1話 生まれ直した日
死んだ、と思った瞬間、私はもう別の場所にいた。
記憶がある。二十八年分の、ごちゃごちゃとした人生の記憶が。終電を乗り過ごした夜のこと。締め切り前に飲んだ缶コーヒーの味。論文を書き上げた朝の、妙に澄んだ空気。そして——雨の夜、横断歩道。ブレーキ音。
それで終わりだと思っていた。
なのに。
「……あら、目が覚めたの? よかった。ほら、お母様よ」
視界が白くぼやける。焦点が合わない。声がどこか遠くて、でも温かくて、私は反射的に泣いた。
泣いた——?
自分でも驚いた。泣くつもりなんてなかった。ただ、体が勝手に動いた。肺が空気を吸い込んで、声帯が震えて、涙が出た。まるで機械みたいに、本能だけで動く体。
ああ、そうか。赤ちゃんって、こういうものか。
妙に冷静な分析をしながら、私——前世の名前は篠原あかり、享年二十八歳——は、この状況を整理しようとした。
だが体が言うことを聞かない。首が重い。手も足も、思うように動かない。視界は相変わらずぼんやりしている。生まれたばかりの体というのは、ソフトウェアに対してハードウェアが致命的に追いついていない状態だ。
落ち着け。パニックになっても何も変わらない。まず情報収集。
エンジニアの習性で、私は状況を箇条書きにして整理した。
一、私は死んだ。 二、今、別の体に生まれている。 三、この体は人間の赤ちゃんだ。 四、抱きかかえているこの人が「母」らしい。 五、言語は……なぜか理解できる。
その五番目が一番不思議だった。「お母様」という単語は日本語じゃない。でも意味がわかる。まるで最初からその言語を知っていたかのように、耳に入ってくる音が意味に変換される。
転生、ってやつか。
ライトノベルで読んだことがある。まさか自分がそれになるとは思っていなかったけれど。
数日かけて、私は周囲の情報を集めた。
できることといえば、寝ることと泣くことと、授乳されることくらいだ。それでも目と耳はちゃんと動く。天井を見上げながら、聞こえてくる声を拾い続けた。
わかってきたこと。
ここは「アッシュフォード侯爵邸」らしい。石造りの、広い屋敷。窓から見える空は、どこか透き通った薄紫色で——地球の青空とは微妙に違う。
私を産んだ母の名前はセレーナ。声が穏やかで、抱き方が丁寧で、私を見る目がいつも少し泣きそうに細まっている。前世で感じたことのない種類の温もりだった。
父親は数回しか顔を見せなかった。背が高く、口数が少なく、でも私を抱いた時だけ表情が崩れた。
「エリナ」と、低い声で呼ばれた。
それが私の名前らしかった。エリナ・アッシュフォード。
悪くない名前だ。
前世の「篠原あかり」も嫌いじゃなかったけど、エリナという響きには何か凛とした強さがあって、私は密かに気に入った。
生後二ヶ月を過ぎた頃、私はこの世界の輪郭をだいぶ掴んできた。
まず、魔法が存在する。
これは最初に確信した。使用人の一人が薪に触れずに火を灯すところを見た時、私の中の「科学者」が一瞬混乱したが、すぐに切り替えた。ルールが違う世界に来たのだ。新しいルールを覚えればいい。
次に、階級社会だということ。
「侯爵様」「奥様」という言葉の重さ、使用人たちの立ち振る舞い、屋敷の広さ——全部が、この世界の格差の大きさを物語っていた。
そして、魔法の強さが社会的地位と直結しているらしいこと。
使用人たちの会話の端々から聞こえてくる「適性」「階位」という言葉。それがいかに重要視されているか、声のトーンだけでわかった。
つまり私が生まれたのは、この世界のかなり上の層だ。
侯爵家の令嬢。魔法が使える貴族社会。
悪いスタートじゃない——そう思っていた。
その頃は、まだ。
転機は、私が生後十一ヶ月になった冬の夜に訪れた。
屋敷が、突然騒がしくなった。
深夜に馬の蹄の音。複数の男たちの怒鳴り声。母が私を強く抱きしめて、寝室の隅で息を殺している。彼女の腕が震えていた。あんなに温かかった手が、その夜だけは冷たかった。
「セレーナ様、旦那様が——」
使用人の声が廊下から聞こえた。その先が、嗚咽に変わった。
私は泣かなかった。泣き方を忘れたみたいに、ただじっと目を開けていた。
何かが起きた。悪いことが。
赤ちゃんの体でも、空気の変わり方はわかった。
父が戻ってきたのは翌朝だった。いつもの背筋の伸びた姿勢が、どこか折れていた。母が何かを問いかけて、父は長い沈黙の後で一言だけ言った。
「……すまない」
それきりだった。
アッシュフォード家の没落は、私が満一歳になる前に完了した。
横領の証拠。捏造だと後になってわかる証拠。でもその時は誰も信じなかった。いや——信じようとしなかった、というのが正確かもしれない。
屋敷は没収された。財産は凍結された。父は爵位を剥奪され、裁判を待つ身になった。
母は私を抱いて屋敷を出た。小さな荷物一つ持って。振り返らずに。
私は母の肩越しに、遠ざかっていく石造りの屋敷を見ていた。
怒りは、ある。
でも今は使えない。この体じゃ、まだ何もできない。
だから覚えておく。何があったかを。誰がやったかを。そして——いつか、必ず。
冬の風が頬を刺した。母の腕の力が強くなった。
エリナ・アッシュフォード、生後十一ヶ月。
これが、私の「第二の人生」の本当の始まりだった。
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