↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
117/120

117話 四月、花が咲いた日

 四月になった。


 春が本格的に来た。朝の霜が消えて、代わりに朝露が降りるようになった。市場に花と野菜が並び始めた。フィオナの庭の薬草が、緑色を一層濃くした。農地の三年目の芽が、先月より確実に大きくなっていた。ルナが採取してくる薬草が、冬のものから春のものに変わっていた。エリナは毎朝、台所の窓を開けた。今日の空気を確認した。今年の春の空気だった。去年の春と同じ種類の空気だったが、去年とは全然違う春だった。七分先の家に、レインがいる春だった。その事実が、今年の四月の空気を、去年の四月と同じでありながら、全く別のものにしていた。


 レインは毎朝、自分の庭を確認してから長屋に来るようになっていた。窓を開けて空気を確認して、それから庭に出て薬草の様子を見て、それから長屋に来る。その三つが、レインの朝の形になっていた。三ヶ月で、習慣が積み重なっていた。毎日続けることで、昨日との違いがわかるようになる。今朝の庭と昨日の庭の違いを、レインは自分の目で見てから来た。そして来た時に、今日の庭の様子をエリナに話した。それが、二人の朝のやり取りの形になっていた。以前は手紙でやっていたことが、今は朝の会話でできていた。でも、手紙は今も書き続けていた。話すことと書くことは、違うことだと二人ともわかっていたから。書くことで言葉になるものが、話すこととは別にあった。


 四月の第二週のある朝、レインが長屋に来た時、いつもと少し違う顔をしていた。


 何かを見てきた顔だった。エリナが「今日の庭はどうでしたか」と聞くと、レインが「花が、咲いていた」と言った。その言葉が、台所の空気の中に静かに置かれた。エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。ルナが選んでくれた、春に花が咲くもの。荷物を持ってきた日に庭に根が置かれて、冬の間、地面の下で静かに続いていたものが、今日の朝、花を咲かせていた。「見に行ってもいいですか」エリナが言うと、レインが「来てくれ」と答えた。


 二人でレインの家の庭に向かった。庭に入った瞬間、エリナの目に小さな白い花が入ってきた。一輪ではなかった。三輪、四輪と、庭の端の方に固まって咲いていた。ルナが選んだ花だった。薬草としての効能はない、でも花が咲くと庭に来たいと思うようになる、とルナが言っていた花だった。今朝、その花が咲いていた。エリナはしばらく、その花を見ていた。レインも隣で見ていた。二人とも、何も言わなかった。言葉より先に、見ていることがあった。しばらくして、レインが静かに言った。「待つことと、続けることは、似ているかもしれない、とお前が書いてくれたメモがある。その言葉が、今朝の庭で本当になった気がした」と。エリナはその言葉を聞いて、少しだけ目が熱くなった。熱くなったが、泣かなかった。ただ、受け取った。荷物の中に入れてきたメモの言葉が、今朝のこの庭で、花という形になっていた。


 ルナに、花が咲いたことを伝えた。


 ルナが少しだけ間を置いてから「そうか」と言った。それだけだったが、ルナの「そうか」は、受け取った、という意味だとエリナはわかっていた。「ルナが選んでくれた花が、咲きました」とエリナが続けると、ルナが「植物は、正直だ。合っている場所に植えれば、ちゃんと咲く。あの庭は、合っていた」と静かに言った。庭との相性が良かったから咲いた、というルナの言い方が、人間の努力を言わない代わりに、場所との関係を正直に言っていた。でも、その場所を選んだのはルナだった。土を見て、日当たりを確認して、この庭に合う花を選んだのはルナだった。その判断があったから、今朝花が咲いた。ルナは自分の功績を言わなかったが、エリナはわかっていた。「ルナが選んでくれたから、咲きました」とエリナが言うと、ルナが「どういたしまして」と短く答えた。その返し方が、ルナらしかった。


 マリオに伝えると、「そうか、花が咲いたか」と言ってから少しだけ笑った。「お前と一緒にいて、一番好きな言葉は何かと聞かれたら、「続けてきたことが、形になった」だな」とマリオが言った。「今日も、その言葉が当てはまるな」と続けた。七年間、この言葉が当てはまる場面を何度も見てきた人間が、今日また同じことを言っていた。毎回本当のことだから、毎回言える。その繰り返しが、マリオとエリナが七年間続けてきたことの形だった。


 花が咲いた日の午後、フィオナが来た。


 用事があって来たわけではなかった。庭の花が咲いたと聞いて来た。ルナから聞いたのか、マリオから聞いたのか、それとも何かで感じたのかは聞かなかったが、フィオナが来た。レインの家の庭に四人で向かった。エリナとレイン、フィオナとルナが一緒に庭の花を見た。四人で花を見ている時、誰も何も言わなかった。でも、それが不自然ではなかった。言葉より先に、一緒に見ていることがあった。しばらくして、フィオナが言った。「私の庭にも、ルナが同じ花を植えてくれている。去年の春に初めて咲いた時、帰ってきた、という感覚が完全になった気がした」と。今年のレインの庭の花が、去年のフィオナの庭の花と同じ種類だった。同じ花が、それぞれの庭で咲いていた。それが、二つの庭が同じルシェムにある、ということの形だった。


