表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第三章 前世編
60/120

第三十二話 鎮魂(下)

 橋の欄干へと、京姫は鮮やかに飛び上がり、振り下ろされた鎌の刃を軽やかに仗で交わした。姫とにらみあった漆は口の端を吊り上げた。


 漆の背後では京が轟く赤い山となって燃えている。紅の月光が雲間に差し入り、血の川の流れる渓谷のごときすさまじき景観を作り上げている。水底の静謐から生還したばかりの姫を取り巻く世界は、さながら地獄の果てのように思われた。だが、ここにはまだ守るべき生命があった。


「剣を失ってなおも立ち上がるか、姫」

「えぇ、もちろん」


 京姫が杖をかかげてみせても、漆は冷笑をほのめかすばかりである。


「姫よ、それは所詮祭具に過ぎぬ。それともその仗で私を打つとでも?」


 黙したまま立ち尽くす京姫の樺色の髪が、風に吹かれたようにふわりと舞い上がった。漆は目を細めた。それは生まれた風が姫を取り巻く流れとなり、次第に色を帯び、桜の花弁が舞い散るようになるその経過を見定めようとしてのことだったのであろうか。


『……桜人さくらひと!』


 姫の叫びとともに桜色の風が、漆へ向かって吹き抜ける。不意を打たれ、ほんの刹那とはいえ呆気にとられた漆は、平素のように華麗に攻撃をかわしたとは言い難かった。それでも漆は京姫の技を逃れきったが、ひたと漆に向けられた京姫の瞳は、漆の表情のほんの些細な変化をも見逃さなかった。漆の眼差しから、ゆるやかな波のような嘲弄と倦怠がすばやく引いたのだ。


「ほう……!」


 そこに新たに差したものは、昂りとでも称すべきものであった。敵対する京姫の成長を、漆は喜んでいるらしい様子である。感心していられるのも今のうちよ、と京姫は胸中小さくつぶやいた。


 鎌の刃が銀の毒蛇のように降りてきて、京姫の首筋に鋭い牙を剥いた。京姫は杖の先で払った。甲高い鉄の音が取り囲む轟音のなかで、確かな感触を姫の掌に残して響く。その音の鳴りやまぬ間に、京姫は反対側の欄干へとすばやく飛び移った。


『桜吹雪!』


 知らぬ間に唇から飛び出てきた言葉は、水晶に宿る桜色の光となった。光は直垂の裾を貫き、破れた袖からちぎれた紐の残骸が垂れ下がった。姫は言葉なく次の攻撃を放った。姫の技は漆の左胸を射抜いた。


 と、桜吹雪と共に漆の胸をめがけて幾条もの矢が飛んできて、姫を驚かせた。「姫さま!」というなじみある声と共に、庭へ躍り出てきたのは矢を番え剣を佩く京きっての武人たちであり、その先頭を切るのは、若人に紛れて、その雄姿、少しも遜色なき左大臣であった。白い鬣を振り乱して獲物に飛びかかる獅子のごとく、恐れも知らず、左大臣は駆けてくる。


「左大臣!」


 喜びのあまり姫の声が上ずった。左大臣が生きていた……!私はひとりぼっちではなかったのだ。ああ、今こそ確かに、この京にはまだ守るべきものがあるのだとわかった。


「姫さま、ご無事でなによりですぞ!」


 叫ぶというより、左大臣は怒鳴り返した。白く太い眉の下にある大きな目は、姫を認めて歓喜にきらめいたが、すぐに漆へと戻った。その背後に並んだ十数名ほどの武人たちの精悍な瞳もまた、姫の心を打った。若く、勇猛な武人たちの手は、その黒いまなこと同様に、決してその的を外れることなく続けざまに矢を放つ。その速さ、数、的確さに、もはや避けるすべもなく、浮遊していた漆の身は力を失って落下した。京姫は今こそだと思った。姫は真上を見上げて、仗をかまえなおし、漆の身が見えない結界に触れる、その瞬間を待った。


『桜……!』




 白い稲妻がひらめいたように、京姫には見えた。それは瞬きが見せた幻影のようにも思われた。


 悲鳴ひとつあがらなかった。ただ、雷光のあとに遅れて雷鳴が訪うように冷ややかな死だけが桜陵殿の庭を訪れた。ほとんど本能的に振り返って、姫は呆然とするほかなかった。武人たちは相変わらず矢をつがえて大地を踏みしめている。だが、その首から上が、ことごとく損なわれているのである。自然の摂理さえもあまりのことに立ち迷ったがごとく、鮮血が噴き出し、武人たちの首なき骸が鈍い音を立てて折り重なるのも、死の到着よりわずかに遅れた。


 ひとりのの子の首が、橋の上に転がった。その重たい響きを欄干の上に立っている足裏に感じるとともに、姫の瞳の前に、赤く汚れた三日月が突き出された。京姫がはっとして顔を上げると、桜色の結界越し、銀の鎖を辿った先から漆の冷笑が降ってきた。


