第十話 燃え盛る夜、そして(上)
すさまじい轟音が響き、地面が震えて、悲鳴があがった。戸外が白く照らし出されるのと入れ替わりに喫茶店の灯りが消え、奈々は暗闇のなか、危うく椅子から投げ出されそうになる。
「奈々っ!」
兄が咄嗟に席を離れて床にしゃがみこみ、奈々を抱き寄せた。兄の腕の中で、奈々はただただ目を丸くしていた。地震だろうか。これが今まで散々来る来るといわれていた大震災というやつなのだろうか。未だにティーカップやケーキ皿が、頭の上のテーブルでカタカタと音をたてているのは聞こえる。けれども、揺れ自体は一瞬で収まってしまった。
「奈々、大丈夫かい?」
「うん……」
ガラス戸の外を見遣った奈々は、道路を挟んで向かいの店の灯りや、電灯までが全て消えているにも関わらず、不思議な光で通りが照らし出されているのを目撃した。思わず立ち上がりかけて、奈々は頭を思い切りテーブルに打つ。頭を撫でながら扉へ向かっていこうとする奈々を、兄がその手首を掴んで引き留めた。
「駄目だ、奈々。危ないからここにいなさい。ぼくが様子を見てこよう」
「いいえ、駄目ですよ、お客さん。あたしが見てきます」
店員の中年女性がそう言って、ガラス戸の外へと顔を突き出した。すると、女性は驚いたような叫び声をあげて、ぱっと口元を手で覆う。
「東野さん、どうかした?」
「まあ、まあ……なんてこと……!」
厨房から出てきたパティシエらしき若い男が、女性店員に続いて顔を出し、それからやはり同様に声をあげた。兄の胸にひしと抱きしめられている安心感と幸福感を犠牲にするにしても、奈々はもう耐えられなかった。奈々は兄の腕から飛び出して、店員たちを押しのけるようにして通りへと躍り出た。
「……ああっ!」
巨大な火柱があがっている。巨大などという言葉で言い尽くしてよいものだろうか。それはまるで怒れる龍の天に昇るかのような。ここからどれほど離れているだろう。ちょうど十字路が交わるところ、桜花神社の置かれているところであるから……通りには、奈々たちと同様に様子を見に店や家から飛び出てきた人の姿が見受けられる。車を止めて車窓から顔を出したり、あるいはわざわざ車から出てきたりする者もある。誰もがみな、息を呑み、火柱を見上げている。熱気がぽかんと開いた口の中を乾かすのにも関わらず……とにかく逃げなければ。炎が燃え広がらないとも限らない。
「火事です!みんな、逃げて!」
奈々がプロムナードの中に向かって怒鳴ると、客や店員たちは顔を見合わせたのち、ばたばたと飛び出てきて、火柱の前に立ち尽くし呆気にとられた。しかし、この頃になってようやく人々の間にも逃げなければという意識が生まれたものと見えて、炎により近い方にいた人々が、騒ぎ立てながらこちらに走ってくるのが見え始めた。炎は轟々と低く唸り、突如曇り始めた空の黒雲に煙を紛らわせて、猛々しく燃え盛っている。
「奈々!」
後ろから兄の手が奈々の肩を掴んだのを感じた。
「火事?落雷か。とにかく、逃げよう!」
兄に手を引かれるがまま、奈々は駆けていく。しかし、依然としてその目は火柱に釘付けになったままである。落雷と兄は言ったけれど、単なる落雷でかくも大きな火事になるものだろうか。火事――そうだ、やはりあの炎は尋常ではない。あれは螺鈿の炎に違いない……!
「……お兄ちゃん、ごめんっ!!」
兄の手を振りほどいて、奈々はそう叫ぶなり、人々と反対方向に向かって駆け出した。逃げ惑う人々の悲鳴やがなり声が飛び交い、車がクラクションを鳴らし続けるなか、火事を知らせる半鐘の音がそれらの怒号を圧するがごとく上空から降り注いでくる。空には雲が蟠り、夕焼けさえも覆い隠して、その内部に蠢く金色の蛇体を透かしている。兄の声が後ろから追ってくるのをかしましい中でも聞き取って、奈々は振り返って叫んだ。
「ダメッ!お兄ちゃんは逃げてっ!!」
(こうなったのも、全部あたしのせいだとしたら……?)
再び前を向いたとき、サラリーマン風の男とぶつかって悪態を浴びせられたが、奈々は気にしなかった。奈々の胸には己の過失への罪の念と、間に合うならば過失を取り繕いたいと願う強い心のみが働いていた――そのどちらもが、恐怖からくる感情であることを奈々は知っていたが。だから、走る足さえ震えだしそうになるのだ。
(あたしが鈴を螺鈿に渡したせいで、なにかが起こってしまったのだとしたら?どうしよう……ダメだ。やっぱり食い止めなきゃ……!)