 レインがフィオナに言った。「今朝花が咲いているのを見た時、エリナのメモの言葉を思い出した。待つことと、続けることは、似ているかもしれない、という言葉だ」と。フィオナが少しだけ考えてから言った。「その言葉は、どこから来たんだったか」と。エリナが「ルナが言っていた言葉から来ました。植物は、帰ってくる人を待っている、という言葉から」と答えた。フィオナが「そうか」と言って、庭の花をもう一度見た。植物が待っている言葉が、メモになって、荷物に入って、庭で花になっていた。言葉が形を変えながら、人から人へ渡っていく。その流れの中に、今日の四人が立っていた。


 四月の半ばに、ダリウスがルシェムに来た。


 フィオナとレインと三人で話す機会を作る、とエリナが言っていた約束だった。農業地帯への展開について、直接話し合うためだった。ダリウスが事務室に入った時、レインが初めてダリウスと向かい合った。以前、レインとダリウスは同じ食卓についたことがあったが、直接向かい合って話すのは今日が初めてだった。二人の間に、少しだけ独特の空気があった。ダリウスがエリナの父を追い落とした家の人間であり、レインがエリナにとって大事な人間であるという事実が、その空気を作っていた。でも、その空気は長くは続かなかった。ダリウスが最初に言った言葉が、空気を変えた。「エリナから、あなたのことを聞いている。学院を離れて、ここに来た。それが、正しい選択だったと、今日会って思った」と言った。飾らない、評価の言葉だった。レインが少しだけ間を置いてから「あなたが動いてくれたことが、エリナの仕事を支えてきた。それを、ここで言いたかった」と答えた。二人が、それぞれの立場から相手を正直に見ていた。その正直さが、空気を変えた。


 話し合いは、二時間ほど続いた。農業地帯の学校に薬草を届けるルートを、ダリウスの農地ネットワークを使って整える、という方向で話が進んだ。ダリウスが持っている農地の中に、農業地帯の村に近い場所があった。そこで育てた薬草を、近くの学校に届ける。学校が子どもたちに伝えて、子どもたちが農家の家族に伝える。農業の知識がある人間たちだから、薬草の使い方を覚えることが早い。フィオナが現場で確認してきたことが、ダリウスの地図の上で繋がっていった。レインが「農地の記録と、学校の記録を並べれば、どこに何を届けるかが見えてくる」と言い、ゴードンが「その記録の形を、今日から設計します」と静かに言った。四人が、違う場所から来た知識を持ち寄って、一つの方向を作っていた。それが、一緒に動くことの今日の形だった。


 話し合いが終わった後、ダリウスがエリナに少しだけ個別に言った。「一つだけ、届けたいことがある」と前置きして、「父の改革案が宮廷資料になった。それと、あなたが続けてきたことが、今日の話し合いに繋がった。二つが重なって、今日がある。父上がしようとしたことが、あなたを通じて、俺を通じて、ここまで来た。それが、今日一番確かなことだと思っている」と言った。エリナはその言葉を受け取った。父の改革案がエリナの仕事と並んで宮廷資料になり、ダリウスが動き、今日の話し合いがあった。長い時間をかけて、遠回りをしながら、でも確かに繋がっていた。遅かったが、ちゃんと来た。その言葉が、また今日も当てはまっていた。


 四月の後半、農地の三年目が本格的に動き始めた。


 ベルトが管理している農地で、今年新たに試験栽培を始めた薬草が、先月の芽出しを経て、今月から本格的な栽培段階に入った。ベルトが毎日記録してきたデータが、今年の計画の基盤になっていた。去年の土の変化の記録が、今年の栽培のタイミングを教えていた。ベルトが「土は覚えている」と言っていた言葉が、今年の農地で証明されていた。育てることで、育てやすくなる。その繰り返しが、三年目の農地の今の姿だった。エリナがベルトに「三年目になりましたね」と言うと、ベルトが「まだ始まりだ」と短く言った。始まりだ、という言葉が、ベルトらしかった。三年続けても、まだ始まりだと言える人間は、長く続けられる人間だとエリナは思った。


 学院の研究者が夏に来る準備も、ゴードンが着々と進めていた。農地の記録、ルナの観察記録、新しい薬草の事例記録が、研究者が見やすい形に整理されつつあった。ゴードンが「七年間の記録が、今日整理されると、一つの流れとして見えてきます」と言った。七年間を一つの流れとして見る。それが、記録し続けてきたことの意味だった。一日一日は小さな記録だったが、七年分が揃うと、全体の流れが見えてくる。ゴードンが七年間手を抜かなかったから、今日その流れが見えた。


