第五話 はるね
薪の爆ぜる、小さな音。
暖かくて、いい匂い。
ぼんやりと瞼を開くと、目の前に湯気の立つスプーンがあった。
「はい、どうぞ」
白いお米。
黄色い卵。
小さく刻まれた野菜。
おじや?
「……おかあ、さん?」
声に出したつもりだったけど、ちゃんと言えたかはわからない。
その人は少しだけ困ったように眉を下げたあと、すぐに優しく笑った。
「たくさん食べて、早くよくなってね」
スプーンが、口元に近付く。
あたしは何も考えられないまま、口を開け――
優しい味が、舌の上に広がった。
「……おいしい」
身体に、沁み込んでいくのがわかる。
「おいしいよ、おかあさん」
お母さんは少しだけ目を伏せる。
でもすぐに微笑み、あたしの頭に手を伸ばしてくれた。
「そう。よかった」
その手は、とても柔らかくて暖かい。
「はるねは、たくさん頑張ったものね」
胸の奥がぎゅっと痛くなる。
眠い目を擦り
ぐぅぐぅなるお腹を押さえ
朝早くから、夜遅くまで。
だけど
それはお母さんも、ひまりも同じで……
何度もすくっては、ふうふうと冷まして、口に運んでくれる。
心の中でひまりに謝り
ひな鳥のように、甘え続けた。
第5話 はるね
瞼を開くと、丸太の天井だった。
「……おかあ、さん?」
返って来たのは、小鳥のさえずり。
上半身を起こす。
「寒く、ない……」
カーテンの隙間から、白い光が零れている。
丸太の壁には、お洒落なランプが掛けられ
火の消えた、煉瓦の暖炉の上には土鍋
木のテーブルには、水の入った桶
着ている服も、お布団も、白くて清潔で、いい匂いがする。
だけど、母の姿はない。
「お母さん……?」
もう一度呼んでみる。
返事はない。
代わりにすぐ隣で、もぞりと小さな気配がした。
そっと布団をめくると――
白い清潔な服を着た、ひまりがいた。
あたしの服をぎゅっと掴んで、身体を丸めるように眠っている。
頬には、乾いた涙の跡がある。
「……ひまり」
震える瞼。
ゆっくりと開いた黒い瞳が、ぼんやりとあたしを映す。
「おねえ、ちゃん……?」
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん……」
ひまりは、夢でも見ているような顔をしている。
その表情が、くしゃりと歪んだ。
「よかった……お姉ちゃん」
細い腕が、あたしの腰に絡みつく。
少し遅れて、あたしも腕を回した。
「ごめん、心配かけたね」
ひまりの背中と頭を、ゆっくりと撫でた。
「もう、大丈夫だから」
本当に大丈夫かどうかなんて、解らない。
だけど
その震える身体を、安心させたかった。
さっき、お母さんがしてくれたみたいに。
優しく。
何度も。
撫で続けた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
やがてゆっくりと、ひまりは顔を上げた。
「もう、平気だよ」
赤く腫れた瞳に、微笑みで返す。
いつぶりだろう?
こんな、穏やかな時間は。
ずっと、こうしていたい。
だけど、聞かなくちゃいけない。
「ね、ひまり。ここ、どこ?」
ひまりの顔が、少しだけ曇る。
「ごめん……よく、わかんない」
「そっか」
ひまりの両肩に手を添える。
「教えて。何があったの?」
少し迷うように、ひまりはぽつりぽつりと話し始めた。
世界征服に協力する代わりに、ヨルという変な少年に助けてもらったこと。
その少年に、所持金を全部差し出したこと。
気が付けば、ここにいて、つむぎという女性に会ったこと。
そして
お母さんが危険な状態で、別の場所にいること。
話を聞き終えたあたしは、しばらく何も言えなかった。
怪しい。
あまりにも、怪しすぎる。
もちろん、ひまりを疑っているわけじゃない。
この子はきっと、見たものをそのまま話している。
だけど、ひまりが騙されていると考える方が自然だった。
この子はまだ、世の中のことを何も知らない。
あたしと違って、学校に行った事もない。
助けてくれた相手を、悪い人だなんて思えない。
それに
あたしは、さっきお母さんに逢っている。
湯気の立つおじやを、口元まで運んでくれた。
だから、元気になれた。
それが、なによりの証拠。
深く、息を吐いた。
「ひまり、落ち着いて聞いて」
「何? お姉ちゃん」
「ひまりはね……きっと、騙されてる」
揺れる、黒い瞳。
「え……?」
「たった300円で、ここまでしてくれるはずなんてないよ」
「そ、そんな……」
きっと、ヨルという少年も。
つむぎという女の人も。
ひまりには、優しく見えたのだろう。
だからこそ、言わなければならない。
「聞いて」
ひまりの肩に乗せた手に、少しだけ力を込める。
「お母さんはね、無事だよ」
「え?」
「あたし、さっきまで一緒だったの」
「そうなの……?」
「うん」
ひまりの顔に、迷いが浮かぶ。
信じたいものと、信じていたものが、胸の中でぶつかっているようだった。
「まず、お母さんのところに行こう。それで全部解かるよ。どこか心当たりはある?」
首を横に振るひまり。
「わかんない……」
「そっか」
なら、探すしかない。
「兎に角、ここを出るよ」
ベッドから降りると、まだ少しふらついた。
だけど、身体は動く。
大丈夫。
「待って、お姉ちゃん」
ひまりの細い手が、あたしの手に重なる。
暖かい。
「行くよ」
暖炉に立てかけられた火かき棒を掴み
丸い木の扉を開けようと、ノブを回す。
開かない。
引いてみても、ビクともしない。
鍵?