火柱の周囲には沢山の車が乗り捨ててあって、その一部には既に火の手が及んで黒い煙をたてていた。タイヤの焼けるにおいに、奈々は噎せこんだ。螺鈿はどこにいるのだろう?火炎は、桜花神社が、かの式内社があった場所をすっかり呑みこんでしまって、もはや神社は跡形もない。それからふと、火柱を見上げて、奈々は改めてその大きさに衝撃を受けた。見上げる先に果てがないのである。まるで炎で作られた塔を前にしているかのようだ。周囲に立ち込める熱気はすさまじく、まだ火に触れられていないはずの看板や信号がダリの絵画のような不自然なぐにゃりとした形に捻じ曲げられている。もう人気はさすがにない。近隣住民もすでに逃げ出したようだった。いや、もしかすると……嫌な想像を奈々は慌てて振り捨てる。一刻も早くここを離れたいというのが、奈々の正直な気持ちだ。汗が噴き出てはたちまち蒸発していく。目が乾く。ごくりと貴重な唾を呑みこんで、奈々はできるかぎり鼻で呼吸をするよう心掛けながら、火柱を巡り始めた。髪の毛がじりじりと熱いのはまさか焦げているせいではあるまい。
半周ほど巡ったとき、奈々は空の彼方よりけばけばしい巨大な蛾のように飛んでくる螺鈿の姿を捉えた。思わず息を呑むと、唾液が奪われるのが分かった。奈々は下唇を噛み、干上がっていく前歯の表面を感じて口を閉じ、目をぎゅっと瞑ってぼやける視界を正した。髪ばかりではなく産毛までもが焼けているように思われたが、奈々はそこばかりが異様にべたつく掌を、制服のスカートで拭って、螺鈿の方へと向きを変えた。焔の前で止まって愛おしげに眺めているその横顔に、奈々は怒鳴りかけた。
「螺鈿っ!!」
半鐘の音がふとやんだ。螺鈿は奈々の存在に気がついてこちらに顔を向けると、片眉を吊り上げて笑った。
「アレ、これはお懐かしの……」
「なんのつもりなんだ、これはっ?!」
螺鈿は肩までずりおろした打掛の襟を両手で撫でて、その場でくるりと旋回し、着物の裾を靡かせる。
「なんのつもりだってことはねぇだろう、お前さん。お前が鈴をくれたんじゃアねぇか。そいつを利用してなにが悪いっていうのかねェ。それとも、今更こいつを返してくれって言うんじゃあないだろうねェ」
「鈴を返せ!この町をあんたに焼き尽くさせたりはしない……っ!」
「全く、面倒な奴らだねェ。大人しくしている方が少しは苦しい時間も短くなるってのにサ。返す訳なかろうよ。こいつはあちきにこそ必要なんだから。返してほしけりゃ取り返せってんだ」
と言って螺鈿は懐に手を差し入れて、人差し指と中指の間に挟んだ黒い鈴を奈々の方に掲げてみせる。それから螺鈿はその鈴にくちづけを落とす。奈々はまるで我が身に触れられたかのようにぞっとした。そんな奈々を見て、螺鈿はくつくつと喉奥で笑う。
「大体、お前に何ができるっていうんだい?まさか生身であちきに立ち向かおうっていうんじぁアないだろうねェ」
奈々は怯まなかった。螺鈿を睨みつけるその目が、乾ききってもはや何も映し出していなくとも構わなかった。かさついた唇をきつく閉ざして、奈々はただどうするというあてもなく、螺鈿の前に立ちはだかっていた。家族でも知らないだろう、奈々のマホガニー色の瞳がかくも強く相手を射ることもあるのだということを――守らなければならない、守りたいものの前に立って、この場から逃れたい恐怖と、この場に踏みとどまりたい心の間で押しつぶされそうになりながら、堪えようとする強さだけを瞳に宿して。だが、螺鈿は奈々を嘲笑うようにふっと冷笑を浮かべただけだった。
「立派なもんじゃアねぇか。だったら、お望み通り相手してやってもいいサ。ただ、この子たちを倒せたらの話だがねェ」
螺鈿が足元に投げつけた簪に、奈々はよろめいた。後ろ向きに転倒しかけた奈々の背中は、湯だったアスファルトの地面に叩き付けられる前になにものかに受け止められた。奈々は誰かの腕が自分の背を支えているのを感じて、頬に影を落とすその人をはっと見上げる。
「お兄ちゃん……!」
「奈々、大丈夫かっ?!」
地面に着いた膝が熱くなってきたものと見えて、汗で濡れた眉間に兄は一瞬皺を寄せる。奈々は慌てて立ち上がり、兄を助け起こした。
「逃げてって言ったじゃない……っ!」
「バカ!炎の方に向かっていくやつがあるか!」
「でも……っ!」
奈々は本能的に兄を突き飛ばした。次の瞬間、奈々もまた、背中に強い衝撃を受けて吹き飛ばされ、乗り捨てられていた車のフロントグラスに右肩から突っ込んだ。うめく奈々は、蜘蛛の巣状に割れたフロントグラスと、そこに映り込む巨大な影とを認めた。硝子に手を突いて身を翻し、奈々はそのまま車体を転げ落ちた。右肩を庇いながらも霞む目で見てみると、ついさっき奈々が立っていたところに、巨大な蜘蛛が三匹ほど群れていた。螺鈿の蜘蛛たちには見覚えがない訳では決してなかったけれど、今度の蜘蛛はいつしか奈々の家にあらわれた蜘蛛の二倍ほどの大きさがある。奈々は竦みかけたが、蜘蛛たちがきょろきょろと辺りの様子でも窺うように身を回転させるなかでやがて倒れている兄の姿を見つけたのを見るなり、車のバンパーを引き抜き、それを突き出しながら蜘蛛と兄との間に立ちふさがった。
