第六話:剣の寄る辺
生まれてからずっと、剣を振るうことしか知らず生きてきた。それは、きっと巨大で大切な何かのためだと思っていた。いつしか、その巨大で大切な何かの正体を知りたいと思うようになった。幾千幾万の命を、自分が奪う理由を知りたいと思っていた。だが、それを求めるには彼女は強くなりすぎたのだ。
天才、それは彼女の代名詞だった。その歳が十を超えるころには彼女に勝てる剣士は王国に居なくなった。十五歳で騎士になって、王国の外を駆けるようになってもそれは変わらなかった。王国の外だろうと、中だろうと彼女に勝てる者はいなかった。故に、ただ一度の負傷もなく。いつも戦場の最前線で勝ち続けてきたのだ。
そんな折、一人の王に彼女は負けた。彼女を負かした王は、剣士ではなく、魔術師だった。ラディナは、それが悔しかった。だが、同時に胸が躍った。それは、ラディナが騎士になって初めての敗北だったのだ。初めての敗北の相手は、怪物の姿をして人間のようなことを言う。近寄れば近寄るほど、誰よりも人間だと感じさせる。そんな、おかしな王だった。
「私は本当に何のために剣を振るい続けてきたのだろう?」
誰もいない場所で誰もいない空に向かって疑問を投げかける。答えなんて自分の中にしかないことも分かりききっているはずなのに。それでも口にせずにいられなかった。気晴らしに、振るっている剣をだらんとぶら下げて、上を向いて虚ろに向かって疑問を投げかけた。だが、憎たらしいほど青い空は何も答えてはくれない。
考えないという選択肢はあまりに甘く魅力的ではあるが、彼女はそれを選ぶ気がなかった、選んでしまえば、甘んじてしまえば腐り落ちしまう気がしたのだ。それが、何かという問いに対する答えを彼女は持っていなかった。
一人の老人が杖を突きながら、歩いてラディナに近づいてくる。その姿は明らかに人間とは異なるもの。人間とは似通った種族ではあるが、肌は浅黒く髪は獅子のたてがみの様で、だが顔のところどころに蛇の鱗がある。
「おや、お嬢さん。こんなところで昼寝かな?」
好々爺といった感じのやさしい声だ。だが、どこかに凄味がある。そんな声に反応して体を起こして初めてラディナは気づいた、この老人の右足が義足であることに。
「お邪魔だったかな? ごめんなさい」
人通りの少ない場所、国のはずれの空き地を選んでいたはずだ。そうでなければ、一人剣を振るうはずなど無い。
「ここには人があまり来ない。だけどここは一番いい風が吹くのだ。だから、珍しく思ってな。この老いぼれの話し相手でもしてくれないか」
正直な話、ラディナは暇を持て余していた。剣を振るえど、考えるのは王の話ばかり。少しだけ、飽き飽きしていたのだ。それに、この老人の正体にも興味があったし。思えばすごい国に来てしまったものだと、ラディナは思っていた。右を向いても、左を向いても人間はいない。タナトスとはそういう国なことは知っていたが、聞くと見るとでは大違いだった。
「僕でよければ」
ラディナがそう答えると、老人は地面の草の上に腰を下ろして話を切り出した。
「お嬢さんエルフかね? 純粋なエルフは珍しい」
老人は、人間種であるラディナにそう切り出す。エルフは魔族種である、この魔族種ばかりが居るタナトス王国に存在していても珍しくない。
「僕は人間だよ。ほら、耳が尖ってない」
ラディナがそう言って髪を軽くかき分け耳を見せると老人はたいそう驚いたような顔をした。
「ほー! 人間とは。長く生きておるが儂も初めて見た」
ラディナはそれがおかしくて笑った。人間なんて、今やどこにでも居る種族だ。魔族種は種類が多すぎて、一つ一つの種の絶対数は少ない。代わりに人間種は人間しか居らず絶対数も魔族種のそれぞれの種族に比べたら圧倒的に多いのだ。
「いまどき、人間がいない国なんてここくらいだよ」
クスリと笑って口元をゆるく握った手で隠しながらそんなことを言った。
「儂は、この国しか知らん。儂の爺さんもそのまた爺さんもゼアル様の下でずっと生きてきたからのう」
そう言ってすこしすねたように肩を落とす。
「行ってみたいのか? ほかの国」
ラディナはこんな楽園にいるくせにとほんの少し心のどこかで思いながら言う。だが、それでもそれがただ単純な興味からだとわかっていて、そんな些細な薄暗い気持ちはタナトスの国民性への愛情に押しつぶされる。
「少し見てみたくはあるのう」
そういって老人は顔を上げて笑った。
「だけど、他国はここほど豊かじゃないぞ」
ラディナは少し脅かすようにそんな意地悪なことを言う。
「なら行かん」
老人はあっさりとあきらめて、またすねたふりをしていた。
「でもきっと、我が国と貴国で世界を半分づつにしたらもっと豊かになるかもしれないな」
ラディナはそう語って遥か彼方、きっと世界の果てがあるその先をその瞳に宿した光で照らし出す。その時、この老人が最初に行ったいい風が吹いた。それはまるで世界を巡る息吹のような、雄々しくも清々しい風だ。
「ほぅ? そうするとお嬢さん、異国の人か?」
老人は、まるで子供のように輝かせた目をラディナに向ける。
「そうだ、僕はアルデハイドの騎士ラディナ・オネイロス。きっとこの国では珍しいのだろうな?」
