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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第二章 現世編―芙蓉の巻―
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第十二話 花と狐(上)

 桜花市の東部を北から南へ、寄り添うように流れる東雲しののめ川の水は、やがて東京湾へと出て海水に紛れ、太平洋上に浮かぶその小さな島にも白い波頭の欠片となって流れ着くやもしれぬ。その島の人々は最低限の力と最小限の人口を以ってして、何とか文化的な社会生活らしきものを営んでいたのである。取り残されることを彼らは厭わなかった。却って取り残されれば取り残されるほど、彼らは頑なに先祖以来――そしてその先祖というのが、彼らの中ではなによりも貴く崇めるべきものであった――守ってきた旧式な、原始的な、けれどもそのために一種すがすがしい美しささえある生活にかじりついた。遠い社会から彼らの生活を見下ろす人々は、消えゆくものの儚さをそこに見出しては、そんなものをおが屑のような粗野な人々の生活の中に見出せる自分自身に満足し、それを喧伝しようと躍起になった。


 けれども、消滅の時は、島民たちの、そして島民たちを「見守って」きた賢いはずの人々の予想よりもずっと早く訪れた――


島の中央にはさして高くはないけれども、人の手がさほど入っていないせいで未だに険しい容貌を保っている山があって、その頂きは命ある人は無暗むやみに立ち入れぬ決まりになっていた。そこは、死者の土地、先祖の土地であったのである。死せる人は、旧盆明けの最初の子の日になると、皆、あの頂きに集まって、一晩中自分の子孫たちの行いについて話し合い、あまりにも行いの悪い者には罰を下し、行いのよい者には幸福を授けるのだと、島民は考えていた。だから、その前夜には、先祖へのお供え物をことこと煮る音、立ち働く女の足音、食器の触れ合う音、男の酒を酌み交わす音で、この孤島も賑わったものだった。翌朝になると、それぞれの家の男主が膳を掲げて並び、山頂の小屋にその前夜に女たちの作った煮物やら、混ぜご飯やら、魚やらを供えて、自らの一族の潔白を宣言して、山を下っていく。その夜には誰もが戸を固く閉ざして決して山の方を見ようとしない。うっかり先祖の集まりから漏れる灯りを見てしまうと、「お呼び出し」がかかってしまうからだ。だから人々はその夜は暗くなる前から布団に入ってしまう。この行事のことを、素朴な人々はただ「まつり」と読んでいた。


 彼はまつりの夜のことを思い出した――じめついた夜に寝付かれずに、草木も眠る夜のしじまに身を溶かそうとして、裏庭をぐるぐると歩き回り始めたとき。山の頂に灯りがちらちらと二度ほど点滅して見えたとき。それから彼は暗闇の中で目を凝らすべく、必死に目を擦って、すっかり青ざめた。足腰に震えがくるのを感じた。とんでもないものを見てしまった――それが七十年この島から離れず、まるでこの地に種を蒔かれた草花のように根を張って生きてきた彼の最初の感想だった。彼の血管は恐怖に凍りついた。「おまつり」の灯を見てしまった。「おまつり」の灯を見た者は呼び出されてしまう。あの世に連れていかれてしまう。


 それから、翁はふと思い出す――しかし、今日は「おまつり」の日ではない。「おまつり」の日ではないのになぜご先祖様が山に集まるのだ。ご先祖様がお帰りになるのは八月の十五日と決まっているではないか。それとも、なにか。あの山の頂にいるのはご先祖ではない者だというのか……


 ともかく誰かに知らさねば。あの場所に誰かが無断で入り込んでいることだけは確かなのだから。翁が裏庭を横切って、隣家の婆さんのところへ駆けこもうとしたその時だった。翁の視界が途絶えたのは。そうして、島はたちまち阿鼻叫喚の地獄絵図と化したのだ。





「あぁっ!おかえりなさい!」


 水仙女学院高等部で謎の怪物騒動が起こった日のその夕方のことだった。物思いに耽りながら、執事の開く扉より広大な玄関ホールに踏み込んだルカにいきなり弾丸のように飛びついてくる者があった。ルカは慌てて飛びついた人を抱きとめたが、その次の瞬間に、その人はもうルカの腕の中より抜け出して、娘の肩を激しく揺さぶっていた。


