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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第一章 現世編―螺鈿の巻―
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第七話 罠(上)

 桜花市の西部――というよりすでに桜花市をはずれているところなのだが――は、日本橋から伸びて小田原で東海道と合流し、そのまま京へと続く街道によって縦断されている。この街道こそ、桜花市が江戸時代に宿場町として栄えた由縁なのであるが、今はその道の一部が幹線道路になっていて、かつてこそ旅の疲れからつい桜花町に赴いた人々の足も、車という文明の利器を得たからにはこんなうらさびれたような町には誰一人興味を抱くこともなく通り過ぎていくばかりである。桜花市側から見て幹線道路の向こう側は、それこそ一面野原になっており、草の中に紛れて小さな神社が置かれている。今はあまりに高く伸びすぎた草の影に鳥居も覆われているが、その神――旅路の神は、人に祀られなくなった今なおも確かにそこに坐したのである。そうして、祀られぬさびしさを、目の前を通り過ぎる人々を守ることによって、紛らわせてもいたのだが。


 そんな優しい、小さな神の憂鬱もついに皐月の始めの暁に終わりを迎えた。何者かの社の訪うを聞いて、嬉しげに舞い降りた神の肩を八つの脚が絡めとった。驚きもがく神の背に毒牙が突き刺さる。青ざめ痙攣していくその体を糸がゆっくりと包んでいく……



「まだ食わないのかい?」


 紫煙がこの社の内にくゆるのはこの神社の建てられて初めてのことだろう。人々が絶えず此処に足を運んだころも、そして、叢にさびしく打ち捨てられたあとでさえ、かくも畏れを知らぬ者はいなかった。螺鈿は、埃と蜘蛛の巣に塗れた、壊れかけ狭い社いっぱいにおおよそこの場には似つかわしくないきらびやかな打掛をひろげ、赤く爪を彩った足を暗闇に差し延べている。その背後では子蜘蛛たちがけたけたと喧しい笑声をたててじゃれあいながら、御神体であった鏡をとりあっていて、それが床や壁に叩き付けられたり、あるいは蜘蛛の足に踏みつけられたりするごとにひびわれて破片が散らばるのに、いかにも楽しそうに歓声をあげていた。蜘蛛たちはこんなことの他にも、夜中の幹線道路をぽつりと寂しく走っている車を急襲して、激しい火をあげさせるという遊びにも夢中である。それに、卑しい人間どもの肉は、神と比べれば味は劣るけれども腹が膨れることは確かなのだ。兄弟たちの遊びに入ることのできない一際小さな一匹の蜘蛛は、部屋の隅で昨夜の獲物の骨を転がしていた。螺鈿がそれともわからぬ仕草で手招きすると、蜘蛛はまるで子犬のように骨をくわえてやってきて、螺鈿の手に小さな(兄弟たちとくらべれば)頭をすり寄せた。


「……まあ、好きにおしよ」


 と、螺鈿は、暗い室内を一層陰らせたものがあることに気がついた。「おや」と呟いて、ぽんと煙管の灰を落とすと、遊びまわっていた蜘蛛たちははしゃぐのをやめて、部屋の隅にすごすごと下がっていく。拝殿の扉が音もなく開いて、長い髪を流した女の影がそっと生温い外気とともに入り込んでくる。螺鈿は恭しく頭を下げた。


「これはこれは、芙蓉様……」

「いつまで遊んでるんですの?」


 芙蓉の声は不機嫌である。


「せっかくお前を蘇らせてやった恩はもう忘れたんですの?お前が蘇ってから、月は大分痩せ細りましてよ。いたずらに人間どもを燃やす以外にお前にはすべきことがあるんでなくて?」


 だが、そんな風に芙蓉にとがめられても、螺鈿はさほど動ずる気配はない。却って不遜な笑みを口元の紅に閃かせたほどだった。


「なんですの?」

「いいえ。芙蓉様、あんたがおっしゃることはもちろんわかっていますとも……えぇ……ねぇ、芙蓉様。あちきがもし、例の四神とやらの一人を見つけたとしたらどうします?」

「見つけたのですか?」


 芙蓉の問いかけに、螺鈿ははぐらかすように両方の眉を吊り上げて冷やかに微笑んだ。


「もしそうだとしたら、褒めてもらえますかねぇ?」

「お前の褒美はあの溝のような井戸を出させてやったこと、それで十分でしょう。御託はいいわ。ともかく早く動きなさい」

「仰せのままに」


 芙蓉が夜空に消えていくのを、螺鈿は炎のように光る眼で見守っていた。まあ、優雅な装いをしていても随分とせっかちな人だ。こっちにはこっちの考えがあるというのに。まあいい。どうせあいつらも、燃え尽きて塵と消えるに違いないのだ。燃え尽きて塵と消える――ああ、なんて素晴らしい響きだろう。井戸底に閉じ込められていた折には、夢にも思わなかった。


