魔王テーン・バイ・ヤーとの対峙 ~家族の思い出が、代々の恨みを打ち砕いた~
状況は、最悪だった。
ヨアケは玉座の間の外にいる。通信手段が断たれた。魔王兵器は玉座の間全体の魔力を受けて稼働しており、出力は通常の三倍以上。エレナの魔力でさえ、正面から受け止めるのは難しい。
それでも、カケルには一つの思考が走っていた。
床の魔法陣。
玉座の間全体を「装置」として機能させているのは、この魔法陣だ。エレナが第八章でこの陣を逆用したように、陣そのものの制御を変えられれば――
「エレナ」
カケルが小声で言った。
「床の魔法陣、俺が割り込めるか」
「割り込む、とは」
「陣の信号を書き換える。マナ石変換アダプターを陣の中心に刺して、供給先を変える。魔王兵器に流れているマナを、別の場所に逸らせれば、機体の出力が落ちる」
「中心部まで近づく必要がある」
「そうだ。エレナが守りを作っている間に走る」
「距離は?」
「玉座から床の中心まで……十メートル強」
「十メートルを、魔王兵器の前で走る…ですか」
エレナはわずかに目を細めた。
「了解しました。私が二秒、視線を引き付けます」
「二秒あれば届く」
「ミーナ」
カケルが振り返った。
「うん!!」
「俺が走ったら、魔王兵器の右足元に向かって全力で突っ込んでくれ。攻撃じゃなくていい。注意を分散させるだけでいい」
「わかった!!」
「リョウ」
「見えてる」
リョウが短く言った。
「走れ。俺はテーンの動きを見ている」
「行く」
カケルはアダプターを手に取った。
「エレナ、合図して」
エレナが一歩前に出た。
杖を高く掲げる。
玉座の間全体のマナが、エレナに向かって引き寄せられるような気配が生まれた。
「今です」
カケルが走った。
同時にミーナが叫びながら魔王兵器の足元に飛び込んだ。
魔王兵器の視線が三方向に分散した一瞬。
カケルは床の魔法陣の中心に到達した。
膝をついて、アダプターを陣の結節点に差し込んだ。
陣が反応した。
青白い光が、陣全体を走った。
「何をしている!!」
テーンが叫んだ。
しかし遅かった。
アダプターが陣の制御信号を書き換え始めた。魔王兵器への供給ルートを遮断し、出力を無効化する方向へ――
魔王兵器の動きが、急に鈍くなった。
「効いてる!!」
ミーナが叫んだ。
「まだだ!!」
カケルはアダプターを押さえながら言った。
「陣の書き換えが完了するまで離せない!!」
テーンが動いた。
手から魔法が放たれた。カケルに向かって、直線的に。
エレナが盾魔法を展開した。受け止めた。しかし膝をついた。
「エレナ!!」
ミーナが叫んだ。
「大丈夫です」
エレナは膝をついたまま、盾を維持した。
「カケル、あと何秒ですか」
「わからない。でも、もう少しで……」
テーンが二撃目を放った。
エレナの盾が、限界に達した。
光が弾けた。
カケルは吹き飛ばされた。
しかしアダプターは陣に刺さったまま――途中で抜けていた。
陣の書き換えは、未完了だった。
魔王兵器が再び出力を上げた。
「……駄目か」
カケルは床に倒れながらつぶやいた。
ミーナが駆け寄ってきた。
「カケル!!大丈夫?!」
「大丈夫だ」
カケルは立ち上がった。
「でも、陣の書き換えが足りなかった。中断された。もう一度入るには……」
「入れる!!ミーナが守る!!」
「ミーナ一人では……」
「一人じゃない!!」
ミーナがリュックから何かを取り出した。
布に包まれた小さな木箱。
猫族の里を出発するとき、タロンとサーニャが荷物にそっと入れておいた、あのお守りだ。
「ミーナ」
カケルは言った。
「それは……」
「使う」
ミーナははっきり言った。
「でも、家族の大事なものじゃ――」
「だから使う!!」
ミーナは箱を開けた。
「お父さんとお母さんが、ミーナを守るために持たせてくれたもの。今、ミーナが守りたいものがある。だから使う!!それが、お父さんたちが望んでることだと思う!!」
カケルは言葉を失った。
「……そうだな」
カケルは静かに言った。
「うん!!」
ミーナは木製のお守りを両手で握った。
「このお守り、猫族の里長が祝福してくれたもの。里の守護のマナが込められてる。ちゃんと効く!!」
「それで何をする?」
「カケルが陣に入るとき、ミーナがこれを盾にする!!猫族の守護を正面から受けられるものはいない!!」
エレナが立ち上がって、ミーナを見た。
「お守りのマナを私が増幅できます」
エレナは静かに言った。
「ミーナが盾を作り、私がそれを補強する。二重の防護ならば、テーンの魔法を防げます」
