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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第一章 現世編―螺鈿の巻―
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第六話 歌い継がれるもの

「では、次のニュースです。貴重な史跡が失われました。東京都桜花市桜花町に江戸時代から伝わる、通称・花魁井戸が本日未明に火災の被害に遭い、全焼しました。花魁井戸は、江戸時代に遊郭の火災から逃れてきた花魁、螺鈿が身を投げた場所であるという話が伝えられ、地元市民に古くから親しまれてきました。昨日には同じく桜花町の月宗寺げっしゅうじにある螺鈿の墓が何者かによって荒らされており、地元の警察は町の史跡を狙った悪質ないたずらだと見て捜査を進めています。花魁井戸の近隣住民の話では、本日未明ごろ、花魁井戸附近で複数人が騒ぐ声が聞こえたとの情報も寄せられています」

「町の歴史を冒涜するような、心ない仕打ちには憤りさえ覚えます。一刻も早く犯人がつかまってほしいところです」

「続いてのニュースです……」



「お母さん!花魁おいらん井戸焼けたらしいけど!」


 ゆかりが口の中の白米を呑みこみきらずにもごもご言ったので、味噌汁を注いできた母親は答えるより早く、その頭をぱしっと叩いた。


「口の中にものいれたまま喋らないの」

「だって、花魁井戸……!」

「新聞にも出てるな」


 と、父親が写真さえ載っていない全国紙の小さな記事を指先でとんとんと示した。母親はゆかりと共にそれをのぞき込んで、手を頬にあてながら「まあ」と呟く。


「放火かもしれないなんて、ひどいことする人がいるものね」

「さっき、テレビでは花魁の墓まで荒らされてたって言ってたよ」

「なんの目的があって……」

「変な宗教団体とかじゃないの?」

「嫌だわ。そんな人たちがこの町の近くにいるなんて。ゆかり、帰り道気をつけなさいよ」

「わかってる。今、うちの学校結構厳しいんだ。六時にはもう学校から出なきゃいけないし。ほら、市長の娘、ずっと学校来てなくってさ」

「あら、赤星さんの娘さん?」

「そう。噂では誘拐されたんじゃないかなんて。あのうち、大金持ちでしょ?身代金目的かもって。まあ、それはともかく行方不明なのは本当らしいのよ。だから警戒してるの」


 ふと、母親がテレビの画面端の時間を見遣る。午前七時三十一分。


「もう、舞ったらいつまで寝てるのかしら。今日あの子は授業あるのに……舞!まーい!遅刻するわよ!!」



 母親の声を聞いて、舞はげんなりした顔で目を覚ました。恐ろしく眠くて頭ががんがんする。起き上がろうと試みたけれど、全身が起床を拒否しているからには、すぐに枕に頭が戻ってしまう。そんなことを二、三回繰り返した。舞はついに布団で鼻までをすっぽりと覆い隠した。


「やだ、寝てたい、眠い、疲れた……お休みしたい……!」

「舞!いい加減にしなさい……具合でも悪いの?」

「世界を救うために、戦ってたのに……なんで学校なんか……」

「舞、あなた本当に大丈夫?」


 とうとう母親が階段をのぼってきて扉を開けたとき、舞は深い眠りのなかにあって、母親がいくら揺り起こしてもかわいい声で抗議するばかりであった。こんなことも珍しいので、母親は驚くやらあきれるやらで肩をすくめてしまう。遅刻したところで自分の責任なので、もうしばらく寝かせてやってもいいかもしれない。無遅刻無欠席の記録は残念ながら破られることになるけれど。まあ、それより今が猛烈に眠いというのであれば……


 母親はベッドの傍らに膝をついて、改めて舞の寝顔にじっと見入ってみる。舞に限らず、娘たちの寝顔をこうして眺めるのも久しぶりだ。親の贔屓目ひいきめというのではなしに、娘たちはそれぞれ美しい愛らしい少女たちである。姉のゆかりはもう高校生にもなるからには、さすがに大人びて、かわいらしいというよりは美人という風になってきたけれど、舞の方はまだ、母としては少々心配になるほど、あどけなさというか、幼さを残していて、もしかしたらいつまでもそのままであるのではないか。永遠に、私の小さな舞でいてくれるのではないか、なんて淡い期待まで抱かせる。そうならないことを、もちろん京野美禰子きょうのみねこはとっくに知っていたけれど。なんだか急に切なくなって、美禰子は娘の頬をそっと撫で、額の前髪を整えた。それから指先で娘の目の下の隈をそっと突く。夜更かしでもしたのだろうか。この子が勉強していただなんて思えないけれど、でももしかしたら、娘はそうして成長しているのかもしれない。ふいに、涙ぐみそうになって、美禰子は誰に対するとも知れぬ恥ずかしさに思わず顔を覆った。自分の手で整えてやった娘の前髪の上にそっと唇を落として、美禰子は足を忍ばせて部屋を出ていった。舞はそうとも知らぬまま、静かに寝息を立てている。