当然か
「おねえちゃん、それ、横に引くんだよ」
「……え?」
言われた通り、力を込める。
扉は、音もなく静かにスライドした。
「……紛らわしいわ!」
丸い扉=開き扉という先入観を利用したねこ騙し!?
に、しても……
閉じ込めるつもりがない?
本当にただの良い人?
でも、お母さんは?
いや。
今は、兎に角――
ひまりの手を引き、外の様子を伺う。
部屋と同じく丸太の壁に、木の床には赤い絨毯。
まるで、高級ホテルだ。
「ひまり、どっちだかわかる?」
「多分、あっち」
「わかった、行くよ」
あたしは握る手に力を込めた、その時
「ごめん、ちょっと待って」
ひまりは手を放すと、すぐ横にある小さな二つの扉の片方を開いた。
トイレだった。
そこは、開くんだね。
「すぐ、終わるから」
「ああ、うん。ゆっくりでいいよ?」
閉まる扉。
中は、凄く綺麗だった。
何気なく、もう一つの扉に手を掛ける。
「……え」
その場で固まった。
白い床。
白い壁。
曇り一つない、大きな鏡。
籠には畳まれた、真っ白なバスタオル。
横には透明な扉。
開くと、雨みたいに細かい水を降らせる道具が付いていた。
初めて見るけど、多分、これがシャワーだ。
その下には、大きな浴槽。
いや、本当に浴槽、だろうか?
こんな大きさの中一杯に、お湯が入るというのだろうか?
「……」
思わず、一歩中に入る。
「なに、これ……」
足の裏から、じんわりと熱が染みてくる。
隙間風で冷え切ったうちの床とは、全然違う。
それだけで、心が溶けていくようだった。
だめ。
今は、こんな事をしている場合じゃない。
お母さんを探さないと。
早く。
早く行かないと。
そう思っているのに、視線が浴槽から離れない。
「お待たせ、お姉ちゃん。いこ」
背後から、ひまりの声。
「あ、うん。行こう。行かないと。お母さんのところに、早く、行かないと」
口ではそう言った。
言ったのに。
足が、動かない。
「お姉ちゃん?」
「……ひまり」
「なに?」
「ね、ひまり。お姉ちゃん、臭くない?」
「え?」
自分でも、何を聞いているんだと思う。
でも、気になってしまった。
何日も落とせなかった、身体に染み付いた嫌な匂い。
ゴミ溜めのような、川の匂いに、汗の匂い。
ひまりは不思議そうに瞬きをしてから、あたしの服に顔を近付けた。
すんすん、と小さく鼻を鳴らす。
「うん。臭くないよ」
「ほ、本当?」
「うん。昨日ね、私、お姉ちゃんの身体拭いてあげたから」
「そ、そうなんだ。ありがとう、ひまり」
「ううん」
ひまりは、何でもないことみたいに笑う。
そっと、ひまりの頭を撫でた。
あれ?
いつも、埃と汗で絡まっていた長い黒髪が、今はさらさらと肩の上で揺れている。
「ひまり、髪の毛……さらさらだね」
指で梳かしたら、そのまま最後まで通り抜けた。
ふわりと甘い香りも漂う。
「うん。昨日ね、つむぎさんと一緒に入ったんだよ?」
「そ、そう……」
「とってもね、あったかくてね、気持ちよかったんだよ」
暖かかった。
その言葉が、頭の中で反響する。
「もしかして、お湯が、出るってこと?」
そんなはずはない。きっと、暖炉で沸かしたお湯で、身体を拭き合っただけだろう。
そうに、違いない。
バケツ一杯の綺麗なお湯。
それだけでも、とても貴重なのだ。
「うん。お湯がね、出るんだよ!すごいよね」
お湯が、出る?
「……水じゃ、なくて?」
「うん、すっごくきれいなお湯だったよ」
お湯。
綺麗。
お湯。
綺麗。
その二文字が、頭の中をぐるぐる回る。
だめ。
行かないと。
お母さんを探さないと。
でも。
綺麗な、お湯。
ちゃんと暖かいお湯で、身体を洗える。
髪を洗える。
汚れを落とせる。
冷たい、汚れた水じゃない。
凍えながら、歯を食いしばって身体を拭くんじゃない。
お湯。
「お姉ちゃん?」
ひまりが首を傾げる。
あたしは、ぎゅっと目を閉じた。
お母さん。
ごめんなさい。
本当に、ごめんなさい。
あたしは今、最低なことを考えています。
でも。
でも、でも。
「ごめん、ひまり」
「え?」
「ちょっと待ってて!」
火かき棒を壁に立てかけ、あたしは勢いよく浴室へ飛び込み
扉を、閉めた。
銀色の金具を、恐る恐るひねる。
次の瞬間。
しゃあああああ、と。
白い湯気が、目の前に広がった。
「出た……」
本当に、出た。
……本当に、お湯?
指先に触れた瞬間、身体の奥で何かが崩れた。
「……あったかい」
その声は、自分でも驚くほど甘かった。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫! すぐ! すぐ出るから!」
そう言いながら、あたしはもう一度、お母さんに心の中で謝った。
ごめんなさい。
本当に、すぐ出ます。
だから今だけ。
今だけ、許してください。