「お兄ちゃんに手を出すな!」
ほう、と螺鈿が唇をすぼめて見せた。
「兄のためには随分勇敢じゃあないか。なるほどねぇ、お前は妹たちのためには命は投げ出せないが、兄のためには身を犠牲にできるって訳かい?」
奈々は視界の霞む理由が、眼鏡に罅が入っているためであるとようやく気がついた。こうなってはもう役に立たない。元々視力が悪いためにかけている眼鏡ではなかった。こうしているとまるで守られているように思えたのだ。他人に自分の中を直接覗きこまれずに済むような気がしていたから、かけているだけだった。奈々は眼鏡を外し、制服の襟元にかける。三匹の蜘蛛は奈々が焦げたバンパーを突き付けるために兄の体に触れられぬ、という風な大仰な素振りを見せながら、奈々と兄の方に波のように寄っていっては離れ、鋏をカシャカシャ言わせたり声をたてたりして奈々を囃し立てた。兄のうめく声が背後でした。
「な、奈々……?」
起き上がった兄が息をのむ音がする。
「こ、これは……?」
「お兄ちゃん、気をつけて!あたしの傍に寄って……!」
「奈々、お前……!」
「見逃してやっても別に構わねぇんだがねェ」
螺鈿は蜘蛛たちの上から二人を見下ろして鈴を掌で弄びながら言った。
「この鈴を諦めて帰るってんなら、二人で手を繋いでお行きよ。この子たちの餌なら、他にもあるんだから」
「お前とは取引なんかしない!こっちはもう一回裏切られてるんだ!」
奈々は傲然と頭をもたげて叫んだ。叫ぶのにも、潤いが要る。からからになった喉で、奈々は、めいっぱい声を張る。
「そういや、そんなこともあったっけねェ」
「とぼけるな!お前のことは信用しない!」
「まあ、そうお言いでないよ」
螺鈿はちょうどその時奈々の正面に仁王立ちになっていた蜘蛛の真上に腰をおろして、煙管を取り出し、打掛の裾を手で払った。
「わかったよ、認めてやってもいい。お前のことは殺すつもりさ。忌々しい四神とやらだからね。でも、お前の兄は逃がしてやってもいいさ。少なくとも、この場ではね。お前の兄が、このあちきがこの江戸中を焼き尽くすまでによそに逃げられれば、お前の兄の命は助かるよ……博打は嫌いかい?」
「なにをバカなことをっ?!奈々を置いてぼくが逃げられるとでも思うか?!」
兄の手が奈々の肩に触れる。それは痛む方の肩だったけれども、奈々は左手を伸ばして、兄の手の上に自らの手を課して、痛みとその手に感じる温もりとを深めた。そうしていると、この絶望的な状況の中でも、勇気が湧いてくる。あれほど会いたかった兄が今はこんなに近くにいる。自分を見捨てないと言ってくれている。だから、絶対に大丈夫なはずなのだ。今、螺鈿は蜘蛛の上とはいえど地上に降りてきていて、奈々とほとんど対等な目線にある。そしてその掌には奈々の鈴がある。もし、機会さえとらえられれば……
螺鈿は舌打ちをした。
「お前たちはそうしているとまるで兄妹ってよりは恋人みたいじゃアねぇか。忌々しいったらありゃしない。死んでも離れないってつもりなら、まあいいさ。生かしておいたら利用できると思ったんだが、こっちには鈴があるんだから、手っ取り早く……」
放たれた桜色の光が螺鈿の腰かけていた蜘蛛にぶつかってその体を包むと、蜘蛛は甲高い声をあげた後に桜の花弁となって消えていった。螺鈿が一瞬それに気をとられたのが奈々の待っていた機会であった。奈々は左手で胸元の眼鏡を掴むと鈴を持っている螺鈿の手の甲めがけて投げつける。螺鈿が鈴を手放した。鈴は、蜘蛛の体のあったところを通り抜けて、地面に落下し、奈々はそれに飛びついた。けれども、鈴は伸ばした奈々の手に弾かれて却ってあらぬ方向へと転がっていき、京姫とともに駆けつけてきた青龍の足にぶつかって止まった。
「鈴をっ!」
怒鳴った瞬間、奈々は地面に倒れ伏していた襟首を後ろから摑みあげられた。螺鈿が奈々を捕まえて、空中で奈々を羽交い絞めにしたのである。奈々は暴れまわって螺鈿から逃れようとしたが、首を分厚い袖で覆われた腕でぎゅうぎゅうと締め付けられ、間もなく呼吸が難しくなってきた。奈々は螺鈿を蹴ったり殴ったりするのを諦めて縛り付ける螺鈿の腕を外す方に両手の力をやったが、どんなに爪をたてて引き離そうとしても、螺鈿の力は一向に弱まらなかった。後ろ向きに頭突きを食らわせようとしたのもひょいと交わされる。と、腕が緩んだと思ったその刹那、奈々は視界の底で閃くものを見た気がした。喉元に冷たい金属の感触がする。
「奈々っ!」
「動くんじゃアないよ!」
仗と刀とを構えていた京姫と青龍はぴたりと止まった。螺鈿は先の鋭い簪を、奈々の喉元に押し当てているのである。