 夢の中で、舞は見渡す限りの桜の下にいた。見上げればどこまでもひろがる桜色の空、舞の頬に絶え間なく戯れかかる桜色の風、瞳を潤し続ける桜色の水――限りない喜び、まさに生きることの喜びに、舞は一人声をあげて笑い、踊り、歌った。舞が回ると、今日のために着せられた桜色の衣装がひらひらと靡いた。どんなに飛び跳ね、転んでも、舞の笑いがついに消えることはなかった。午後の光が舞の長い髪を絹のようにきらめかせている。柔らかな草の上を踏む素足は、時折裳の裾よりのぞいて、新緑の上に白く閃いた。


 舞はついに倒れたついでに草の上に仰向けになって、果てしなく湧き起る笑いを高らかに響かせた。小鳥たちが枝に集って、舞の様子を物珍しそうに眺めている。涙が流れてくる。嬉しくて、嬉しくて。あまりにも幸せで。


 いつまでもこうしていたいと舞は願った。ずっとここにいたい。この光と、桜の花と、鳥の歌声とを浴び続けていたい。夜になり、日の光が月の光へと変わって、花の色合いが闇に沈み込み、鳥たちが押し黙っても平気。私は桜に代って舞おう。月の光の手を取って。鳥たちに代って歌おう。そして春が来て、桜の花がすっかり散ってしまったら?そうしたら、舞は夏の緑を称えよう。夕立で体を洗い、ずっしりと濡れた白い衣を暑熱に掲げよう。夏の緑の色が色づきはじめたら、紅葉を縫って誰もが羨む贅沢な衣装を纏う。そして、紅葉も冷たく黒ずんで、虫も鳥も花も誰もが眠りに落ちてしまったら、舞はただ一人純白の地に寝転んで、ただ一人、雪と語り続けよう。眠れる草花のために子守唄を歌い続けよう。すると、もう、歌声は唇より零れ出づる。


水底みなそこの国、玉藻たまもの国は、永久とこしえにあれど。あまつ乙女の涙なければ、嘆きなければ。神々は何処いずこにしや。天つ乙女……」


 草を伝う蹄の音とその振動とに、京姫はまだ気がつかない。



 舞が起きたとき、時計は九時少し過ぎを指していた。飛び上がった舞は、ばたばたとパジャマのまま階段を降り、母を探す。「お母さん、寝坊した!」泣きながら叫ぶ舞の声を聞いて、庭で洗濯物を干していた母親が窓から顔を覗かせる。


「あら、やっと起きたの。おはよう」

「おはよう!寝坊した!」


 母親はくすくすと笑った。


「だって、何回起こしても起きないんだもの。よっぽど、疲れてたのね。勉強でもしてたの?」


(もっとすごいことしてたんだけど……)


 舞は密かに内心呟きながらも、うなずいた。


「あまり無理しちゃ駄目よ。学校行かなかったら本末転倒なんですからね。まっ、もう過ぎたことは仕方ないでしょ。菅野先生には具合が悪そうだから遅刻しますって連絡しておいたわよ。元気ならご飯食べて、学校行きなさい」

「ありがとう……!」


 舞は母親の優しさに深く痛み入りながら、それでもまだぼんやりとする頭で、ご飯と、豆腐と大根とわかめの味噌汁と、サバの塩焼きの食事を済ませて、母が淹れてくれた緑茶を飲み、まだ眠っている左大臣をそのままにして学校へと向かった。左大臣もきっと疲れているのだろう。老体で翼を運んでくれたし、帰宅の際には舞の自転車も押してくれた。母がくれた優しさを、舞は左大臣にそのまま渡してみた。その本質が微妙にずれていることを、舞は知らなかったけれども。母のそれは、労りではなく娘への愛情であったから。