「なんで……」


 あなたは死なないの?夥しい矢をその身に浴びているにも関わらず。姫の言葉の続きを漆は知っていたようだった。漆は初めて声を上げて哄笑を立てた。そのそばから、黒い直衣の胸元に埋もれた純白の矢羽は灰となり消えていく。


「我が神は月と死の女神。その権能を手に入れた私に、死はもはや脅威ではない……しかし、姫よ、こんな些事に気をとられていてどうする。たった今、血と死とがお前の聖域を穢したのだというのに」


 低く歌うように、薄い唇で漆が言葉を紡ぐ。三日月がかすかに揺れた。


 京姫は欄干を蹴りだしてすばやく飛びのいた。そうでなければ、橋もろとも真っ二つにされていただろうと思われる。池の上空で、京姫と漆の視線がぶつかった。姫はその時、二人を隔てる薄くも堅固な壁が完全に崩れ去ったことを悟った。


「ッ!!」


 迫りくる鎌の刃を仗でのけて、土の上に降り立った京姫の身が鎖で絡めとられる。あがこうとしてもすでに遅かった。銀の鎖はきつく姫を縛り上げ、その柔い肌に食い込み、肉を破り、骨にまで至らんとした。声も出せぬほどの痛みと苦しさのなかで京姫は仗をかかげようとした。しかし、鎖は手首をわずかにもたげる仕草すら姫にゆるさない。漆はその鎖を引きながら、悠然と宙にたたずんでいる。姫の苦悶の表情を見下ろす瞳が恍惚として潤んでいる。


 食いしばった歯から貴重な空気が漏れ出ていく。今、姫は立っているのではなく、鎖によって立たされているだけだ。全身がじんじんと痺れる。血管がちぎれて皮膚の下で血がにじみだしているのかもしれない。体が膨らんで、体の境目がわからなくなっていくようだ……もう限界だ。


「……!」


 そう思ったその時、鎖がふと緩み、姫の体は宙に浮かび上がった。風のうなりが、痺れを吹き散らかして、姫の皮膚を冷たく痛めつけた。遠い炎の色と真下に見る庭の木立の暗闇と、池の暗黒と、それらがめくるめく入り混ざる視界のなかで、白い天満月あまみつつきの面のような漆のかんばせと出会った。


 漆の薄い唇は変わらず姫を嘲り歪んでいた。しかし、間近で見つめてみて、姫を苛む恍惚に潤んでいたはずの漆の瞳が、一方では姫をいたぶる余地をも許さないほど強烈な憎悪を湛えて張り詰めているのに気がついた。直後に激しく揺さぶられた姫は、たちまちそんなことを忘れてしまったが。


「あうっ!」


 再び世界が掻き消えた。風に喘ぎ、息もつけぬ間に、京姫の身は橋の上に叩きつけられた。漆の鎌の刃を受けた橋はその時まで辛うじて元の形を保っていたが、不穏な軋りをあげて歪みだし、やがて池の面に滑り出す二艘の船となった。しかし、気を失った姫は何も知らなかった。仗が橋板の片割れと共に、少しずつ遠ざかりつつあることも。


 ああ、地面が揺れている――姫が意識を手放していたのはほんのわずかな間のことで、ささやかな波が橋板の縁を洗う音で、京姫はすぐに目を覚ました。ただ目を開けようとするだけなのに瞼が震え、痙攣するのが感じられた。全身が焼け付くように痛み、同時におそろしく寒く、吐き気がした。こうした感覚はなにもかもが、不快なほどに、紛れもなく自分のものとして感じられるというのに、同時に自分の体と突き放されているような気がした。


 ささくれた橋板に突いた掌に振り絞った力をこめる。立ち上がらなければ。仗がない。ああ、あんなところにある……!あの距離を飛び越えられるだろうか。もう泳ぐことは無理だ。体が動いてくれない。でも、歩かなければ。膝を擦るようにして前に寄せ、腕にぐっと力をこめる。なんとか膝を立てられた。欄干にもたれながら、立ち上がり、体を起こす。それだけの所作にも息は乱れ、ひどく苦痛を覚えて涙がにじんだ。ふらつくのは眩暈のせいなのか、立っている橋板が揺らいでいるせいなのかわからない。


 傷ついた足で進むと、不安定な地面がわずかに沈み、履が冷たい水に浸った。その度に震えながらも欄干を掴み重たい一歩ずつを歩み進んでいくことに必死な京姫には、音もなく背後に降り立った漆の影に気がつかなかった。かすかに橋板は揺れたのだが。


