120話 続いていく、ここから
エリナは五時半に目が覚めた。窓の外がまだ暗かったが、東の空の端が少しずつ白くなっていた。台所に向かいながら、今日が何の日かを改めて確かめた。新しい年の最初の朝だった。最終章の朝だった。でも、特別な感情は来なかった。当然のことが、当然の形でやってくる、という静かな確かさだけがあった。台所の窓を開けた。冷たい空気が入ってきた。霜が、今年最初の霜として地面を覆っていた。その霜を見ながら、エリナは少し思った。九年前の元旦も、窓を開けて霜を見たのだろうか。九歳だったあの頃は、まだこの習慣がなかった。でも今日、窓を開けることが体の中に入っていた。続けてきたことが、今朝の窓を開ける手になっていた。
セレーナが来た。「あけましておめでとうございます」とセレーナが言い、エリナが「おめでとうございます」と返した。それから二人で、しばらく何も言わなかった。言葉がないのが不自然ではなかった。九年間、同じ台所で、同じ元旦を過ごしてきた。その九年間が、今朝の静かさを作っていた。台所に、蜂蜜のパンが置かれていた。今年で九年目だった。同じものが、今年もあった。変わらないものが、変わらない場所にある。それが、続けてきたことの今朝の形だった。エリナが蜂蜜のパンを食べた。甘かった。九年間、変わらない甘さだった。来年も、この甘さから始まる。それだけで、十分だった。
九時を過ぎた頃、レインが長屋に来た。
「あけましておめでとう」とレインが言った。それから「今朝も、窓を開けた」と言った。今年最初の日も、窓を開けた。それが、もう当たり前になっていた。「今日の霜の厚さを、昨年の元旦と比べた」とレインが続けた。去年の元旦も窓を開けたから、比べることができた。一年続けたことで、比べられるものが生まれた。それが、続けることで起きることだった。エリナが「去年より厚かったですか、薄かったですか」と聞くと、レインが「ほぼ同じだった。でも、今朝の空気は少し違った。去年より、静かだった」と答えた。去年の元旦と今年の元旦の空気の違いを、自分の体で感じ取れるようになっていた。一年間、毎朝続けてきたことが、今朝の感覚を作っていた。
マリオが来た。「おめでとう、今年もよろしく」と言った。去年も同じことを言っていた。去年の元旦にも言っていた。その前の年も、その前も。同じことを毎年言い続けてきた。毎回本当のことだから、毎回言える。それが、マリオとエリナが七年間続けてきたことの、今朝の形だった。「今年は、どんな年になると思うか」とマリオが聞いた。去年と同じ問いだった。エリナが「わかりません。でも、続けることは変わりません」と答えた。去年と同じ答えだった。去年も本当のことだったから、今年も同じことを言えた。マリオが「それで十分だな」と笑った。それも、去年と同じだった。同じことが繰り返されることが、続けていることの証拠だった。マリオが少し間を置いてから、「一つだけ言っていいか」と言った。「どうぞ」とエリナが答えると、マリオが「七年間、ここにいてよかった。最初に豆のペーストを食べた時から、ここまで来た。全部が、良かった」と言った。今日初めて言う言葉だった。毎年の繰り返しの中に、今日だけの言葉があった。エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。受け取ってから、「マリオがいてくれたから、ここまで来ました」と言った。それも、本当のことだった。
昼過ぎ、全員が長屋に集まった。
元旦の昼食は、毎年全員で食べることになっていた。セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、レイン、ベルト、エリナ。今年も八人が、テーブルを囲んだ。フィオナが自分の家の庭の薬草で作った薬草茶を持ってきた。ルナが今年最初の薬草の束を作業場から持ってきた。セレーナが、昼食として温かいスープを用意してくれていた。豆のスープが、今年最初の食事として並んだ。それが変わらないことだった。ベルトが「農地を、今朝見てきた」と短く言った。元旦の朝に農地を見る。それが、いつの間にかベルトの元旦の形になっていた。誰かが決めたわけではなかった。気づいたら、そうなっていた。ゴードンが「今年の最初の記録を、今朝書きました」と静かに言った。今年最初の日付で、新しい年が始まったと書いた。それが、ゴードンの元旦の形だった。全員が、それぞれの元旦の形を持っていた。その形が重なって、今日のテーブルができていた。