「ルイ!もう心配したのよ!大丈夫だった?!怪我はない?!怖くなかった?!」

「一体なにを……」


 母は今にも泣きそうな顔で叫ぶ。


「知らないの?!学校で事件があったのよ!今テレビでやってたんだから!ママ、心配で心配で……!」


 肩の上で切りそろえたワンレングスの金色の髪。すらりと伸びた長身と、アイスグレーの瞳、よく通った鼻筋、その肌の透き通るような白さなどは、確かにその娘にも受け継がれている。けれども、長い睫毛の下に宿る子供のような無垢な光や、引き締まりつつも丸みを帯びた体のラインは、いまだ娘の持ち得ぬものであった。どこまでも心を開け放して、相手にぶつけていく、その直球で天真爛漫な態度も、また。


 白崎ソフィア――元の名をソフィア・ドミトリエヴナ・パブロワ――通称ソーニャは、は、二十歳までは、横浜のロシア料理屋で働く、素朴な、学のない娘であった。高齢の両親は生まれて間もなく他界したので、年の離れた兄がその面倒を見たのだが、その愛する兄のドミトリーがいくら説得しても、ソーニャは大学にはいかないと言い張った。元々勉強はさほど好きではないらしいのも理由の一つだったのだが、とにかくソーニャはこれ以上兄の厄介になりたくない、少しでも早く自立して家計を助けたいと考えていたのである。ソーニャは人好きがする、明るい、素直な娘であったから、ある時、Shirosakiグループの御曹司に見初められて、めでたく結婚する運びとなり、今はこのちょっとした城のような大豪邸の女主人の座に収まっているのである。しかし、財産も社会的地位も、この世にも稀な純真さを持って生まれた女性にはなんの感化も及ぼし得ないことは、既に証明されている通りである。ルカはなんとか母親の手を肩の上から引きはがすと、低く溜息を吐いた。


「そんな騒動知らないさ。怪物なんている訳ないだろう」

「でも、テレビでは……!」


 食い下がる母親に、ルカはやや露骨なぐらいに肩をすくめてみせた。


「いいかい、母さん。テレビなんて面白そうなことから突っつきだしていくものなんだ。信用してると今にバカを見る。どうせ集団ヒステリーかなにかに決まってるさ。怪物なんて姿も形もなかったよ」

「そうなの……」


 ソーニャは子供にすげなくされたというより、親に道理を説かれたというようなあどけない表情を浮かべて、玄関ホールを抜けていこうとする娘の後ろ姿を見守っていた。と、突然、その表情がボールをひっくり返したようにくるりと変わった。ぽんと手を打って、母親はルカの後ろ姿に叫びかける。


「あっ、ルイ!ミーチャがね、来てるわよ!柏木かしわぎさんも一緒!お部屋にお通ししておいたからねー!」


 柏木の名に、思わずルカは立ち止まりかけたが、母親の手前歩き続ける。玄関ホールを抜けて扉を一つ潜ると、長い廊下が横たわり、その正面には応接間へと続いていく扉が立ちはだかっている。ルカは進路を右にとった。そのまま進んでいけば、防音室のある四階へと続く階段に突き当たる。


「おかえりなさいませ」

「……ただいま」


 ルカの姿を見つけてしずしずと頭を下げるメイドに、ルカは軽く手をあげて応える。何を案じていたのだか。そうだ、柏木のことだ。よりによって奴が来ているとは。しばらく部屋に行くのはそうか?と、考えて、ルカは自嘲気味にふっと笑った。なぜ家主が遠慮する必要がある?思えば奴に玲子に対するどんな権利があるというのか?私は前世からずっと彼女を見守っていたのだ。前世の、ごく幼いとき――柏木が彼女に懸想するずっと前から――同じ四神として、傍にいた。命を救ってくれたものとして、敬い続けた。そして、彼女を愛し続けた。死がその体を蝕む瞬間でさえも。