 初めて飛び立とうとする雛鳥のように、京姫はためらい立ちすくみ、そして飛んだ。その足が橋を離れると共に、鎌の刃がきらめいた……


 目標に着地した、というよりはそこにくずおれた京姫は、膝をついて弱々しい息を吐きつつも鳴り響いた剣戟に急ぎ振り返った。親しい背中をそこに見出して、京姫は叫んだ。


「左大臣!」

「姫さま、みつえを……!」


 切迫した声も、いくらか土に汚れているとはいえ傷一つない雄々しい背中以上のものは語らなかった。それが左大臣の忠誠であったからだ。潰れた右目を、赤く染まった髭を、傷つき濡れた胸元を姫のおん目にはちらとも触れさせぬようにすることが。


「ほう、死に損なったか。つくづく不幸な男よなぁ。妻にも子にも、妹にまで先立たれ、主人の最期までをも見届けようというのか。憐れな忠臣よ」

「黙るがよい、若造。死に損なったは百も承知。ならば死に損なったついで!その首、貰って参ろうぞ!」


 しゅっ、と風を切る音を京姫は聞いた。姫には、そびえる左大臣の背が見えた。その肩越しに浮かぶ漆の美貌が見えた。風の切る音がやんだとき、漆の目が開かれるのが見えた。左大臣の背が崩れるのが見えた。


「左大臣……っ!!!!」


 左大臣は新たな傷を姫に示すことを恐れてか、ついに振り返らなかった。ただ、「みつえを……」と、かすれた声で姫になされるべきことを促して、慎ましくも、傷ついた身を水底深く押し隠したのであった。


「さ、だ……!」


 声を上げて泣き出したい衝動を、京姫はぐっとこらえた。こらえたものをぶつけるようにして駆けだし、橋の欄干から尖端を差し伸べている仗に飛びついた。姫が駆けだしたための揺動のためにあやうく池に滑り落ちかけたが、姫の指が絡んでそれを留めた。


 ぽたり、と姫の肩に零れ落ちてきたものは水ではなかった。血の滴り落ちてきた先を仰いだ京姫は、頬を蹴られて橋の上に仰向けに倒れ込んだ。もう痛みなどというものは些末な問題になっていた。しかし、この恐ろしく侮辱的な行為に対する憤りだけは燃え上がった。漆は失った右腕を庇いつつ、睨みつける京姫を冷ややかに見下ろしていた。


「かの左大臣も耄碌もうろくしたものよ、そう思わぬか姫?私にはこのような傷は掠り傷にも及ばぬ。死は私を訪わぬのだから」


 京姫が眺める間に、血の滴りは細くなりついに止まった。肩口に集いはじめた赤黒い塵のようなものが傷を塞ぎ、蝶の群れのように飛び交いながら、みるみるうちに新たな腕の形を模った。しかし、この怪奇を目の前にしても京姫はもう驚かなかった。感情はとうに枯渇していた。わかったのはただひとつ――どうやら漆を死に至らしめることは不可能であるらしいということ。通常の戦闘では。


 橋板が軋る。無言で見つめ合う二人に波が戯れかかる。波を浴びて、京姫は放心したように唇を薄く開き、どこか遠くを見遣るような目つきをしてみせた。漆が不審げにその表情を探るのがわかった。


 と、京姫は指で挟んでいる仗を握りなおし、かかげようとした。漆はその素早い動きを見逃さなかった。咄嗟に姫の手首を踏んでそれを防いだ。


『桜吹雪……っ!』


 手首を踏まれたままで、なおも京姫は叫んだ。水晶から放たれた桜色の光は水面に弾けた。姫の瞳にはその色が映り込んだ。さながら桜の花弁のように。


「無駄な足掻きであったな」


 漆の言葉を聞くまいとするように、姫は苦しげに眉をひそめて目を閉じた。それを降伏の証と見たのであろう、漆は姫の手首から浮かした足で、すかさず仗を蹴飛ばした。仗は欄干を潜り、波間に消えた。


「しかし、手首を踏み折られてもなお仗を手放さぬとは見事だ。蹂躙され、なおも矜持を保つのは苦しかろう?姫よ、天つ乙女の依代たる少女おとめよ、羞恥のうちに沈むがよい。今こそ神話は覆される」


 歩み寄る漆の重みにあわせて橋板が傾ぐ。京姫は目を瞑ってただその軋みを聴いていた。もう思うことはない……すべきことは全てやったのだから。


(これでよいのですね、天つ乙女)


 軋みを浸していく波の音が、姫の袖をも濡らしていく。その冷たさが、傷つき火照った指先にじんと沁みた。


(これでいいんだよね、みんな……?)