 と、螺鈿は、どしんという鈍い音と地響きに振り返った。子蜘蛛たちが大きいものから小さいものへと縦に積み重なって、天井から吊るした白い繭のようなものを取ろうと足掻いていた。音は、あの骨で遊んでいた末の子が失敗して、転げ落ちたときのものらしい。すると、兄たちは甲高い声で囃し立てながらその末の子に群がった。所詮は憎悪と悪意ばかりに取り憑かれた化け物の性である。螺鈿は部屋の中央、闇の中にまた一つ、新しく白いものが紡ぎだされる景色を、煙管を嗜む間の余興とした。


「まったく。見下げはてたやつらだねぇ」




「珍しいわね、舞が寝ないなんて」


 桜花駅に降り立った舞は、母親が笑いながらそう言うのにほんの少し拗ねてみせる。歌舞伎座の一階席を取ってきたので、今日は母も娘もめかし込んでいる。舞の母親はきっちりと着物を着こんでいた。


「私だって、そろそろ話が分かるようになってきたもん……!」

「そう。なら、また連れていってあげてもいいかもね。さあてと、お夕飯は何にしようか」


 五月六日木曜日。本来ならばゴールデンウィークの途切れ目ということで授業があるはずだけれど、桜花中学校は本来ならば休みであるはずの先月四月の二十九日に授業を行ったので、今日は振替で休みである。いつもなら友人と行くところであるけれど、今月は珍しく娘が行きたいと言いだしたので、展示会が終わって一区切りついたところでもあるし、娘もちょうど休みであるというので、親子水入らずで東銀座へ向かった。芝居が跳ねてからは寄り道せずに帰ってきたけれど、桜花駅に着くころには六時を少し過ぎたところで、駅前通りは夕食の買い物をする人で賑やかである。


「今日はお父さんとお姉ちゃん置いてきちゃったから、お父さんたちが好きなものにしようかな」

「お父さんだったら鍋焼きうどんじゃないの?」

「そうねぇ、でもそろそろ暑くなってきたからなあ」

「お姉ちゃんは何好きなんだろ……なんでもよく食べるよね」

「お姉ちゃんは昔から好き嫌いないわね、本当に。舞は小さい頃偏食が激しくて、お母さん毎日離乳食作るのほんっと大変だったんだから。お母さん、泣きながらご飯作ってたのよ」

「で、でも、今はちゃんとなんでも食べるでしょ!」

「あなた食べ過ぎよ、動かないくせに」

「ちゃんとお稽古行ってるでしょ!」

「まっ、育ち盛りだもんね……さて、お夕飯、お夕飯っと。そうねぇ、お母さん、今日は豆腐ハンバーグの気分かなぁ」

「結局お母さんの好きなものじゃない……」


 と、舞はある小さな雑貨屋のショーウィンドーに目を留める。ロイヤルブルーの大きなリボンのついたカチューシャが飾られている――青い宝石で飾られたリボンはすぐさま翼を連想させた。そういえば、翼の誕生日、五月七日って言っていったっけ?つまり、明日……?


「あら、かわいいカチューシャ」


 足を止めた娘につられて母親も舞の肩の上から顔を覗かせる。きらびやかな窓に、黒い髪を結い上げた和服姿の母と、明るい茶色の髪にカチューシャをして紺色のワンピースを着こんだ娘の、親子の顔が並んだ。


「なあに、欲しいの?」

「ううん、友達が明日誕生日なの。プレゼントにどうかなって」

「あら、いいじゃない。お金ある?少し出してあげようか?」


 舞は笑顔で首を振った。


「大丈夫!今日は少し多めに持ってきたの。それに、友達の誕生日だから自分で買う!」


 ちょっと待ってて、と言い残して、舞は店の中にぱたぱたと駆けこんでいった。外装、内装ともに白を基調として、そこにセンスよくかわいらしいもの、綺麗なものを飾りたてているその店に、舞は初めて入った。ぱっと見は小さな店に見えるけれど、中に入ってみると案外天井が高くて、白いペンキで塗った木の壁や床が温かい。画家のアトリエという設定らしく、描き掛けの柄が配置してあったり、わざと店内が絵具で汚されていたりして、なかなか面白かった。もっと時間があったら、ゆっくり見ていくのになと思いつつ、舞は目当ての品を手にとるとまっすぐにレジの方に持っていった。


「あの、プレゼントでお願いします!」


 地味ななりだがなんだか気の優しそうな、髪を一つに束ねている女性の店員が丁寧に包装してくれているのを待っていると、舞は壁に掲げられていた絵に見とれていた肩をつんつんと不意に突かれた。母親かと思って振り返って見てみると、そこには見知らぬ少女が立っていた。


 黒い髪を少年のように短く切り込んだ、背の高い少女である。痩せていて、胸の膨らみすら容易に目につかないので、舞の目は一瞬その人の性別がどちらか迷ったほどだ。黒縁の四角い眼鏡に黒いタンクトップ、裾の広がった黒いズボンと、何もかも黒ずくめななかに、眼鏡の奥の瞳だけがマホガニー色。その目が垂れ目で睫毛がふさふさと豊かなので、舞はこの人は女性だろうと判断した。少女はにこやかに、そしていかにも親しげに話しかけてきた。