 あの辛い別離の時が、二度も訪れるとは想像もしなかった……




 「私の体を頼むわ」

 四月十二日月曜日――ルカの身はモスクワのホテルのベッドの上にあった。その微睡みのうちに、玲子は現れた。滅多なことでは微笑まぬ彼女は、その時も一抹の寂しさも悲しみもほのめかさず、己自身のうちできちんと始末をつけた通りの感情と覚悟とを、ただルカの目が彼女の瞳を射る故に、日に照らされた月のように、輝かせるだけであった。


「玲子、君は一体……!」

理由わけはいずれ話すわ……守って、姫様を」


 その明後日に帰国する予定だったのを、急遽その日の便で東京に戻った時、玲子は寝台の上に冷たい骸となって横たわっていた。柏木はただその傍らで途方に暮れていた。彼らしくもなく……ルカとて許されるなら見つめ続けていたはずだ。見慣れた、けれども決して見飽きはせぬその頬に見知らぬ温度が宿るさまを。しかし、呆然としている暇はなかった。とにかく困るのは、傍目には既に事切れているとしか見えない彼女の体を、いかに人目に、そして敵の目に触れさせずに、守るかということであった。柏木は自宅で預かると言い張ったが、激しい議論の末、ルカが玲子を勝ち取った。ルカはその夜、柏木と伯父・ドミトリーと共に玲子の体を白崎邸へと運び込み、敵の偵察が及ばぬようにと風の力で結界を張った。そうして待ちつづけている日々が、かれこれもう二月ほど。


 時折恐ろしくなる。玲子はもう二度と目が覚めぬのではないかと――そんな恐怖が胸にのぼるたび、ルカは自分自身を蹴り飛ばしたくなる。そんなことがあるはずはない。玲子は必ず目覚めるに決まっている。たとえ這い上る事が不可能と見える死の白い絶壁の下からでさえも、玲子は必ず舞い戻るであろう。けれども……それはいつなのだ?そもそもなぜ彼女はこんな仮死の水底に身を沈めてしまったのだ?


 周囲を窺って、防音室の扉を開いたルカは、途端に背の高い男の影がその顔にかかったのを感じて、不愉快そうに後ずさった。年の頃は四十半ばごろ。黒いスーツ姿の、肩幅のひろい男性である。黒い髪をオールバックにした、いかにも精悍せいかんそうな顔つきの男性であるが、ルカを見た瞬間にその三白眼はごくわずかながらも軽蔑のために細くなった。柏木武かしわぎたける――前世では右大臣として政権を握っていた男である。先帝の信任厚く、畏れ多くも若い新帝の補佐を任され、権力をほしいままにした。ルカは柏木を睨みつけた。並の男ならば見上げないで済むものを。この男には見下ろされなければならない。それが気にくわない。この男は玲子の傍に常に付き添っていることができる。それも気にくわない。その顔つきも、その声も、その眼差しも……


「遅いお帰りじゃないか、ご令嬢」


 柏木はルカのために扉を開けておいてやるようなことはせずに、後ろ手で扉を閉ざした。或いは、部屋の中に生温い空気が入り込まないように。


「……また来たのか」

「お嬢様をお守りすることが俺の役目だ」

「図々しい奴だ。他人の家にずかずかと」

「安心しろ。もう帰るところだ」


 柏木がルカの傍らを通り過ぎて、入れ替わりにルカが防音扉に手をかける。廊下を歩みはじめていた柏木は、ルカが扉を開きかけているところでふと立ち止まった。


「また敵が現れたそうだな。しくも水仙女学院に」

「……姫様たちが倒された」

「それで、貴様は見ていただけか?手をこまねいて」


 ルカは部屋の中から漂い出てきた冷気に視線を凍らせて、柏木へと投げつけた。だが、柏木は嘲りの笑みを留まらせたままであった。


「扉を閉めろ。開け放したままにするな」


 扉を閉ざしたルカは、向けられた笑いの性質に近しいものをなんとか見つけ出して、その口元に繕った。


「柏木、今の言葉をそっくりそのまま返してやる。貴様こそ姫様の元に駆け参じたらどうだ?玲子のことは私が守る……!」

「それは少し無責任が過ぎないか?貴様は四神だろう。京を悪しき力から守護し、姫様に仕えるのが貴様の職務だ。女が祭祀まつりを司り、男がまつりごとを司る。男の俺はせいぜい政治を執り行うことしかできない……俺はただお嬢様のために現世にやってきた。無論、漆とは戦うが。だが、女である貴様とは、責任の重みが違う……」