「ずいぶん遅ぇじゃアねぇか、姫さんたち。あのじじいはどうしたんだい?まさかくたばっちっまった訳じゃアねぇだろう。まっ、いいサ。しかし、やっぱりこいつを生かしていた甲斐があったてもんだ……いいかい、あたしはお前たちと遊んでた訳でも、姫さんたちを待ってた訳でもねぇんだ。お前ならちょうどいい人質になると思ったのサ。こうすりゃあ、奴らは手を出せねぇだろう?」
奈々にそう言ってけらけらと笑ってから、螺鈿は京姫と青龍に向かい、
「お前たち、あちきの言う通りにしなければこの小娘の命はないよ!仲間なんだろう?まさか見捨てやしないだろうねェ?」
「な、なにを……?!」
青ざめる京姫に、螺鈿はいかにも楽しげに、歌うような調子で言った。
「簡単なことサ。安心しなよ。命をくれってんじゃアねぇんだ。当たり前だが、その鈴を貰ってやらないとねェ。それから、もう一つ……お前たちの鈴もこっちに寄越しな」
「な、なんですって?!そんな……!」
「嫌ならくれなきゃアいいんだ。そしたら、この小娘が死ぬ。そこにいるこいつの兄貴もね」
「卑怯者……っ!」
青龍が呪いの言葉を投げつけても、螺鈿は笑いの影を一層黒々と冴えわたらせるだけであった。
「言葉にゃあ気をつけな。状況がよく分かってるならねェ……アレ」
轟音に紛れていたのだろうか。消防車のサイレンがここにきて突如騒がしくなったのに、螺鈿もようよう気付いたようだった。螺鈿はふわりとさらに高いところへと浮かび上がると、道路を駆け抜けてやってくる赤い獣のような車体を見て、目を細めた。
「またうるせぇのが来たようだ……お前たち」
螺鈿が低い声で命ずるのを聞いて、奈々の兄を小突いていた二匹の蜘蛛が勢いよく音の方へと駆けだした。青龍が動きかけるのを、螺鈿の炎が行く手を塞いで制した。「動くんじゃアないよ」と、螺鈿は続けて投げつける。京姫と青龍が手出しもできずに眺めるなかで、先頭を走っていた消防車は思わぬ怪物の出現に急停車し、後続の車がその背後にぶつかって、激しい爆音をたてながら炎上し、横転した。蜘蛛のうち一匹は、先頭を走っていた車に飛びかかり、残る一匹は燃え上がる炎をいとも容易く通り抜けてさらなる後続車への襲撃に向かったようだった。京姫と青龍は震える拳を握りしめていた。
「……ゆるさないっ……!」
青龍が怒りのあまり歯を食いしばって押し殺すように言う。
「……ゆるさない……っ!螺鈿、あんたのことは……!」
「なんだい?あちきをどうするって?!」
燃え上がる消防車が螺鈿を楽しませたものと見えて、螺鈿は目を爛々と輝かせながら、はしゃぎきって青龍に尋ねる。その折に簪をきつく押し付けられたものか、奈々が目を瞑る。
「サア、言ってみな!お前に何ができるっていうんだい?!」
螺鈿の高笑いが響く。青龍のように敵に怒鳴ることもできない京姫は、ただ悔しさと悲しみと怒りとが入り混じった瞳で、蜘蛛に蹂躙されている消防車を見つめるばかりであった。どう足掻いたって誰かが、なにかが犠牲になってしまう。このままなにもしないでいれば、奈々とその兄が殺される。しかし、かといって京姫と青龍が鈴を渡してしまえば、全てが滅ぼされてしまう。全て――家族も、友達も、先生も、仲間も、この町にある全ての愛おしいものが。ああ、そうだ、そして、司も……
どうすればよいのだろう。こんな時に限って、左大臣がいてくれない。京姫は自分の判断と心の声とに従うしかない。考えて、考えるのよ、舞……
(奈々さんを死なせる訳にはいかない。奈々さんだけじゃなくて、この町のみんな……螺鈿に殺させる訳にはいかないんだ。だって私は京姫だもん。京を守護する巫女だもの。今の私が守るべきは、この町じゃないの。さあ、考えて……今、鈴を渡さなかったら、奈々さんは確実に殺される。でも、鈴を渡したら、螺鈿に力を与えることになってしまう。鈴を渡さないで、なんとか奈々さんを助けることはできる?ダメよ、あまりにも危険すぎる。螺鈿はちょっと手を動かしただけで奈々さんを殺せるんだもの。それに、螺鈿は炎を操ることもできるし。そんな賭けには出られない……)
「お願いだ、妹を助けてくれ……っ!」
奈々の兄の声に、京姫の意識は加熱していく思考回路から抜け出した。
「奈々を助けてくれ……っ、頼む……!どうか、君たちで、奈々を助けられるというなら……!」
「鈴は渡しちゃ駄目!」
奈々が声を振り絞って、兄の懇願を打ち消した。
「それを渡したら、みんなが……!」
奈々の声が詰まった。螺鈿が奈々の首を再び締め上げたのである。続いて、その兄の体が輪状に燃え上がった炎に閉じ込められる。青龍はあっ、と声をあげた。
「お黙り。余計な口を聞くんじゃアないよ。これ以上口を開きやがったら、お前の愛しの兄を焼き殺してやるからね、全く」
と言ってから、螺鈿は京姫と青龍とを見下ろして笑い、
「さあ、そろそろ決めてもらおうかねェ。鈴を渡すのか、渡さないのか」
(賭けよう……!)