「ねっ、その絵、気に入った?」

「えっ……?」


 舞はきょとんとした。まるで古い友人に話しかけるかのように、少女は尋ねてきた。けれども、不思議と馴れ馴れしいという感じを与えない。なんだかそうやって話すことの方が、礼儀正しく語りかけてくるより、この人には相応しいという感じがする。少女はにこにこと続ける。


「いやー、じーっと見てたから気に入ってくれたかなーって」

「えっ?あっ、は、はい!とてもきれいな絵だから……なんだか私まで雪の中にいるみたいで」


 すると、少女はいかにも嬉しそうに飛び上がる。


「やったー!ねぇ、凛さん、聞いた?あたしの絵気に入ったって!」


 凛さんと呼ばれた女性の定員は、包装紙を折りたたみながら、舞に微笑みかけ、続いて歓喜している少女にやんわりと言った。


「もう、奈々(なな)ちゃん、いきなり話しかけるから、お客さんがびっくりしてるじゃない……」

「でも、あたしの絵気に入ったって!あの絵ね、スコットランドの森の絵なんだ。去年の冬に行ったとき、森のたたずまいがとてもすてきだったの。しんとしてて、雪だけが降り積もってて、多分永遠ってこんな感じなんだろうなって思ったの。だから描いたんだ。あとね、お客さんが買ってくれた、それ」


 と、少女は、すでにラッピングされて姿が見えなくなっているロイヤルブルーのカチューシャを指さした。


「それもあたしのデザイン」

「えっ、お、お姉さんが……?!」


 舞は素直な驚きを口にした。少女は満面の笑みで頷いて、「そう!」と言いながら、舞の両肩に手をのせて揺すぶった。


「そうなの!だから、なんだかすっごく嬉しくなっちゃって!あたしの絵も、カチューシャも気に入ってくれたんでしょ?あたし、すっごく幸せ!ほんと、ありがとう!……あっ、やっばい。こんな時間だ。悠太お迎えにいかなくっちゃ。じゃあ、またね!絶対また会おうね!」


 扉に取り付けられた鈴の音を高らかに鳴り響かせて、嵐のごとく少女が店を飛び出てしまったあとで、女性店員は苦笑を浮かべつつ、舞に詫びた。


「ごめんなさいね。驚いたでしょう、変な子で……でもあれでも、あの子、実はかなり有名人なんですよ。奈々ちゃんっていうんですけど、将来有望の少女画家っていうのでとっても注目されているんです。絵の才能だけじゃなくて、アクセサリーなんかのデザインも得意で。それで、うちのお店に奈々ちゃんがデザインしたものを少し置いてるって訳なんです。それはいいんだけど、才能が偏り過ぎちゃったせいなのか、あの通りすっごくマイペースな変わった子で。まあ芸術家ってそんなものなのかもしれないけれど……あっ、お待たせしました」


 店員から商品を受け取ってからも、舞はやや名残惜しそうに、柔らかな筆致で描かれた、眠れる針葉樹の森と湖の絵を――少女曰く「永遠」――を見ていたが、母が待っていることを思い出して店を後にした。



「つーばーさーちゃん!おっはよ!」

「あれっ、舞ちゃん、おはよう……」


 翌朝、プレゼントを背中側に隠しながら、今日は誕生日だから翼もさぞかしわくわくしていることだろうと思って話しかけたのに、翼は浮かない顔をしている。笑顔こそ浮かべながら、翼は舞に手を振るなり、また机の上に頬杖を突いてしまった。舞はプレゼントをあげるのをひとまず保留にすることにした。


「翼ちゃん……どうかした?」

「ううん。なんでもない……」

「ほんとに?」


 翼はしばらくの沈黙の後で唇を尖らせて、机の上に突っ伏した。


「翼ちゃん?」

「お父さんが……」

「お父さんがどうかした?」

「……お父さんが今日は夜勤だから帰ってこれないって急に」

「えっ、翼ちゃん、今日お誕生日なのに?!」


 口を滑らせて舞は慌てたが、突っ伏してくぐもった声をたてている翼は、そんな様子にも気づかぬままだ。


「そうなのっ!つい一昨日までは帰ってこられるって言ってたのに!」

「でも、どうして……?」

「町で変な事件が続いてるから、パトロール強化だって」

「そ、それって、もしかして漆……」


 言いかけて舞は口を噤む。なんだかその名を口にすることさえも憚られて。顔をあげた翼もその名を聞いた一瞬は顔を澱ませたが、すぐに少女らしい怒りがそれを掻き消したらしく、舞の肩をぎゅっと掴んだ。


「そうよ!ぜーんぶ漆のせいよ!あいつのせいで、あたしは自分の誕生日すら父親に祝ってもらえなくなってるのっ!」

「つ、翼ちゃん、落ちつ……!」

「もう絶対許せないんだから!絶対絶対あたしがやっつけてやるもんっ!」

「つばさちゃっ……ちょっ……!」


 もうすでに登校してきていたクラスメートたちが一体なんの騒ぎかとこちらにちらほら目を集めさせ始めている。翼に激しく肩を揺すぶられたせいで、舞の手から誕生日プレゼントの箱が零れ落ちて、翼の足元に転がった。しまった!と舞が思ったときには既に遅く、翼の手がぴたりと止まる代わりに、その目は水色の包装紙に青いリボンで結んでもらった箱の上に寄せられていた。


