11.告白
僕は507号室、自分の家の前に立っていた。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと手前に引く。見慣れた玄関が目に入る。しかし、そこには懐かしいパンプスがあった。見ると辛くなるからとしまったパンプスがあった。僕の心に、もしかしてという希望のようなものが生まれた。ここが夢なのは分かっていた。しかし、それを望まずにはいられなかった。その意志が通じたのか、「おかえり」と懐かしく温かく優しく包み込むような声とともに玄関に向かってくる足音。そして目に入ってくる別れたはずの人の姿。死んだ母親が笑って僕を迎えてくれた。
今見ているのは夢だと分かっている。分かっているはずなのに、涙が溢れ出た。ここは夢のはずなのに、僕の目から次から次へと涙がこぼれ落ちた。僕は鼻水をすすり、呼吸乱して泣いた。たとえ夢でもそこにいるのは、僕の母親、その人だった。
「何で泣いてるの」母親が僕に問いかけてくる。「何もないよ。ただいま」と今作ることの出来る精一杯の笑顔で言った。
僕は心配そうな表情を浮かべる母親の横を通り、自分の部屋のドアを開けた。そしてドアを閉めると、さらに思いっきり泣いた。
「彼女が夢から醒めたら、もう母さんに会うことは出来なくなる。僕が彼女を夢から醒ましたら、僕が母さんをもう一度死なせるってことなのかな…」
そんなことを考えてしまって、余計に出口が見えなくなる。
随分と長い間、僕は泣き続けた。自分でもどうしてこんなに泣いているのか分からなくなってきていた。僕は深呼吸して、こんがらがっている気持ちを整え始める。
僕は彼女を夢から醒ますためにここにきた。僕まで居心地の良い、望みの夢に囚われるわけにはいかない。でもあともう少しだけこの夢を見ていたい。
コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
「夕飯出来たから、一緒に食べようか」母親の声がドア越しに聞こえた。僕は「うん、すぐ行く」と返事をした。こんなやり取りは母親が生きていたときだってめったになかった。
リビングに行くと、テーブルの上に僕の好きなハンバーグがあった。席に着くと、僕はいただきますと言って、ハンバーグを一口サイズに切り口に入れる。懐かしい味がじわっと口に広がる。つい僕はまた泣きそうになってしまって、それをグッとこらえた。僕は今までで一番美味しい料理を味わって食べた。
「今日ね、下に引っ越してきた人が挨拶をしにきたわ。お父さんと可愛い女の子で、これからよろしくって。それと、女の子のほうが今日会いたいから、後で会いにきてと伝えてくださいって言ってたけど、あの子、彼女なの」
黙々と食事を進める僕に、母親はニヤニヤした表情を浮かべ聞いてくる。僕は平静を装ってそんなことないよと返す。
「そうなの。なんか残念。それより早くあの子に会いに行ってあげなさい。っていうかご飯食べ終わったら、あの子の家に会い行きなさい。あの子…とっても寂しそうだったから」
夕飯を食べ終わった僕は、母親にせかされながら、家を出た。階段を使って1つ下の階に降り、彼女の家の前に立つ。
僕は緊張しながらインターホンを鳴らした。彼女の家のインターホンを押したのはこれで2回目。前に押したのは彼女が転校してしまう前日だった。
「はい」という返事がインターホン越しに聞こえた。その声はあの時のままの声だ。僕は自分の名前を言って「会いにきたよ」なんて気恥ずかしい言葉を言った。彼女は「私も会いたかった。ずっと会いたかった」なんて恥ずかしくなる言葉で返してきた。
勢いよく扉が開き、そこには中学生の彼女が満面の笑みを浮かべ立っていた。
少しの沈黙があって、僕の方から口を開いた。
「ひ、久しぶり。元気にしてた?」
「久しぶりって昨日も一緒に学校に行ったじゃん。変なの」
「え、あ、そう、だっけ…?でも、さっきずっと会いたかったって言ったじゃん」
「そ、それは…。もう、そういうのは自分で考えてよ」彼女は少しツンとして答えた。
それから僕たちは近くの公園まで歩いた。彼女はあの頃のようにおしゃべりで、日常の何でもないことを楽しそうに話していた。
公園に着いた僕たちは、ブランコに乗りながら話し続けていた。まるであの頃と変わらない彼女を前に、僕は彼女にこの世界が夢であることを伝えるか迷っていた。
僕は夢のなかの彼女に会ったが、何もこの世界に起きなかった。何か起こると信じていた僕を嘲笑うかのようだった。夢が夢ではなくて、現実が夢であるような気をさせるほど静かだった。
