後編
スーツのまま外を出歩くのは抵抗があった。けれど電話を終えて、意識は目的地へと向かっていたからそのまま足を踏み出した。肩が凝るだけのジャケットは脱いで脇に抱え、外したネクタイをビジネスバッグに詰め込む。途端に身軽になった気分になる。我ながら単純だ。
電車に乗ると誰もが俯いていた。今日の俺には、周りを見渡せるだけの余裕がある。くだらない優越感に浸って窓の外を眺めた。
オフィス街とは無縁の駅で降りて改札を出ると、見覚えのある細身の男が立っていた。清潔さを感じさせる真っ直ぐな黒髪。それとはちぐはぐな、ダボダボのスウェットとジャージのズボン。
「スーツで来てるし」
久しぶり、と俺が声を掛ける前に、サクは肩を揺らして笑った。切り込みを入れたような目は二年前と少しも変わっていなくて、「懐かしい」と感じることはできなかった。気安い口調にほっとしながら、言葉を返す。
「サクだって、すっげぇ適当な服で来てるじゃん」
「寝起きそのままで来たから」
来てやっただけ感謝しろよ、と陽に照らされた表情をよく見れば、目の下には薄い隈があった。サクがあの店でまだ働いているなら、俺は仕事を終えて寝ついたサクを叩き起こしてしまったことになる。二年なんてあっという間、と思っていたけれど、生活の差への気遣いと感覚はすっかり失っていた。
「ごめん」
「いいよ」
相変わらず、サクの声は柔らかい。心から「別に気にしていない」と思っているように聞こえる。付き合っていたころは「楽」だと感じていた部分。本当かどうか、二年経っても俺には見抜けない。
ひとしきり笑ってから、サクは続けた。
「行くんだろ、花見」
サクの背後には、ほとんど花の散りかけた桜の木が並んでいるのが見えた。
◆◆◆
電話をかけて「花見に行こう」と誘うと、サクは一瞬黙ったあと、「なんだそれ」と笑った。そして、「行ってもいいよ」と即答してくれた。
別れた相手に突きつける誘いとしては最悪だった。でも、サクならその答えをくれるという打算が無意識のうちに働いていたのだと思う。もう恋人じゃないのに、俺はサクに寄りかかる癖が付いていた。
もう、どこの公園でも桜は散っているとは知っている。自分のしようとする行為が花見と呼べるのかどうかは自信がなかったが、サクには躊躇いがなかった。
「見事に散ってますねぇ」
左隣で、サクがおちょくるように言う。植木を囲うブロックに沿って、白い花びらが渦を巻いていた。側溝で見たものよりも、心なしかきれいに見える。
サクと訪れたのは、この辺りでは一番の名所と言われている公園だった。敷地には所狭しと桜の木が植えられている。多分、桜の木。俺に木の種類を見分ける知識なんてない。枝の先にしぶとく残る白い花が、それが桜だと教えてくれる。
平日の日中ということもあり、人出は少なかった。満開のころであれば賑わいもあったのだろうが、今はウォーキングに精を出す婆さんや、子どもを連れた母親の姿がちらほら見えるだけだ。
足元にまとわりつく花びらを蹴散らしながら、俺とサクは黙々と歩いた。二人とも初めて来る公園だから、どこに何があるのか全く分からない。点々と設置された掲示板を眺めては、無言で行き先を変えていく。サクは俺よりもワンテンポ遅れて付いてきた。
本当に、無駄としか言えない時間の使い方だ。それでも一人で歩くよりは心強かった。何も話さなくても気まずくない。そんな相手はまれだ。俺にとっては、おそらくサクくらい。
太陽の位置が高くなり、シャツの下がじわりと汗ばみ始める。前を向いたまま、俺たちはぽつぽつと言葉を交わした。
「休みにしたんなら、一回帰って着替えてくればよかったのに」
「部屋帰ったら、もう動きたくなくなるだろ」
「それはあるね」
「でも途中で安いの買って、スーツはロッカーに詰めてきてもよかったのかも」
「遊び盛りの高校生じゃん」