京姫は覚悟を決めた。
京姫が変身を解いたので、青龍はそれを目の当たりにする傍らで驚愕の表情を浮かべた。京姫ならば、否、京野舞ならばそうしかねないと、ちらりと脳裏をかすめないことはなかったが、それでもまさか今この瞬間に一つの命を失わんがために、近い未来に失われるであろう多くの命を犠牲にするとは。彼女の優しさがかくも深く、かくも重いとは。それ故にかくも脆いとは。博愛を内包している彼女の論理は自重で崩れかねない危うさを、常に抱えていたのである。だが、舞は気付いていないというのか。彼女の論理が崩れる時、この世界もまた崩れるのだという、あまりにも明快な公式に。畳みかけるように、舞は青龍をあらゆる感情をも覆いかくしきっている静かな目でじっと見据えながら、落ち着き払った、威厳さえ感じさせる声で命じた。
「青龍、変身を解いて」
「えっ、でも……!」
舞は青龍の目の前に自らの鈴を掲げることで、青龍の言葉を遮った。
「変身を解いて。鈴を螺鈿に渡すの。さあ、早く」
青龍は窮す。舞は予断を許さぬという態度である。こうして湧水のように漲る高貴さで以って命じられると、青龍としてはどうしても逆らえないような気がする。京姫は青龍を従える存在であるからだ。けれど、けれど……青龍は食い下がった。今命令しているのは京姫ではない。京野舞だ。それに、その判断が確実に間違っているときに、歯向かってなにが悪いと言うのか。弱い理性を威厳で押し隠し、誤った結論を生まれ持った高貴さで飾りたてて押し付けようとする舞に対し青龍は怒りさえこみあがってくるのを感じる。奈々を助けたい気持ちは、青龍だって決して舞には劣らない。けれども、鈴を渡せば皆が犠牲になる。それなのに、偉そうに。
なによ、ただの友達のくせして……!
「……っ!舞っ!あんた何言ってるのかわかってるのっ?!」
「翼ちゃん、お願い……」
「お願いじゃなくて!だって、鈴を渡したら……!」
「わかってる……でも、私に賭けをさせて」
「賭け……?」
螺鈿に聞えぬように小声でそっと言った舞は、翼に向かって目立たぬほどに頷いた。
「信じて、お願い……」
変身を解いて螺鈿を油断させ、いざ鈴の受け渡しとなったところで螺鈿を急襲する。筋立てははっきりと浮かばなかったけれども、今、舞に考え付くのはこればかりである。あるいは、奇蹟が――銃弾となって、白い薔薇となって……いや、そんなことはあり得ない。舞を救ってくれた銃弾と不思議に結び付けられている美しい金色の髪の人の幻想を掻き消して、舞は無言の内に、青龍にただ己が胸の内を伝えようとした。通じたかどうかはわからなかった。青龍がその顔を俯けて変身を解いたから。
「ありがとう」
舞はそっとささやいてから、表情を一辺させて、鋭い目で螺鈿を見上げて叫ぶ。
「螺鈿!鈴は渡す!だから、奈々さんを解放しなさい!」
「フン。どうせそうするなら、さっさと決りゃアいいものを」
螺鈿は奈々を兄と同じ炎の円の中に投げ込むと、二人とはまだ慎重に距離を取りながら降下した。奈々は兄の胸に抱きとめられ、ぐったりとその身をもたれかけさせた。その兄は、瞬時に蒼白になると、妹の体を揺すぶった。
「奈々!奈々!!」
「うるさいねェ。気を失ってるだけさ。ちょいときつく締めあげたんでね」
螺鈿は忌々しそうに吐き棄ててから、素足をまだ地面から浮かせたまま、打掛の褄をつと取ってその裾を翻し、舞と翼の方を向いた。その瞳に興奮と警戒心とがないまぜになって燃えているのが見える。舞は自信がぐらつくのを感じた。油断するものだと思っていたのに、螺鈿がかくも慎重な姿勢を失わないなんて。隙を見て急襲なんて出来るだろうか……?いや、きっと必ず……
「いいかい?ちょっとでも変な素振りを見せたらあの兄妹は生きたまま焼かれることになるから、それを承知しておきな。一人ずつだ。まずは、お前から。そして次は姫さんだ。うっかり変な気でも起こされると困るから、順番待ちの間、姫さんにはこの中でおとなしくしてもらうよ」
と螺鈿が指さしたところから、舞は螺鈿の炎に囲まれた。舞は唇を噛んだ。これではいよいよ作戦が難しくなってきた。
「さて、じゃあ、お前からまず鈴を渡してもらおうか」
螺鈿は翼との間に膝元ほどの背丈の炎で境界線をきちんと引いた上で鈴の受け渡しを行った。翼は失望のためか、それとも胸に秘めるなにものかのためか、螺鈿の顔を見上げもせずに、ただ無造作に腕を突き出して、螺鈿の掌の上に二つの鈴を落とした。すなわち、自分のと奈々のと。二つの鈴が音を零しながら螺鈿の掌に転がった時、螺鈿は快楽に唇を歪ませ、翼は螺鈿から顔を逸らしながら、口惜しさに小さく歯と歯の間から息を漏らした。それを聞いた螺鈿の笑いがその口の端に切れ込んだ。
「翼っ!」
螺鈿の煙管が翼の頬を打つ。翼は後ろ向きに倒れ込み、打たれた頬を抑えて起き上がるが、螺鈿は続けざまにその頬を煙管で打つと、気丈にも螺鈿の顔を睨みつけようとするその顎を蹴り上げた。翼の体は大きく跳ねて地面の上に崩れ落ちる。こうして打擲を加えられている間、翼は声をあげなかった。ただ、前髪の下に痛みも怒りも押し隠して、歯を食いしばって耐えている様子であった。舞は思わず叫ぶ。
「やめてっ!これ以上やったら鈴は渡さない!」
「人質を二人も三人もとられてるくせに何言ってるんだい」
螺鈿は喉にひっかかった言葉を唇にのぼせるようにして言うと、翼の襟を後ろから掴んで浮かびあがり、君人と奈々の兄妹がいる炎の中へ、その体を放り込んだ。奈々の兄が介抱しようとするのを、翼は拒んだ。螺鈿は空中でくるりと身を翻して、金の前帯を揺らしながら、今度は舞の元へと向きを変えた。
「さあ、姫さん、あんただよ」
(どうしよう……!)