 四月の終わりの夜、エリナとレインが事務室で話した。


 今月のことを、二人でゆっくり振り返った。急いでいなかった。明日も、ここにいる。その安心が、会話をゆっくりにしていた。以前の、来ている限られた日数の中で話すのとは、違う時間の流れがあった。


「今月、いろんなことがありましたね」エリナが言った。「花が咲いた。ダリウスが来た。農地が三年目になった」


「全部が、続けてきたことの、今月の形だ」レインが静かに言った。「一つ一つは、前から続いていたことだ。でも、今月に集まった」


「毎年、こういう月がありますね」エリナが言った。「続いてきたことが、一度に形になる月が」


「そうだな」レインが言った。「ゴードンさんが言っていた言葉だ。準備してきたものが、一度に形になる年が、とのことだったが、月でも同じことが起きる」


「ゴードンさんの言葉が、また当てはまりましたね」エリナが笑った。


「この場所の人間の言葉は、いろんなところに当てはまる」レインが言った。「それが、ここが良い場所だということだと、来てから毎日思っている」


 少しだけ間があった。窓の外に、四月の終わりの夜の空気があった。春の夜の空気だった。冷たくなく、暑くもない。一番好きな温度の空気だった。エリナがそのことを言うと、レインが「俺も、今年初めてこの温度の夜を、ルシェムで経験している」と言った。去年の春は、ルシェムにいなかった。今年の春は、ここにいる。その差が、今夜の空気の中にあった。


「一つだけ、届けたいことがある」レインが言った。


「どうぞ」エリナが答えた。


「今朝、花が咲いているのを見た時、うまく言葉にできない何かが来た。うまく言葉にできないが、あることは確かだ、とかつて手紙に書いたことがある。今朝も、同じだった。うまく言葉にできないが、あることは確かだった。だから、今夜それを届けたかった」レインが静かに言った。エリナはその言葉を受け取った。うまく言葉にできないが、あることは確かだ。それが、今朝の花を見た時のレインの状態だった。言葉にならないものが、言葉にならないままで届けられた。それが届いた。届いたことで、言葉にならないものが、二人の間にある、ということが確かになった。「受け取りました」エリナが静かに言った。「私も、今朝の花を見た時、同じだったと思います」と続けた。二人が、言葉にならない同じものを、今朝の庭で見ていた。それが今夜、言葉にならないまま届け合われた。


 その夜、エリナは机に向かった。


 今月のメモを書いた。花が咲いた。ダリウスとレインが向かい合った。農業地帯への展開の形が見えてきた。農地が三年目になった。ゴードンが七年間の記録を整理し始めた。全部が今月にあった。そして、うまく言葉にできないが、あることは確かだ、という言葉が今月も生きていた。書きながら、来月のことを少し考えた。五月になれば、初夏の気配が来る。農地がさらに育つ。学院の研究者が来る夏が近づく。フィオナが次の地方訪問をする。ダリウスの農業地帯への展開が動き始める。全部が、続いていく。続いていく先に、第百二十話の最終章がある。その形が、少しずつ見えてきていた。今月の出来事が、最終章への布石として置かれていた。何がどうなるかを、エリナはまだ全部知らなかったが、続けていけば見えてくると思っていた。続けることで、見えてくるものがある。それは、七年間で学んだ最も大事なことだった。


 レインへの手紙を書いた。今夜も七分先に届く手紙だった。


『レインへ。今朝、花が咲いていましたね。うまく言葉にできないが、あることは確かだ、という言葉を届けてくれました。受け取りました。私も、同じでした。言葉にならないものが、二人の間にある。それが今夜、確かになりました。来月、農業地帯への展開が動き始めます。ダリウスとフィオナと、三人でまた動きます。一緒に考えましょう。花が咲いた今月の春が、来年も来ます。その時、また一緒に見ましょう。おやすみなさい。エリナ。』


 封をして、机の上に置いた。今夜書いた手紙が、明日渡される。書くことで、今日が残る。今日の花が、今日の言葉として残る。その積み重ねが、七年間の引き出しの中にあった。来年の春に花が咲いた時、今日書いた手紙が引き出しの中にある。二年後の春にも、三年後の春にも、その手紙はある。記録は消えない。ゴードンが言い続けてきた言葉が、今夜の引き出しの中にも生きていた。


 ランプを吹き消した。四月の終わりの春の夜が、窓の外にあった。七分先の家に、レインがいた。レインの庭に、花が咲いていた。今夜は見えないが、明日の朝また見える。そうやって、毎朝見続けることが、この庭との関係になっていく。見ることで、関係ができる。関係ができることで、帰ってくる場所になる。ルナが言っていたことが、今夜のレインの庭で静かに続いていた。


 エリナ・アッシュフォード、十六歳。今日、花が咲いた。うまく言葉にできないが、あることは確かだった。それが今夜、一番大事なことだった。

読んでいただきありがとうございます。

評価や感想を貰えると執筆のモチベーションがアップするので

どんどん評価や感想をください!

ブクマもお願いします!

お待ちしております(*^-^*)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。