どっちも!
炎暑の黄昏。
寮に帰ると、食堂のテレビでは特番が流れていた。
画面に映っていたのは、一人の男だった。
――レジェンド、鈴木 元。
数々の前人未到の記録を残し、球界の歴史そのものを変えてきた男。
画面の中で、記者が問いかける。
「成功の秘訣は何ですか?」
鈴木は少し考えた。
そして、どこか楽しそうに笑った。
「例えば、誰もやらないから自分もやらない」
その場にいた誰もが、彼の言葉に耳を傾ける。
「誰かに言われたからやらない」
鈴木は続けた。
「そういうのに、反抗してきたからですかね」
その言葉が――胸に刺さった。
俺の心の奥で、何かが揺れ動く。
その晩。
ベッドに横になり、俺は暗い天井を見つめていた。
愛知大会決勝。
152km/h。
自己最速。
それでも、負けた。
陽田 蘭。
あの打球。
あの乾いた音。
閉じた瞼の奥で、何度も再生される。
「……」
ふと、視界の端に何かが見えた。
グローブ。
左投げ用のグローブ。
俺はゆっくりと体を起こした。
「左……」
右では届かなかった。
ならば。
(どっちもやるのは……どうだろう)
その瞬間。
胸の奥に残っていた火が、少しだけ大きくなった。
*
勝は早速、左投げ用のグローブを持って投球練習へ向かった。
外はまだ、昼間の熱を残していた。
校舎の裏。
いつも一人で壁当てをしている場所。
勝はボールを握る。
左手で。
(変な感じだな……)
右手にグローブをはめる。
それだけなのに、まるで別人になったような感覚だった。
ゆっくりと振りかぶる。
ぎこちないフォーム。
軸足も分からない。
身体のバランスが、何もかもおかしい。
「……えいっ」
シュッ。
ボールは壁に届く前に、大きく地面へ叩きつけられた。
「……だよな」
苦笑いがこぼれる。
もう一球。
振りかぶる。
投げる。
シュッ。
今度は、とんでもない方向へ飛んだ。
「うわっ……」
また拾う。
もう一球。
もう一球。
何度も。
何度も。
何度も。
ボールは暴れた。
腕は思うように動かない。
右で投げるときには意識すらしない動作が、左では一つひとつ難しい。
それでも。
勝は投げ続けた。
――誰もやらないから、自分もやらない。
その言葉が頭の中で繰り返される。
――誰かに言われたから、やらない。
「……誰が決めたんだよ」
勝はボールを拾う。
「右でしか投げちゃいけないなんて」
空は、いつの間にか暗くなっていた。
「はぁ……」
汗が首筋を流れる。
「はぁ……」
シャツが身体に張り付いている。
腕も重い。
それでも。
「もう一球だけ」
勝はボールを握った。
左手で。
振りかぶる。
踏み込む。
腕を振る。
シュッ。
ドンッ!
壁に、乾いた音が響いた。
「……!」
勝の目が開かれる。
初めて。
まともに。
まっすぐ。
壁まで届いた。
胸の奥が、熱くなった。
「……」
汗だらけの顔に、笑みが浮かぶ。
「いけるかもな」
右でも投げる。
左でも投げる。
誰もやらないなら――俺がやる。
*
季節は移り、空気が少しずつ爽やかになっていった。
初秋。
それから一か月。
秋季大会が目前に迫っていた。
練習後。
グラウンドの端で、銀が俺の顔をじっと見ていた。
「なあ、勝」
「ん?」
「お前、俺に何か隠してないか?」
勝は一瞬、動きを止めた。
中尾 銀。
高波が引退したあと、一塁手から捕手へ転向し、今では完全に正捕手の座を掴んでいた。
以前よりも、ずっと俺の投球を近くで見ている。
だからこそ。
気づかれていたのかもしれない。
「……」
勝は少し間を置いた。
「実は」
銀が眉を上げる。
「俺、この一か月……サウスポーの練習してるんだ」
沈黙。
銀の表情が止まった。
数秒。
いや、実際にはもっと短かったかもしれない。
「……」
「……なんだよ、それ」
やっぱり。
そう思った。
そりゃそうだ。
急に利き腕と逆で投げる練習を始めたなんて、普通なら意味が分からない。
勝が目を逸らしかけた、そのときだった。
「めっちゃいいじゃん!!」
「……は?」
銀が、両手を叩いた。
「いや、めちゃくちゃ面白いだろ! 何それ!」
「……否定しないのか?」
「なんで否定するんだよ」
銀は笑う。
「右で151キロ、152キロ投げてる奴が、今度は左でも投げようとしてんだろ?」
そして、勝の肩を軽く叩いた。
「そんなの、ロマンしかないじゃん」
胸の奥が、また熱くなる。
「……銀」
「で?」
「で?」
「今、左でどれくらい出るんだ?」
勝は少し黙った。
「……まだ計ってない」
「よし」
銀はミットを手に取った。
「じゃあ、今から計ろうぜ」
「は?」
「俺が捕る」
夕暮れのグラウンド。
ミットを構えた銀が、笑った。
「見せてくれよ、勝」
右だけじゃない。
「二つ目の武器を」
勝は、左手でボールを握った。
胸の奥の火が、もう消える気配はなかった。
誰もやらないなら。
俺がやる。