「やる!!」ミーナが叫んだ。
「もう一度走れますか、カケル」
リョウが言った。
「走れる」
カケルは立ち上がった。
「行く。もう一度だけ」
「今度は全員で守る」
リョウは剣を抜いた。
「俺はテーンとの間に入る。物理的に前に立てるのは俺の仕事だ」
「リョウ……」
「いいから行け。今度こそ止めろ」
◇
二度目の突入は、一度目より激しかった。
リョウがテーンの正面に立ちふさがった。剣で魔法を弾こうとしながら、少しでも時間を作る。
エレナがミーナのお守りに魔力を流し込んだ。木製のお守りが、淡い光を帯びた。猫族の里から受け継がれた守護のマナと、エルフの数百年の魔力が融合した。
ミーナがそれを掲げてカケルの前に立った。
「行って!!ミーナが守る!!」
カケルは走った。
テーンが気づき、二人に向かって魔法を放った。
ミーナが正面に立った。
お守りを前に突き出した。
光が爆発した。
しかし、ミーナは吹き飛ばなかった。
足がわずかに滑っただけで、踏みとどまった。
「なんで……」
テーンが初めて声を乱した。
「なぜ防げる」
「家族のマナだから!!」
ミーナは叫んだ。
「お父さんとお母さんが込めたやつは、絶対に通さない!!」
カケルは床の陣の中心に到達した。
抜けかけていたアダプターを差し直した。
今度は深く、確実に。
信号を再び送り込んだ。
陣が反応した。書き換えが再開された。
一秒。
二秒。
三秒。
「やめろ!!」
テーンが叫んだ。しかしリョウがその前に立ちふさがっていた。
四秒。
「カケル!!」
ミーナの声が聞こえた。
「まだ耐えられる!!でも急いで!!」
「もう少しだ!!」
五秒。
陣の光が変わった。
青から白へ。
そして白から、消えた。
玉座の間全体が、一瞬、真っ暗になった。
次の瞬間、魔王兵器の全身の光が消えた。
制御を失った機体が、ゆっくりと前のめりに倒れた。
床に、鈍い衝撃音が響いた。
静寂。
「……終わった」
カケルは言った。
床に座り込んだまま、カケルは魔王兵器の巨体を見た。
光のない、ただの金属の塊になっていた。
◇
テーン・バイ・ヤーは、立ったまま動かなかった。
魔法陣が無効化され、魔王兵器が停止した。
全ての計画が止まった。
リョウが剣を下ろしながらテーンに向かった。
「終わりだ」
テーンはしばらく黙っていた。
その目が、カケルに向いた。
「お前たちに……本当に止められるとは思っていなかった」
テーンは静かに言った。怒りではなく、それに近い「驚き」が滲んでいた。
「ジャンク品で魔王を倒す、ということが、本当に起きた」
「俺もそう思ってる」
カケルは言った。
「でも、俺一人じゃない。全員がいたから止められた」
テーンは視線をミーナに移した。
ミーナはまだお守りを両手で握っていた。
「……そのお守りは」
テーンが言った。
「家族のもの!!」
ミーナははっきり言った。
「お父さんとお母さんがくれたもの。みんなを守るために使った」
「家族の力が、俺の兵器を止めた」
テーンはその言葉を静かに噛み締めた。
「祖先が奪ったものが、最後に俺の計画を止めた……か」
「テーン」
リョウが言った。
「選択肢を提示する」
「聞こう」
「テーン商会が押さえているすべての鉱脈と交易路を解放して、この世界から手を引くこと。今日、ここで約束してくれれば、俺たちはお前を追わない。ただし約束を破れば、世界中に公表する。あなたが何をしたかを、全部」
テーンは少し笑った。
「商人らしい交渉だな」
「祖父から学んだ」
「……霧島武か」
テーンは静かに言った。
「私の祖先の記録に、霧島武はまともな商人だったとある。その孫に、こういう形で交渉されるとは」
「答えを聞かせてもらいたい」
「……」
テーンは長い沈黙の後、言った。
「受ける」
「約束するか」
「約束する」
テーンははっきり言った。
「商人として」
玉座の間に、静寂が満ちた。
エレナが大きく息を吐いた。
「ミーナ」
カケルが振り返った。
「うん」
「お守り、大丈夫か? 割れてないか?」
ミーナが開いた。
お守りは無事だった。
少し光が弱くなっていたが、割れてはいない。
「大丈夫!!」
「よかった」
「使えたよ、カケル」
ミーナは言った。
「お父さんとお母さんのおかげで、みんなを守れた」
カケルはその言葉を受け取って、しばらく黙った。
「……里に帰ったとき、ちゃんと報告してくれ」
カケルは言った。
「する!!絶対する!!」
「お父さんたち、喜ぶと思う」
「泣くかも!!ミーナも泣くかも!!でも嬉し泣き!!」