サクがくすくすと笑う。暑いと感じている俺とは違って、サクは涼しげな顔をしていた。だるだるのスウェットの袖を巻き込むように、腕を組んだまま背を丸めて歩いている。首筋にひとつ、赤いにきびができていた。
ふと、別れたことが冗談に思えた。
俺たちはしばらく連絡を経っていただけで、本当は別れなんてなかったんじゃないか。そんな都合の良い考えが浮かぶくらい、サクとの会話は穏やかだった。
「サク、まだあの店にいんの?」
「いるよ」
「忙しい?」
「俺基準ではそこそこ」
君はどう、と訊かれるのを期待したが、俺への問いはなかった。思い返してみれば、サクが俺に関して何かを質問してきたことはほとんどない。サクは話を聞くのが上手い。聞くのが上手くて、自分からは話さない。
「君は、相変わらず時間を潰すのが下手くそだね」
突然そう言われて面食らった。下手くそ、という言葉には柔らかさがあったが、ちらりと向けられた視線の鋭さにどきりとする。
「時間を潰す相手に俺を選ぶっていうのが、本当に下手くそ」
初めて会ったときからそうだけど、と続けた声は優しかった。
照明を絞った、あの店内を思い出した。サクが俺に出したカクテル。レモンと苦み。付き合ってから、あれは店を出る客が最後に飲むカクテルだと教えられた。サクは酔っ払った俺への一杯目にそれを選んだ。勢いだけで店に入ってきて、馬鹿な注文をしてきた大学生への、目一杯の皮肉を込めて。
教えられたとき、俺はサクの些細な意地の悪さよりも、そのいたずらを白状してしまう優しさが好きだと思った。
好き。突然視界がひらけた気がした。そうだ。俺はサクが好きだった。別れでうやむやになっていたけれど、なぜか今になって、鮮やかに思い出した。
「今日は別にいいけどさ」
視線を前に戻して、サクは静かに言う。
「あんまり良いことじゃないと思う」
俺を突き放そうとする言葉だった。
今日は気まぐれに付き合う。でも、もうこれきりにしてほしい。遠回しにそう言われているのが、鈍い俺でも分かった。
別れたあの日、サクは「いつでも呼んで」と口にした。俺はそれを間に受けて連絡した。二年間も連絡ひとつしなかったくせに、無駄なことに付き合わせるために、思い出したように電話をかけて呼び出した。
サクはどう思ったのだろう。驚き、怒り、戸惑い。どれがどのくらいサクの心に含まれているのか、俺には言い当てることができない。
一度、サクから「君は自分のために頑張れる人だ」と言われたことがある。確かあのとき、俺たちはソファに並んで映画を見ていた。
俺は褒められたのだと受け止めた。頑張り屋だね、とか、そんなニュアンスだと。でも、違ったのかもしれない。自分のために頑張れる。自分のためには。誰かのために、頑張れたことがあっただろうか。たとえば、サクのために。
「普通にびっくりしたから」
サクの言葉はいつだって角が丸い。サクの努力によって削られ、受け止めた人が傷つかないよう丸められている。だから俺は素直に飲み込むことができた。でも本当は、削られた角にこそサクの本音があって、俺はそれを取りこぼしてきた。
「喉乾いたね、何か飲もっか」
黙り込んだ俺に、サクはわざとらしく明るい声を出した。視線の先には小さな売店がある。二人で店を覗き込むと、薄暗い店内の脇には、低く唸る冷蔵庫が置かれていた。
見慣れない瓶が二本並んでいるのを見て、俺は扉を開き取り出してみる。体温を冷ますような感触を掌で感じた。瓶の表面にはレトロな文字で「サイダー」と書かれている。
「珍しい」
ラムネはよく見るけど、とサクが言う。俺も瓶のサイダーは飲んだことがない。奥の会計台のところに座る女の人が、じろりとこちらを見た。言い訳でもするように「買います」と告げて、俺はその二本を台に置いた。
金額を言われて、尻ポケットに入れていた財布から小銭を出す。バッグもジャケットを抱えるのに四苦八苦していると、傍から手が伸びてきて、やんわりとバッグたちを奪われた。ごちそうになるから持つ、とサクが呟く。
