5話 雨と天才と、噛み合わない会話
レインと初めて会った日、雨が降っていた。
春の終わり、夕暮れ前の雨だ。急に空が暗くなって、大粒の雨が石畳を叩き始めた。市場の商人たちが慌てて荷物を布で覆い、客たちが軒下に逃げ込む。エリナは豆のペーストの補充分を届けた帰り道で、雨に降られた。
傘はない。この世界に傘という概念はあるが、庶民が持つものではない。雨具といえば蠟を塗った麻布を頭から被る程度だ。
次は撥水加工の研究をすべきか。
頭が半分そっちへ飛びながら、エリナは近くの軒下へ走り込んだ。
先客がいた。
最初は、背中しか見えなかった。
柱に寄りかかって、雨を眺めている少年。年は自分と同じか、少し上くらいだろうか。薄汚れた旅装束に、使い込まれたブーツ。荷物は小さな革鞄一つ。
髪は濡れていた。雨宿りを始めてからまだ間もないらしい。
エリナは少年から適切な距離を取って、壁際に立った。雨が屋根を叩く音が続く。
しばらく沈黙があった。
先に口を開いたのは、エリナだった。別に話しかけたかったわけではない。ただ、気になることがあった。
「右の靴底、剥がれかけてる」
少年が振り返った。
目が合った瞬間、エリナは少し面食らった。綺麗な顔をしている——そういう感想ではなく、目の鋭さが異常だと感じた。年齢に似合わない、すべてを計算するような眼差し。でもその奥に、何か燃えているものがある。
「……気づいてた」
少年が短く答えた。声は低めで、感情の起伏が薄い。
「直さないの?」
「修理屋に出す金がない」
「応急処置なら今できる。靴を貸して」
少年が眉をわずかに動かした。警戒ではなく、意外そうな顔だ。
「なんで」
「このまま放っておくと完全に剥がれる。雨の日に靴底がない状態で歩くのは効率が悪い」
エリナは籠から細い麻紐を取り出した。配達の荷物を固定するために常に持ち歩いているものだ。
少年は数秒エリナを見てから、無言で右足を差し出した。
エリナは剥がれかけた靴底を確認した。接着面が劣化して浮いている。完全には直せないが、紐で外側から固定すれば今日一日は持つ。
手早く結んで、引っ張って強度を確認した。
「これで今日は持つ。でも明日には修理屋へ行くこと」
「……ありがとう」
少年が静かに言った。感謝の言葉は短かったが、嘘くさくなかった。
雨はなかなか止まなかった。
軒下に二人で立って、それきり沈黙が続いた。エリナは雨の降り方を観察しながら、止むまでの時間を推定した。雲の厚さと風向きから見て、あと四十分から一時間はかかりそうだ。
長い。
暇を持て余して、エリナは少年に視線を向けた。
「どこから来たの」
「王都から」
王都。エリナの目が少し細くなった。
「王立魔法学院の生徒?」
少年が今度はっきりと驚いた顔をした。
「なんでわかった」
「その年齢で王都から一人旅をしているとしたら、学院の課外実習が一番可能性が高い。それ以外だと家出か旅商人の子どもだけど、荷物が少なすぎる。鞄の留め金が学院の紋章と一致してる」
少年が自分の鞄を見下ろした。それからエリナを見た。
「……よく見てる」
「観察は大事」
「どこかで聞いたような言葉だ」
「本当のことだから、どこでも言われる」
少年がまた沈黙した。でも今度の沈黙は最初と少し違った。閉じている感じではなく、何かを考えている感じ。
「お前は何をしてる。この町の子どもか」
「商売をしてる」
「子どもが?」
「七歳でもできる」
少年の目が少し変わった。値踏みではなく、興味に近い何かが混じった。
「何を売ってる」
「今は豆のペーストと石鹸。次は薬草の加工品を出す予定」
「石鹸……」
少年が呟いた。
「ルシェムで最近流行ってると聞いた。子どもの下痢が減って、傷の治りが早くなったと」
エリナは少し驚いた。王都まで噂が届いているとは思っていなかった。
「知ってるの?」
「学院でも話題になってた。治癒魔法師の一人が、ルシェムの衛生状態が改善していると報告書に書いた。原因が石鹸だという説と、たまたまだという説で議論になってた」
エリナは雨を眺めながら、それを聞いていた。
思ったより早く広まった。いや——広まること自体は想定内だ。想定外なのは、魔法師の目に留まったことか。
「原因は石鹸だよ。手を洗えば、目に見えない小さなものが体に入るのを防げる。それが病気や傷の悪化を引き起こしてるから」
少年が黙った。
長い沈黙だった。雨の音だけがある。
「……証明できるか」
「今すぐは無理。でも同じ町で石鹸を使う人が増えるほど、病気が減っていく。それを継続して観察すれば証明になる」
「それは時間がかかる」