そして何も起こらないから、僕は息詰まってしまった。次の一手は、彼女にこれは夢だと伝えることしか思い浮かばなかった。自分でも悪手と分かるような一手しか残っていなかった。
「ねぇ、実は僕も話したいことがあるんだ」僕はゆっくりと彼女に言った。進むためには言うしかなかった。
「私に話したいことがあるなんて珍しいね、なに?」彼女は生き生きとした顔で、僕の次の言葉を待っている。現実で眠り続けているとは思えないほどだ。
「この世界はね、夢なんだ。見えるものも聞こえるものも匂うものも感じるものの何もかもすべて、作られたものなんだ。何一つ、本当に存在するものなんてないんだ」
僕の言葉に彼女はポカンとした表情で、僕にどういうことと聞いた。僕はブランコから降りて立ち上がり、彼女の病気のこととこれまでの経緯を説明した。本当の彼女は二十三歳のある日から眠り続けていること。そしてそんな彼女を醒ますために、僕が彼女の夢に来たこと。それぞれを分かりやすく噛み砕いて教えた。
「どう、分かった…かな?」一通りの説明を終えて僕は彼女に聞いた。
「いや、ごめん、訳分かんないよ。今の話のほうがここより変っていうか、夢みたいな話じゃん。今の話、絶対冗談でしょ」彼女は苦笑いを浮かべて言った。しかしその表情にはどこか否定しきれないといった様子もあった。
「冗談なんかじゃないんだ。ほんとにこの世界は夢の世界で、全てが作られた偽物だ。僕たちは目を醒まして現実に帰らなきゃならないんだ」
僕は彼女に力強く言った。物語の主人公が亡くなった仲間を前にして「目を覚ませよ」と叫ぶように。亡くなった仲間が主人公の叫びに応えないように、彼女は何も言わず黙り込んだ。沈黙が僕らを包んだ。
僕がもう一度彼女に声をかけようとすると、彼女は立ち上がり、腹の底から声を出して言った。
「もう、それ以上冗談を言わないで」
彼女は僕に鋭い眼光を向けた。仲間を殺した宿敵に向けるような目だ。
「この世界が、こんな素敵な世界が夢だなんて、そんな怖いことを言わないで。毎日が優しくて温かくて、生きてるだけで幸せだって思えるような世界をないなんて言わないで。嫌なことが何一つない満ち足りた世界を偽物だなんて言わないで。この世界を、この大事な世界を否定することなんて言うな。言わせない。もう言わせない。ここは私の、私のための、私が主人公の世界なの。壊させたりしない。たとえここが本当に夢だったとしても、この夢は壊させない」
彼女はどんどん声を荒げながら言った。強い憎しみがこめられた声だった。それでも僕は臆するわけにはいかない。僕は彼女を助けたいから。
「夢での幸せなんて、そんなもの何の価値もないじゃないか。僕たちが生きるべきは現実なんだ。この世界じゃないあの世界で生きなければならない。現実で幸せにならなきゃ意味がないんだ。僕は幸せを奪いにきたんじゃない、夢を壊しにきたわけでもない。ただ長い夢から目を覚まさせにきた。助けにきたんだよ」
「今、私は幸せなの。それだけで充分じゃない。ここが現実だろうが夢だろうが関係ない。今の幸せを壊すことに繋がるようなことは絶対にさせない。苦しいことが、辛いことが、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日…。毎日死にたい、死にたい、死にたい、死にたいって…思ってたころになんか戻りたくない。ここが唯一、私が幸せにいられるところなの。現実なんて…ただの意志を共有するための世界じゃない。自分の意志と他人の意志が交わるために必要なだけで、あんなところ本当は必要ない。私を傷つけ痛めつけ嗤うだけの場所。そんな世界なら、私の意志だけの私のための世界にいるほうがずっと幸せに生きられる。現実なんて自分の意志を捨て夢を見飽きた人が生きる世界。でね、夢って言われたここは、今は私だけの、私のかけがえのない現実なの」
彼女は、本当はここが夢だとずっと前から気づいていたんじゃないか。僕は彼女の言葉を聞いて思った。今の彼女にとっては夢が現実。それでいいと思っている。いや、きっと思い込んでいる。僕たちは本当の現実で生きなきゃならない。生き抜かねばならない。そう思った僕が次の言葉を言おうとするより先に彼女が口にした。
「さっきも言ったけど、私は今、とても幸せなの。今が1番生きているって思う瞬間なの。だからね、誰の助けも必要ないの。助けなんて、そんなおせっかいしないで。じゃ、そろそろ家に帰るから。バイバイ」
彼女はそう言うと、僕に背を向けて歩き出した。もちろん僕は彼女を追いかけようとするが、体が動かない。そんな僕を置いて、彼女の背中はゆっくりと遠くなった。辺りも段々暗くなっていく。失敗した。終わった。そんな感情だけが真っ暗な世界に残された。




