第二章「極東潜伏」
日本の国際空港、到着ロビー。
行き交う喧騒の中、背広姿のリンは、自身の背丈の半分ほどもある大型のトランクケースを引きながらゲートを抜けた。
「ニーハオ、ウエルカム・トゥ・ジャパン」
出迎えたのは、仕立ての良いスーツを着た中年の日本人男性だった。
愛想の良い笑みを浮かべてはいるが、その目には微かな緊張が走っている。
香港の巨大マフィアと密輸ルートを担う、日本側のフロント企業の社長――田所だ。
「お世話になります」
リンが流暢な発音で深く頭を下げると、田所は目を丸くした。
「おお……日本語が、お喋りになれるのですか?」
その問いに、リンはほんの僅かだけ躊躇いを見せた後、静かに答えた。
「……少々ですが」
「これは失礼しました。私は田所と申します。日本での手配は全て私が承っております」
「リン・インです。……私が何をしに日本へ来たか、聞いていますか?」
「いいえ。雇い主からは、ただあなた様の衣食住の世話をするようにとだけ命じられております」
田所は周囲の目を気にするように、小声で付け加えた。
「聞きたくもないというのが、正直なところですが」
「……何が大事かわかっている人のようだ。少し安心しました」
リンの言葉に、田所は首を傾げた。しかし余計なことは聞かない方がいいと判断したのか、「車があちらに手配してあります」と案内を再開する。
そして、リンの持つ大型のトランクに目を留めた。
「それ、重いでしょう。わたくしが車までお持ちしますよ」
「いいえ、大丈夫です」
リンは静かに断ると、逆に田所を促した。
「さぁ、行きましょう」
◇◇◇
空港から市街地へ向かう車中。
後部座席に座るリンに対し、運転席の田所が開口一番に謝罪を口にした。
「本当に、申し訳ありません」
バックミラー越しに謝る田所に、リンは疑問符を浮かべる。田所は構わず続けた。
「何分、急な話でしたもので。潜伏場所はなんとか手配できたのですが……本国から来られた組織の方をお迎えするには、あまりにも分不相応な場所になってしまいまして」
「構いません。雨風が凌げて、寝泊まりできれば問題ない」
リンの淡白な返答にも、田所はまだ不安げな表情を浮かべたままだった。
やがて車が停まり、二人が降り立った場所は、市街地の喧騒から外れた場末の住宅街だった。
目の前にあるのは、昭和の時代から取り残されたような、塗装の剥げた二階建ての安普請なアパート。
田所が「分不相応」と言った意味を、リンは即座に理解した。
田所が申し訳なさそうに説明する。
「付近には防犯カメラもありません。あまりに古くて、元々いた住民もみんな出ていってしまってましてね。持て余していた大家に交渉して、建て替えの工事が入るまで一棟丸ごと借り切ることができました。とりあえず一ヶ月間は、誰もここには近づかないでしょう」
「……」
「本当に、こんなところで大丈夫でしょうか?」
念を押す田所に、リンはアパートの構造や周囲の死角を油断なく確認しながら答えた。
「問題ありません。むしろ、十分です」
監視の目がなく、隣人を気にする必要もない独立した空間。セーフハウスとしてはこれ以上ない条件だ。
「それは助かります」
田所は心底安堵したように胸を撫で下ろした。そして鍵を取り出す。
「こちらがお部屋の鍵になります。もし別の部屋もお使いになりたくなった時はお声がけください。すぐに用意いたしますので」
田所の言葉に、リンはしばらく考えてから答えた。
「……わかりました。その時は連絡します」
そう言って手を差し出し、鍵を受け取った。
田所と別れた後、リンは預かった鍵で錆びついたドアを開け、部屋へと入った。
外観の古めかしさに違わず、室内も黄ばんだ壁紙と軋む畳の、ひどく古臭い空間だった。
◇◇◇
トランクケースを床に置くと、リンはすぐにスマートフォンを取り出し、発信ボタンを押した。
相手は先生――チャン・ワイランだ。
『……着いたようですね』
『ええ。今、現地のセーフハウスに到着しました』
リンは窓の隙間から外の様子を窺いながら、小声で本題に入る。
『そちらの状況はどうですか。香港での調査は進んでいますか』
電話の向こうで、先生が小さくため息をつく気配がした。
『聞き出した不審なアジトをいくつか襲撃したようですが、そこにいたのは三下のチンピラばかりだったみたいですね。まるで真相から目を逸らさせるための囮に振り回されているようです』
『……思っていたより、事態の規模が大きそうですね』
『ええ。……あなたの方はどうしますか?』
『今日はとりあえず休んで、明日から日本での窓口になっているヤクザに連絡して協力を要請する予定です』
『わかりました。なるべく連絡は絶やさないように。日本でも、かなりの組織が動いている可能性があります。とにかく気をつけて。決して油断しないように』
それだけを言い残し、通話は切れた。
リンは静かになったスマホを見つめ、日本の重く湿った空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。
◇◇◇
その日の夕方。
一台のワンボックスカーが、アパートのすぐ近くに無遠慮に停まった。
乱暴にドアが開き、中から三人の男女が降りてくる。派手な柄シャツやジャージに身を包んだ、いかにもその日暮らしの半グレといった風体の若者たちだ。
バタンッと大きな音を立ててドアを閉めると、リーダー格の男がガムを噛みながら口を開いた。
「さぁ、ちゃっちゃと終わらせて、飲みにいこうぜ」
「だねー。普段なら絶対行けないような高い店で、パァーッとやりたいな」
隣の女がスマホをいじりながら軽い調子で賛同し、頭上で軽く手を挙げる。
「しっかし、人を一人やるだけでこんだけ大金がもらえるんだったら、もっと早くこれを仕事にしときゃよかったな」
男が下卑た笑いを浮かべると、他の二人も声を上げて笑った。
彼らは自分たちがこれから足を踏み入れる場所が、本物の死地であることなど微塵も理解していない。ただの割の良い小遣い稼ぎだと信じて疑っていなかった。
「よし、行くぞ」
三人はチャカついた手つきで拳銃を取り出すと、ヘラヘラとした笑みを浮かべたまま、目の前の古びたアパートへと歩き出した。