 学校に着いた舞は、まずは職員室に向かって、菅野先生の元を訪ねた。菅野先生は元気そうな舞の姿を見て笑い、もう大丈夫ならばよかった、けれども無理はしないようにと忠告してくれた。舞はそんな菅野先生が、いつもの底抜けに明るい感じ――といっても若者のそれのようにどこまでも突き抜けていけそうな能動的な性質のものではなく、老いの境地にさしかかった人特有の、仙人じみた、つかみどころのないふわふわした性質のもの――が、今日に限っては影をひそめていることに気がついた。菅野先生の笑いは、いつものように快活ではなかった。なぜだろう。その理由を、舞は思わぬところに見出した。


「あっ……!」


 先生の禿げ頭の後ろの方を見ながら、叫んだ舞に、菅野先生はきょとんとしてみせた。


「どうかしましたか、京野さん?」

「あっ、あの、螺鈿伝説って……!」


 『桜花市の伝説の成立過程――螺鈿伝説の系譜――』他の本と共に並べられている、黒い背表紙にそう記されたその本を、舞は前から意識しないまでも、菅野先生の机の上に認めていた。だから、舞は螺鈿の墓でその名を知った時、どこかで見た名前だと思ったのだ。菅野先生は、「ああ」と呟いて上半身だけを捻って本を取り出すと、ぱらぱらと捲ってみせた。


「残念でしたねぇ、花魁井戸があんなことに……」

「や、やっぱりその螺鈿伝説って、あの螺鈿の……?」

「えぇ、もちろんですとも。実はですね、僕は大学時代にこの螺鈿伝説を研究していたことがあるのですよ。この本は大学のゼミの教授が書いた本でしてね。古い本ですが。僕は大学時代国文学科にいたのですが、こういう民俗学っぽいことが特に好きでして。京野さんも興味があるのですか?」

「えっ……ええっと、まあ一応」


 菅野先生は満足げに頷いた。


「悲しい物語ですよ。京野さんは確か日本舞踊をされてましたね。歌舞伎はご覧になりますか?」

「何度か見たことがあります。母に連れられて……」

「そうですか。でしたら、来月の歌舞伎座の昼の部にぜひいらっしゃるといいですよ。ちょうどこの螺鈿伝説を元にした話がかかりますからね。『恋合阿古屋心中こいあわせあこやのしんじゅう』といいます。そうだ。興味がおありでしたら、この本、お貸ししましょうか?」


 螺鈿伝説の系譜――菅野先生が読むぐらいだもの。難しそうな本だ。でも、螺鈿のことを知ることは、すなわち敵のことを知ることは、敵を倒す上でなにか役立つかもしれない。左大臣の助けを借りればなんとか読めるかもしれないし。舞は大きくうなずいた。


「はい!ありがとうございます!」


 重い本を一冊抱えて教室へ入ってきた舞を、すぐに女友達が勢ぞろいして出迎えた。「大丈夫なの?」「休まないで平気なの?」などなど。舞は笑顔で彼女らに応えると、机に頬杖を付いて、死んだような目で二時間目の授業の内容がまだそのままになっている黒板を見つめている翼に近づいた。翼も目の下に隈を作っていたが、気丈にも一時間目からきちんと出席しているらしい。舞は脱帽した。


「おはよう、翼ちゃん」

「おはよう……昨日はありがと。送ってくれたんでしょ?うちまで」

「うん。左大臣がおぶってくれたの。だから今日は左大臣おいてきちゃった。それより死にそうな顔してるけど」


 翼はふるふると頭を振って、やつれた笑顔を浮かべた。


「大丈夫。今朝もちゃんと稽古してから来たし……」

「今朝も?!」

「とにかく、あたしは平気なんだから……!」

「平気じゃないよ!翼ちゃん、寝た方がいいよ!」

「よぉ、京野!」


 明るい声で二人の会話に飛び込んできたのは恭弥であった。その手が引っ張っているのは、そうされても尚、洋書に集中していようと不断の努力を続ける司である。すぐ近くの席でぐっすりと熟睡していた美佳も、恭弥の声で目覚めて顔を上げたので、舞の周りにはおのずとCグループのメンバーが揃った。