食事の途中で、フィオナが言った。「今年、師匠が来る」と。その言葉が、テーブルに静かに置かれた。レインが来る前から師匠のことを知っていたのは、エリナだけだった。でも今や、全員が師匠のことを知っていた。師匠が設計した講習が、地方の学校に届いていた。師匠が確認したサンプルから、ベルトの薬草の研究が進んでいた。師匠の最後の仕事が、全員の仕事と繋がっていた。だから、師匠が来ることを、全員が楽しみにしていた。「師匠が来たら、農地を見せたい」とベルトが短く言った。ルナが「薬草も見せる」と言った。マリオが「市場にも連れて行く」と笑った。ゴードンが「記録をお見せします」と静かに言った。全員が、師匠に見せたいものを持っていた。それが、七年間続けてきたことの、今日の形だった。
昼食が終わった後、エリナは少しだけ一人で丘に行った。
毎年、誕生日に行く丘だった。元旦に行くのは、今年が初めてだった。でも、今日は行きたかった。丘の上から、ルシェムを見た。九年前より、少し大きくなっていた。新しい家が増えた。市場が広がった。倉庫への道が整備された。でも、長屋はそのままだった。作業場もそのままだった。大きくなっていく中に、変わらないものがあった。その変わらないものが、変わっていく全体を支えていた。エリナはしばらく、ルシェムを見ていた。九年間、この場所から始めてきた。これからも、この場所から続けていく。丘の上に立ちながら、その確かさを、今日の風の中で感じていた。冷たい風だったが、嫌いではなかった。この場所に立ち続けてきた体が、この冷たさを知っていた。知っているものが、体に来た。それが、続けてきたことの、今日の感覚だった。
丘から戻ると、レインが長屋の前で待っていた。「丘に行ったんだな」とレインが言った。「そうです」とエリナが答えると、レインが「来年は、一緒に行けるか」と言った。来年の元旦に、一緒に丘に行く。それが来年の形として、今日決まった。急がずに決まった。でも、止まらずに来た言葉だった。「来年、一緒に行きましょう」とエリナが言った。それだけで、十分だった。
夕方、エリナはゴードンと今年の計画を少し話した。
今年動くことが、いくつかあった。師匠が来る春か夏の訪問。農地の四年目。農業地帯の展開が三カ所目、四カ所目へと広がること。王宮の衛生教育が三ヶ月を超えて、王都への広がりが始まるかもしれないこと。フィオナが今年何度地方を回るか。ベルトの新しい薬草の研究が、どこまで進むか。全部が、今年の形として来ることだった。でも、全部が不確かだった。確かなことは一つだけだった。続けることは変わらない。その一つが確かであれば、残りは続けていけばわかる。ゴードンが「今年も、記録し続けます」と言った。それだけで、ゴードンの今年の全部が言えていた。一日も空白を作らずに記録し続けることが、ゴードンの仕事だった。それが変わらなければ、記録は続く。続いた記録が、来年また今年のことを教えてくれる。そういう積み重ねが、九年間続いてきた。
夜、全員で夕食を食べた。
今夜は昼より少し手の込んだ料理だった。セレーナが元旦の夜のために用意していたものだった。テーブルに料理が並んで、全員が座った時、マリオが「今年も、乾杯しよう」と言った。全員が湯呑みを持った。今年も、それぞれが違う言葉で言い合った。今年に。続けてきたことに。届いたことに。来年来るものに。変わったことと変わらなかったことに。来られたことに。続けることが繋がることだったから今夜ここにいられることに。去年と同じ言葉もあった。去年とは少し違う言葉もあった。全員の言葉が、また揃った。今年も揃った。来年も揃う。それが、続けていくことだった。
