだ。僕が言われた通りの場所まで行くと黒い車の前に彼女の父親は立っていた。僕は彼女の父親の車に乗った。
筑波空港から目的地まで50分ほどかかり、着いた時刻は10時ギリギリだった。彼女の父親は車の中でただ一言、ありがとうございますと言った。僕はまだ彼女が助かったわけではないのに気が早いと思いながらも悪い気はしていなかった。
一昨日の電話で予想はしていたが、そこは病院ではなかった。6階ほどの白と黒を基調にした建物だった。国際睡眠医科研究協会、通称ISMRA。建物の左上にはISMRAの文字がある。
僕は彼女の父親について建物に入った。建物のなかは天井が高く、広い。開放的なエントランスだ。
僕が建物内を見渡していると、1人の男性がこちらに近づいてくる。
「どうもこんにちは。君とは初めましてだよね。アルバートだ。今日はよろしく頼むよ」アルバートと名乗った男はそう言うと手を差し出してきた。僕はその手を握り自己紹介をした。といっても名前を言っただけだが。
「では、来てもらってすぐで悪いんだけど、ついて来てくれるかな。説明しなければならないことが沢山あるんだ」フレンドリーな対応に僕は少し拍子抜けしながら、僕たちはアルバートのあとをついて言った。
エレベーターで3階に上がり少しすると、彼は立ち止った。
「ここが私の研究室。説明はここでするけど、試験は他の部屋だから。ま、とりあえず2人とも入って」彼はそう言って僕たちを部屋の中に入れた。
僕たちは用意された席に座って、アルバートと向き合う。アルバートは相変わらずの明るい口調で話し始めた。
「君たちは彼女の病気のことについてどれくらい知っているのか知らないけど、改めて専門家というか、この病気の研究をしている、このアルバートが彼女の病気について説明しよう。ま、聞いているだけもつまらないだろうからね。いくつかの質問をしながら進めていくよ。そもそも君たちは彼女の病気の名前、分かってる?」
「えっと、眠り病ですよね」と僕は言う。
「ヒュプノス症候群」と僕の横で彼女の父親が答える。
「そう、彼女の病気の名前は、正式にはヒュプノス症候群。眠り病って言うのも間違いではないけれど、通称って言ったほうがいいね。ナルコレプシーが、一部では居眠り病って言われているのと似たようなものだね。じゃ次。私たちの身近な睡眠。どういうメカニズムで機能しているか分かる?」
「えっと、睡眠はレム睡眠とノンレム睡眠の2種類があって…それが起きるまで交互に繰り返し起きている…感じです」僕が自信なく答える。
「うん。そうだね。私たちの睡眠はノンレム睡眠とレム睡眠に分けることが出来る。詳しく説明し出すと日が暮れるから、軽く説明するね。正常な人の睡眠っていうのは、まずノンレム睡眠があって、その後にレム睡眠が起こる。でもこのヒュプノス症候群の患者はこのサイクルじゃない。ヒュプノス患者の睡眠には、ノンレム睡眠がなくて、ずっとレム睡眠の状態なんだ。で、このレム睡眠のとき、脳がどんな働きをしているかは、知らないよね?」
「レム睡眠は、睡眠とついているが、脳は覚醒と同じか、もしくはそれ以上に活性化していて、動物実験で断眠を行うと、レム睡眠の割合が増えることから、ノンレム睡眠を助ける効果があるだと言われてますよね。確か」
彼女の父親は落ち着いた様子でアルバートの質問に答えた。僕はレム睡眠が何だとか、どうだとかは全く知らなかったので、アルバートの質問にスラスラと答えた彼女の父親に驚いた。質問をしたアルバートも少し驚いた様子だった。
「さすが、患者さんの父親だ。しっかりと調べているんですね」
アルバートは、答えが分からなかった僕を遠回しに攻撃してくるような言葉を返した。もちろん、そんな気はこれぽっちもないのだろうが。
「さっき言われたように、レム睡眠は脳が覚醒のときと同じまたはそれ以上に賦活した状態だ。人が夢を見るのはこのときが多い。ノンレム睡眠のときも夢を見るには見るが、レム睡眠に比べたら、その数ははるかに少ないし、夢の内容もレム睡眠はストーリー性があるのに対して、ノンレム睡眠は単純なイメージであることが多い。またレム睡眠のときの夢は、前頭葉の前頭前野背外側部の働きが弱まるから、自分が空を飛んだりといった現実離れした奇妙な夢を見ていても、違和感を抱くことはまれだ。ま、睡眠の話はこれくらいにして、次は私の研究について少し話そう」そう言うと、アルバートは時計を少し確認して、息を吸って優しく吐き出した。