舞はぎゅっとフレアスカートの裾を掴む。
(もうこうなったら、やるしかない。私の鈴を渡したら、それこそみんなが……!それに私の鈴だけじゃなくて、翼ちゃんの鈴も、奈々さんの鈴も取り返さなきゃ。隙を狙うの。とにかく隙を……!)
舞はごくりと唾を呑みこんだ。周囲を囲む炎が空気をゆらめかせている。舞は自分がふらついているのか、それとも単に熱気のせいなのか、次第にわからなくなってきた。どうにかしなければと思うほどに、変身を解いたときの意気は萎んでいって、恐怖が勢いを増していく。それでも舞は覚悟の椅子に必死に縋りつく。
(どうすればいいの……!私に、勝ち目なんてない……!私にみんなを守るなんて、できないの……?!)
「舞……」
そう聞こえたのは決して幻聴ではなかった――他の誰にも聞えなかったとして、それは舞には確かに真実の音であった。懐かしい声を背後に、間近に、感じて、舞は目を見開く。その人の存在を、今にも舞を焼き尽くそうとする火炎の熱とは確かに異なる優しい温もりを、舞は確かに背中に感じた。まるで誰かに悟られることを恐れるかのように、舞はかすれた声でつぶやく。
「つかさ……?」
「ごめんな、こんなことしかしてやれなくて……」
後ろから、右手にぎゅっと握らせられるもの。優しい指先が舞の手の甲に触れて、しっとりと、それでも離れていく先から消えていきそうな、淡雪のような感触を残していく。それは降ったそばから消えていく雪のようにみえて。それでもどんな雪も新たな雪の下にしっかりと畳み込まれているように、手の中に握ったものだけは消え失せず。舞は木のささくれが、スカートの裾を引っ掻く微かな音を聞いた。鼓膜に引っかかりそうなその音が、舞の心を軽やかに弾く。肩に触れるのはかの人の額だろうか。声が舞の肩甲骨へと直に響いていく。
「ごめん、舞……守ってあげられなくて」
「違う、司……私、私こそ……っ!」
「いいんだ」
耳元にささやかれる。そんな優しい微笑みに、どんな顔を返したらよいというのか。司の手が舞の右手を包んで、そっとその背中側へと引き連れた。
「さあ、舞。勇気を出せ。俺も傍にいるから」
「で、でも……!」
「しっかりしろ。お前は、俺を確かに守ってくれたじゃないか」
私が、司を……?驚き自ら問う舞に答えるように、司は舞の手を包む両手に力を込めた。ちょうどその時だった。舞を囲む炎が弱まり、螺鈿が再び舞の前へと降下してきたのは。
「サア、鈴を渡してもらおうか」
突き出した左手が震える。吸い込もうとする空気が逃れていく。鈴を他人に手渡すことがこうも辛いものだとは思わなかった。まるで自分の魂を受け渡しているようだ。でも、大丈夫だ。耐えられる。今は司がいるから。司が一緒にいてくれるから……舞は螺鈿の掌の上にそっと鈴を落とした。螺鈿は鈴を受けとめると同時に、舞が右腕を不自然に後ろに押し隠していることに気がついたようだった。螺鈿の眦が光る。
「おい、一体何を……」
螺鈿の後頭部になにかが投げつけられたのはまさに螺鈿が舞の隠していたものを覗きこまんとする時であった。気を逸らされた螺鈿が振り返った隙に、舞は声をあげて螺鈿に躍りかかった。その手に、朽ちかけた柄杓を掲げて。
舞の足が螺鈿の打掛の裾を踏んだ。不意を突かれた螺鈿は、手を柄杓で手を叩かれて鈴の一つを取り落としたが、それを拾い上げる間は与えられず、ひとまず舞の続く攻撃から逃れるべく、打掛をするりと脱いで逃げ去った。
後ずさる螺鈿に迫っていく舞は、炎の向こうからひたと眼差しを投げかけてくる翼と目を合わせた。二人が交わし合えたのは視線ばかりであったが、それでも互いの真意は十分に伝わった。
舞と螺鈿の姿が遠のいたところで、翼は先ほど螺鈿の手から零れ落ちた鈴を睨みつけた。その傍に転がっているのは、地面の熱ですでにフレームが歪み始めている奈々の眼鏡である。翼は地面に転がっていたそれを無断で拝借して用いたのだった。あとで弁償はさせてもらおう。それよりも、今はあの鈴をどうやって手に入れるか――もう一度螺鈿に奪われる前に。
奈々が小さく声をあげたのが聞こえた。翼は振り返り、兄の腕の中で微かに目を開けた奈々を見下ろすと、今度は遠くに蜘蛛の狼藉の跡が残る無残な消防車の姿を見遣った。車からはもうもうと黒い煙が上がり、ゴムやら金属やらの焼ける臭気が一面に広がっている。中の人々はどうなったのだろう。善良な消防隊員たちはきっと……
「奈々!」
「お兄ちゃん……?」
