記憶の残し方と上書き方法-4-
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少女が寝息を立てるようになってから五時間が経った。完全に意識の覚醒したニトは目を開き、ベッドに片腕を立てて安らかに眠る少女を見詰めていた。
外はまだ暗く、月の光は雲に拒まれることなくニトの背を照らし漏れた光は少女をも優しく撫でている。
カチッカチッと懐中時計が刻むこ気味いい音はゆっくり流れる時を肌で感じさせた。しかし埃っぽい部屋に流れる時間は異常に遅く、それらはニトの心をチクチク刺した。
さっきまで少し大人びた顔をしていた少女も今は年相応の顔をしている。ニトは少女を起こさないように気を遣い、布団から抜け出そうと身を起こした。
しかし──。
ぐいっ、と。
裾をひかれた気がして背後を振り向くと、だらしなく垂れたシャツの裾を少女が掴んでいるのが分かった。だがその瞳は開いておらず、無意識に掴んでいるようだった。
ニトは苦笑を漏らし、その小さな手を優しく突き放した。秋の冷たい空気が流れる部屋を後にして、ニトはポールハンガーからコートを奪い取り家を出た。
「ふぅ……さすがに冷えるな」
独りごち、コートの胸ポケットからシガレットケースを取り出した。細身の手巻き煙草、さすがに家の中で吸えるものではない。
何度かマッチを擦って、三度目のトライでパッと火がついた。素早く煙草に火を移して肺まで煙を吸い込んで、色の褪せた紫煙を吐き出した。
ニトは限界まで薄くなった薄紫色の煙を見上げ、だんだんと色づく空を見上げていた。
たしか朝市があったな、と思い出しポケットの中に忍ばせておいた紙幣を取り出して、朝食の食材調達に間に合いそうか確認する。
バーで融通を効かせた甲斐あって、最低限の金は残しておく事が出来たので二人分の朝食くらいは賄えそうだった。
燃え尽きて灰になった先端部を叩き落とし、持ち手しかなくなった煙草を捨て靴底でジャリジャリとすり潰す。
開いた古風な懐中電灯を見やり、時を読む。
「六時半か……ちと早いな」
朝市は早くて七時半からだ、あと一時間は余裕がある。散歩でもしようかな、と背伸びをした時、ニトの背後でくすぶっていた朝日が姿を表した。
煉瓦造りの屋根をよじ登り、銅のインゴットを極限まで磨き上げたような太陽がひょっこりと顔を出し、ニトの目を鋭い光が突き刺した。
ツーンと痛む目を細め、ニトは朝日を背に飛んでくる真っ黒な飛翔体に向かって、地面と垂直になるように腕を突き出した。
どんどんと近づいてくるその飛翔体はやがてニトの眼前まで迫り、幾度か舞ってその剛腕にピタリと停った。
「よう、アル。朝飯は食ったのか?」
腕に停った愛鷹を撫で、ニトは言葉を投げかける。人の意を解するアルは嘴に着いた獲物の血を自らの翼で拭って見せて、翡翠の瞳をキリリと見詰めた。
ニトは捻くれ者の遠回しな意思表示に笑みを浮かべると、アルを腕から肩に移動させて朝日が照らす街へと歩を進めた。
昨日通った大道を革手帳片手に遡り、あらかじめ貰っていた位置情報を元に朝市まで続く道を探して歩き回る。
しかし初めて来た街という事もあり、ニトは道がわからずに右往左往していた。道を行ったり来たりしているその背中に、ぴっちりとポマードで髪をセットした男が声を掛けた。
「あんたァ……ニトさんじゃねぇか?」
自然と背後を振り向いて、ニトは男の顔をしげしげと見つめた。どこかで見覚えのある男のことを思い出して手を叩き、ニトは「あぁ……」と声を漏らす。
「マスターじゃないか。何してるんだ、こんな朝早くに」