 そして、京姫は指先に水泡よりやわらかな、さざ波よりあたたかな、かすかな感触を覚えたのだった。


「っ!貴様、なにを……っ?!」


 ああ、このまま眠っていたい。でも、今こそ立ち上がるべき時だ。これで最後なのだから。そう必死に言い聞かせ、癒えた指先で橋板を押し、京姫は立ち上がった。震えながらも見開かれた姫の瞳には、桜の海が映り込んだ。池の水底より浮かび上がり、水面を覆う夥しい桜の花。漆の履にまで纏わり、その悪しき魂を浄化する――池に放たれた姫の桜吹雪によって生み出された、最後の奇跡。


「……っ!」


 漆が浮遊しようとするその一瞬をめがけて、京姫は舞い上がった。桜の花びらに彩られた指先が漆の両肩に触れ、翡翠の瞳が紫紺の瞳に出逢った。もう姫は怖じなかった。京姫の抱擁にあって、漆は逃れる術を知らなかったから。宿敵のおどろきの前では、赦しをほのめかす高貴な微笑さえもが姫の唇にのぼった。


 しかし、赦しはたちまち屹立する厳しさへと変わった。その厳しさを、姫は漆の胸元に強く押し当てて、桜の色に溶かし込んだ。その身もろともに。


「き、さま……っ!」


 それが姫に聞き取れた漆の最後の言葉であった。その声にこもった憎悪の強靭さも、ただ微笑み、抱きしめた、それだけの姫の一連の行為の前では、不相応に思われた。いずれにしても、耳をこする泡の音が全てをかき消してしまったから、どんな感情も無意味であったのだ。



 ……不思議だった。水のなかで、ふと、長くつややかな黒髪に包まれているような気がしたのだ。今宵、最も幸福であった時間を思い出し、紫蘭の名を胸のうちでつぶやくと、安堵と愛と、切なさがそこより満ち満ちた。ほどけていく心と身を水に預け、桜に委ね、京姫は深い眠りに落ちていく。きっとこれきり目覚めぬであろう眠りへと。



(紫蘭さん、お元気で。そしてお願い、生きて……)




 誰も見ている者はいなかった。桜の色が薄れゆく池の面に、白い飛沫がひとつあがって老翁の顔がのぞくのを。老翁は何か重たいものを引っ張るように、大儀そうに水を掻きつつようやく岸にたどり着いた。岸に上がった翁はずぶ濡れになった獅子を思わせる大仰な仕草で身を震わせながら、池より桜色のきらびやかなものを引き上げた。引き上げるなり翁は息をつく間もなく、その桜色のきらびやかなものの、すなわち世にも麗しい少女の花のかんばせの間近に顔を寄せていたが、やがて、ふうと息をつくと、その場にへなへなと座り込んで、しばらく動けぬままでいたようであった。月光は、翁の濡れた髪を銀色に照らし出し、少女の頬を白く輝かせていた。


「いやはや……」






 ……まぶしい、と最初にそう思った。朝日が瞼を透かして差し入り、乳白色の輝きで瞳を刺している。やめて、まだもう少し。もう少しだけ眠っていたいの。とても疲れたから。今日は起き上がれそうもない。


 芳野には今日はお休みだと言おう。朝のお祈りだってどうしたってできそうもないもの。ごめんなさい、天つ乙女よ。今この場で、胸のなかで、お祈りをします。ああ、具合が悪いだなんて言ったら、みんな大騒ぎするだろうな。健康だけは私の取り柄だったのに。


 頭が痛い。体のあちこちがぎしぎし音を立てている。腕と脚が重たい。それに、なんでこんなに寒いんだろう。風邪を引いたのかもしれない。玄武が作る、あの苦くてまずい薬を飲まされるんだろうか。白虎が作ってくれるお粥は美味しいけれど。また、朱雀がお見舞いに来て、膝枕をしてくれるかな?でも、風邪なんてめったに引いたことないのに。いつか青龍から逃げようとして池に落ちた時だって……


 池に落ちた時……



 そうだ、私、池に落ちたんだった。一体どうしてだっけ?誰かを抱きしめていた感触だけを覚えている。その時の心地だけが胸によみがえる。私は誰かのことを思っていた。いとおしかった。切なかった。つややかな黒髪が私を取り巻いていた。私は紫蘭さんと一緒にいた。



 ああ、紫蘭さん……!名前をつぶやいただけで苦しくなるほど幸せだ。銀色の星々が鏤められた夜空の下、あなたのそばで浅く呼吸をしていたい。草のにおいを運んでくる風が、あなたの髪をそよがすのをじっと聴いていたいの。それは、私のかなわぬ夢……いいえ、ちがう。あの光景は憧れが見せた夢なんかじゃなかった。現実だった。この上なく幸福な現実で、なら、今の私は、どうしてそこから突き放されて、こんなに寒くて、ひとりで…………




 瞼を開くと、差し入る日の光は斑になった。それは木漏れ日であったのだ。静かな風が樹々の葉が揺すると、日光は一瞬、無数の金の宝玉のように眩くきらめき、姫の目を射た。京姫は再びじっと目を瞑り、眼ではしっかりととらえた日の温かさがその身に行き渡るのを待った。しかし、皮膚は冷たいまま、日の下にあって永久にその熱と隔てられてしまったかのようだった。あたかも姫の身は水底深くに横たわっているかのようだ。