「黙れ!!」


 ルカははからずも言葉を乱す。


「……貴様は昔からそういう奴だ!己の身のことしか考えない、唾棄すべき奴だ……っ!貴様には姫様の元に参上する資格はない!……玲子を守る資格もない!」

「どうとでも言え」


 柏木は冷然と吐き棄てた。


「貴様にどう罵られようと構わん」


「消え失せろ!!」


 怒鳴りつけて、ルカは防音扉の内に飛び込んでいく。荒々しく入ってきた姪を、腕を組みながら何事か考えていたらしいミーチャおじさんは驚きの表情で出迎えた。

「どうしたんだい、ルイ?」

 優しい伯父の言葉にも、今は応えるに気にはならない。ルカの胸のうちは憎悪と怒りとで満ち溢れていて、理性的な言葉が生まれる余地はなかったのだ。憎悪と怒り――それは柏木への?否、違う。それは自分自身への。柏木の挑発にまんまと引っかかった自分への。柏木の言葉には、ルカを逆上させるための細やかな罠が至る所に散りばめられていた。柏木は知っている。女として生まれてしまったルカの劣等感を。しかし、柏木は更に知っているのである。女であるとか、男であるとか、そんな問題がいかに些末であるかを。彼の、そしてルカの愛する人の生き様がそれを証明しているが故に。だからこそ、そんな些末な問題に躓いて、うずくまっているルカを、柏木は嘲るのである。


(私は愚かだ……!だから、いつも、あいつに先を越されてしまう……!)


「……ルイ?」


 頬が冷えると、ルカは少し落ち着いて、扉にもたせかけた身を起こすこともできた。ルカは眠れる乙女の傍らへと歩み寄ると、その力のない手をそっと握りしめる。冷え切ってしまった、青ざめた手を。


「ルイ、大丈夫かい?」


 ミーチャおじさんが尋ねる。ルイはおじさんには見えないところで、静かに笑った。


「おじさん、私はいつも負けてしまうんだ。柏木の奴に……どうすればいい?」

「争わないことさ」


 おじさんは針のような痩身を、ルカの隣に並べて、姪の肩に手を置いた。


「争わないことさ、ルイ。味方同士で争ってはいけないよ。同じ志を持つ仲間なんだからね」


 その頃、扉の向こうでは、柏木が床の上に屈みこみ、何かを拾い上げていた。部屋の冷気に凍てついて、ルカの背中から剥がれ落ちたもの――凍れる葛の葉と見えたものは、柏木が摘み上げるなり粉々に砕け散った。柏木はその粉を掌の上に弄び、体温に溶け行くその雫を払って後、立ち上がって表情を険しげに寄せた。嫌な予感がする。この予感が当たってくれなければよいのだが……



 その日の夜、翼と奈々とは京野家の夕食に招かれた。突然のことではあったが、今日のことを話し合うためにも、三人にはどうしても時間が必要であった。明日は土曜日であるから、そのまま翼と奈々は泊まっていけばよいのだ。翼は稽古を終わらせ、奈々は弟と妹たちに夕食を食べさせてから、それぞれ京野家へと集まった。舞の母親、父親、ゆかり、舞、翼、奈々という総勢六名での賑やかな食事中、今日の水仙女学院での騒ぎのことが持ち出されはしたものの、舞たちはできるかぎり口を閉ざしていた。舞が積極的に声をあげたのは、ゆかりが怪物の正体について言及し、「舞を見間違えたのではないのか」との推理を披露したときのみだ。ゆかりはあの後さっさと帰宅してしまっていたし、怪物のことはまるで信じていなかったから、全くもってお気楽なものであった。