自分よりもでかいニトを見上げてその肩に視線を移したマスターは、普通の雄個体よりも大柄な70センチメートルもあるオオタカのことを指で示して震える唇で問いかけた。
「お、おい、それ本物か? オオタカ……だよな」
カァッカッと鳴いて自分の存在を証明するアルをニトは横目で流し見て苦笑を漏らすと、
「見落としてた、確かにアルを連れてたら驚くな。……仕方ない、会って早々で悪いがあいつの家で待っててくれ。小一時間で帰るよ」
一人で呟くように鷹に声を掛け、アルのことを肩から腕に移して投げ飛ばした。二人は輝く空に向かって雄々しく飛んでいくアルを静かに見送って、ぽかんと開いた口から声を漏らしたのはマスターだった。
「只者じゃないとは思っていたが、まさか鷹を飼っているとはな……。驚かされたぜ」
「ペットじゃない、友だちさ。……で? あんたはこんな時間に何してんだ?」
「食材調達だよ、うちの店のな。朝は朝で飯屋を開くんで、こうして仕事真面目に朝市まで買い出しに行くってわけさ。ニトさん、そういうあんたはどうしてここに居るんだ?」
ちょうどいい、と微笑んだニトは事の経緯をマスターに説明した。それに相槌を打って反応していたマスターは「それなら道を案内するよ、昨日の礼もしたいしな」とニトに救いの手を差し伸べた。
ニトはその言葉に甘えて歩きだし、自分より小柄な男と肩を並らべて石畳を歩んだ。初老のマスターの顔に刻まれた皺は深く、なにか思い悩んでいるようにも見える。
ただ黙って歩くのも虚しいな、とニトが話題を提供しようと思った矢先に、真一文字に結んだ口を開いたのはマスターだった。
「なぁニトさん、こりゃあんたに話してんじゃないぜ、老いぼれの独り言だと思って聞いてくれよ。…………本人から聞いたかどうかは知らないが、アイツは昨日あんたが後ろ蹴りで顎を砕いたルイスという男に買われて育てられた女の子でな、数年前にうちの店に来て以来何かと世話を焼いてやってるんだ…………そりゃもう傍から見れば自分の愛娘を可愛がるようにな」
マスターは更に彫りの深くなった彫刻のような顔を一切変えようとせずに、じっと前を向いて歩きながら話を続けた。
「俺は昔から子供を持つのが夢でね、ずっとそれを待ち望んで妻と生活を共にしてきたんだ。……でも現実は嫌に非情なもんで、俺と妻の間に子供を授かることはなかった。せっせっと子作りに励んで四十中頃の時にやっと出来た初めての子も、泣き声を上げる前に流れちまった」
マスターは目頭を押さえつけて淀んだ声を落ち着かせ、話を続けた。ニトは店長の方を見ようともせずに、影の着いた表情で黙ってそれを聞いていた。
朝市が開かれる日の大道だと言うのに不思議と二人の周りに人は来ず、シーンと静まり返った朝だけが降りていた。
「……あいつがうちの店にやってきたらのはそんな時だったんだ。最初はなんてこたァないただの客だったんだが、うちが気に入ったのかいつの間にか通い詰めるようになってな。…………情けない話だが、いつからかそれが生まれてくるはずだった娘と重なっちまったんだ。それで出来る限りのことはしてやりたくて、知り合いに頼んで家を貸してやったり、飯を奢ったりしてるってわけさ」
俯き歩むマスターに声をかけようとはせずに、ニトは黙って横に並んで小さくなった歩幅に合わせて道を進んだ。まだ市の活気とは程遠く、辺りには明るくも重い雰囲気が降りている。
「妻もあいつのことを知ってるが特に言及はしない、きっと俺と同じことを思ってるんだろうよ。本当なら風浴なんて辞めてうちで働いて欲しいと思ってたんだが、相手がこの街の裏を仕切る一人なんでそうもいかなくてな……」
