接触_1
私【浦々一依】はただ、死にたかった。死にたいと思っていた、漠然と。でも、本気で。
私には誰もいなかった。私を搾取する母親も、暴力を振るう父親も、当たり前のように罵倒する姉も、人生のなにが楽しいのかわからない兄も、家族ではなかった、私だけ。私だけだった。
当然ながら、小学校に友達はおらず、それを引き継いだ中学校では存在すら許されなかった。高校は辛うじて行ったが、独りが気楽だった。今だって、何も知らない子には羨ましがられる体型に、自分で切った前髪と黒いゴムでひっつめたいつ切ったのかもわからない髪の毛。知らない人のお下がりで洗濯されていない制服と、指先の薄くなった靴下にゴムが伸びてほつれた下着。家族にさえ愛されなかった私を、誰もきっと好きになどなってくれないだろう。
ただ疲れていた。子どものころから。……いや、正確には、子どものころ……なんて、私にはなかったのかもしれない。
「――ねぇ、あの文化棟、取り壊すんだって?」
同級生の、そんな言葉が聞こえてきたのは、高校三年になったばかりのときだった。
私の高校には、文化棟と呼ばれるかなり古い建物がある。木造の二階建てで、文科系の部活の部室と、資料の管理に使われている。老朽化であちこちにガタが来ており、初めて瞳に映した当時一年の私の目から見ても『危なそうだな』という印象だった。
だからそう聞いた時は『あぁ、やっと手をつけるのか』というのが感想だった。
「でもさ、出るんじゃなかったっけ?」
「え? なにが? ヘビ? クモ?」
「え、やだ。マジで言ってんの? だから、出るって言ったら一個じゃん? ……幽霊」
「うっそ、うっそ」
「あれ、知らなかった?」
「そんな話あったっけ?」
「あったよ? あれ? え? みんな知ってるもんだと思ってた」
大袈裟に驚いてみせると、その友達は不思議そうな顔をしてその子を見ているようだった。
「あー……。だからみんな文化棟のトイレ使わないの?」
「それは単純に古いから」
「なぁんだ」
あからさまに残念そうな声を出したので、私はうっかり笑ってしまいそうになった。
――そんな話を聞いた帰り、私は一人文化棟へ来ていた。先生の話していた、資料室の整理のために。取り壊す話は本当のようで、一度取り壊した後に新しい文化棟を建てるらしい。それまで、ここに置かれているものは、校舎へ移す手筈だ。
文化棟と呼ばれているのは、昔は美術部や文芸部、音楽部に合唱部といったいわゆる文化部がそこで活動していたからであって、私が入学したころにはもうそれらの部活は文化棟で活動していなかった。
職員室で拝借した鍵を持って、私は文化棟の扉を抜けた。
――キィィィ。
強く吹いた風に、扉の枠が音を立てて軋む。こんなところ、用事がなければ普通の生徒は一人で来ないかもしれない。
……なんたって、本当に幽霊が出るのだから。
「お邪魔します」
私は最低限の礼儀として、そう声をかけてから足を踏み入れた。アレが一人の時はそうしている。誰かと一緒の時は、心のなかでそう呟く。
パチッ。――キィィィ。
明かりがつけられ、相変わらず風で軋む扉を背につっくりと進んだ。
「……いらっしゃい」
本来なら聞こえないはずの声。私しかいない文化棟。
「今日は資料室を片付けにきたよ」
至極当たり前に、私はその声にそう返した。
「とうとう、なくなるんだね」
「うん。クラスの子も、そう話してた」
私は声の主を知らない。ただ、ぼんやりと見えることがある。
――それは、ただの影だった。
黒くて、何となく人の形をした影。不思議と怖くはなかった。だが、それが私とは全く異なる存在で、おそらく大半の人間の目には映らないこともわかっていた。
「手伝う?」
「できるの?」
「うーん、ちょっと無理かな」
「だよね」
影は薄ら背景が透けている。ゆらゆらと揺れるから、その影の厚みも濃度も均一ではないのだろう。そんな姿を見せられても、物が持てそうな感じはしない。だけれど、人の形なのだ。人の形をした、ゆらゆらと揺れる、影。多分、生徒たちの言う幽霊とは、この影を指している。見れば大体どこに顔があるのかはわかった。だから私は、目を合わせるように視線を多分そこという位置へ持っていく。……やっぱり、目はないのだけれど。
「見てても良い?」
「勿論。……話し相手になってくれたら嬉しい」
「何だ、そんなこと。喜んで……って、いつも通りだね」
「うん、いつも通り」
クスクスと二人して笑う。私はこの影が男性だと勝手に思っていた。声からして、きっと年は私とそんなに変わらなくて、性別は男性。こんな見た目なのに恐ろしくはなかった。何なら、誰よりも優しい気すらしている。
私は、気付いたらこの影が見えていた。
初めて接触した時は、気のせいだと思った。二回目は、あまりにも友達がいないから、無意識にそんな妄想をするんだと思った。三度目でようやく、これが気のせいでも妄想でも何でもなくて、実在しているんだと理解した。他の人がどう思うか知らないが、私にとってはこの学校で唯一の、いや、これまでの人生の中でたった一人の友達だった。人じゃない。それはよくよく理解しているし、否定するつもりもない。
学校につきものなのは『怪談』やら『七不思議』で、この影もそれに相当すると思っていた。……のに、聞いた話だと今まで誰の目の前にも出ていないと言っていた。文化棟に幽霊の噂が立ったのは、彼に会って時々つまらなさそうだったから『私が彼を模した幽霊の話を作って流した』からだ。ちょっと話を作って先生に知っているか聞いたら、次の週にはもうその話でもちきりだった。噂話によくある、尾ビレと胸ビレを立派に装備して。