「あー、美味しかったー!いやー、舞ちゃんのお母さんってお料理上手だねー」

「そんなぁ。奈々さんだって上手じゃない」


 黒いTシャツにジャージのズボン奈々は、あおむけに寝転びながら、「まあねー」と謙遜もせずにさらりと受け流す。その傍らでは翼が藍色の洗い髪を水色のパジャマの右肩の方に流して、頬杖をついていた。


「あっ、そうだ、悠太にルーシーにご飯あげるようにいわなくっちゃ」

「ルーシー?」

「あれ、奈々さんの家って何か飼ってましたっけ?」

「うん。トカゲ飼ってるの。お兄ちゃんにもらったんだ」

「ト、トカゲ?!」

「あれ、なに翼ちゃん。トカゲ嫌い?」

「嫌いじゃないですけど……ちょっと苦手かも」

「えっ。じゃあ、こまちゃんは?」

「こまちゃん?」

「というか、奈々さんのお兄さん、トカゲ好きなんですか?」

「うん!爬虫類が好きなの。大学でもヘビの神様について研究してるんだって。そういえば、一緒に住んでた時にヘビ連れて帰ってきて、ママが気絶しちゃったこともあったなー」

「あ、あのかっこいいお兄さんが……!」

「えっ?お兄ちゃん、かっこいいと思う?かっこいいよね、やっぱり?!」

「えー、よいですかな、皆さま……!」


 窓枠に腰かけた左大臣が折り合いを見て咳払いをしても、寝間着姿の少女たちはすっかりおしゃべりに夢中になっている。


「いいなあ、奈々さんにはお兄ちゃんがいて。私もあんな乱暴なお姉ちゃんじゃなくてお兄ちゃんがほしかったなぁ」

「あたしもお兄ちゃん欲しかった……!お姉ちゃんって怖いんだもの」

「えー、みなさま……」

「奈々さんのお兄さん、優しいですよね?命がけで奈々さんのこと助けに来てくれるんですもん!」

「うん!世界一のお兄ちゃん!」

「わーん、この世は不公平だ!なんで私には……」


「いいですかな?!みなさまっ!!!!」


 左大臣の大声に、三人はようやくきょとんとして静まった。左大臣は窓枠に立ち上がり、大声を出したためにはあはあと息を切らしていた。その様子が、本人の意図から離れて随分とかわいらしく、おかしみのあるものになっていることは、少女たちだけが知っていた。奈々が思わず吹き出す。


「奈々殿!まったく、ふざけてる場合ではありませぬぞ!我々が今宵、何のために集まったかを、思いだして頂きませんと!」


 三人は顔を見合わせて、同時に「あっ」と言った。左大臣は思わず窓枠から転げ落ちかける。


「皆さま、そ、揃いも揃って……」


 翼が笑いながらも手を合わせて謝る。


「ごめんね、左大臣!すっかりはしゃいじゃってたから。そうそう、それで、白虎のことだ。どうだったの、舞?」


 途端に舞は表情を陰らせて俯いた。ピンクのパジャマの膝の上で、縋るように枕を抱きしめて、舞は話しづらそうに語り始める。


「人違いだって、言われちゃった……」

「えーっ?!」


 翼と奈々が同時に叫ぶ。


「嘘でしょ?あんなそっくりだったのに……」

「もちろん、嘘なの。でもね、ルカさんは理由があって嘘を言ってるの……その理由はわからないんだけど、きっとルカさんにとって大事なことなんだと思うの。なんとなくなんだけどね、分かるの。ルカさんは何かを守ろうとしてるんだって……」

「でもなにを?」


 翼の問いに、「わからない」と舞は首を振って、それから咳き込むようにして語り出した。


「でも、でも、私ね!ルカさん、本当は一緒に戦いたがってると思うんだ。そうじゃなきゃ、わざわざ守ってくれたりしないよ。私、もうちょっと待ってた方がいいと思う……そんなのって、無責任かな?」