少女ははるか遠方の向けた夢の眼差しをぬくもりに変えて老人に落とし込む。互いに瞳の輝きを隠しきれなかった。
「騎士か!? 儂はかつて狩人だった、どうだ、手合わせをしてみないか? 荒削りな狩人の剣でよければだが」
老人は逆手で杖を鞘に収めた剣を持つようにもって立ち上がる。片足が義足なのにも関わらず、杖の助けも借りずに。この老人は、老いて尚心の底に少年を飼っていた。好奇心に溢れ、残り幾許かの人生でも歩みを止めようとしていなかった。故に、異国の騎士の剣にかつて幾多の猛獣を屠った自分の剣がどれほど通用するのか見てみたくなったのだ。
「しかし、ご老人。その足では……。すまない……」
ラディナは何と言ってこの老人を止めるべきかと悩んだ。いくら手心を加えようと勝手に転ばれて怪我でもされたらたまらないと心のどこかでこの老人を侮っていた。
「はっはっは、異国の騎士ともあろうものがこの隻脚の老いぼれに怖気づいたか?」
老人はラディナを勝負に載せるためにあえて彼女を挑発した。どう転ぼうとこの一言がラディナを勝負の土俵に幾許か近づけるだろうと思って。
「その言葉、どうあっても剣を交えてみたいようだね」
ラディナはこの好々爺がそうであると同時に武人であることを悟った。剣を構えた老人の瞳は澄み渡り、そこから滲む殺気はまるで野獣のように鋭かった。この老人に対し、手合わせを断ることは無礼だと感じた。
だから、剣を取る。だらりと下げた抜き身の剣を鞘に入れて、鞘に付いた紐で柄を縛り、決して抜けないようにして正眼に構えた。だが、構えてみて直ぐにわかった。これまでは息をするように考えていた切り方、殺し方、相手の技の砕き方が見えてこないことに。片足をかばってたっている老人のどこにも隙が見つからないのだ。老人は確かに強い剣の使い手だ、だがこれまでラディナが切り殺して来た戦士たちに比べ別段強いわけではない。なのに何故という疑問がラディナの脳裏をかすめる。
直後、老人は殺気を解いた。そして杖を下ろし構えを解く。そして言った。
「やめておこう、そんな迷った剣では何も斬ることはできない。それより、何か迷っているようだね、この老いぼれでよければ話を聴こう……」
ラディナは生まれて初めて純粋な悔しさを感じた。かつてゼアルに敗れた時のような清々しいものではない。ただ、虚脱感だけが大きい自分に向けられた悔しさだ。
それは、老人に見透かされたからではなかった。ある意味それは仕方ないといえよう。剣士としてはラディナは天才であるが、人間としては彼女は凡才なのだ。長く生きた老人は、自分が生きることについての幾つもの問いに答えを持っている。いわばヒトとして生きることの天才なのだ。
ラディナが悔しかったのは誰もが答えを求める問に直面して剣を鈍らせた己の弱さだ。立ち会った瞬間から打ち倒すべき敵として見た老人に全力で礼を尽くすことのできない自分の無礼さだ。
「ご老人、何故?」
ラディナはその問の答えなどとっくに知っていた。老人は、野獣、猛獣の類を相手取り切り伏せる猛者だ。相手の放つ殺気、構え、そこから命を刈り取らんとする流れを見極めて剣を振るうある種の達人の域だ。わからないはずがない、ラディナの構えにはその流れがなかったのだから。
「長く生きていれば、時折見えてくるものだ。それが早いか遅いかは、その人間次第といえよう。重要なのは、悩み答えを求めること。お嬢さんは少し、成長が早すぎるようにも見える」
老人はそう言って微かに微笑んだ。
「なら、答えは自分で見つけるべきではないのか?」
ラディナは問答の意味を問答にかけた。彼女は、少し真面目すぎたのだ。
「答えは自ら見つけるべき、されど老いぼれの役目は答えを見つける手助けをすることだ」
老人は大いに笑いながらそういった。まるで、子供の悩みを聞いて喜ぶ父親のように。
「なら、教えて欲しい。あなたは何のために剣を振るってきた?」
平時のラディナなら、老人に投げたこと言葉の答えとして帰ってくる言葉が簡単に想像できただろう。だが、今は息を飲んで答えを待っていた。
「つまり、お嬢さんは剣の寄る辺を探しているのだね?」
老人はあえて、難しい言葉を使った。だが、それはその言葉がラディナにとって重要だと思ったからだ。
「寄る辺?」
ラディナにはその言葉の意味がわからなくて問い返した。
「剣の寄る辺。剣を預ける場所、例えば、騎士は剣を王に捧げる。狩人は獲物によって長らえる我が命に。そう言う言葉だ……」
老人は静かに淡々と語り、杖を剣に見立て眼前に掲げる。
「それではあなたは……」
答えなどとっくにわかっていた。老人はもう、答えを述べていたのだ。
「儂の剣は、儂の命を寄る辺に振るわれる。儂の命が振るえと叫ぶから、振るわれるのだ。お嬢さんももっと自分に正直なったら見つけられよう。例えばそうじゃな、年頃の娘なんじゃ、もう少し着飾ってみるところから初めて見たらどうじゃ? なんにせよ、それほど悩むものじゃない、きっと答えは持っていて、それをまだ知らないだけなんじゃから」
そう言ってからかうように笑って老人はどこかへ行ってしまった。だけど、ラディナにとってその言葉は馬鹿馬鹿しくもあり、だからこそ悪い気もしなかった。今は、最後に少しからかってくれた老人に感謝をしていた。