 諦めて再び瞳を開く。浮遊していた身が急に地に引き下ろされていたかのように、感覚のすべてが重い。ぎこちなく宙をさまよう京姫の瞳は、優しい、しかし恐ろしく疲れ切った瞳に掬い上げられた。京姫は思わずその顔へと手を伸ばしかけたが、腕はわずかに持ち上がったきりであった。京姫はかすれた声でつぶやいた。


「左大臣……」

「御目覚めですかな」


 一晩のうちに左大臣は十も二十も老けたように見えた。服は汚れ、表情は疲れ、白い髪も眉も髭も乱れている。あまりの痛ましさに京姫は一瞬、自分の苦しみさえ忘れそうになった。


「漆は……?」

「姫さまが打ち倒されました」

「じゃあ、京は……?」

「無事とは言えませぬが……しかし、災禍は過ぎ行きました。朝の日と共に魔性のものどもは消え失せ、炎は鎮まりました」

「……四神みんなは?」


 この三つ目の問いを京姫が発したとき、左大臣の表情は初めて曇った。京姫は左大臣が何も答えなくていいように、目を伏せた。ふと目を転じた京姫は、最初に庭の池が燃え立つように朝日に輝いているのを見、倒れた桜の幹の断面が影を帯びているのを見、それから桜陵殿の向こう半分が悉く焼け落ちているのを見た。ほんの一瞬、姫の胸に鋭い痛みが走った。強いて瞳をめぐらせると、左大臣の胸元、痛むその場所と同じあたりに傷跡が見出されて、姫は手をあてがおうとした。少女は翁の膝の上に抱きかかえられていた。


「怪我してる……」

「たいした傷ではございません」

「でも、ちゃんと手当しないと。怪我をほうっておくと、悪い病魔がそこから入ってくるっていつも芳野が言ってたもの」


 その通りでございますな、と呟く左大臣の声はあまりにも弱々しかった。少女と翁の主従はしばし黙り込んで、失ったものの大きさを偲んだ。


(私はまだ生きている……)


 京姫は白い指先が力なく撓んでいるのを眺めつつ思った。


(大切な人々が死んだ。この世を去ってはいけないような人たちが死んでしまったというのに。私はどうして生きているんだろう。私の命にはまだ意味があるの?左大臣が生き延びて、そばにいてくれることが、私にとっては限りなく意味のあることであるのと同じように……?)


 ちょうど頭上に伸べられた枝に、小鳥のつがいがやってきて、木の葉を揺らした。名を知らない、美しい鳥だった。誰かが飼っていたのが逃げてきたのかもしれない。二羽は人の世の不幸を知りそめぬまま、小さな嘴を互いの羽毛に埋めあいつつきあいながら、姫にはわからない睦言を交わしていた。


 京姫と左大臣は示しあうでもなく揃って小鳥たちの睦みあいを眺めていたが、突然聞こえてきたものものしい騒音が、小鳥たちを驚かせて飛び立たせてしまった。京姫ははっとして、いよいよ左大臣の方へと見を寄せた。近くで人の立ち騒ぐ気配がした。しかし、見渡すかぎり人影はない。


「左大臣……」


 左大臣はすでに水底で武器を失っていた。そうであるから、目の前の石垣が崩れ出し土煙の向こうに黒雲のごとく群れる人影が現れるのを認めた時には、動揺したはずである。だが、少しも臆する様子はなかった。京姫といえば、あれほど堅牢に我が前に立ち塞がるものと信じていた壁が、そして今日かぎり二度とその外に出ることはあるまいと信じていた壁が、呆気なく破壊され、崩落した衝撃と、純粋なる驚きのために、目を瞠るばかりである。土煙を抜けて現れたのはさまざまな《《人種》》であった――焼け出されてきたばかりのことが明らかなみすぼらしい恰好の、汚れているながらに立派な服をまとった者、若い男、老いた女、老いた男、若い女、太った母親に抱きかかえられた乳飲み子、祖父と思しき老人の裾にしがみついている者、その数、およそ二、三十名といったところであったか。共通しているのは、石垣に空けられた大きな穴を潜り抜け、可憐な姫君の前に進み出るなり、皆一様に押し黙ってしまったことであろうか。埃に塗れた彼らの顔は、美しきも醜きも皆同じ表情をしていた。唇は心持ち突き出されつつも引き結ばれ、そのまなざしは厳しい敵意ともっと脆い、弱い感情の間に揺れつつ光っていた。京姫は彼らの表情に怖じた。民衆おおみたからの表情に怖じた。