 舞は左大臣を見遣る。翼と奈々の視線もそれにならった。一同の視線を受けて、床の上に腕を組んで坐り込んだ左大臣は唸り声をあげた。


「しかし、姫様、一体いつまで待たれるおつもりです?私にはルカ殿が我々と戦いたがらぬ理由など、皆目見当がつきませぬぞ」

「そうよっ!それに、奈々さんの時と違って、あっちは覚醒までしてるのに……!」

「まあまあ、翼ちゃん。そうは言ってもさ、嫌がってるもん無理やり引っ張ってきても、うんとは言わないんじゃないの?」

「でも、理由があるんだったら、ちゃんと話してくれないと!言えない事情があるにしたって、やっぱり黙ってるなんて無責任だもの……!」

「うーん、無責任って点で責められると、辛いなぁ」

「どういたしますか、姫様?」


 左大臣が黙り込んでいる舞に再び発言権を返して、優しく問いかける。舞は奈々をどうするかということで翼と諍いを起こしたときのことを思い出していた。まただ……四神を集めて共に戦うという理論自体はあまりにも明快で単純なのに、複雑な現実に行き先を阻まれる。舞たちは皆、同じ意見だ――世界を守りたい。この町に平和を取り戻したい。漆を倒したい。それだけなのに、なぜ皆の指針はそれぞれに異なるのだろう。なぜ内輪で揉めなければならないのだろう。舞は枕をますます強く抱きしめた。左大臣が舞に尋ねた理由はわかっている。私は京姫だから……リーダーとして、みんなを引っ張っていく役割だから。内輪もめをまとめるのも、舞の役割だ。


 舞自身は待ってみたい。ルカが心の重荷から解き放たれて、「共に戦う」と言ってくれるその時を。けれども、左大臣や翼の言うことももっともで、それがいつになるかも分からないにも関わらず、悠長なことを言っていられない。そんなことをすれば、また螺鈿の時のような悲劇が怒らないとも限らない。あの事件は、結果的になんとか上手くおさまったからよいものの、下手をすれば町中が、もしかすると東京中が焼き払われてしまったのかもしれないのである――そうだ、待つことはできない。でも、だからといって、ルカを無理やり戦場に引っ張り出して、ルカの心を、ルカの大切にしているものを、粉みじんにしてしまうことも、避けたい。ならば、やはりもう一度話し合わなくては。せめて、話し合おうと試みよう。そして、それは、舞一人が全責任を持って行うことだ――私は京姫なのだから。


「私、もう一度、ルカさんに会いにいってくる」


 舞は顔を上げて、しっかりとした声で宣言した。


「とにかく説得してみる……こう言った以上、私が責任を持つから。しばらく、私一人に任せてくれないかな?」


 「そんな……!」と翼は抗議したが、奈々がぽんぽんとその背中を叩いて諌めた。


「まあまあ。リーダーの決定だもの」

「でも、舞一人に責任押し付けるんじゃ……!」


 舞はにこりと笑う。


「ありがとう、翼。でも、私、やってみたいんだ。いつも翼に発破かけられてたんじゃ、みっともないもんね!」


 その時、扉が開いて、舞の母親がお盆の上にカップのアイスクリームを三つ載せてやってきたので、少女たちの表情は重たい使命を帯びた者のそれから、子供のそれへとたちまち変貌した。跳びはねながら母親からアイスクリームを受け取る舞を見つめながら、咄嗟にテディベアらしい(と本人は思い込んでいる)姿勢をとって、左大臣は思う。


(姫様、成長されましたな……しかし、それでも、やはりお変わりない)


 懸命に真顔でいようとしても、左大臣はつい微笑みを堪えることができなかった。少女たちのはしゃぐ声は、夜空に高く昇っていく。




「見つけましたわ……!」


 惨劇の夜の面影は、この山の頂には見当たらぬ。芙蓉は十二単の裾を夜風になびかせて、喜びのあまり欠けゆく月までひらりと浮かび上がって、高らかに笑い声を響かせた。芙蓉の声は見下ろす民家の屋根を滑り落ちて、その軒下で生温く乾いていく血だまりをも揺るがせるかと思われた。退屈まぎれにその血だまりを舐めてみたり、あるいは骨を鼻先で転がしてみたりしていた怪物たちは、主人の笑い声にぴんと耳をそばだてた。芙蓉は冷めやらぬ狂喜を宿したまま、再びふわりと降下した。それでも尚も夢を見るように、芙蓉はうっとりと目を細める。