「ありがと」
「うん」
会計を済ませると、栓抜きを手渡された。小さいくせにずしりと重い。以前飲み会で「今の若い奴らは栓抜きの使い方も知らないらしい」と一方的に馬鹿にされた記憶が甦ってひとり苦笑をした。知ってるっつうの。力を込めて二本分の蓋を開ける。
俺とサクはサイダーを片手に、また公園を歩いた。もう行くところはなくて、今度はサクが先導するかたちになる。会話はなくなった。
瓶の口に唇を当てて、透明なサイダーを流し込んだ。喉をちくちくと撫でていく刺激。ペットボトルよりも炭酸が強い気がする。気分だけで、本当はどうなのかは知らない。
サクの足は公園の外へと向かっていた。何かを言った方がいい。でも差し出すべき言葉は俺の経験の外にあった。
今日別れるとき、サクは「またいつでも呼んでよ」なんて言わない。あのときとは違う。まだ、ほんのわずかにサクの期待が残っていたころとは。
「あ」
お堀まで出たところで、サクが足を止めた。
公園の周囲を巡る水面を、桜の花びらが覆っている。白くはない。色はピンクに近い。まるでそれがひとつの生き物のように、薄くかたまった花びらが、水の流れに合わせて揺れている。
サクがぽつりと呟いた。
「花筏」
「……何それ」
「あれのこと」
花びらが集まって、筏のように見えるから。
サクは俺よりも、難しい言葉を知っている。たくさんの人の話を聞いてきたから、知識が多いのかもしれない。
また一口、サイダーを飲む。自分でも自分の考えがよく分からない。
二年前、サクから別れを告げられてほっとした。それは本当だ。ごまかしようがない。そして俺は、漠然とした不安から逃れられると思った。卑怯だった。自分で良くてサクと付き合ったくせに、肝心なところで怖気付いた。
実際ひとりになってみて、不安はなくなった。その代わりに訪れたのはむなしさだった。何をしても張り合いがない。仕事が終わった後や休日の朝、からっぽになった時間を埋めるものがない。
嫌いで別れたわけじゃないからだ、とむなしさの理由に自分なりに説明をつけた。もし険悪な状態で別れていたら、サクへの憎しみを断ち切れた安心感があったはずだった。静かな別れだったから。地続きの日々のなかで、サクだけがいなくなったから、こんなにも違和感を覚えるのだと。
時間潰したいと思ったら、いつでも呼んでよ。
強烈にサクを求めていたわけじゃない。堂々と「お前だけが好きだ」とも言えない。俺は薄情だ。でも時々、それこそ半年に一回くらい、その言葉が頭に浮かび上がることがあった。普段は記憶の底に沈んでいるのに。
俺はその度にサクの電話番号を思い出して、けれど別に時間を潰したいわけじゃないと考え直した。会う理由がない。理由をうまく説明できない。
でも今日、何もかもが面倒になって色んなものを捨ててみたら、サクを思い出した。
何もない時間を一緒に過ごすなら、サクが良い。
「サク」
花筏を眺めながら、瓶に口を付けていたサクを呼ぶ。喉が動いてから、瓶が口から離れ、顔がこちらに向いた。
静かな視線だ。俺を試すような。
風が吹き上がって木々の枝を揺らした。ひと塊だった花筏の端が細かく散っていく。
「また、店に行っていいかな」
都合の良いことを口にしている自覚はあった。俺たちは別れて、一度終わった。端から千切れて消えていくように、二人で過ごした時間をなくしてしまった。
俺はまた尻込みするのだろうか。そうしてサクに臆病な本心を見抜かれて、無為に付き合わせてしまうのだろうか。
分からない。自信がない。
でも今度は、努力をしてみたい。始まるところから。
「どうしようかな」
サクは素っ気なく応えた。細い目がますます細くなる。
花びらの流れは動きを止めた。
戸惑う俺に向かって、サクが瓶を持った手を伸ばしてきた。かつん、と軽すぎる衝撃が掌に伝わる。
「変な注文しないでよ」
花筏の桜色をくるんだ泡が瓶の底から浮き上がり、サイダーの水面で、弾けた。