2話 灰の中の火種
あれから五年が経った。
エリナ・アッシュフォード——今は「アッシュフォード」という名字を名乗る権利すら怪しい身分だが——は、王都の外れにある古い長屋の一室で、朝の光が差し込む前に目を覚ます習慣がついていた。
六歳にしては細い体。膝まである亜麻色の髪。でも目だけは、どこか年齢に不釣り合いなほど落ち着いた光を宿している。
今日もやることが多い。
布団から抜け出して、まず窓の外を確認する。空の色、風の向き、昨日より湿度が高いかどうか。天気予報のない世界では、自分の五感が気象観測所になる。前世で読んだ農業書の知識が、こんなところで役に立つとは思っていなかった。
長屋は、王都ヴァルテから馬車で半刻ほど離れた小さな町、ルシェムにある。
没落後、母のセレーナは伝手を頼って何軒かを転々とした末、ここに落ち着いた。家賃が安い。住民が詮索しない。そして——エリナにとって重要なことに——町の中心に小さな市場がある。
この五年で、エリナがやってきたことは三つある。
一つ目、言語の完全習得。この世界の文字と言語を幼少期のうちに叩き込んだ。母に「教えて」とせがみ、市場で耳をそばだて、捨てられた紙切れを拾って読んだ。前世の記憶があるおかげで学習速度は異常に早く、三歳で読み書きができ、四歳で計算ができ、五歳でこの世界の商習慣の大枠を把握した。
二つ目、観察と情報収集。市場に立つ商人たちの話を聞き、どんな物が売れていて、どんな物が足りていないかを把握した。ノートはない。紙も高い。だから全部、頭の中に叩き込んだ。前世の記憶と一緒に整理して、引き出しに入れておく。
三つ目——そして今日から本番になること——実践。
母がまだ眠っている間に、エリナは台所に立った。
この長屋の台所は狭い。竈ひとつ、棚ひとつ、水甕ひとつ。料理道具は最低限しかない。でも、エリナには十分だった。
棚から取り出したのは、先週市場で買ってきた材料だ。小麦粉、塩、獣脂、それから——一番大事な——乾燥させた果実の皮。
酵母の培養、三日目。
小さな陶器の器を覗き込む。表面に細かい泡が立っている。成功だ。
前世の知識でいえば、これは天然酵母のスターターだ。この世界のパンは基本的に重くて固い。発酵という概念が存在しないわけではないが、体系化されていない。酵母菌の存在を知る者は、ほぼいない。
知らないだけで、菌はそこにいる。
エリナは小麦粉と水を混ぜ、スターターを加えてこねた。小さな手では力が足りないので、体重をかけて押し込む。生地が耳たぶほどの柔らかさになるまで、十五分。
竈に火を入れる。この作業だけは、まだ魔法に頼れない——いや、頼る気もない。火打ち石を使う。最初の頃は何度やっても火花が散らなかったが、今は十秒もあれば点火できる。
できないことは、練習で潰す。それだけだ。
生地を布で包んで竈の近くに置き、発酵させる間に次の作業に移る。
もう一つの鍋には、昨日から水に浸けておいた豆が入っている。
ルシェムの市場で一番安く手に入る食材は豆だ。栄養価が高いのに、調理法が「煮るだけ」しか知られていないせいで飽きられている。エリナはここに目をつけた。
豆を茹でながら、別の小鍋に獣脂と刻んだ香草を入れて弱火にかける。香草はルナ——まだ出会っていないが、いつか出会うだろう少女のことを思う癖がある——じゃなく、今は自分で近くの野原から摘んできたものだ。
脂が溶けて香草の香りが立ってきたら火を止める。これを豆に混ぜ、塩で味を整える。前世でいえばフムスに近い、豆のペーストだ。
完成したものを小皿に盛って、一口食べた。
悪くない。むしろいい。
客観的に評価して、これは今のルシェムの市場に出回っているものより明らかに美味しい。保存も利く。原価も安い。
エリナは小さく頷いて、頭の中の計画を一つ前に進めた。
母のセレーナが起きてきたのは、日が完全に昇った頃だった。
昨日も夜遅くまで縫製の仕事をしていたのだろう。目の下に薄く影がある。それでも娘を見た瞬間、顔が柔らかくなる。
「エリナ、またもう起きてたの?」
「お母さん、座って。今日はパンが焼けてるよ」
セレーナが目を丸くした。
「パン? 酵母はどうしたの、高いでしょう」
「自分で作った」
短く答えて、エリナは焼き上がったパンを皿に置いた。外はきつね色で、中はふんわりしている。この世界のパンとは明らかに違う代物だ。隣に豆のペーストを添えて出す。