「一体これは……」


 左大臣が口を開きかけた時、人の群れがさっと左右に退いて、開かれた道よりひとりの若い女がしずしずとこちらへ向けて歩んできた。背の高い、美しい女人であったが、その容姿は特の群れのなかにあって特段目立つというほどでもない。ただその優雅だけは隠しおおせることはできなかった。静かに姫を見つめる瞳こそ、まさしく貴人あてびとの瞳であった。姫は夜の深い森を思った。その森では、鳥も獣も木も花もあらゆる痛みと苦しみから守られているが、深更にあたっては、月光は揺らぐことを許されず、風はそよとも吹くことを許されず、夜烏さえもが安らかな眠りを強いられる。その人の瞳には、脆い甘さと、無情さによく似た厳しさとが潜み合う、高貴の本質があった。姫はその人の貴さに魅入るあまり、その御腹おんはらのふくらみにさえあやうく気づきかねた。


 女人は藤色の喪服の裾を払い、御腹のふくらみにも構わずに、姫の前に深々といやした。姫もまた身を起こして礼を返した。京姫としての習慣のため、どれだけ体が重くともこうした所作だけは自然にできたのだ。


「京姫さま、このように暴徒の如くみたちに押しかけました、ご無礼をお許しください」

枳殻からたちの女御さま……」


 名乗られる前から、京姫には女人の正体がおのずとわかった。紫蘭の君ともども讒言によって失墜した枳殻の中の君の姉君。かつては枳殻の大君おおぎみと呼ばれ、やがて入内し、帝の恩寵を得てご懐妊された、たおやかな女人である。帝をも魅了したその筝の音を、姫もいつしか聴いたのであった。


「ご無事だったのですね……」

「えぇ、おかげさまで」


 女御は恭しく瞳を伏せられたが、青ざめたみ顔を再びかかげられるとそれきり決しておもねることはなかった。


「しかし、女御さま、なにゆえに……」


 困惑する左大臣の言葉を、女御は無礼になれぬよう、しかし毅然として遮られた。


「姫さま、此度こたびわざわいにより、わたくしどもの受けた傷はあまりにも深く、たやすく癒えるものではございません。無論、傷とはその身に負うものばかりではありませぬ。昨晩、不幸にも命を落とした者でさえ、羨望の的になり得るのです。愛しい者を失い、殊に目の前で命が切り裂かれ、焼け爛れていくさまを見た者にとっては。心の傷は決して癒えないものでございます……わたくしは幸いにして、いとしい者の死をこの目で見ることはありませんでした。しかし、主上の無残なお姿を見つけたときの慄きたるや。そして今日この日の朝、我が妹の亡骸を川辺に見出したときの悲しみたるや」


 後ろに群れる人々がうつむくなかで、女御おひとりは姫がたじろぐほどにまっすぐに姫を見据えられていた。そのお言葉は澱むところがなかった。


「まして、守ってくれる者もおらず、降りかかる災厄を前になす術もなかった、この者たちの悲しみは、苦しみは、憤りは、いかほどでありましょう、姫さま……えぇ、この者どもは存じております。わたくしどもはたとえこの先どんな悪夢と差向うことになろうとも、進まなければならないことを。ですが、そのために、彼らの、このどうしようもない、やるかたない怒りは清められねばなりません。そして、彼らは、その身に浴びた血を血で以って拭うという、最も残酷なる潔斎の儀を選びました。姫さま……」


 女御はここでひとつ息を吸われた。


「……どうぞ、この者どもの手によって儚くおなりくださいませ」

「いやはや!」


 左大臣の叫びが耳元でほとばしった。いまだ女御のお言葉の意味を理解しかねている姫は、女御の残酷な願いよりもそちらの方にびくりとした。


「いやはや!これは狂気の沙汰としか思われませぬ。女御さまはお悲しみのあまりご乱心と見える。お気を確かになさりませ、女御さま!一体なんの咎があって姫さまが……九条家の名にかけて申しますが、姫さまは昨晩、この京を守るために戦われていたのですぞ!その戦いたるや、かの四神たちが命を落とすほど過酷なものであったにも関わらず、それでもなお、姫さまはおひとり命を賭して最後まで戦い続けられたというに!そして、まさにこの池に災禍のあるじを封印されたというのに!それがわからぬと申されるのか!」

「此度のことは姫さまの罪によるものです」


 女御は微笑みながら冷然として言い放った。左大臣が凍りついたのを姫は感じた。


「左大臣さま、あなたは民を見下していらっしゃいます。民は見ております。民は聞いております。姫さまが昨晩、紫蘭の君と共に京を出られましたことをこの者どもは知っております。それでもなお、姫さまに罪はないと?」

「しかし、しかし姫さまは……」


 左大臣は弱々しく喘いでいた。


「しかし、姫さまはその償いをされたとは思われませぬか。命を賭して、敵を葬られ……」

「……いっそ戦いのなかで命を落とされるべきだったのです」


 女御はその時はじめて京姫と左大臣から顔を背けられた。


「そうすればわたくしどもは姫さまを讃えることもできたでしょう。ですが……生き残ってしまわれた。姫さま、それはあなたさまの不幸でございました」


 枳殻からたちの女御が懐へ手を差し入れて何か布切れのようなものを取り出されるのを、京姫は見た。女御はその布切れを押し当てて、横顔にきらめいたものを拭われたようだった。女御の独り言を、姫は遠くに聴いた。