「あっ……!」

「あれ、舞ちゃん、これ……」


 舞は急いでプレゼントを拾い上げて、ハンカチで箱を拭った。


「ご、ごめんっ!落としちゃって!い、一応誕生日プレゼントのつもりだったんだけど……!」

「えっ、嘘……!あっ、ちょっと、拭くのやめてよ!そんな綺麗なハンカチで!」

「だ、だって……」

「だって、落ちたのあたしのせいじゃない!もうっ!ごめんねっ……」


 二人の遣り取りに女子たちがくすくすと笑い声をあげたので、舞と翼は頬を赤らめた。一通り綺麗になったかな。舞はハンカチをポケットにしまうと、こほんと咳をして、両手でプレゼントを持ち直した。


「じゃあ、翼ちゃん、えっと……お誕生日おめでとう!」

「ありがとう……!」


 その時、ちょうどチャイムが鳴ったので、舞はひとまず自分の座席に着いた。




 昼休みは、試合が終わった美佳を舞が労わるなどしていたので、つい二人の時間がとれず、翼は結局帰宅してからプレゼントの包みを解いた。青いリボン、水色の包装紙――もしかして、あたしの色を選んでくれたのかな。あたし、一応青龍だし……


 箱を開いて、翼は思わず声をあげた。つい嬉しくて、部屋の隅においてあるおもちゃの鏡台の前でツインテールを結んでいるリボンをはずし、カチューシャをあててみる。吾ながらよく似合っていると、翼は思う。舞もよくかわいいものを探してくれたものだ。お礼、ちゃんと言わなくちゃ。そうだ、舞の誕生日、いつだっけ?この間英語の時間に話してたな。六……違う、七月だ。JulyとJuneを間違えてたんだった。確か日にちは十一日だったはず。


「七月十一日っと」


 翼はスケジュール帳にしっかりと書き込んだ。あと二か月も先のことだけれど、今からプレゼントを探すのが楽しみで仕方がない。舞にはなにが似合うだろうか。ピンク色なんて、舞のイメージにぴったりな気がするが。


「そういえば、仲良くなったの、いつだっけ……」


 和机の上に頬を載せて、傍らにスケジュール帳を起き、外したリボンを指で弄びながら翼はぼんやりと思い出す。本当に、思えば一月も経っていないのだ。もちろんそれまでも存在を知ってはいたし、会話も交わしたこともあったとはいえ。


 翼にとって、舞は春の日差しのような温かな少女だった。強いて目立とうともしないし、勉強でも運動でも突出しているという訳ではないけれど、表情が豊かで、その中でも微笑む顔が印象的で、誰に対しても優しい。同性の翼から見ても、とても可愛らしい顔立ちをしているけれど、どれほど自覚しているのか、もしや全くしていないのか、そのために奢り高ぶるということもない。クラスの男子たちだって、少なからず舞に想いを寄せている者もあるだろうというのに、舞はそんなことにもまるで無頓着のように見える。そして、京姫としての舞――芙蓉に襲われ、慄く翼の前に現れた京姫は救世主さながらに。螺鈿の炎を受け、渇ききり力尽きた翼を抱きしめて、懸命に名前を呼んでくれた、あの京姫の声こそ、翼にとっての慈雨であった。先日、舞が聞かせた古代の歌声。翼の眠りのうちを苦しいほどの懐古に満たしていき、翼の祖父を驚かせたあの歌声も……翼は時折、頭の片隅で、埋もれた瓦礫の下でなにかが動いているような感じがする。その振動で、瓦礫がぱらぱらと転がり落ちて、翼の頭の底で音を立てる。そんなときに、翼の目に浮かぶ人。美しくて、神々しくて、凛々しく若い女性の姿。長い波打つ髪を風に遊ばせながら、衣の袖を翻し、春の日差しに瞳を優しく細め、歌い、舞う女性。散々見慣れたはずの姿に、翼はつい心を打たれるような感銘を抱いている。大切な友達だった……前世でも。でも、次第に、なんだか、もどかしくもなってくる。急に、土を掴んで投げつけたいような、悲しく悔しい気分になってくる。


(だって、姫はあたしに隠し事をしていたんだもの……)


 翼はびっくりして起き上がった。ちょうど今、瓦礫からなにか顔を覗かせたものがあったのではないか。翼は頬に手をあてる。思い出したのだろうか、前世の記憶を。翼は首を振る。前世の記憶なんて、どうでもいい。あたしは青木翼として、戦いの道を選んだのだから。漆と戦うのは前世の因縁のためではなく、漆がこの町の平和を乱すためだ。余計なことは思い出さなくていい。きっと辛くなるだけだ。そうだ、漆がお父さんを誕生日祝いの席から引き離すから、その復讐のためにあたしはあいつを倒すんだから……!