「人と人が分かりあうために、私たちは普通、言葉を使うよね。もちろんそれには身体言語とかも含む。でも、それらを使ってもなお、私たちは完全には分かり合えない。それが悪いこととは思わないけれど、私は新たなコミュニケーションを生み出すことによって、80パーセントしか理解できなかったものが、85、90になればいいとは思う。だから私は新たなコミュニケーション方法について研究することにした。しかし私が考え出したその新たなコミュニケーション方法は非科学的と揶揄された。なぜならそれは脳と脳の直接のコミュニケーションだからだ」
「それは…。つまりどういうことですか」僕はアルバートの研究がどういうものかいまいち分からなかった。
「よく映画やドラマであるだろ。『脳に直接話しかけてくる』とか『頭から誰かの声がする』とか一種の特殊能力というかエスパーみたいなものが。私はそれを実現させたいのさ。もし脳と脳が直接にコミュニケーションをとることが出来るならば、言葉にならない言葉も相手に伝わるし、抽象的なイメージも相手にそのまま伝えることが出来る。私はそう考えて、言語化をせずに脳を通じて人とコミュニケーションをとる研究をしている。そして、それの実現ために私は今、脳波を同期させる研究を行っていて」
「すみません。その、アルバートさんの研究がヒュプノス症候群とどう関係するんですか。今、アルバートさんの研究内容を聞いたところで…僕はどうしようも…」僕はアルバートの熱の入った言葉を遮って聞いた。僕はエスパーとか信じていないし、そんな研究を真面目にしている人がいることに驚きながら、本当にそんな研究を真面目にしている人に彼女を任せて大丈夫だろうかという不安も感じた。
「あ、そうだね。ごめん。えっとつまり…私はそのコミュニケーションのための手段として脳波を用いる理論を組み立てているんだ。しかし、普段生活しているときの脳波は複雑だから、その前の段階として、睡眠にある脳波の一定の規則に注目して、研究している。他人と同じ夢を見た。こんな話を一度は聞いたことがあると思う。私の理論では、それは脳波が同期したために起こったことなんだ。そこで私は睡眠の、特にレム睡眠時の脳波を同期させることで、作為的に他人と同じ夢を見せる実験を行っていた。今回はそれを応用したものだ」
「それはつまり、彼女と同じ夢を僕が見る。その上で、今回は僕が彼女を夢から醒まさせる。そういうことですよね」
「うん。本当に簡単に言うと、そういうこと。基本的には彼女の脳波に同期するわけだから、その夢の世界は君が普段見ているだろう夢とは異なったものだ。だけど同期された側も同期した相手の脳波の影響がゼロってことではない。つまり彼女も君の意志、夢の影響を少なからず受けるわけだよ。今回はその現象を利用して彼女に『目を覚ませ』って働きかけるわけだ。つまり夢を通じたコミュニケーションだね」
アルバートはロマンティックでしょと笑いながら言った。確かに、夢というのは不思議で神秘的ともいえる魅力を感じる。昔の人も『夢と知っていれば、夢から醒めなかったのに』という物悲しくなる歌を読んでいたっけ。
「でも、絶対に成功する保証はないんですよね。むしろ彼女はもちろん、僕すら目を醒ますことが出来ないかもしれない。もし目を醒ますことが出来ても、脳に悪影響を及ぼしていて何かしらの後遺症が残る危険性もあるんですよね」僕は、以前彼女の父親から聞いた話に間違いがないかを確認するために聞いた。僕のなかでは、彼女をどう助けるかのメカニズムより彼女が助かる確率とか、失敗したらどうなるかの方が重要だったりする。
「そうだね。その可能性はある。なにせ初めてすることだから。これは治療というよりは実験だ。臨床試験というべきかもしれないね。動物実験では脳波を同期させることには成功している。だけど、本当に同じ夢を見ているかは分からない。動物とは人と同じレベルのコミュニケーションを取ることが出来ないからね。だからこれは私の理論に頼るところが大きいし、不確実性も多く含んでいる。安全とはお世辞にも言えない」
アルバートは何の躊躇いもなく言う。ここまで躊躇なく言われると、安心する内容とは真逆であったのに、自分のなかに安心にも似た平静さが現れる。
「やっぱり、聞いていたとおりなんですね。今回することは危険性がものすごく高い」