「しっかりしろ、奈々!」
なんて無力なのだろう――兄妹の遣り取りを背中に聞きながら、翼は絶望感に打ちひしがれる。鈴なしではなんと無力なあたしたち……あんな小さなものの力にあたしたちは支えられていた。世界を守るだとか豪語したって、結局あの鈴がなければなにもすることができない。敵に頬を打たれたところで、屈辱に身を任せるしかないのだ。なにも出来ない。なにも。せいぜい、他人の眼鏡を投げつけるようなことばかり。舞にしたって同じである。彼女の武器は朽ちかけた柄杓だけ。炎を操る螺鈿にそれがどれほどの威力を発するというのだろう。
炎に閉じ込められ、鈴を奪われ、もうこの体にはなにも持つものがなくなった。あるのはただ、この町を守りたいという悲痛なまでの想いだけ。それが少女たちを駆り立たせ、突き動かし、無謀ともいえる戦いに赴かせるのである。この絶望的な状況に陥っても、尚もこの想いが消えないというのなら……ここで朽ち果てるのだけは嫌だというのなら……
やるしかないのだ。翼は唇の割れ目に滲んでいる血を舐めて、慄く体を叱り飛ばした。なにを恐れているのだ。こんなもの、炎なんて、恐れていられるか。あたしは、水を操る青龍なんだもの。
「翼ちゃん……?」
奈々の声に、翼は振り向かぬ。翼はただ炎に向かって言うだけだ。
「奈々さん、覚悟を決めてください」
「……えっ?」
聞き取れなかったのか、意味がとれなかったのか、奈々の聞き返す声は弱々しい。それでも翼は言葉を続けた。
「あたしも、覚悟を決めますから」
翼は言い終わると同時に軽く身を引くだけの助走をつけ、炎の壁に向かって駆け出した。否、炎の壁ではない。翼の瞳が見据えているのは、緋色のヴェールを透かして輝くもの。炎の壁の外、希望のように光を発しているもの。眼鏡の傍らに転がっている小さな黒い鈴。
「……!翼ちゃん!!!!」
舞と螺鈿とは攻防を繰り返すうちに火柱の周囲を巡っていた。最初は不意を突かれたものの、螺鈿は次第に舞の攻撃を交わせるようになったと見えて、時折遊び半分に煙管で柄杓を弾きながら、体を軽やかに翻す。打掛を脱いで身軽になった螺鈿の体が踊るたび、黒字に金の刺繍で描かれた蜘蛛の巣の文様が炎に照らされてめらめらと妖しく光った。螺鈿の顔に戻りつつあった嘲笑が、ついに音のある哄笑へと変わった。
「大したもんじゃアねぇか。褒めてやろう。だが、ちと悪戯が過ぎたようだねェ」
舞が螺鈿に飛びかかろうとした拍子に、炎が舞の靴の裏を焼く。飛びのいた勢いでよろけた舞の手を、螺鈿が煙管で叩く。舞の手はなおも柄杓を離さなかったけれども、一瞬、柄杓に目を遣った隙にぐいと襟を引き寄せられ、螺鈿の上に屈みかかったその腹に膝蹴りを食らわされた。煙管が舞の右頬を打って、舞は車の前輪にもたれかかり、頭をボンネットに打ち付ける。と、車が突如燃え広がり、舞は前方に倒れこむようにして炎を避けた。背中の方で髪が焼ける嫌なにおいがする。
舞はふらふらと立ち上がり、ふわりと浮遊して舞を見下ろす螺鈿に向かって再び柄杓を掲げた。ふと、舞は背後の方でなにかが蠢く音がしたことに気付いた。炎のたてる轟音ではない、何か別の音が……と、舞の体は蜘蛛の前脚に蹴り飛ばされ、フロントグラスを突き破って放置された車の一つの運転席に突っ込んでいく。硝子の破片が夥しく周囲に散らばるのを浴びて、舞は低く声をあげた。そっと目を開けると、蜘蛛たちが車にめがけて迫ってきている影が見える。慌てて扉から脱出をはかるけれども、運転席の扉に手をかけたとき、別の蜘蛛の目がぬっと姿を現した。舞が声をあげてぱっと身を引くと、今度は助手席側の窓からも車を小突くものがいる。ひとまず後部座席に逃げようとして、舞は硝子片で腕や腿や頬を傷つけた。さらに悪いことに、いざ後部座席におさまってみても、一向に逃げ場所は見当たらぬことがわかった。どうせ両方の扉は塞がれているのだ。慌てふためく舞に、チャイルドシートに置き去られたアニメキャラクターの笑顔が笑いかける。それは紛れもなくピエロの冷笑であった。
「舞、こっちだ……!」