「……お父さんのせいじゃない、か」


 翼は呟いた。そうだ、漆のことは、父親にはどうしようもない。寧ろどうにかしなければいけないのは、戦わなければいけないのはあたしの方だった……今朝はむくれて家を出てしまったけれど、やっぱり謝ろう。今夜のお弁当、あたしが持っていってあげよう。と、翼はいいことを思いついて、ぴょんと立ち上がり、台所の方へと駆けていった。


 海苔ごはん、から揚げ、卵焼き、ミニトマト、ひじきとおからの和え物、ほうれん草のソテーに生姜焼き。ミニグラタン、ハンバーグ、デザートにはオレンジ。これを二段重ねのお弁当箱にぎゅうぎゅうに敷き詰めたので、台所にアイスキャンディーを取りにきた二番目の姉がのぞき込んで、「いれすぎじゃない?」と呆れてみせた。いいでしょ!と翼はむきになって返す。姉の光は、怪物に襲われた事件があってから二三日熱を出して寝込んでいたが、元来が丈夫な性質なのでもう回復して、大学にも復帰したようだった。


「あっ、光、アイスなんて食べて!今日は翼の誕生日ケーキもあるのに!おっ、翼、随分豪華にできたじゃない。お父さんの方が誕生日みたい!」


 台所が空いたかどうかを見に戻ってきた母親が、自分より高い娘の頭をこつんと叩きつつ、翼のお弁当を見て言った。


「でしょっ?あたし、これ届けてくるね!夜ご飯までに帰ってくるから!」

「あら、今日はおじいちゃんとのお稽古はないの?」

「うん!誕生日だからお休みだって」


 翼はさっそく準備をした。一応町中に出るから、部屋着は脱いで、カチューシャによく合いそうなワンピースを見つけて着こんだ。もしかしたら、恭弥に会えるかもしれないし。翼は鏡台をのぞきこんだ顔をほのかに染めた。そういえば、あいつも誕生日祝ってくれたけど、一応……なんだっけ?あっ、そうだ。「よう翼!また一つ老けたな!」だ。


「……まったく、もう!」


 あの一言だけで、奴がいつしかの誕生日にくれたリボンなどは、今日はつけないに限る。




 姉の自転車を借りて出かけた翼は、気まぐれに公園を通っていこうかなと思った。いつも夕食を届ける時間は七時過ぎなので暗いけれど、今日はまだ五時過ぎで明るいから、公園の景色もなんとなく楽しいだろう。いつもと違ったことをしよう。なんて言ったって、誕生日なのだし。


 子供や鳩で賑わっている噴水広場を一周してから、図書館の方へと自転車のタイヤを滑らせた。螺鈿伝説に関わる本を取り寄せたのがちょうど来ているはずだから、それもついでに借りていこう。図書館脇の駐輪場に自転車を停めて、お弁当の包みを持って入り口へと向かう翼は、ちょうどその時、図書館から出てきた少女とぶつかりそうになった。「あっ、ごめんなさい……!」翼は謝ったが、相手の方は黒縁眼鏡の奥の目をぱちくりさせて、翼を見つめるばかりである。なんだ、変な人。制服を見ると、桜花中学の生徒みたいだな。でも顔は知らないな。とにかく、せっかくの誕生日に揉め事はごめんだ。腹は立つけど何も言わない方がいいかもしれない……そう思って翼がその脇を小さくお辞儀しつつ通り過ぎようとすると、突如、少女が「やっぱり!」と叫んだ。翼はびっくりして立ち止まった。


「えっ?えっ?あの……」

「やっぱり!そのカチューシャ、あたしのだ!」

「あなたの?へっ……?」


 と、翼は少女に肩をがっしりと掴まれた。翼は悲鳴をあげかけたが、少女がきつく翼を抱擁してきたので、声も思わずすくんでしまう。


(な、なんなの、この人……!)


「あたしがデザインしたの、そのカチューシャ!昨日、かわいい女の子が買ってくれたんだけどね!じゃあ、あの子がプレゼントした相手って、あなただったんだね!すっごく似合ってる!」

「ちょっ、ちょっと……!」


 翼は喜びはしゃいでいる少女の腕をなんとか振りほどき、翼はようやく一息吐く。それから、腰に手をあてて、


「も、もう……っ!いきなりなんなのよ……っ!」


 すると、少女はようやく自分の行動に気付いたように、笑いながら頭を掻いた。制服のセーラー服を着ていなかったら、男性かと間違えたかもしれない。でもよく見れば優しい顔立ちをしているけれど。


「あっ、ごっめーん。あたし、いっつもこうなんだよね。それでよく怒られるんだけど。でも、嬉しくって。すっごくかわいい子があたしのデザインしたカチューシャ、つけてくれてた訳だから。あはは!」

「あはは、って……!」


(あれ、なんだろ、この感じ……なんか、前にもあったような……)