「見つけましたわ、白虎……!わたくしの宿敵……!」


「どうした芙蓉、随分と機嫌がよいではないか」


 島民はできる限り山には触れぬようにはしてきたけれど、その場所だけは、昔から島の人々が大切に手入れをしてきた場所である。そうして管理していなければ悪神に聖域が乗っ取られてしまうからだ。山の頂きは切り開かれて、背の高い草に一面をおおわれた円形の広場となっており、その広場の中央には、「まつり」の朝に人々がお供え物を供えて先祖への祈願を行うための小屋が置いてある。扉や窓の一切ない、格別飾りたてられてもいない質素な造りの小屋ではあるが、台風がよく来るこの島の気候にあわせて丈夫に作ってある。島民はその小屋の中でご先祖様が食事をして、談合をし、その後広場で踊り遊ぶと考えていた。だから、「まつり」の日には、命ある人は皆土間に跪いて一連の儀式を執り行い、土間より先には一歩も上がれぬというのに、内部は広々としていて、清潔に保たれていた。その小屋の奥より、声はした。


「漆様……」

「自由に動き回れる者はよい。月夜の下に歌うことも、踊ることも出来て」


 芙蓉は小屋の奥の暗がりに向かって微笑みかけた。


「しかし、漆様とて、そう遠くないうちに……この島の民の血はいかがでございましたか?」

「悪くはないが年寄りが多すぎる……それに何といっても数が足りない。私はこんな鄙びたところは御免だよ。これでは都落ちではないか」

「まあ、なんという仰りよう。わたくしは、退屈なさっている漆様のために、せめて螺鈿の炎の様子でもごゆるりとご覧になれるようにとよき場所を見つけましたのに。それにここならば京姫たちの手も届きませんわ」

「しかしねぇ、芙蓉、結局は螺鈿が燃やしたのは蝋燭一つほどの土地に過ぎなかったではないか。私には結局なにも見えやしなかったよ。私が見ていたのは……そう、何だったか?」

「意地の悪い漆様……」


 そう言いつつも、芙蓉は十二単の裾で草の先を払って、夜風のようにさらさらと音を流しながら、小屋の方へと近づいていく。草の上にはいまだに雨滴が玉のように結ばれていて、月光にきらきらと輝いていたが、芙蓉の裾がことごとくそれを落としていく。やがて小屋の入り口に立ち、聖域の暗闇に口づけるべく顔を差し出した芙蓉の肩を、白い手が引き込んでいく。冷たく、愛おしい胸の上に引き倒された芙蓉の歓喜は先ほどまでの狂喜とかたく結びついていて、芙蓉に夜の闇を仰がせずにはいられない。たとえその頭上に月がなくとも。


「白虎を見つけましたわ、漆様……」

「そう?」


 耳朶じだをくすぐって、その掠れた低い声は芙蓉の鼓膜を透かして体の内に滑り込んでくる。芙蓉はようやく目を閉じた。


「これでかたきがとれますわ……復讐ができますわ。先の世で、あやつがわたくしに与えた苦しみや痛みを、幾億倍にもして返してやれますわ、漆様」

「そのために、あんな子狐を雇ったのか?」

「ふふ。わたくしの式神は四神どもにも知られていますもの。事実、白虎はわたくしの式神避けの結界を張っていましたわ。でも、子狐の秘術のことはあやつらもまだ何も知りませぬもの。あやつらだって手の打ちようがありませんわ」

「しかし、奴について何も知らぬのは我々も同様……奴を使いこなせるかな、芙蓉?」


 芙蓉は薄らと瞳を開いた。漆の手がちょうど芙蓉の袖の内から、石の欠片のひとつを探り出したところであったから。芙蓉は口元だけでそっと笑った。


「ご安心ください。芙蓉はあの子狐をきちんと手なずけておりますのよ……」





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