「ひでぇ顔だな、二人とも」

「うるさいったら。あたしも舞ちゃんも寝てないんだから仕方ないでしょっ」

「なんだよ、ちゃんと寝ろよな。余計老けるぞ」

「余計ってなによっ?!」

「京野、ほら、昨日借りてた50円」

「あっ、アイスのときの……」

「助かったぜ!サンキュ!」


 と、美佳が、舞がその腕に大事そうに抱えている本を取り上げて、眼鏡越しにそのタイトルをまじまじと見つめる。


「螺鈿伝説?あんたなんでまたこんなもん持ってんのよ?テーマ変えたんでしょ?」

「う、うん、そうなんだけど、個人的に興味があって。そしたら、菅野先生が本を貸してくれたの」

「……全焼だってな」


 司の独り言にも似た言葉に、舞と翼は思わずはっと胸を衝かれる思いをする。司は以前恭弥に腕を掴まれつつも洋書から目を離さないで先を続けた。


「今朝のニュースで見た。花魁井戸、全焼したんだろう?」

「まじかよ?!俺、知らなかった」

「あたしも。どうして?」


 司は無言で首を振って「自分の知ったことではない」という答え代わりにした。恭弥は尚も食い下がった。


「なんで燃えたんだ?放火かよ?」

「……テレビではそう言ってた」

「なにそれっ?!墓が荒らされて、次は井戸が燃やされるだぁ?一体なんなのよ、誰がそんなこと……!」


 恭弥も美佳も人並み以上の憤りを覚えているらしい。この町に育ち、この町の伝説に馴染んできたものならば当然の反応だろう。町の史跡が損なわれたことは、この町が冒涜されたことと同じなのだ。きっと今朝のニュースを見た、この町の多くの人は怒りや悲しみのうちに、こう考えているに違いない――まさかこの町の人間はこんなことをするまい。こんなことをするのはこの町の者ではない誰かだと。舞と翼はそっと目を伏せる。誰が思うだろう。螺鈿が蘇り、自らの炎で井戸を焼き尽くしたなどと。


(螺鈿は恨んでた……)


 舞は間近に差し延べられた焼けただれた螺鈿の顔と、美しくよみがえった螺鈿のその狂喜する姿とを交互に思い出した。


(お墓を作ったぐらいじゃ駄目だったんだ。螺鈿の魂はずっとあの井戸の中にあって、たった一人で、暗くてさびしくて……だから芙蓉に蘇らせてもらったとき、その命令にすっかり従うことに決めちゃったんだ。でも、とにかくこうなってしまった以上は螺鈿を倒さなきゃ。そして、今度こそ、螺鈿の魂を成仏させてあげなくちゃ)


「ねぇ……!」


 舞は美佳の机に置かれている本の上に、手を置いて切り出した。


「ねぇ、私、考えたんだけどさ、やっぱり螺鈿のことちゃんと調べてみたらどうかなって?ほ、ほら、こうなっちゃった以上、なんか意地っていうか……」

「そうね!なんかあったまきたし。この町をバカにするなってとこ、見せてやんなきゃ!」

「たかだか授業内発表で何言ってるんだよ……学者が研究してる訳じゃあるまいし」


 舞に同調する美佳に、司が呆れて言うが、恭弥がその背中をバンバンと叩いて黙らせた。


「まあ、いいじゃねぇか。新しいテーマも結局決まってなかったしよ。今ニュースになってること扱えば、きっと橋爪のばあちゃんのポイントも高いぜ」

「あんたってほんと現金ね」


 翼は欠伸を噛み殺しながら言った。


「でも、やっぱり調べる価値はあると思う」




 その日の放課後、舞と翼は(美佳と恭弥は部活、司は恐らく女子二人のところに男子一人混ざるのが嫌だったのか用事があるといって逃げた)、青木家に集まり、螺鈿について学校や桜花市の図書館で借りてきた本を並べてみた。目が覚めて舞が部屋にいないのであたふたしていた、左大臣もポーチに入れて連れてきた。翼の部屋は和室で、舞の部屋のように可愛らしいものをいっぱい並べるといったこともなく、ごく簡素に片付いていて、大きなものといえば勉強机に使っている、よく旅館などで見かけるような木製の和机だけ。寝る時はそれを退かして布団を敷くらしい。雑誌とか読まないの?とあまりの物のなさに慄きながら舞が尋ねると、「そういうものは全部お姉ちゃんに借りる」との返事が来た。翼は三姉妹の末っ子なので、なるほど、確かに自分の部屋にはそれほど物を置かなくても事が足りるのかもしれない。ただ、部屋の隅に小さな子供用の鏡台が置かれているのが微笑ましかった。