 翼が早くも少女とのやりとりにげんなりしていると、少女はにこりと笑って手を差し出した。


「あたし、黒田くろだ奈々(なな)。よろしくね!」

「……あ、あたしは、青木翼……」

「あっ、そうだ!ねぇ、翼ちゃん、今時間ある?ちょっと絵のモデルになってよ」


 奈々は握りしめた翼の手をそのまま両手に包みこんで、自分の胸元まで持ち上げて言った。


「えっ、ちょっと……今から?」

「うん!大丈夫。すぐ済むから。ねっ、ちょっとこっち来て!」

「あっ、ちょっと、あたし、用事が……!」


 奈々の勢いと、そのきらきらした目の輝きについに抗えぬまま、翼はぐいぐいと引っ張られていく。翼は胸中、「なんなのこの人……!」を連発しながら、さながら荷車で運ばれていく子羊のごとく、図書館の裏へと連行されていった。図書館の裏は、小さな庭のようになっていて、梅雨場はとてもじめじめしていていられたものではないが、今日のような五月のさわやかな日には人生の一日を謳歌するためには最適の場所である。なにもないといえばないのだが、小さな広場を囲う木の配置や木漏れ日の入り方、風の吹き方が絶妙で、公園内の一角ではあるけれども、図書館の近くであるから大きな音を立てる者もなく、ぽつんと置かれたベンチの上に座ってさえいれば、いくらでも時間を潰していられるところだ。


「やあ、おっはよう」


 広場に入るなり、奈々が木々を見上げて挨拶をしたので、翼は唖然とした。この人、もしかして、本当に危ない人だったりして。奈々はようよう翼の手を離し、鞄から食パンの耳を詰めたビニール袋を取り出した。逃げるなら今なのだが、ついそうも出来かねて翼が躊躇していると、いつの間にか雀や山鳩たちが奈々の周りに降り立ってきていて、奈々が細かく千切ってやるパンくずを啄みはじめた。小鳥たちは奈々の肩や手に乗ってまで、餌をねだった。その感触がくすぐったいのか、奈々の口からは笑声が絶えることがない。ついに鳥たちの仕切りにねだるのに耐えかねて、奈々が袋をひっくり返した。それでも尚、奈々の手を離れずにいる小鳥たちは、奈々に撫でられるのを心待ちにしているようであった。


「あ、あの……!」

「あっ、翼ちゃん、ごめんごめん!今ポーズを指示するからね」

「えっ、ポーズって……」


 奈々は翼に弁当の包みをベンチに置いて、自分の方を向いてくれるように指示した。翼はもうされるがままにしようと思った。心の中に、乾いた砂のように溜まっているものがあって、それがこの人から離れよう逃れようという意志に纏わりついて、翼の足を留まらせる。翼は、自分がなぜだかこの奈々という少女と一緒にいたいと思っている事実を、どう処理すべきか分からなくて困っていた。いや、まさか。あたしがそんな風に感じている訳がない。あたしはお父さんのところに行かなくてはならないけれど、この人に捕まっているだけなのだ。そう、仕方なくここにいるだけだ。だって、あんなにきれいな目で頼むものを、拒むのも残酷だもの……


 奈々は鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出した。ぱっと中身が見えた限り、どうやら教科書らしきものの姿は見えなかった。この人、なにしに学校に行っているんだろうと翼は訝しんだ。奈々はスカートが汚れるのも厭わずに地面に直に座ってあぐらをかき、鉛筆を削ってまっさらなスケッチブックと翼とを交互に眺めはじめたが、ふと思いついたかのように尋ねた。


「ねぇ、一応聞いとくんだけどさ、ヌードは駄目だよね?」

「ヌ……!」


 赤面して何もいえなくなってしまった翼の様子に、さすがにこの不思議な少女もその指すところを察したらしく、「あっ、やっぱり」と呟いてまたスケッチブックに視線を落とした。


「じゃあ、いいや。じゃあさ、こっち向いて足を肩幅ぐらいに開いてくれる?そうそ、で、右手をだな、こういう風に腰にあてて、左手は背中の方にまわして。ほら、ワンピースの裾に肘から下が隠れるように……そうそう」


 翼の姿勢が定まると、奈々が鉛筆を動かすために俯けた顔は急に真面目になった。翼はその変化に驚くとともに、感心した。この人、単に変な人ではなかったんだなとの安堵も湧き上がってくる。翼はかくも真剣に手を動かしている奈々に話しかけていいものか迷ったが、それでもなんだかこの沈黙には耐えきれないような気がしたので、口を開いてみた。


「あ、あの……絵を描くの、好きなんですか?」


 なんだか臆してしまって敬語になる翼。


「うん、一応ね。プロ志望なの。今度個展開くんだ」

「えっ、こ、個展?」


 うん、となんでもなさそうに奈々は頷く。


「そっ。大したことないよ。商店街に明海あけみギャラリーって本当にちっさいギャラリーがあるんだけど、そこでね。入場無料だし、よかったら来てみてよ。来週からやってるからさ」

