ふたりの、はじまり。
ジャリ、ジャリ…——
維深の腕に抱かれ、どれほど進んだだろう。
一面に広がっていた砂地はいつしか途切れ、遠くに木々の姿が見え始めた。
近づくにつれ、その異様な光景が鮮明になっていく。
そこには、緑の葉が一枚もない。
枝葉も、足元を覆う草花も、視界に映る植物のほとんどが紫色に染まっていた。
(……紫?)
緑以外に見たことのない物体に、身体が強張る。
まるで、この世界の異質さそのものを形にしたような森だった。
やがて維深は、その紫色に覆われた木々の中へ、迷うことなく足を踏み入れていく。
その瞬間——
「……?」
空気が変わった。
先ほどまで肌を撫でていた乾いた風が消え、代わりに、湿り気を含んだ柔らかな風が毛並みを揺らす。
「気付いた?」
頭上から声が降ってきた。
鼻を掠める風は、春風のように軽く、目に映る景色は、見覚えのある色だった。
「ここから先は、私の領域。何重にも魔法をかけてあるから、外から見つけるのはほとんど無理だよ」
「そうなのね」
何が何だかわからないまま、流れに身を任せることしかできない。
維深が楽しそうに笑いながら、続ける。
「ここに着くまでが一番危ないからね。猫一匹なら、そう簡単には気付かれないでしょ」
何が危ないかも意味不明だったが、知らないほうがいいような気がして、深くは追及せず、小さく頷いた。
それからしばらく進むと、木々の隙間から、一軒の家が見えてくる。
「着いたよ」
その言葉を聞いた途端、張り詰めていたものが切れたように、身体から力が抜けた。
「おっと」
維深が、腕から落ちかけた身体を抱き直してくれる。
「もう大丈夫。少し休みな」
「でも……」
「話は起きてからでもできるよ」
その声を最後に、私はゆっくりと瞼を閉じた。
次に目を覚ました時には、辺りは薄暗くなっていた。
ゆっくりと、身体を起こしてみる。
「……っ」
痛みは残っているようだ。
けれど、砂漠で目を覚ました時とは比べものにならないほど、身体が軽い。
「あ、起きた?」
軽快な声が部屋に響く。
声のする方へ顔を向けると、維深は椅子に腰掛け、何やら分厚い本を読んでいた。
「身体は?」
「……だいぶ、楽になったわ。ありがとう」
「それは何よりだ」
そう言いながら本を閉じると、維深はこちらへ歩いてきた。
そして、覗き込むように屈む。
「一応診たけど、かなり酷いよ。人間の姿に戻るのは、しばらくやめた方がいい」
「そう……」
自分の前足へ視線を落とす。
猫になっていることには、まだ違和感しかない。
けれど、こうして生きている。
あんなことがあった後では、それだけで十分だった。
落とした視線を再び起こす。
「……維深」
「なんだね?」
「聞いてもらってもいいかしら」
維深は少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「もちろん」
私は、覚えている限りのことを話した。
自分が、想神の神妃であること。
万が長く寝込んでいたこと。
ある日、珍しく高熱を出したこと。
そして——
「私は、万からもらっていた神気を、返したの」
維深の表情が僅かに変わった。
「……それはまた、随分と思い切ったことをしたね」
「他に方法がなかったもの」
肩をすくめてると同時に、乾いた笑いが漏れた。
神のオーラを失えば、神妃としての守護も失ってしまう。
命が残されていたとしても、長くて一日。
あの状況でのそれは、大きな賭けだった。
それでも、迷いは一切なかった。
「万が目を覚ましたところまでは、覚えているわ」
澄んだ瞳が、目に映った。
それを見て、握られていた拳が緩んだ。
「そのあと、倒れた私に駆け付けた万から、ほんの少しだけ……神気が戻ってきたのも覚えてる」
ほんの一瞬だけ万の手が触れた感覚があったのを覚えている。
「でも……そこから先は、ほとんど」
記憶を辿ってみると、浮かんでくるのは、激しい痛み。
「誰かがいた気がするの」
「誰か?」
「ええ。万ではない誰か…恐らく、魔王」
声も、顔も思い出せない。
ただ、確かに万以外の何者かがいて、あの瞬間に感じた、悍ましい気配。
「それから身体が千切れるような痛みがして……気が付いたら、あの砂漠にいたの」
維深は何も言わなかった。
しばらく考え込むように目を伏せて、こちらを見据える。
「……なるほどね」
「何かわかるの?」
「推測だけど」
維深は私の首元へ視線を落とした。
