エピローグ「すってんころりん、と」
その日も、何でもない日だった。
朝に薬草を確認してお茶を飲んで、ジジに干し魚をやった。昼は昨日の残りを温めて食べ、午後は縁側でぼんやりした。ジジが膝に乗ってきたので背中を撫でてやる。ぐるぐると低い音を立てて、膝の上でうとうとしている。日がよく当たって、ジジの毛が温かかった。縁側の板も温かくて、背骨がゆるゆるした。
何時間、そうしていたかわからない。
やがて日が傾いて、空の色が変わり始めた。
そろそろか、と思った。
畑に水をやろうと思った。別に急ぐことでもないけれど、なんとなく立ち上がって、縁側から庭に降りようとした。
石段が一段、ある。
いつも使っている石段で、何十年も使っている石段で、目をつぶっても降りられるくらいの石段だ。雨の日も、雪の日も、手がふさがっていても降りてきた、そういう石段だ。苔が少し生えているのも知っていた。気をつけようと思ったことも、何度かあった。
つるっとした。
え、と思う間もなかった。
あらまあ、と思う間もなかった。
ただ、空が見えた。
青かった。
夕方なのに、まだ青かった。西の端がオレンジに染まり始めていたけれど、頭の真上はまだちゃんと青くて、雲がひとつ、ゆっくり流れていた。形のいい、まるっとした雲だった。ぽかりと浮いて、どこかへ向かっていた。
それを見た。
見ながら、背中が地面についた。痛みは、よくわからなかった。ぽかん、とした。地面が固くて、冷たい。石のにおいがした。土と草のにおいが鼻に来た。夕方の空気がひんやりして、頬に当たった。
ああ、転んだ。
そう思った。
次に、ああ、これか、と思った。
これが最後か、という意味じゃない。ただ、なんとなく。こういう感じか、と思った。大事件でも、感動的な場面でもない。縁側から庭に降りようとして、つるっと滑って、背中から落ちた。それだけ。
松子のときも、確かこんなものだった。布団の中で寝ていたら、朝になっても起きられなかった。特別なことは何もなかった。
二回とも、呆気ないな、と思った。少し笑いたくなった。笑えたかどうかは、わからない。
そういうものか、と思う。
人の終わりというのは、案外こういうものなんだろう。断罪の夜みたいに劇的じゃない。誰かに看取られながらでもない。縁側から降りようとして、つるっと。
空が青かった。
本当に青かった。
七十年以上生きてきて、これだけ空を見てきたのに、こんなに青いと思ったのは初めてかもしれなかった。いや、いつもこのくらい青かったのかもしれない。ただ見上げる角度が違っただけで。
追放された日も、空はこのくらい青かった。あの日の馬車の窓から見えた青を、今になってもまだ覚えている。嫌になるくらい晴れていた、あの春の空と、今の夕空が、妙に重なった。始まりと終わりが同じにおいをしている。変な話だけれど、悪くない。
ジジの顔が、視界に入った。
縁側から覗き込んでいた。丸い顔で、黄色い目で、こちらを見ていた。
「なに見てるの」と言おうとしたけれど、声が出るかどうかわからなかった。
まあいいか、と思った。
ジジはしばらくこちらを見ていた。それからあくびをした。大きな口を開けて、のびのびとした、立派なあくびだった。細かい歯が見えて、目が細くなって、また丸く戻った。
「そうね」と思った。
声には出なかったかもしれない。でも、そう思った。
松子として生きて、レナとして生きて、ばあさんになって、七十何年だかを過ごした。悪役令嬢に転生して、破滅フラグを回避して、辺境で薬を作って、五人を見送った。波乱だったか、穏やかだったかと言えば、たぶん両方だった。
悪くなかった。
最後まで悪くなかった。
空が青くて、ジジがそこにいて、夕方の風が草を揺らしていた。草のにおいがした。土のにおい、石のにおい、夕暮れのにおい。何十年も嗅いできた、この村のにおいだった。
締まらない最後だな、とどこかで思った。縁側から転げ落ちて死ぬなんて、物語の終わりとしては地味すぎる。でも松子も地味な死に方だったから、まあ一貫していると言えなくもない。二回とも地味に死ぬ。それが私という人間だった。
ジジが縁側から飛び降りてきた。
とてとてと歩いてきて、私の顔の横に座った。
そのまま、こちらを見ていた。
目が合った。黄色い、丸い目だった。何を考えているのかわからない顔で、でも離れなかった。ずっとそこにいた。
「ありがとう」と思った。
声になったかどうかは、わからない。
空が青かった。それだけで十分よ。




