10.影響
気が付くと僕はどこかの草原に立っていた。目の前には池があり、遠くには大きな山が見える。見たこともない景色だ。どうして僕はこんなところにいる。状況が呑み込めずに混乱していた。
さっきまでこんなところにいなかったはずだ。確か…大きな建物のなかにいた…。そうして記憶を辿ることで僕は思い出すことができた。なぜ自分がこんなところにいるのかを。
「そうか、ここが彼女の夢の中なのか…」僕は感動にも似た感情を持ちながら、もう一度辺りを見渡す。とてもハッキリとした景色だ。本当に夢の中なのか。ついそう考えてしまう。
とりあえず、顔でも洗おう。僕はそう思って池に近づいた。水面に顔を近づけて見ると、驚いて声をあげてしまう。
「えっ、僕が僕じゃない。この顔、まるで中学生の僕みたいだ。すごく若い」僕はまじまじと水面に映る自分を見た。朝、髪を整えるとき以上に念入りに確認する。やはり中学生の頃の僕にそっくりだ。
「やっぱり…これは夢か」奇妙な出来事に、やっとここが夢の世界であることを実感する。
池水手に浸けるとひんやりとした感覚があった。触覚がちゃんとある。夢とは思えないぐらいにはっきりとした冷たさだった。
僕はその水で顔を洗い、後ろを振り返った。するとそこにはさっきまで無かった住宅街が広がり、少し遠くには高層ビルが立ち並んでいるのが見える。しかし、僕は突然現れたその景色にあまり驚かなかった。一言で片づけてしまうと、この世界はこういうものなんだと、ざっくりとあっさりと飲み込めてしまったのだ。
どちらかというと、突然変わった景色よりも、そのことに違和感を感じず飲み込めてしまった自分自身への驚きの方が大きかった。
「そう言えば、レム睡眠中は前頭葉のどこかの働きが弱まるから変な夢を見ても違和感を感じなくなるとかって言っていたっけ」僕は彼女の夢に入るまえに行われたアルバートからの説明を思い出していた。
「とういうことは、僕も今はレム睡眠中ってことか」僕はそう呟いて、これからこの彼女の夢のなかで、どういう行動をとるのかを考える。
彼女を夢から醒ますためにはどうすればいいか。しばらく考えたが、全く考え思い浮かばなかった。自分がいつもどんな風に夢から醒めているのか、それが分からない。
そもそも眠りから醒めるのは光とか音とか外的要因が大きく関係しているイメージだし、脳内で起きるための準備があって起きるもののはずだ。彼女の脳内では起きる準備がされていない。そのうえ夢という内的要因で、彼女を夢から醒ます方法などあるのだろうか。考えれば考えるほどに分からなくなる。
「悩んでいても仕方ないし、とりあえず…街に行くか」
そして僕は突然現れた街に向かって歩き出した。
僕は街を歩きながら、あることに気づいたことがあった。
「この街は僕の住んでいる街にそっくりだ」ところどころ違う建物があったりしたが、おおむね僕の街と同じような道路、家、店などが、ほとんど同じような並びで存在していた。きっとこの街のモデルは僕の街なのだろう。僕の住んでいるマンションもあるのだろうか。そう思った僕は、まるで自分が住んでいる街を歩いているかのように、その夢の街の道路を突き進んだ。
そして2、3分もしないうちに僕は僕のマンションについた。いつもの見慣れたマンションだ。僕はゆっくりとエントランス入った。集合ポストを確認する。507号室、僕の苗字。607号室、彼女の苗字。集合ポストの縦に僕と彼女の苗字が並ぶ光景はとても懐かしいものだった。
そのまま僕はしばらく集合ポストを訳もなく眺めていた。するとあることに気づく。名前のない空き部屋が多い。この集合ポストには僕と彼女の苗字を含めて、7、8名の苗字しか書かれていない。彼女がここにいた中学生頃はもっと多くの名前が並んでいたはずだ。これは彼女がここに住んでいた大多数の人の苗字を覚えていないからなのだろうか。
407号室、空白。ここは実久の家だ。彼女は実久のことを知らなかったのだろうか、それとも覚えていなかったのだろうか。
「冬木」と僕が実久の苗字を口にすると、407号室の空白部分に段々と黒い文字が浮かび上がってきた。そして、その浮かび上がった黒い文字はハッキリと[冬木]と示していた。
同期された側も同期したものの意志や夢の影響を受ける。僕はアルバートに説明されたことを思い出した。
「これは僕の意志の影響を彼女が受けたってこと…なのか…」僕は小さく呟く。もし、いま僕が彼女の夢に何か影響を与えたとしたのならば、それはプラスなのだろうか、それともマイナスなのだろうか。そして僕の意志は、どれだけ彼女の夢の世界に影響を与えることが出来るのだろうか。そういった様々な考えが僕の頭を駆け巡る。
とりあえず彼女を、この夢の世界で彼女を探そう。僕はそう決意した。この夢の世界に来た初めからその考えはあった。しかしどんな影響があるのか、それが全く想像出来なかった。だからこそ、来てすぐは慎重に行動すべきだと考えていた。しかし、僕が何かを呟いたり、思い出したり、考えることで、自分でも気づかないうちにこの夢の世界に影響が出るなら、たとえそれが小さいものであっても、その影響が積みあがってどうしようもなくなる前に行動するべきかもしれないと思った。
もしこの夢のなかで彼女と会ったならば、きっと何かしらの出来事が起こる。その出来事がプラスであるかマイナスであるかは分からない。ただきっとこの夢に大きな影響をもたらし、ここではないどこかにいけるはずだと僕は思い、そしてそれを信じ込んでいた。
まずは彼女の家に行こう。僕はそう思ってエレベーターに向かう。
「待て。ここは夢だ。エレベーターより階段のほうが安全か…。いやいや階段だと、よくあるホラーゲームみたいに同じ階をループしてたどりつけなくなるか…」
僕はそんな無駄なことを心配した挙句、結局エレベーターに乗り込んだ。そして5のボタンと閉のボタンを押す。607号室の彼女の家に直接向かわなかったのは、彼女の夢のなかの僕の家が気になったのと、彼女に会うと決めながら、彼女に会うための充分な勇気を僕がまだ持っていなかったからだ。