「大事なことは大体そうなる」
また沈黙。
今度は少年の方から口を開いた。
「魔法はどの程度使える」
唐突な質問だった。でもエリナには答えが一つしかない。
「使えない」
「無適性か」
「そう」
少年がエリナを見た。さっきとは違う目だった。哀れみではない。純粋な疑問だ。
「魔法が使えないのに、なぜそこまで知っている」
「魔法と知識は別物だから。魔法がなくても、考えることはできる」
少年がまた黙った。
エリナは続けた。
「あなたは魔法が使えるんでしょう。それも、かなり」
「……なぜそう思う」
「課外実習を一人でやらせてもらえる年齢じゃない。学院が一人で行動させるとしたら、それだけの実力があると判断されてるから。あと——」
エリナは少年の手を見た。指先に、ごく薄い魔素の焼け跡がある。魔法を酷使した痕だ。
「——相当な量の魔法を使い続けてる。魔素の消耗が手の指先に出てる」
少年が自分の手を見た。それから、小さく笑った。
笑う人だとは思っていなかった。無口で無表情だと思っていた。だから少し、意外だった。
「……よく見える目をしてる」
「さっきも言ったけど、観察は大事」
「俺の名前はレイン」
突然の自己紹介だった。エリナは一秒遅れて返した。
「エリナ」
「苗字は」
一瞬、間があった。
「アッシュフォード」
レインの目が、わずかに変わった。その名前を知っている——そういう顔だ。五年前に没落した侯爵家の名前は、王都では有名な話だろう。
「……没落した侯爵家の」
「そう。今は平民。でも名前は捨ててない」
レインがまた黙った。今度は違う種類の沈黙だった。
エリナは雨を見た。少し弱くなってきた。あと二十分もすれば上がるかもしれない。
沈黙が続く間、エリナは頭の中で今日の作業を整理した。帳簿の更新、次のロットの仕込み、マルタへの連絡。やることはいつも多い。
でも不思議と、この沈黙は不快じゃなかった。
マリオといる時の賑やかさとは全然違う。でも居心地が悪いわけじゃない。お互いに必要なことしか喋らない、という空気が妙に自然だった。
「石鹸を、一個もらえるか」
レインが言った。
「買うの?」
「ああ。学院に持って帰って、魔法師に見せたい。組成を調べてもらう」
エリナは少し考えた。組成を調べられると製法が知れる可能性がある。でも——魔法師が石鹸の仕組みを解析して広めてくれるなら、それはむしろ歓迎だ。知識は独占するより広まった方がいい。
「八ルシェ」
「持ってる」
レインが鞄から銀貨を出した。エリナは籠から石鹸を一個取り出して渡した。
レインが石鹸を手のひらで転がして、匂いを嗅いだ。
「次は何を作る気だ」
「薬草の体系化。この辺で手に入る薬草を分類して、効果を整理して、使いやすい形にする。膏薬と、飲み薬と、消毒液」
「消毒液?」
「傷を洗う液体。石鹸より直接的に傷口に使える」
レインがまたエリナを見た。
「……魔法がなくても、治癒と同じことができると思ってるのか」
「同じじゃなくていい。魔法の治癒は速い。でも魔法師が全員に使えるわけじゃない。魔法がない人間の方がずっと多い。その人たちが自分で傷を手当てできる方法があれば、それで十分」
レインが石鹸を鞄にしまいながら、静かに言った。
「合理的だ」
「褒めてる?」
「事実を言ってる」
エリナは小さく息を吐いた。
この人は言葉が少ない。でも少ない言葉の中に、余計なものが一つも入ってない。
それは悪くないと思った。
雨が上がったのは、それからしばらく後だった。
雲の切れ間から夕陽が差して、石畳が濡れた金色に光った。
レインが先に軒下を出た。少し歩いてから、振り返った。
「また来るかもしれない」
「いつ?」
「わからない。でも——消毒液とやらができたら、見せてくれ」
「できたら売る。八ルシェより高くなるけど」
レインが、また小さく笑った。今度ははっきり見えた。口の端がほんの少し上がる、それだけの笑い方。
「買う」
それだけ言って、歩き出した。
エリナはその背中を見ていた。
薄汚れた旅装束。右の靴底に巻いた麻紐。小さな革鞄。
変な人だ。
でも不思議と、また会う気がした。根拠はない。ただの直感だ。
エリナは前世で学んだ。直感というのは、無意識の観察が積み重なった結果だ。根拠がないように見えて、実は全部見えているものから計算されている。
だからこの直感も、きっと正しい。
濡れた石畳を踏んで、エリナは家路についた。
籠の中の麻紐が一本足りなかった。それだけが、今日レインと会った証拠だった。
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