「珍しいわね、小難しそうな本ばかり並べちゃって」


 翼の母親は、ショートヘアをした闊達そうな細身の女性で、翼と同じ藍色の髪をしている。翼はきっと母親似なのだろうな、と舞は思った。なんとなく気の強そうなところもよく似ている。けれども、やはり翼の母は娘に受け継がれた性質通りに優しい女性でもあって、初めて来た舞の訪問を大いに喜んでくれた。翼の母親は娘たちの邪魔にならないよう、ジュースとお菓子とを置いた。


「これ食べてね。舞ちゃん、どうぞごゆっくり」

「あ、ありがとうございます」


 舞はぺこりと頭を下げる。翼の母親は手を振りながら、部屋を出ていった。


「全く、柄にもないことするんだから」


 翼がつぶやいた。


「お母さんのこと?優しそうなお母さんだね」

「全然っ!もう滅茶苦茶こわいったら。まあ元警察っていうのもあるんだけど、ほんと厳しいのよ、うちのお母さん。お父さんのことも尻に引いてるくせに、猫被っちゃってまあ……」

「そういえば、うちのお母さんも電話の時、すっごい声変わるよ」


 舞は自分のテストの点を叱りつける途中で電話が鳴ったときの母のことを思い出して、思わず笑いだしそうになった。


「母親って、みんなそんなものなのかしら……」

「これこれ、姫様、翼殿、螺鈿について調べるのではなかったのですか!無駄話してる暇はありませんぞ!」


 ぬいぐるみの姿で一生懸命重たい本を開こうと苦闘しながら、左大臣が二人を叱りつけた。二人の少女は気のない声で「はーい」と返した。しかし、少女たちの関心は、まず翼の母親が持ってきてくれたおやつの方へと向かう。


「舞ちゃん、シュークリームとショートケーキどっちがいい?」

「えっ、翼ちゃん選んでいいよ」

「姫様……!」

「いいの、いいの。恭弥の家のケーキだから、うちよく貰うし……」

「いいなぁ!プロムナードのケーキ、美味しいよね!」

「翼殿……!」

「まあねっ。確かにこの町じゃあ一番美味しいよね。たまにテレビに出ることもあるみたい」

「そうなんだ!すごーい!あっ、じゃあ、私ショートケーキね!」

「姫……!」

「あっ、ラッキー!あたし、シュークリームがいいなって思ってたから」

「翼ど……!」

「相性ばっちりだね、私たち」


 左大臣がようやく少女たちにかまってもらうようになるためには、『桜花市の伝説の成立過程――螺鈿伝説の系譜――』ごと、机から転がり落ちる必要があった。



 すやすやと寝息をたてる翼の顔を肩に載せて、舞はぱらりと伸ばした膝の上に載せた本の頁を捲って、欠伸をする。菅野先生が貸してくれた本は難しすぎてわからないところも多いけれども、そこは左大臣に任せておけばいい。もっと噛み砕いて中学生用に示した本などのおかげで、螺鈿伝説と呼ばれているものが、舞にも大方わかってきた。


 元々、町に伝わっていたものは、一人の遊女が花街の火事の際にこの町まで逃れ、水を飲もうとして井戸に転落し溺れ死んだという話であるらしい。これはどうも史実であるらしくて、その話を聞いた歌舞伎狂言作者・志村正蔵しむらしょうぞうが書いたのが、菅野先生の言っていた『恋合阿古屋心中こいあわせあこやのしんじゅう』で、こちらは、元々ただの遊女であった悲劇のヒロインを、吉原、阿古屋の花魁・螺鈿とし、豪商・犬君屋の主人と、螺鈿の恋人・善國よしくにの三角関係を主題として話が進み、螺鈿が犬君屋の主人に身請けされることが決まって行き詰った善國がいよいよ火を放ち、螺鈿と連れ立って逃げることとなっている。しかし、逃げ延びた先で、火付けの大罪を犯したことに今になって善國は怯えはじめる。また、善國に想いを寄せていた、螺鈿の妹分の生駒いこまが火事で逃げ遅れて死んだことを知った螺鈿と善國は大いに悲しみ、死を決意。入水すべく川へと向かう途中、追手にあって善國は切り殺され一人生き延びた螺鈿も井戸に身を投げて死ぬという筋書きになっているという。そこから、設定や物語を逆輸入して、花魁・螺鈿が死んだところだとしたのが花魁井戸だと、ある本には書いてあった。しかし、そこまで読んで舞は変に思う。