エレナが静かに言った。
「ミーナ、あなたは今日、本当に大事なことをしました」
「うん」
ミーナははっきり頷いた。
「家族のものを、仲間のために使えた。それは……長く生きても、なかなかできないことです」
「エレナ……褒めてる?」
「褒めています。本心から」
ミーナが目を潤ませた。すぐに「泣かない!!」と言って上を向いた。
リョウが静かに笑った。
カケルも笑った。
テーンはその場に立ったまま、その光景を見ていた。
勝者と敗者という関係のはずなのに、そこには奇妙な温かさがあった。
「一つだけ」
テーンが静かに言った。
全員が振り返った。
「お前らは……どうやって、こういう関係になったのか」
「旅をした」
リョウが答えた。
「旅か…」
テーンは繰り返した。
「ただそれだけです」
エレナが静かに言った。
「同じ時間を、同じ方向を向いて、一緒に歩いた。それだけです」
テーンは長い沈黙の後、小さくつぶやいた。
「そういうものか……」
返事をする者はなかった。
しかし誰も、否定しなかった。
◇
玉座の間から出るとき、テーンが一度だけ言った。
「一つだけ聞いていいか」
四人が立ち止まった。
「なんだ」
リョウが答えた。
「お前たちには、なぜ俺と戦う理由があった?」
テーンは言った。
「世界の誰かに頼まれたわけでも、報酬があったわけでもないだろう。なぜ、ここまで来た」
全員が少し黙った。
「俺が転売屋に殺されたから」
カケルははっきり言った。
「それが最初のきっかけだ。でも今は、それだけじゃない」
「なぜ今は違う?」
「好きな店があって、好きな仲間がいて、守りたいものができた。それだけだ」
「それだけで、世界を救えるのか」
「救えた」
カケルは言った。
「少なくとも今日は」
テーンは少し黙った。
「……そういうものか」
「そういうものだ」
テーンはそれ以上何も言わなかった。
四人は玉座の間を後にした。
螺旋階段を降りながら、ミーナが小声でカケルに言った。
「テーン、なんか変わった?」
「変わったかどうかはわからない」
カケルは静かに言った。
「でも、少し揺れた気はする」
「揺れるのはいいこと?」
「揺れないものは変わらない。揺れたものは変わりうる。いいことかどうかはまだわからないけど……可能性はある」
「そっか」
ミーナは少し考えた。
「じゃあ、見てようか」
「見ていよう」
「うん!!」
エレナが後ろから静かに言った。
「長く生きると、変わる人間を見てきました。変われる人間と変われない人間の違いは、一度揺れたかどうかだと思います」
「テーンは揺れたと思うか?」
「揺れました」
エレナははっきり言った。
「ミーナのお守りが、おそらく最後の一押しになりました」
「ミーナのお守りが?」
「あれは、家族の愛情が込められたものです。それを受け止めたとき、テーンの中の何かが変わったと感じました。長く生きた者の感覚ですが」
「経験か」
カケルが言った。
「経験です」
エレナは静かに言った。
「外れていることもありますが、今回は外れていないと思います」
ミーナが「じゃあいつか、ちゃんと変わるかもしれないね」と言った。
「そうかもしれません」
「だったら、見ていたい」
「そうですね。私も見ていたい」
三人は階段を降りながら、その言葉を残した。
変わるかどうかは、これからの話だ。
しかし今日、何かが変わる可能性が生まれた。
それで十分だ、とカケルは思った。
今日は、それで十分だ。
◇
塔の外では、リョウが待っていた。
「テーンは?」
「城に残った。約束の手続きをするために」
「信用するのか?」
「信用するかどうかは行動で見る」
リョウは静かに言った。
「でも……俺は信用する方向で動く。信用しなければ、関係は始まらない」
「商人の考え方だな」
カケルが言った。
「そうだ。祖父から学んだ」
「霧島武から」
「ああ」
リョウは少し微笑んだ。
「信用は与えるもので、請求するものではない、と日記に書いてあった。祖父が最初にタロンさんに言った言葉だそうだ」
「それが今も続いてる」
「続いている。この旅の全部が、その続きだ」
カケルは頷いた。
城の入り口の向こう、夜明けの光が差し込んでいた。
四人が並んで、その光の中に歩み出た。
ヨアケが外に立っていた。
夜明けの色が機体に反射して、青紫と橙が混じり合っていた。
「行こうか」
カケルが言った。
「行く!!」「行きましょう」「行こう」
みんなが続いた。
四人とヨアケが、夜明けの中を歩き始めた。
了




