十一曲目「the Garden of sinners -劇場版「空の境界」音楽集-」
「府雨の音楽記憶」十一曲目「the Garden of sinners -劇場版「空の境界」音楽集-」
梶浦由記
いついつ聴いても飽きることがない。
空の境界を観たのはいつだったのだっけ。
小説『空の境界』はもちろん読んだけれど、それもいつだったかわからない。
式の美しさ。黒桐の素朴さは、誰もが憧れたように思う。アニメキャラの声を聞いて僕は育った。
それは嘘まで織り込める声優の声で、そう思ってないことを声だけで表現して、なおかつわかりやすさがあった。
アニメは超現実ではない。現実こそが超現実なのだと知る。素朴な人間が素朴を装って生きるのが、一番早い「勝ち方」だと、全てのアニメが教えてくれる。
空の境界は、建前と本音をひっくり返したその時の日本の姿をよく捉えていた。僕はそれをなぞった。
現実をなぞりながら、解釈はどこまでも現実を超えて。
解釈の世界に生きることはできない。でも、解釈をすることで現実を変えられる。昔でいう文芸批評とかは、そういう営みなんだろう。
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音楽を聴きながら泣いたこともあったように思う。
戦争で死んだ家族を思い出す人の景色が不意に現れて、思わず泣いてしまった。
ああ、悲しいなぁ。十年前浪人中父の和歌山のマンションで、勉強しながら、窓の外を見たら、僕が「焼いた罪人」の火が見えた気がした。
あの新大阪駅の最終列車。鉄の焼ける臭いは、今もそうなのだろうか。
浪人中に見た「なんでもあり」の闘技場。関東にはない独特の階級社会。守られている人とそうでない人がいて、はみ出しものは悪態をついて、でもどうしようもないのだ。
京阪神の役割分担とか、その相互批判の構造とか、馬鹿みたいだと思った。誰もが泣いている。鬼になりきれずに。
そういう意味では鬼ばかりの世界で育った僕からすると、ずいぶん優しい世界だと思った。
力より関係。一人より二人。ツレ。
美しい天王寺の女の子でさえ、抱えている配下から逃れられない。捨てられない。汁を吸う。夢は見えない。
ずっと家入レオを聴いていたのは、それもあってからかもしれない。
力が必要だと思った。
周りの声が見通しを暗くする。子どもを愛しているだけのことでも、ひそひそとされて安心して外食も食べられない。
そういえば、友達と路上ライブでstyle-3のシングル「家康」を買って聴いていたのも関西で浪人している時だった。
精神の闘技場。昂りが止まらなかった。戦国かと見紛う。
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家族とか医者とか、金でつながっていることは大事なんだと最近思う。
見返りのない愛とかに頼り出したら、頼る方も頼られる方も途方もない。際限がないし、方途もない。
黒桐が友達にお金を借りるシーンが思い出される。
アニメではお金を借りているとしか描かれない。
借りてみると、実に感情は複雑で、でもそれを体感するには、想像力や実際の経験が必要だ。
意味の輪郭を色濃くする音楽。
いつも黒桐鮮花が活躍するシーン。水樹奈々が愉悦している「よくってよ、よくってよ、黒桐さん!」のシーンと音楽が癒着している。それくらい梶浦サウンドがピッタリきていたのだろう。
能登さんの演じる浅上も、美しかった。
橋を曲げる。空間を、世界をねじる。
自分だけはついぞ曲げられないまま。誰かに助けてほしいとすら思わない。そんなことを考えることもできないくらい孤独な。孤独な人ばかりで。孤独だというのが罪だと、この音楽のタイトル「罪人の箱庭」は言っているのかもしれない。
言葉だけで想いを伝えることは孤独だけど、そうでないと生きることはできないと、僕はこのアニメから教わった。
もし、仮に世界にテレパシーがあったとして、だからなんだというんだろう。
もし知覚が乗っ取られて、自分というものがなくなるのが楽しいとしても、それでは生活はできない。
意味の世界へ戻ってくるのは、人間にとっては重要なことで、もし仮に精神が何かの高揚感を得たとして、それに僕らは言葉でなんて説明するのだろう。
僕らが言葉を使うのは、それだけが正確に気持ちを伝える方法で、それ以外の方法は覚醒剤なんかを含め、全て邪道なんだと、これもアニメが教えてくれたのだ。
例え物理空間をねじ曲げられたとしても、助けてほしいと思ったなら、言葉で。
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何を言えばいいのかわからない時もたくさんあるけれど、上手く言えなくてもいいから少しずつ言葉で。
式と黒桐の関係を再現することに、少なからぬ人が人生を費やしている。