苦悩を語る顔はだんだんと晴れてきて、マスターは足を止めて希望を見つめるような目付きでニトを見やると強い口調で言った。
「…そう思い悩んでいた時に起こったのが昨日の騒ぎだ、あれはきっと何かの転機だったんだと俺は思うんだよ。新しい道をアイツ自身が切り開き、それをニトさんが手助けする。言葉にするのは難しいが、う〜ん……一種の運命ってやつか? まぁだからなんだ、という話なんだが……もし良ければ、この街にいる間だけでもあいつのそばに居てやってくれないか? あいつは自分の中に辛いことを溜め込む癖があるからな、あのままじゃいつかきっと爆発しちまう」
マスターの切実な願いに、ニトは清らかな顔で「もし、」と話し出す。
「もし俺がやり逃げするような男だったらどうするんだ? 噂は噂だ、俺が女だという確証はないし、女の子だからといって助けるようなフェミニストじゃないかもしれない。現に俺は今こうしてあいつを一人残して家を離れてるぞ。こんな男か女かも分からないような放浪の旅人に、愛娘のような女を預けるのか?」
自分に向けられたキリリと尖った瞳を見つめ、マスターは笑みを浮かべると「優しいんだな」と呟いた。予期した通りの反応に、ニトもまた微笑みで返す。
「何年接客業してると思ってるんだ? 人を見抜くのは得意なんだぜ、善人と悪人くらい少し話せばわかる事さ。……それに今のニトのさんの言葉で疑問が確信に変わったよ、やっぱあんたに頼むのが良さそうだ」
「……ったく、いっぱい食わされるのは性にあわないな。湿っぽい話はここらで終わらせて、さっさと市に行こうぜ」
バツが悪そうにポリポリ頭を掻いてそう言うと、ニトは一人先を進んで一本まっすぐ続いている道を進んで行った。
その悠々自適で掴めない背中に微笑みかけて、マスターは早足でその横に着くと市までの道を先導した。
大道から伸びたマスターがよく通るという狭い路地裏のような近道に入った。やはり黙って歩くのもつまらない、とニトはマスターに話題を振って、市までの退屈な時間を潰した。
それらの話はさっきとは打って変わって明るいもので、売っている食材やどこの屋台の方が良いものが多いなど、他愛もないものが続いた。
暇つぶしで始めた話が予想以上に弾むものだから、二人が市までの道を長く感じることはなかった。狭い道はだんだんと広くなり、周りを歩く人達も増えてきたように感じられる。
それにつれて辺りの活気は増してきて、屋台から香る様々な料理のいい香りが二人の鼻腔を刺激する。
ニトは肉のやける良い匂いで腹が減ってきたのを自覚して、美味しそうなソーセージが並ぶ鉄板に自然と目が吸い込まれた。
ポケットから取り出した紙幣を見つめて買い食いしようか迷ったが、家に置いてきた少女のことが頭に浮かんできて、それをぐっとポケットの中に押し込んだ。
「ここがミューヘンの朝市さ。首都に比べりゃ貧相だが、朝飯の食材くらいなら十分手に入るさ」
「道案内ありがとう、助かったよ」
「それじゃまたな、ニトさん。ここを立つ時は俺のところに来てくれよ、好きなの一本プレゼントするからよ」
二人は固く握手を交わし、それぞれの行きたい店へと歩を進めた。ニトはウインドショッピングをするようにズラっと並んだ屋台を回り、売っている食材を眺めて朝食のメニューを考える。
ここディーツの朝食は薄く切ったパンにバターやジャムを塗ったり、ハムやサラミを乗せて食べるのが一般的だ。アレンジとして、その上にトマトやきゅうりをスライスして乗せて食べるのも旨いと聞く。
ニトはなるべく質の良さそうな色艶のいいトマトときゅうりを手に取って「これ下さい」と店員を読んだ。へいっ、と元気な声と弾ける笑顔で顔をヒョイっと出した男は目を丸くして、ニトの名を呼んだ。