「君がここにいるのは、その最後に戻ってきた神気のおかげかもしれないね」
「万の……?」
「神から神妃へ渡された神気は、ただの魔力じゃない。こちらに流れてくる過程で君を守る力に自然変更される」
維深は指先をくるりと回す。
「君が死ぬ寸前に、その僅かな力が君を守って、危険から遠ざけようとした。……それが何かの拍子に世界の境界まで越えちゃった、とか」
「そんなことが……」
「普通はないよ」
あっさりと言われ、思わず維深を見る。
「いろんな条件が重なったんだ。だから、同じことをしようとしても無理だろうね。ほぼ奇跡だよ」
「……そう」
神という存在は、奇跡そのものに近い。
だからこそ奇跡が起こることに実感がわかない。
けれど、万が守ってくれたのだとしたら——
そう思うと、胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
「さて」
維深が話を切り替えるように手を叩いた。
「次は私の番かな」
「差し支えなければ」
ずっと気になっていた。
「あなたのことも、聞いていいかしら」
「いいよ」
動揺ひとつない、変わらない声色。
「私は、始まりの魔法使い」
「…………」
「それから、初代雨神の神妃」
「…………」
「……え?」
誰の声だったのか分からない。
話を聞いていた全員の視線が、一斉に維深へ向いた。
「初代雨神の……神妃?」
時雨が確認するように呟く。
「うん」
当の本人は、何でもないことのように答えると、こちらへ向かってウィンクをしながら、軽く二本指を立てた。
「……」
いや、ピースではない。
驚きで固まる私たちを置き去りにして、澄さんの話は続いていく。
信じがたい単語に反応できず、何度か瞬きをする。
「……もう一度、お願いしても?」
「始まりの魔法使いで、初代雨神の神妃」
残念ながら、聞き間違いではなかったらしい。
「初代……?」
「そう。世界がまだ今みたいに形を持っていなかった頃。空とか海とか大地とか、そういう自然だけが存在していた時代のね」
「……」
言葉が出なかった。
そんな私を見て、維深は面白そうに笑っている。
「そんなに驚く?」
「驚くわよ……」
むしろ、どうして驚かないほうが無理があるのではないだろうか。
「でも……それなら、どうしてここに?」
「ああ。それは私の雨神に連れてきてもらったんだ」
「雨神様に?」
「魔法の強い世界に行ってみたかったから」
まるで旅行先を決めた理由でも話すような口調だった。
「それに、私の場合は死んだことになってた方が、何かと都合がよかったしね」
「……そう」
聞けば聞くほど聞きたいことが、増えていく。
私の表情を読み取ったのか、はっとしたようにこう言った。
「ちなみに、なんで私がまだ生きてるのかは聞かないでね」
「……まだ何も言っていないわ」
「顔に書いてある」
そう言って笑う維深に、私はそれ以上聞くことをやめた。
きっと私の想像もつかない事情が、色々あるのだろう。
「それより、君はこれからどうしたい?」
その問いに、間髪入れずに答える。
「万のところへ帰りたい」
「うん」
「けれど……」
世界を越えられるのは、神だけだ。
神妃である私が一人で帰ることはできない。
少しだけ考えてから、もう一度口を開く。
「帰れなくてもいいの」
自分で言って、思いの外、胸が痛んだ。
本当は、今すぐ帰って、彼に会いたい。
無事だと、この目で確かめたい。
それは、どう頑張っても私に実現することは難しいこともどこかで分かっている。
「せめて、生きていることだけでも伝えたい」
維深が黙った。
先ほどまでの軽い表情が消え、何かを考えるように腕を組む。
「万だけに、できれば、誰にも気付かれない方法で連絡できないかしら…」
「なるほど」
しばらくして、維深が小さく息を吐いた。
「また、大変なお願いをするね」
「……ごめんなさい」
「嫌だとは言ってないよ」
反射的に、顔を上げる。
維深は、楽しそうに笑っていた。
「そんな魔法は、ないけど」
肩が落ちる。
「ないなら、作ればいい」
「……え?」
目が見開かれ、彼女を見つめる。
さらに目を細めた彼女は、新しいおもちゃを見つけた子供のように明るい表情を浮かべている。
「方法だよ、まぁこの場合魔法だけどさ」
まるで、明日の予定でも決めるようなテンション。
「君の愛しの旦那様まで、声を届ける魔法をさ」
そんなことできるわけない、そう思う一方で、眩しい光に縋りつきたいと強く思ってしまった。