「それだと、変じゃない?だって……螺鈿は螺鈿でしょ?自分でそう言ってたんだから」

「その通りでございます。ですから、大方、この博士が間違っているんでございましょう。まったく、よく調べもせずに困りましたな」


 現在伝わる螺鈿伝説は、大まかに三つ。一つは恭弥が教えてくれたもので、螺鈿は井戸の水を飲もうとして誤って井戸に転落したというもの。二つ目は、螺鈿には恋人があって、その恋人と結ばれない運命を儚んで井戸に身を投げたというもので、桜花市はこの伝説の方がよほど好みらしく、墓や井戸の傍にあった看板にわざわざ書き立てているのはこれだ。最後は、螺鈿は水面にやけどで傷ついた自らの顔を映そうとして井戸に落ちたというものだ。どれが真実かは、螺鈿に聞いてみればわかるだろう、と舞はちょっと皮肉めいた考え方をしてみて、自分がひどく疲れていることに気付き、本を閉じた。


 菅野先生から借りた長いタイトルの本は、女が井戸に落ちて死ぬという伝説を全国各地、様々な時代から取り集めて分析し、水辺で死ぬ女という発想の起原を万葉集の歌にまで求めながら、日本人の心意伝承(左大臣がこの言葉を発したとき、舞の頭の中では漢字変換されなかった)について論じたものであった。左大臣は案外面白がって読んでいたが、舞の方はすっかりくたびれてしまって、隣で眠っている翼の方へ、そっと視線を移した。たった二時間かそこらの睡眠で、毎朝祖父と行う剣道の稽古もさぼらずに学校に来たのだから、よっぽど疲れているはずである。舞は翼をえらいなあと思う。これぐらい、自分も頑張れればと思う。一方で、そうして力を抜くことのできない翼が少し心配にもなってくる。舞はせめて、自分の前だけでも、京野舞の前だけでも、翼が気楽にいてほしい、せめて自分だけには甘えてみてほしいと思った。友に対する温かな感情が、舞の唇から自然に迸る。


水底みなそこの国、玉藻たまもの国は、永久とこしえにあれど。あまつ乙女の涙なければ、嘆きなければ。神々は何処いずこにしや……」

「……姫様……!」


 舞の歌声に、左大臣は驚いたように本の上から顔を上げた。舞は口を噤む。知らぬ歌が勝手に出てきた。一体どうして?ああ、そうだ、今朝の夢の中で歌っていたではないか。


「前世のことを、思い出されたのですか?!」

「前世?」


 左大臣の言葉に、舞は首をかしげる。テディベアはぴょんと飛び上がって、舞に一番近い和机の端までやってきて身を乗り出した。


「左様。その御歌は、歴代の京姫にしか歌う事を許されぬ御歌ですぞ!いやはや、懐かしや!姫様はそういえば、よくその歌を口ずさんでおいででしたな。乳母めのとが無暗に歌うものではないとよく叱っていたのを覚えていらっしゃいますか?」

「ええっと……」


(ああ、あれ前世の記憶だったんだ……)


 せいぜいその程度の認識の舞は、困ってしまって頬を掻く。


(メノトってなに?)


 しかし、舞の困惑も構わずに、左大臣は机の上から飛び降りて、舞の膝元に正座をすると深々と頭を下げた。


「姫様!恐れながら!何卒!何卒もう一度お聞かせくだされい!できれば始めから終りまで……」

「で、でも……」


 もう一度なんて歌えるだろうか。今もただ、歌の方が勝手に口を打ち出でてきただけだというのに。


「いえ、どうぞ、何卒……!」


 仕方ない。別にもったいぶるようにことでもなかろう。思い出せるところまでなら、なんとか。テディベアの体とはいえ、老人に頭を下げさせているのだから。

 舞は目を閉じた。人前で歌う時はいつもこうして目を閉じていた……いつもってどういうこと?前世ではってことかな?私、人前で歌う機会なんてあったんだ。そういえば、思い出せる気がする。妓女たちが楽器を奏でていたっけ。でも、私、そういう時に限ってあまりうまく歌えなかったな……