「そんなに心配することもないさ。動物実験は何千回も行ったし、その上でどれくらいの時間、同期させると危険なのか目安はついているし、脳にかかるであろう負荷の度合いも余裕をもって考えてあるし、何より細心の注意を払いながら行うよ。危険性は十分に分かったと思うけど、どうする?本当にするかい?」
アルバートは僕に確認を取った。僕が静かにうなずくと、何枚か束になった紙をこちらに渡した。
「じゃ、これを読んでサインしてね」とこれまた軽い調子で、アルバートは言った。まるで宅配便の受け取り際のやり取りのようなトーンだ。僕はそう思いながら、渡された紙にさっと目を通して、サインをした。そしてそれをアルバートに返す。
「じゃ、サインももらったことだし、そろそろ彼女のところに行こうか」アルバートは紙を受け取り立ち上がりながら言った。
アルバートに案内された部屋に入ると、大きな窓ガラス越しに彼女が眠る部屋があった。その部屋の大きさは10畳ほどの大きさで、彼女が寝ているベッドの向こうには、もう1つのベッドが用意されていた。おそらく僕が眠るベッドであろう。
眠る彼女はヘルメットのような装置を被っていて、ヘルメットから伸びたケーブルは近くの大きな機械と繋がっていた。彼女は相変わらず穏やかな表情のまま眠っていて、こちらまで穏やかな気持ちにさせられる。まるで赤ん坊が寝ている姿を見ているようだった。
「本当にヒュプノス症候群の患者は、あまりに満ち足りた顔で寝ているものだから、起こそうとするのが億劫になってしまうよ。それじゃ、試験の説明をここでより具体的にするね。今、彼女が被っているヘルメットのような装置で脳波を測定し、その情報がヘルメッと繋がったあの大きな機械に届けられ最適化される。そして君がこれから被るヘルメットは君の脳波をその最適化されたものに調整する。また彼女と君の脳波はこの部屋で常にモニタリングしておく。異常があれば、その時点で今回の試験は終了だ」アルバートはそう言いながら、僕たちがいる部屋のキーボードを操作していた。アルバートが言った僕が被る装置の設定をしていたりするのだろうか。僕が黙ってアルバートを見ていると、アルバートが、今行っていることについて説明してくれた。
「ヒュプノス症候群の患者にはさっき説明した以外にもいくつか特徴があってね。例えば睡眠しているはずなのに、睡眠物質であるアデノシンが減少していなかったり、覚醒を助けるオレキシンが存在するのに覚醒しないとかね。そこで、この試験では君と彼女が脳波を同期させ同じ夢を見ている間、アデノシン分解薬とオレキシン促進薬を彼女に投与する。その影響で脳波が乱れる可能性があるから、そのとき対応できるように、いくつかの対処パターンの最終調整をしているんだ。さ、君の脳波も測定して調整するから、彼女が寝ている奥のベッドにある装置を被ってくれ」
僕はアルバートの言われた通りに、彼女が眠る部屋に入った。そして彼女の奥のベッドに置かれた装置を手に取った。
「その装置を被って、何も考えずに10分ぐらい目を閉じてくれ」部屋にアルバートの声が響く。部屋のどこかにスピーカーがあるようだ。僕は言われた通りに装置を被って目を閉じた。装置は後頭部と耳を覆い隠した。また装置はそれなりの重量感があり、頭の所々に指で押されているような圧迫感を感じた。
アルバートが言った10分はとても長く、つい目を開けてしまいたくなったが、こらえてアルバートの次の言葉を待った。
「もう目を開けても大丈夫」その言葉とともに僕の肩を誰かが叩いた。僕が驚いて目を開けると、そこにはアルバートと彼女の父親が立っていた。
「君のほうの調整も終わった。準備OKだ。あとは君が装置を被って眠れば試験スタートだ」アルバートが僕に言った。僕は頷いてアルバートの言葉に返事をした。
「それじゃ、この薬を飲んでくれ。ちょっとした睡眠薬だ」アルバートは僕に水の入ったペットボトルと1錠の薬を渡した。僕はそれを飲み込むとベッドの上で横になった。
「あと、最後の注意点。決して彼女の夢に呑まれてはいけないよ。夢が夢であること忘れないこと。そうしないと、今いるところが現実か夢かが分からなくなってしまうかもしれない。いいね」アルバートの忠告に「分かりました。気を付けます」と答えた。横にいた彼女の父親は「ごめんな」と言うと、アルバートと一緒に部屋を出て行った。
僕は目を閉じて寝ること、そして彼女を起こすことをだけを意識していた。そして沼に沈むかのように、ゆっくりと眠りに落ちた。