「で、でも、奈々さん中学生ですよね?それ、うちの学校の制服だし」

「なーんだ、翼ちゃんも桜花中なの!奇遇だねぇ!何年生?」

「二年生です。あの、奈々さんは……」

「あたしは三年。じゃあさぁ、そのカチューシャ、プレゼントしてくれた子も桜花中だったりする?」

「はい、同じクラスの、京野舞って子ですけど……」


 ヒューと奈々は口笛を吹いてみせた。


「じゃあ、会おうと思えばいつでも会える訳か!ねぇ、そのカチューシャってさぁ、なんのプレゼント?誕生日……?」




「……やっぱりそうかもしれない」


 日本舞踊のお稽古からの帰り道、黙り込んでいた舞が急にそうつぶやいたので、左大臣はトートバッグから顔をのぞかせる。


「どうかいたしましたか、姫様?」

「昨日会った子。雑貨屋さんで会った奈々って女の子。左大臣は顔をちゃんと見てないでしょ?」

「はあ。まあ、姫様のポーチの中におりましたからな。声は聞きましたが。その少女が何か……」


 舞は少し躊躇ってから、口を開いた。それは日本舞踊のお稽古の間、他のお弟子さんが舞うのを正座してじっと眺めている間に考え付き、先生に指導をつけてもらっている間にどんどんと膨らんできたものであった。もちろん、なんの根拠もないことではあるけれど……


「あの子、四神の一人かもしれない」

「なんと!」


 曲がり角から現れて、舞たちの横を通り過ぎる小学生の一団があったので、舞たちはその間黙り込む。黄色い帽子を被った少年たちが様々な擬音語を口にしながら、互いにぶつかりあったり、突き合ったりして遠くに消えてしまうと、舞は再び語りだした。


「別に、翼ちゃんの時みたいに、なにかが見えたって訳でもなんでもないんだけどね。ただの勘。左大臣はどう思う?」

「どう思うと言われましてもなぁ……わたくしは何とも申し上げられませぬ。しかし、姫様、その『ただの勘』こそが大切でございますぞ!なにせ姫様の霊力は日に日に強まっていらっしゃるはずなのですから。四神を見出す力もあって当然なのです」

「でも、見極める方法が……敵が襲ってくるの、待つしかないっていうのもちょっと」

「では、やはり直接お話しなされては?」


 と言われて、舞は昨日の奈々の様子を思い出した。いきなり舞に話しかけてきたあの少女。あの少女だったら常識で疑わずに、舞の話を信じてくれるかもしれない。でも、何て言えば?舞は奈々に一生懸命前世のことを説明している自分の姿を思い浮かべた。駄目だ。あまりにも怪しげすぎる。それに、奈々が信じてくれたとして、果たして舞の言葉通りに理解してくれるかどうか。摩訶不思議の世界の同志だと思われたら、どうしよう。それこそ収集がつかなくなる。


「それは、やめとこうよ……」


 舞は前方に二人並んだ人影が見え始めたので、左大臣をトートバッグの底に押し込めたが、その二人が誰であるか気づくなり左大臣に話しかけたくて仕方がなくなった。話し相手がほしい。そうすれば、話し込んでいるふりをしてなんとかやり過ごせるのに。向こうの人は舞に気付いているのだか気づいていないのだか、まっすぐにこちらに向かって歩いてくる。完全に無視するつもりなのだろうか。それとも、傍らの人の相手に集中しているのだろうか。どこかに曲がり角はないかと舞は探したが、生憎ともう曲がれる場所はない。かといって、突然引き返すのもおかしな話だし……その人まであと数メートルという段にきて、舞は必死に足元に向けていた顔をちらりとあげたが、その拍子に、たった今舞に気付いたらしいその人とまともに目が合ってしまった。二人が、交わした視線の中で「あっ」と弾けるような表情をしたので、その人に並んで歩く女性がつい足を止めた。


「あら、司のお友達?」

「あっ、あの……こ、こんにちは」


 不思議な感じがする。あんなにも親しかった結城親子に、こんな風に他人行儀に挨拶するだなんて。舞は司の方をなるべく見ないようにしながら、司の母親にだけ向かって頭を下げた。司の母親もたおやかな微笑を返す。


「あっ、あの、私、結城君のクラスメートで……」

「まあ、そうだったの」


 司のお母さん――変わらずきれいな人ではある。でもやはり記憶の人よりは大分やつれているように見える。お化粧が薄いせいもあるのかもしれない。頬が痩せ、目が落ちくぼみ、口元や目元には細かい皺が刻まれているのが見える。いいえ、それでも……諸事に対する疲れを宿しながらも、目の前の少女に対して柔らかく微笑みかけるその女性ひとは、舞が失ってしまった、あるいはこの女性が失ってしまった司の面影を湛えている。見つめていると、懐かしさが胸にこみ上げてくる。涙ぐみそうになるのに困惑して、舞はたまらず視線を移し、舞の母親への凝視の理由を明らかに取り違えて、憤りさえ露わにしている司の顔にぶつかった。舞はこの顔を見たことがある。司が転校してきた日、帰り道でしつこく話しかけた舞に対して向けられた表情だ。傷ついた子供の顔――どうしよう、司の傷口に触れるつもりなど、まるでなかったのに。そもそも出会ってしまったのだって、偶然なのだし。舞は視線を俯ける。