セレーナはしばらくパンを見つめてから、一口食べた。
目が、静かに見開かれた。
「……エリナ、これ、どこで覚えたの」
「考えた」
嘘ではない。前世の記憶を「考えた」結果として運用しているのだから。
母は何か言いたそうに口を開いて、でも何も言わずに、もう一口食べた。その目が少し潤んでいた。
泣かないで。まだ序章だよ、お母さん。
エリナは心の中でそう呟きながら、自分のパンを食べた。
午前の市場は人が少ない。エリナにとってはそれがちょうどいい。
小さな籠に豆のペーストを詰めた小瓶を三つ入れて、市場に向かった。売るためではなく、まず「配る」ためだ。
前世のマーケティングの基本——新しいものを広めるには、まず無料で体験させる。口コミは最強の広告だ。
最初に向かったのは、市場の端で野菜を売っている老婆、マルタだ。エリナが五年間観察してきた中で、この町で一番「口が軽く、かつ信頼されている」人物だとわかっている。情報の伝播経路として最適だ。
「マルタさん、これ食べてみて。豆のペースト、パンに塗るとおいしいよ」
マルタは最初、胡散臭そうな目でエリナを見た。六歳の子どもが一人で食べ物を持ってきているのだから当然だ。
でも小瓶を開けて匂いを嗅いで、指につけて舐めた瞬間——表情が変わった。
「なんだいこれ、美味しいじゃないか。どこで買ったんだい」
「作ったの。豆と香草と獣脂。材料だけなら安いよ」
「自分で?」マルタが眉を上げた。「あんた、まだ六つだろう」
「七つになる」
正確に言い直して、エリナは続けた。
「これ、一瓶四ルシェで売ろうと思ってる。材料費は一ルシェもかからない。マルタさんが売ってくれるなら、一瓶につき一ルシェ渡す。どう?」
マルタが黙った。
計算しているのが見えた。エリナは急かさなかった。相手に考える時間を与えることも、交渉の技術のひとつだ。
「……あんた、本当に六つかい」
「もうすぐ七つ」
「商人みたいなことを言うね」
「商人になるつもりだから」
マルタはしばらくエリナの顔を見つめてから、皺だらけの顔で笑った。
「面白い子だ。いいよ、置いてみな。売れたら教えてあげる」
家に戻る道、エリナは頭の中で次の計画を立てた。
豆のペーストは入口だ。次は石鹸。この世界には洗浄のための薬草はあるが、体系的な石鹸製造は存在しない。灰と獣脂さえあれば作れる。灰は竈から出る。獣脂は市場で安く買える。
その次は——
いや、欲張りすぎるな。まず一つを確実に回す。
前世で何度か失敗した理由の一つは、計画を広げすぎて足元を見失ったことだった。今度は違う。一歩ずつ、確実に。
長屋が見えてきたところで、路地の角から声がした。
「おい、そこの子」
振り返ると、同い年くらいの男の子が立っていた。砂埃で汚れた服、でも目が利発そうに光っている。
「なんか美味しそうな匂いがする。その籠の中、何?」
エリナはその子を一秒見て、判断した。
悪くない出会いかもしれない。
「マリオって名前?」
男の子が目を丸くした。
「……なんで知ってんの?」
「知らない。でも、そういう顔してる」
エリナは籠の中から小さなパンのかけらを取り出して、差し出した。
マリオ——当たった——は一瞬躊躇してから、それを受け取って口に入れた。目が、見開かれた。
「うま……! なにこれ」
「私が作った」
「嘘だろ」
「本当」
しばらく二人で路地に立ったまま、沈黙があった。
それからマリオが言った。
「……俺、大工の息子なんだけど」
「知ってる」
「なんで!?」
「よく市場で木を運んでるのを見てたから」
マリオがまた絶句した。それからなぜか、怒るでもなく笑った。
「変な子だな」
「よく言われる」
「友達いないだろ」
「今からできるかもしれない」
エリナは真顔で言った。マリオはまた笑った。今度は少し違う笑い方で——どこか、やられた、という顔で。
これがエリナとマリオの出会いだった。後に「アッシュフォード商会」の現場責任者として大陸中に名を轟かせることになる男との、ささやかで、どこにでもありそうな、最初の一歩。
六歳の令嬢崩れと、六歳の大工の息子。
王都の外れの、名もない路地で。
灰の中の火種は、静かに、しかし確実に、燃え始めていた。
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