 上手に歌えたのは、一人、日差しの下、庭で歌っている時だった。ああして歌っている時は、歌声を咎めようとする人たちも、つい何も言わずにおいてくれた。「姫様は歌っているときと舞をまわれているときが一番幸福そうですわ」と誰かが言った。でも、私は決して幸せだから歌っているのではなかった。舞っているのではなかった……いつもは、なんだか悲しくて、さびしくて、それを紛らわせるために歌っていた。桜の下で歌ったあの時、初めて嬉しくて歌ったの。


 星々の光の下で歌う時……あの時だけ、私は無性に苦しかった。どうしてだったっけ?思い出したいけれど、思い出すのが恐ろしい気もする。誰かに歌を、想いを届けたくて。遠い誰かに。もう二度と会えぬと思っていた、あの人に……



「水底の国、玉藻の国は、永久とこしえにあれど。あまつ乙女の涙なければ、嘆きなければ。神々は何処いずこにしや。天つ乙女、自ら問へど、答うれど……」



いにしえの神々は、暁に消え残る、かの星々。残されしこの身は一人、君を恋ふ……」



 ……美しい調べに、青龍は足を止める。また、姫様が歌っているのか。無暗に歌ってはならないと散々叱られても懲りない方だ。青龍は溜息を吐く。しかし、珍しい、こんな夜更けに……青龍はつい歌声に聞きほれつつある自分を引き留めつつも、それでも柱に寄り掛かって、姫の歌う遠い古のことを、この国のはじまりのことに想いを馳せずにはいられない。青龍が寄りかかる柱の向こうには、寝静まった木々と茂みとが続き、京姫の坐す(姫君曰く、閉じ込められているだけ)桜陵おうりょう殿をぐるりと囲う石の壁までの間を、松明の火がぽつぽつと照らしている。その灯りの上を、火を消しかねぬほど涼しげな青い瞳で飛び移りつつ、青龍は物思う。天つ乙女が産んだ御子がこの国に降ろされて、この国の悪しき神々を成敗して帝となり、その血が今日この日まで延々と受け継がれてきた。正しい継承者の血だ。彼もまた。それなのに、なぜ……?青龍は柱に頬を凭れ掛からせる。それなのに、なぜ彼の即位を阻もうという人が現れるの。他の誰にも増して、次の皇位を継ぐ権利が彼にはあるというのに。正しい人だ。悪戯好きでやんちゃで、子供っぽいところもあるけれど。あんなに女房や家臣たちに慕われている人もないというのに。どうして彼の命を狙う人があるというの?

 手の届かない人。お傍にいることはできない人。それでもいい。それでも、あの人が、正しくその人が継ぐべき地位に就くことができるのであれば……あたしはただ、遠くから見守っているだけで、もうそれで……


「残されしこの身は一人、君を恋ふ」



「いとせめて、眠れよ、吾子あこよ、めぐし吾子、水底の国、玉藻の国は、がためにこそ作りしものを……」



 ……京姫は一種空恐ろしくなるほど散りばめられた星々を見上げて切なげに瞳を揺らした。今日の宴でこの歌をうたったとき――あの時は、星は出ていなかったけれど――あの人の視線を感じた。あの人は特に何も思っていないような、静かな落ち着き払った目で、ただしきたり通りのことを行う巫女として、姫を見つめているようだった。私だけだったというのだろうか。あの日、桜の下で出会った日、胸をときめかせたのは。突如降り注いで、二人を狭い木のうろの中に留めた雨を、天の慈雨だと見なしたのは。


(せめてもう一度だけでも、言葉を交わせたらな……)


 許されぬ願いが胸を締め付ける。かくも美しい、清らかな恋慕の想いすら京姫には与えられぬはずなのだ。京姫は聖なる乙女の身であり、神の御子にしてこの世の神である帝の妃。本来ならば、かの人との出会いすら在り得なかったというのに。



「天つ乙女、かくりたまひ、清らの御子みこあめれましし、神のみこと、幼き御子、星の命を、涙の川に、降したまひき。天つ乙女、宣りたまひしく。は願う。神の命、星の命、玉藻の国をしろしめさんと。吾は願う。吾子がため。君がため。永久とこしえにあれ、水底の国。天つ乙女、かく宣りたまひき……」