「司、なに怖い顔してるの」


 助け船を出してくれたのは、司の母親だった。思わぬ言葉とその言葉のまるみがありながらも鋭さを含んだ調子に、舞も司も共にはっとその女性の顔を見遣る。司の母親はすぐに舞に顔を向けて笑った。


「ごめんなさいね、この子、いつも難しい顔してて。悪い子じゃないのだけど」

「あっ、いいえ……」

「こんな子ですけど、仲良くしてくださると嬉しいわ。転校してきたばかりで、まだ右も左も分からないみたいだから」

「母さん……!」

「はいはい、分かったわよ。それじゃあ、どうも」


 司の母親は舞に丁重に頭を下げた。司は舞にちらりとも視線を寄越さなかった。結城母子が去ってしまうのを、舞は立ち止まって見守っていた。声が届かぬほど二人が遠ざかってしまうのを見計らって、左大臣がトートバッグから顔をぴょこりと出す。


「姫様はやはり結城殿が気になりますかな?」

「それは、もちろん……」


 言いかけて、舞は切なげに瞳を揺らす。


「でも、今の私にそんな権利があるのかな……」

「姫様?」

「今の私は、結城司とは関係のない、ただのクラスメートだから……司のこと心配したり、気にかけたりする権利なんてないのかもなって。あの人は私の知ってる司じゃなかったんだよ、左大臣。司と誕生日が違うの。司と私は同じ日に生まれて、だから病院でお母さん同士が仲良くなって、幼馴染として育ったの。でも、あの人は違う……あの人は私より一月も早く生まれたの。私……」


 舞は胸にかけた鈴をブラウス越しに握りしめる。


「私、司のことなんて永遠に取り戻せないかもしれない……」

「姫様、何をおっしゃいますか!」

「司を取り戻すっていうのがどういうことだか、私にも分からないの。元の、司が幼馴染だった世界に戻れるの?漆を倒せば?それとも、あの、今会ったばかりの結城司の性格が元に戻るってこと?全然……全くの他人なのに?でも、私、あの人の他にもう一人、この世界に結城司が現れるなんて、とても考えられないよ……あの人は司と違いすぎる。でも、あの人が司と違いすぎるのと同じぐらい、あの人は司に似過ぎてるんだもの」


 激しい懊悩を口にして、舞はゆっくりと首を振った。懐かしさなら涙をもたらすけれど、胸をかき乱す苦しみは、舞の呼吸を詰まらせるばかりである。涙はあるいは救いの道につながるかもしれない。けれども、舞の感情は未だに涙となるまでには熟しきらない。不安ばかりが膨らんで、舞の心の内襞うちひだにこすれている。舞は心が軋る音をごまかすために、左大臣に微笑みかけた。


「ごめんね、左大臣。私、自分で戦うって言ったのにね。司を取り戻すって言ったのに」

「無理もございません、姫様。結城殿の件に関しては私にすらわからぬのですから、姫様が混乱されるのもごく当然のこと…………しかし、姫様、この老いぼれの勘ではございますが……恐らく、姫様と結城殿は深いご縁で結ばれていると存じます」


 舞が訝し気な顔で左大臣を見遣ると、左大臣は恥じ入るように顔を伏せた。


「いやはや、軽率なことは申すべきではございませんでした。しかし、姫様、これだけは信じてくだされ。姫様は幸せになるべくこの世に転生なされたのです。幸せに……きっと愛する者と結ばれて……」


 左大臣の言葉を鈴の音が遮った。舞と左大臣は顔を見合わせる。鈴の音は微かである。とにかく方角だけでも確かめなければ。舞は京姫に変身しようとして、ふとあることに思い至り、来ていた道を逆方向に駆けだした。結城母子の歩みは幸いゆっくりであったので、全速力で走った舞は信号待ちをしている二人になんとか追いつくことができた。


「ゆ、結城君っ!」

「京野……!」


 舞のただならぬ様子に驚いて、司とその母親が振り返る。舞は膝に両手をついてはあはあと荒げた息を吐きだし、なんとか言葉を紡ごうとした。


「あなた、大丈夫?」

「結城君、お願い……!い、今すぐ家に戻って……!お母さんを連れて……」

「何を言ってるんだ?」


 舞は屈んだ姿勢からまっすぐに司の目を捉えた。


「怪物なの……!この間、私たちも襲われたでしょ?あの怪物が、また現れたから……!お願い、家に戻って……あ、危ないから……っ!」

「どうして……」

「いいからっ!!」


 舞は叫ぶなり、青に変わったばかりの信号を飛び越えるようにして渡って去っていった。司が呼び止めようとしても、舞の耳にはもう届かない。司は小さく舌打ちした。それから訳がわからずにただ息子の顔を見るばかりの母親と、すでに見えなくなっている舞の後ろ姿とを見比べて、母親の手を引いた。来た道を辿りなおすべく。


「今日は、病院はよそう……!」




「駅の方!」


 京姫へと変身した舞は左大臣とともに、敵の待ち受ける方へと向かって駆けていく。町全体に張り巡らされている透き通った糸の存在には、まだ気がつかぬまま。




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