「ああ、中の君。わたくしだって、こんなものを見つけなければね……この産着が、あなたのたったひとつの形見がわたくしの不幸になるだなんて、あなたは考えもしなかったでしょう……」


 女御は布切れを懐に再びしまわれた。こちらに向き直った瞳はすでに静かだった。


「かような次第でございます。姫さま。どうぞこの者どもの願いをお聞き入れくださいませ。そうでなければ、わたくしは我が身のうちにまします新たな帝に代わって、いいえ、帝その人として勅命を下さねばならなくなります」

「それはあまりにも乱暴な……!」

「しかし左大臣さま、あなたお一人で姫さまをお守りすることができますか?ここにいるのはわたくしを慕い、わたくしに従う者たち。無礼を恐れるだけのわきまえはございますし、姫さまへの信仰もまだ残っております。この石垣の外にいるのが皆同じなどとお考えになりませぬように」


 京姫と枳殻の女御の目が合った。姫はようやく理解した。この国の民が、命を賭して守ったこの国の人々が、姫に対して何を望んでいるかを。


(私は死なないといけないんだ。私は死ななければいけない。この人たちの手にかかり、殺されなければいけないんだ。つまり、つまりそれは……罪びととして、刑に処されるということだ…………)


 ふしぎなことに怖さはなかった。むしろ諦めにまざって安堵にも似たものがつうっと、胸に流れ出すのを京姫は感じていた。それはもてあましていた火傷の水膨れが破れるのを見るときと似ていた。もう何も守る必要はない。その無責任な放擲の気楽さが、死を前にして姫を落ち着かせていた。否、そもそも昨晩からずっと死と向き合いっぱなしではなかったか、私は。


 左大臣はついに絶望のなかで気持ちが振り切れたのか、こともあろうに女御に向かって吼えていた。


「いいえ、何としてもなりませぬ!それだけは、決して許されますまい!」

「左大臣……」

「たとえこの国の民が一人残らず敵になろうと、わたくしは姫さまをお守りいたしまするぞ!ええ、勅命であろうとも!!」

「左大臣」


 かき消されてしまう我が声のか細さにあきれ、京姫は立ち上がった。足元がふらつき、頭がくらくらした。世界が激しく回り、重たい全身がずきずきと痛んだ。だが、こんな苦痛とももうおさらばだ。


 京姫は左大臣の肩に手をかけた。振り返った左大臣の目に懇願と恐怖の色を見取って、姫の胸はかすかに痛んだ。でも、もう決意は変わらない。


「いいの、左大臣。もういいの」

「何を仰いますか、姫様……!」

「この国の人々を守るのが京姫の役目だから……私には守れなかったし、もう守れない。だからこれでいい。それにね、左大臣、自分が守らなければいけない人々に向かって、手をあげることはやっぱりいけないよ」

「しかし、何も姫さまが……!」


 縋りつく手を優しく振り払うと、左大臣はそのまま地面に膝をついてしまった。それでも手を伸ばし、大きな瞳を見開いて声ならぬ声を発せようとする左大臣を、京姫が屈みこんで、残された力のかぎりで抱きしめた。


「ありがとう、左大臣。最後までそばにいてくれて。それから……ごめんなさい。左大臣にだけはこんな悲しい思い、させたくなかったな」


 それを聞くなり、左大臣ははっと息を呑み、がくりとうなだれてしまった。姫はかつてない胸苦しさに悶えていた。心では血の涙を流し続けていたのだ。ただ、それを微塵も気取られてはいけなかっただけで。


 足を引きずりながら前に進むと、数歩歩いたところで足がもつれて倒れかけた。枳殻の女御がご懐妊の身も省みずに、おん自ら姫の体を抱き止めてくれた。女御の喪服からはまだほのかにみやびな香のかおりが漂っていた。姫はいくらも歳の違わぬこの女人に対し、母に覚えるような思慕さえも抱いた。


「姫さま、ご安心くださいませ」


 女御は民衆に聞こえないようにだきしめながら姫にそっとささやいた。


「いずれわたくしもそちらへ参ります。この国はもう帝などというものを必要としておりません。わたくしもこの御子も、いずれ姫さまと同じように……」


 京姫は思わず女御の顔を見上げたが、姫から離れつつ、女御はすでに取り澄ました表情に戻っていらっしゃった。


 そうして京姫は連れていかれた。両の腕を縄で縛られ、枳殻の女御に伴われながら。崩れた石垣を越え、門番なき北門を潜り、京へと――






 ……門の先に待ち受けていたのは灰だった。そこは、いいえ、それは京なんかではなく、灰だった。あるいは黒く焦げ、あるいは赤い傷跡も生々しい人々の亡骸は片付けられずにまだあちらこちらに横たわっていた。瓦礫の間に、死した人々の衣服の色が風に揺られて明滅していた。生きている人々は力なく座り込み、私たち一行を眺めやっていた。時に、私の顔に憎悪に満ちた視線を投げかけるも者あったけれど、私に危害を加える者はいなかった。きっと、女御さまの毅然とした様子がそれを憚らせたからだろう。