舞を突き飛ばした蜘蛛は、せっかく愚かな兄弟たちが無理に扉をこじあけようと必死になっているので、今まさに獲物を独り占めできんと期待に胸を躍らせて、割れたフロントグラスから車内へと顔を突っ込んだ。まさにその時、車が燃え上がったので、蜘蛛は抗議の声を主人に向かってあげた。鋏をやかましくたてる蜘蛛に、螺鈿は諌めるように微笑みかける。相手が車内に閉じ込められている以上、これが一番手っ取り早い。もうあまり時間は無駄にしていられない。螺鈿は空を見上げる。黒雲がいつの間にか消え去り、爪のような黄色い月がやつれた病人のようよう起き上がったという風情で、顔を見せている。畜生のなす業だとバカにしてはいたけど、あいつの雷もなかなか役に立ったじゃないか。螺鈿は胸中呟く。さて、取り落としたもう一つの鈴も連中の手に渡る前に取りに戻らねばならない。無論、連中は炎に閉じ込められているから、どうすることもできないのだけれど。
元の場所へ赴こうとして、螺鈿は誰かが着物の裾を捉えているのに気がついた。顏だけで見返した螺鈿の眉は不機嫌そうにぴくりと吊り上げられ、白粉で塗り込めた蒼白な頬に稲妻のように痙攣が走った。まさか、この炎の中で生きていられるはずはない。それでも見下ろした先には、うつ伏せに倒れて懸命に片腕で身を起こし、もう片方の腕で螺鈿の裾を震えながら摘んでいる舞の小さな頭が見えた。螺鈿は肩をすくめてみせる。
「まったく、姫さん上出来だよ。よくもそんなみっともない姿を晒してまで、生き延びようと思えるねぇ……あちきもそろそろ笑えなくなってきたよ」
「こ、こっちだって……笑わせてるつもりは、ないんだから……!」
煤だらけの顔を上げた舞の腕を、螺鈿は蹴りはらう。ふと、螺鈿は、身を起こそうとしている方の指先を舞が尚も柄杓の柄にからめているのを見た。螺鈿は舞の頭を踏んで地面に押し付けて舞の手から柄杓を奪い取った。舞がはっと頭をもたげられたのは、その勢いのためだろうか、それとも螺鈿が足を退けて空中へと浮かび上がったせいだろうか。螺鈿は舞の鈴と柄杓とを一つずつ両手に持って、舞に掲げてみせる。
「どっちを返してほしい、姫さん?」
「なにを……っ!」
舞の声には、恐らく焦燥が滲み出すぎていた。
「この鈴と、このオンボロ柄杓と、どっちを返してほしいんだい?姫さん?」
螺鈿は半分だけ残った柄杓の底に鈴を置くと、ひょいと勢いをつけて鈴を宙に放り投げ、また柄杓の底で受け止めた。それから再び鈴と柄杓とを別々の手で以って、舞に見せつける。
「どっちが大切だい、姫さん?」
「それは……!」
「そりゃもちろん、当然、鈴に決まってるサ。こんな柄杓、水も掬えやしない。鈴の方がよっぽど役に立つ。そうだろ、姫さん?だったらこうしよう」
舞は息を呑んだ。大きく見開かれた舞の目に細い月に寄り添われる螺鈿の姿が映り込んでいる。その手の上で燃える小さな炎も、また。その小さな火に舞の瞳の翡翠の色は奪われた。螺鈿の手の上で柄杓は燃え尽き、灰となってその掌を滑り落ちて夜風に攫われていく。皮肉にも、その風は舞の傷ついた頬を優しく撫でていった。
(つか……さ……っ!!!!)
司の応ずる声はない。
「アレ、どうしたんだい?もしかして柄杓の方が大事だったかねェ?」
螺鈿は舞の明らかな動揺に満足そうな表情を見せた。
「しかし、もうやっちまったものはしょうがねェ。サテ、この大事な大事な鈴だがねェ、残念ながらこっちも返してやる訳にはいかねぇのサ。さっ、姫さん、今度こそ何度目の正直かわからねぇが……」
舞は地面に伏せた。体が傷だらけで痛い。服ももうぼろぼろになってしまった。顏も煤だらけだし……それに、とても暑い。暑くて、喉が渇いて、もう耐えられない。駄目だ、戦えない。鈴も、粗末な武器も、司をも失った。こんな生身の体でどうしろというのだ。京野舞は所詮、京野舞なのだ――京野舞に、なにかを守る力はない。もはや我が身さえ。
舞は愛おしい人々に想いを馳せる。お母さん、お父さん、お姉ちゃん……美佳、東野君、結城君、クラスのみんな……翼、奈々、左大臣……みんなのところに帰りたい。今までそう思ってきたように、ごく当たり前と思って家に帰りたい。学校に行きたい。そうして、こうして思い出す分には春の海のように平和な、けれどもその中に飛び込むと怒涛と感じられる、そういう普通の日々に浸っていたい。もう戦いの日々には疲れた……
そのころ、翼もまた地面に倒れ、全身に負った激しい火傷の痛みを、懸命に歯を食いしばって堪えながら、鈴に向かって懸命に手を伸ばしていた。あともう少しなのに。指先だけが鈴の表面につと触れて、鈴が転がっていく。今の翼にはそれを追っていくことはできない。痛みを凌ごうとする声は、そのまま嗚咽へと変わった。少女たちの涙が光る。
(ごめんね、みんな……みんなのこと、守れそうもない……)