「おっ! あんたニトさんじゃないのか! 昨日の大立ち回り見てたぜ、ありゃ痺れたねぇ……同じ男に見とれたのはアンタが初めてだよ、ハハハッ!」
店員は景気良く笑って手早く会計を済ませ、影で袋詰めした紙袋をニトに手渡した。ニトは受け取った袋と釣り銭に違和感を感じ、手の内に納まったそれらを確認した。
「おいおい、頼んでもない品が入ってるぞ。オレンジに青リンゴ、じゃがいももいくつか……。それに釣りも多くない、どういうことだ?」
ガサリと重い紙袋を傾けて、釣り銭を乗せた右手を突き出す。それらを店員に見せつけて「あからさまに多いだろ」とニトは講義した。
店員は笑顔を浮かべてへへん!と荒っぽく鼻を撫で、胸を張って大声で返事した。
「あんたも野暮な人だなぁ〜。これは俺の愛のこもったプ・レ・ゼ・ン・トだぜ♡」
「……そういうのは可愛い女の口から聞きたいね。男の♡なんて欲しくもねぇし、ましてや産毛が逆立つだけだ」
「ニトさんも酷い人だ、俺からの告白を無下にしやがる」
二人は互いの顔を見合ってクスクス笑い「センキュー、んじゃ遠慮なく頂くよ」とニトは別れを告げてと次の店へと歩って行った。
「また来てくれよ、そん時は酒でも飲みながら旅の話でも聞かせてくれや〜!」
店員は大きな声で颯爽と去っていく背中に別れの言葉を投げかけて、軽く掲げられた右手を見つめた。ニトが見せた素っ気ない返事に笑みを落とし、店員は仕事に戻るべく道行く人々に売り文句を掛けて行った。
「意外な出会いも旅の面白いところだな」
ニトは日記の内容が膨れたことに感謝して、男から貰った紙袋を左手で抱え直した。
自由になった時計を確認すると、それは八時ちょっと前を示していて、家に置いてきた少女の事も気になって、ニトはチーズ屋とパン屋を素早く周って「もっと観光したい」という気持ちを抑えて帰宅を急ぎ、早足で石畳を踏み鳴らしていた時だった。
「ちょいと、そこのお兄さん! 花を見てっておくれよ、食卓にひとつあるだけで彩豊かになるわよ!」
たまたま市の一角で花屋を営んでいた女商人に声をかけられたのだ。無視して行こうという意に反し、あたりに漂う甘く優しい花の香りに後ろ髪を引かれてニトは思わず足を止めた。
商売が上手そうな女は可愛らしい小さな赤い花をいくつも付けたアキレアという花をニトに手渡して、花の匂いを吸い込むジェスチャーをして見せた。
ニトは女がした通りに花の匂いをかいで、煙草とはまた違った趣のある香りを楽しんだ。禁煙するつもりはなかったが、花には煙草を凌ぐ魅力があるようにも感じた時だった。
「美男にゃ花が似合う。どうだい、ブーケ一つで九マルクさ、お買い得でしょ?」
「…………ふふっ、今の俺にゃあ皮肉な花だな」
ニトは苦笑を浮かべて花を女に戻しさっさと立ち去ろうとしたが、是が非でも買ってくれという女の剣幕に負かされて、ブーケを一つ購入してしまった。
ニトは予定よりも随分と増えてしまった手荷物を抱え、今は見たくもないむせ返るようなアキレアの匂いに顔を顰めて歩き出した。
無知は罪だが、知識は時に要らぬ感情まで齎してくれる。ニトは自身の知識量を呪い、花の図鑑を何度も読み返したことを後悔した。
朝日が照らした人々で活気づいた市の中を、大柄な男は膨れた紙袋と小柄な花を大量につけたブーケを持って去って行く。大きな人の波の中でも浮いて見えるニトの背中を見送って、マスターは微笑みを浮かべた。
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