 左大臣が目を閉じてうっとりと聴き入り、たまたま部屋の前を通りかかった翼の祖父が思わず驚いて足を止める。翼の眠りはますます平らかそうに見えた。舞は気付かなかったけれども、翼の部屋の窓がほんの少しだけ開いていて、椿の垣根越しの人の耳にも、その歌声は神の恩寵のごとく注がれた。ちょうど戸外では、小雨が降り始めていて、しめやかに土を濡らし、椿の葉に透き通った露を結んでいたが、そこに立ち尽くす人は、春の雨が白い制服の肩を灰色に染めるのにすら無頓着に、ただひたすら懐かしさに目を細めている。


 長い金色の髪を伸ばした、少年とも少女ともつかぬ容貌の人である。もしその人を女性とするならばかなり背の高い部類に入るだろう。前髪の一房がかかっている鼻筋はすっきりと通っていて、唇は薄く引き締まっている。頬は白く、薄い睫毛と深い彫のほのかな影とに縁どられた瞳の色はアイスグレー。顔立ちは日本人ばなれしており、凍れる大地に住む人を思わされる。こんな温かな日だというのに裾の長い学ラン姿で、その下に黒いシャツを着こみ、白いズボンのポケットに片手を入れ、もう片方の手で鞄を肩にかけている。その人が雨をさほど感じぬのは、その瞳に影を落としている白い学生帽のせいかもしれなかった。


 歌に聞き惚れていたその人は、何者かの視線を感じたのか、ふと振り返る。と、道路の向かい側にスーツ姿の長身の男が一人佇んでいるのに気がついて、その人は音楽の喜びにやわらかく煌めかせていたその瞳を、突如、不快と軽い敵意とに尖らせた。その人が何も言わずにスーツの男の前を通り過ぎると、男の方も後を追ったが、自分のためには掲げたモスグリーンの傘をついにその人には差し出そうとしなかった。


「こんなところで何をしている?」


 金色の髪のきららかな人が振り返りもせずに尋ねた。男とも女ともつかぬ、チェロの胴の琥珀色を思わす声だ。


「近づかないんじゃなかったのか?敵に気取られないように」

「用心は十分にしている。それにただ近くを通りかかっただけだ。学校帰りに……」

「それで、つい足を止めたと。随分と暢気じゃないか?」


 前を行く人は「黙れ」と静かに返した。この男に何がわかるのだ?自分たちが姫様に寄せる憧憬、愛慕、懐かしさ、切なさ――その歌声がどれほど傷ついた者、孤独な者の心を癒すか。どうしてこの男に分かるというのだ。前行く人に胸中唾棄されていることを知ってか知らずか、男の方は続ける。


「お嬢様を守るのは俺だけでいい。お前が姫様の元に参上したいなら、そうするがいい」


 この言葉を聞いて、初めて金色の髪の美しい人は立ち止まって、男を睨みつけた。アイスグレーの瞳はさながら尾を踏まれた虎のように猛々しく。


「お前一人に任せられるはずないだろう。玲子がああなったのはお前のせいだ。それに、私は忘れてはいない。かつて、お前が玲子になにをしたか……!」


 男は黒い瞳を刹那に閃かせた。だが、それは目の錯覚であったかもしれない。枝を揺すぶる風がその傘の上に葉に溜まった水滴を落として激しく音をたてた時、男は少しだけ傘を傾けて瞳を覆い隠したが、再び彼が覆いをあげたとき、彼の声は落ち着き払うどころか、むしろ相手への優越からくる高慢さすら漂わせていたから。


「そうか、お前がどうしたいのかはよくわかった。だったら言わせてもらう。俺を侮辱するのは勝手だが、気まぐれな行動は慎んでもらおう。敵にお嬢様のことを気づかれては困る」

「そんなことはわかっている……!」

「それならばいい」


 男はそう言って歩き出す。立ち尽くしたままの少年とも少女ともつかぬその人の傍を抜ける時、開いたままの傘をその人の足元へと放り棄てて、ますます強くなる雨の向こうへ、今はただ眠り続ける人の元へまっすぐと。異国の血を引く人は、その傘を踏みつぶしてその骨組みを折ると、重たく黒ずんでいくスーツの背中に怒鳴った。


「……貴様の指図を受けるつもりはないっ!」


 歩き続ける男は聞こえたというような素振りすら見せなかった。




「かかること、古きの、遠き代のことなれど、桜乙女、稲城いなき乙女、清き乙女が絶えず言い継ぐ……」


 歌い終わった舞の目に、一筋の涙が流れた。





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