 一行の歩みは厳かながらに速く、私の足はどうしてもついていけなくなった。その度に、女御さまが気づいて私の身を支えてくださった。私にはどうしたってこの御方が私の罪を咎めようとしているようには思えなかった。女御さまの態度には慈しみと憐みがあった。


 私を囲む人々はどうだろう。こんなに間近でこの国の民と接したことはなかったのだ、私は。皆、私から目を逸らし、陰鬱に黙り込んでいる。この人たちからも私に対する敵意は感じない。かといって、私に対する優しい感情もまた感じられなかった。皆疲れきっている。しかし、いずれ皆きっと立ち直る。この人たちの世界がまた拓かれる。そのために私は死ななければいけない。


 女御さまが仰ったことの意味はよくわかっている。私も女御さまも、古い世界に属しているということだ。古い、神の最後の息吹のうちに包まれた世界に。私の罪が、天つ神としての振る舞いを忘れ人として生きようとしたことが、神話をこの国から遠ざけてしまった。だからこそ、私は滅びなくてはいけない。京姫はもうこの国に必要ないのだ。



 ああ――!



 私は罪びとにはふさわしくない行為と知りながらも空を仰がずにはいられなかった。この死のにおいに満ちた町。私の罪の証。私の愚かさの証明。それなのに、それなのに……なぜ世界はまだ美しいのだろう――日の光、小鳥の声、やわらかな風――もちろん、未練などない。この先の世界が私には許されないことも知っている。罪は償う。私の死によって、償えるものならば。


 私には嬉しいような、恐ろしいような気がする。私の罪深さを思えば、世界がまだ美しいということが喜ばしい。私はこんな美しい世界から放り出される。私は相応の罰を受ける。でも、一方では、私の罪を以ってしてもなお、世界に美しさが残されている、そんな余地があることが恐ろしい。


 でも……


 この荒れ果てた地に、玄武の、白虎の、青龍の、朱雀の亡骸が横たわっていることを思う時、風が死者を焼く煙のにおいを伝えてきて、世界の美しさなどというものはたちまち剥がれ落ちてしまう。



 ……そうだ、やはり私の罪はかほどに重たいものなのだ。



 昼前に、私の体は柱に括りつけられ、玄武門の前に掲げられて晒された。ここでも私につぶて一つ投げつける者はいなかった。ただ日差しが眩しくて、私はじっと目を瞑っていた。喉がからからに渇き、灼けつくように痛んだけれど、もう水を欲しいとも思えなかった。私は眠りかけては息苦しさに目覚め、また意識を失いかけては物音に目覚めた。


 真昼ごろに目をうっすらと開くと、大勢の人々が私を見上げひしめき合っていたので、いよいよ刑が執り行われるのだとわかった。果たして、低くの音が鳴り響き、槍をかまえた二人の男の人が現れて私を挟むように柱の両脇に立った。女御さまが人々に向かって何かを語りかけている声がしたけれど、よく聞き取れなかった。聴衆が息を呑んでその言葉に聞き入っている様子だけはわかった。


 そして、静寂のなかで――予想に反して、誰一人罵声をあげるでもなく――二本の槍が交差しながら私の胸を貫いた。激しい痛みのために、薄れかけていた意識が蘇った。私は見苦しく悲鳴を上げることはどうしてもしたくなかった。それでも声は漏れたと思う。


 二度、三度と刺し貫かれるたびに痛みは堪えがたくなった。けれども、ちょうど四度目であっただろうか。槍の先が私を柱に縛り付けていた古い縄をかすめたせいで、私の身は柱から地面に転がり落ちた。それきり私にはもう何も見えなくなった。最後まで残っていたのは人々がおめき騒ぐ声だった。






 ああ、まただ。




  また誰かが泣いている……暗闇のなかで誰かのすすり泣きだけが聞こえる。



 これは夢なのかな?それとも現実?どっちにしてももうわからない。




 ああ、やっぱり私にはあなたは助けられなかったなあ。何度も夢のなかであなたと会ったのに。もう何も見えないの。それにあなたのすすり泣きもどんどん遠ざかっていっちゃう。



 ……ごめんなさい。





 ごめんなさい……




 全部、全部、私のせいだ。




 この罪は償えない。でも、あなたにだけ最後に願うの。許してなんて言わない。でも……ねぇ、泣き止んで。お願い。




 



 だって、私たちはきっと……












 きっと、また会えるから――






【第三章 終了】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