食事の途中、ルナが言った。「レインの庭の薬草が、今年も花を咲かせる」と。去年初めて咲いた花が、今年また咲く。同じ花が、同じ庭で、また咲く。その繰り返しが、庭との関係を作っていく。ルナが「植えた薬草が二度目の春を迎える。一度目より、根が深い」と続けた。一度目より根が深い。続けることで、根が深くなる。それが、植物でも人間でも、同じことだった。レインが「今年の春の花を、楽しみにしている」と言った。去年の春の花を見た時、うまく言葉にできない何かが来た、とレインは言っていた。今年の春は、去年より根が深いところから咲く花を見る。それが、今年の春の楽しみだった。ベルトが「農地の薬草も、四年目は三年目より深く根を張っている。春の芽吹きが、去年より早いかもしれない」と短く言った。深い根が、早い芽吹きを作る。続けることで、次が来やすくなる。ベルトが農地で三年かけて見てきたことが、今夜の一言になっていた。
食事が終わった後、フィオナがエリナに言った。「一つだけ、今夜言いたいことがある」と。「どうぞ」とエリナが答えると、フィオナが静かに話し始めた。「九年前、エリナが初めてルシェムに来た時のことを、私は知らない。でも、エリナから聞いてきた話と、自分がここに来てから見てきたことを合わせると、九年間のことがわかる気がする。あの頃のエリナは、今のエリナより小さかった。でも、今のエリナより大きいものを持っていたかもしれない。諦めないこと、続けること、正直でいること。あの頃から持っていたものが、九年間で形になった。私がここに来た時、その形が見えた。だから、来続けた。だから、ここが帰ってくる場所になった。それを、今夜言いたかった」と。エリナは、フィオナの言葉を受け取った。整理しなかった。分析しなかった。ただ受け取った。受け取ってから、「フィオナが来続けてくれたから、形が見えたんです」と言った。来続けてくれる人間がいたから、続けられた。それも本当のことだった。「どちらも本当のことだ」とフィオナが言った。「だから、お互いにありがとうが言える」と続けた。その言葉が、フィオナとエリナの間で交わされた全部を、一言で言い表していた。
全員が帰った後、エリナとレインが事務室に残った。
今夜が、最後の夜ではなかった。明日もここにいる。来年もここにいる。でも、今夜の話をしたかった。二人で向かい合って座った。向かい合い方が、最初と全然違っていた。最初に向かい合った時、レインはここに来る人間だった。今日は、ここにいる人間として向かい合っていた。その違いが、今夜の事務室の空気を作っていた。
「今日、丘から見たルシェムが、少し大きくなっていました」エリナが言った。「でも、長屋と作業場は変わっていませんでした」
「変わるものと、変わらないものが、両方ある」レインが静かに言った。「どちらも必要だ」
「そうですね」エリナが言った。「変わらないものがあるから、変わっていけます。変わっていくから、変わらないものが大事だとわかります」
「その言葉は、どこから来たんだ」
「今日、丘の上で感じたことです」エリナが言った。「言葉にしたのは、今初めてです」
「続けてきたことが、今日の言葉になった」レインが言った。「九年分、積み重なってきたことが」
「そうかもしれません」エリナが言った。「九年前には言えなかった言葉が、今日言えました」
少しだけ間があった。レインが、机の上に置いてある引き出しを見た。「その引き出しの中に、何年分の手紙がある」と言った。九年分、とエリナが答えると、レインが「来年はさらに一年分増える」と言った。「その次の年も」とエリナが続けた。「増え続ける」とレインが静かに言った。「そうですね」とエリナが言った。引き出しの中に、九年分の手紙があった。来年も増える。再来年も増える。増え続けることが、続けることだった。引き出しが重くなっていくことが、積み重ねることだった。それが、これからも続いていく。
「一つだけ、今夜届けたいことがある」レインが言った。それは、毎回届けてくれる言葉だった。いつも、「一つだけ」と言ってから届けてくれた。それが、レインのやり方だった。「どうぞ」とエリナが答えた。「九年間、お前が続けてきたことを、来てから一年間近くで見てきた。学院にいた時は、手紙を通じて見ていた。でも、近くで見ると、手紙で見えていたものとは違う形で見えた。毎朝窓を開けること。台所で薬草茶を作ること。作業場で仕事をすること。全員と話すこと。全部が、九年間続いてきたことだと、近くにいるとわかる。その全部を、これからも近くで見たい。それが、来年も、その次の年も、続いていくことだ」とレインが言った。エリナはその言葉を受け取った。九年間続けてきたことを、近くで見たい。これからも続いていく、という言葉が、今夜の事務室に静かに置かれた。受け取ってから、エリナが言った。「見ていてください。続けます。あなたが近くにいるから、続けやすくなっています」と。それが、今夜のエリナの正直な言葉だった。一人で続けてきた九年間と、一緒に続けていく時間が、今夜の言葉の中で重なっていた。
「だから、好きだ」レインが静かに言った。「今年の一年分と、去年の一年分と、その前の七年分が、全部重なっている」
「私も」エリナが静かに言った。「だから、好きです。九年分、重くなっています」
「来年はさらに重くなる」
「続けますから」エリナが言った。
「そうだ」レインが言った。「続けることが、重くなることだから」
レインが自分の家に帰った後、エリナは机に向かった。
今夜書くつもりだった手紙が、もう書けなかった。書けない、のではなかった。書かなくていいと思った。今夜の言葉は、今夜の事務室で全部届いた。手紙に書いて届けるより、届いた言葉がある。それが、ここにいることで起きることだった。でも、今夜だけは、手紙ではなくメモを書いた。
九年目の元旦。蜂蜜のパンが九年目だった。丘から見たルシェムが、変わっていた。でも、長屋と作業場は変わっていなかった。変わるものと変わらないものが、両方必要だと、今日初めて言葉にできた。フィオナが「どちらも本当のことだから、お互いにありがとうが言える」と言った。レインが「九年分が全部重なっている」と言った。私も同じだ。九年間続けてきたことが、今日の形になっている。来年も続ける。その次の年も続ける。それが、これからも変わらないことだ。続けていく先に、また新しい形が来る。それを楽しみにしながら、今日の窓を閉める。明日も開ける。それだけで、十分だ。
書いて、引き出しに入れた。引き出しの中に、九年分の手紙とメモが積み重なっていた。今夜また一枚増えた。来年も増える。増え続けることが、続けることだった。引き出しを閉めた。
ランプを吹き消した。
新しい年の最初の夜が、窓の外にあった。霜が降りていた。静かだった。何かが続いている静かさだった。七分先の家に、レインがいた。フィオナの家に、灯りがもう消えていた。マリオが今頃眠っているだろう。ルナが猫と一緒に自分の部屋にいるだろう。ゴードンが今年最初の記録を書き終えて眠っているだろう。ベルトが明日の朝、農地を見に行くだろう。セレーナが隣の部屋で眠っているだろう。全員が、それぞれの場所にいた。全員が、明日も続ける。それが、今夜のルシェムの形だった。
続いていくものが、今夜の静かさの中に全部あった。九年分の積み重ねと、これからの全部が、今夜の霜の降りたルシェムにあった。変わらない窓があった。変わらない台所があった。変わらない長屋があった。その変わらないものの中に、少しずつ変わってきたものがあった。フィオナが帰ってくる家ができた。レインの庭に花が咲いた。農地が四年目になろうとしていた。農業地帯の学校に薬草が届いていた。王宮に衛生教育が届いていた。父の改革案が宮廷資料になった。全部が、続けてきたことの今の形だった。そして、続いていく。続いていく先に、また新しい形が来る。それが何かは、続けていけばわかる。
エリナ・アッシュフォード、十六歳の最後から二番目の夜。いや、十七歳になる春まで、まだ数ヶ月あった。でも、今夜が九年目の元旦だった。九年前、七歳でルシェムに来た。九年間、続けてきた。これからも続ける。それが、今夜一番確かなことだった。変わらない習慣として、明日も窓を開ける。今日の空気を確認する。それだけで、十分だった。それだけが、全部だった。
急がなかった。でも、止まらなかった。続けることが繋がることだった。それが、九年間の全部だった。そして、続いていく。ここから。
これにて完結になります。
拙作を読んでいただいた読者様には感謝しかありません。
また新作でお会いしましょう(*^-^*)




