第五話:遺失
イリスの丘でラディナと話した日。または、始めてラディナに剣のみでゼアルが勝利した日とも言えるこの日の夜のことである。ゼアルは一人自室にこもり蝋燭の火の灯りを頼りに作業をしている。
時刻は、夜深く。日をまたいだ午前二時過ぎである。未だ光をかすかに扉の隙間から漏らすゼアルの自室にコンコンというノックの音が響き渡る。
「何用だ?」
ゼアルのぶっきらぼうで冷めきった声に物怖じせずノックをした張本人は答えを返す。
「遅くまで、ご苦労様です。お茶を入れました。いかがでございましょう」
その声は背に悪魔の羽を生やしたゼアルの副官のものである。ゼアルも、それに気がつく。
「ダモクレスか。入れ、休憩にする」
ゼアルは、少し声を和らげ息を吐きながらそう言う。
カチャリと静かな音を立てて扉が開かれ台車を押した悪魔。ゼアルの副官のダモクレスが部屋に入ってくる。
ゼアルの部屋の中はまさに今魔術を行なっているのだと言う雰囲気がある。魔術には二種類が存在する。直接的かつ、迅速に世界に作用する魔法術。間接的、かつ永続的に世界に作用し続ける魔陣術。今ゼアルが行なっているのは部屋の状況から後者であると判断される。
ゼアルの机の上には魔法薬と言う、陣を描くための材料と思わしき液体の入った薬瓶が並んでいる。そして、魔法薬で描かれただろう魔法陣までもが存在する。
「何をやってらっしゃったのですか?」
ダモクレスはゼアルに問うた。
「少し見せよう」
そう言いながらゼアルは魔法陣の上に杯を置き、そこに銀を少し入れると魔法陣に手を置き魔力を流し込む。
青白い光が魔法陣を奔り、杯の中の銀に収束する。銀が白く輝く球になってまっすぐ上に少しだけ浮かび上がる。やがて、光は乱れ、ドロリとした銀色の液体が杯に滴り落ちてそれを満たしていく。
「な、これは……」
ダモクレスは驚愕にその目を限界まで見開いた。それは失われた魔術、魔陣術と魔法を融合させ、物質の根元に影響する魔法<オルフェウス>である。それは、術者が望み、それに足る魔力を用意すればたとえなんであろうと生み出す変質魔法の頂点である。
「流体真銀。つまりは、ミスリルが液体になったものだ」
ミスリル、あるいは真銀。それは、この魔法<オルフェウス>でのみ作成可能な物質であり、この魔法が失われたとされる五百年前からは再現不可能な金属と言われていた。だが、<オルフェウス>消失よりさらに昔から生き続けるゼアルはこの魔法を知っていた。だが、誰にも教えることはできなかったのだ。かつて、ゼアルにこの魔法を伝えたシャマルの民はこの魔法を、究極まで使いこなしフィロスフィアという物質を作り上げた。それに触れた水は生命の水と呼ばれ、一滴で枯れた大地に草を生やし、あらゆる病を癒し、傷を癒した。やがて、その水に頼りすぎた人々は営みを忘れ堕落して、胃袋から芽生えた小さな胞子に腹を食い破られて殺された。
今やシャマルの民が居た場所は巨大な茸に犯された森となっている。病を治す命の薬は、腹に芽生えた小さな命も育ててしまったが故の悲劇である。ゼアルはそれを繰り返さないためこの魔法を決して人には教えない。
「それは、失われたものなのでは? 五百年前……」
そこまで言って、ダモクレスは気づいた。ゼアルがその失われた五百年前より昔に生まれた人物であるということに。
「そう、これが失われたのは五百年前だ。それより昔に生まれたのなら知っていても不思議はないだろう?」
杯に満ちた流体真銀を薬瓶に詰めながら、ゼアルが言う。
「さすがでございます。もはや、あなた様が知らぬことなど無いのではないかとすら思ってしまいます」
ダモクレスは冷や汗を浮かべながら言った。ゼアルを深く知るダモクレスであっても時折ゼアルが恐ろしくなる。そんなことはしないとわかっていても、世界を相手に勝ててしまいそうな男に恐怖を覚える。もし、ゼアルが自分を殺すと決めたときそれに逆らえる人間はいないだろうと思ってしまう。彼をよく知るダモクレスですらも。
「確か、お前も魔陣術も出来たな。持って行け、最高の触媒だ」
そう言って、ゼアルは。今薬瓶に詰めたばかりの流体真銀をダモクレスに渡した。
「ありがとうございます」
そう言って、ダモクレスはそれを受け取って自分の懐のポケットに入れる。
「ところで!」
そんな話をしているとゼアルが、急にほんの少しだけ声を大きくしてはっきりとした口調で言う。
「何でございましょう!?」
ダモクレスは、驚いて反射的に姿勢を正す。
「そろそろ、注いではくれないか? 茶を」
ゼアルは、急にそんなことを言って、その語調を普段通りに戻す。
「申し訳ございません、ただいま」
ダモクレスは仄かに苦笑いをしながら持ってきた台車に乗せたティーカップに紅茶を注ぐ。注ぎながら悟った、ゼアルにとって遺失した伝説の魔法ですら児戯に過ぎないのだと。そして少し安心した、こんな男が世界を滅ぼす側まわることはないとどこかでそう思えた。なぜなら、彼は自分が苦笑いしたことに気付いたからだ。苦笑いとはいえ笑いだ、ゼアルは時折こうした些細な茶目っ気で自らの配下を、民を気遣う。緊張しすぎてしまわないようにと。ダモクレスにはそれがよくわかっているのだ。
「うむ、相変わらずいい香りだ」
舌も胃もないゼアルには紅茶を飲むことはできない。だが、ダモクレスの趣味の一つである紅茶の一端でも楽しもうと嗅覚だけは何とか魔法で復活させることができてしまったのである。よって、ゼアルは注がれた紅茶の香りだけをダモクレスのうんちくを聞きながら愉しむのを一つの趣味にしていた。
「今日の紅茶は、フォレストブレンドで御座います。お気に召しましたか?」
漂ってくる香りは、ベルガモットをベースにいろいろな果物の香りを少しづつ詰め込んださわやかな香りだった。まるで、果樹の多い森から漂ってくるようなえもいえぬいい香りだ。
「もちろんだ、お前がもう千年昔に生まれていなかったことを後悔するくらいにはな」
それはゼアルがよく使う賞賛の言葉だった。千年前ならゼアルは肉を持ち体を持つ、つまりはこの紅茶が飲みたかったということなのだ。
「ありがたいお言葉で御座います。なんなら、わたくしを千年前に転生させても構いませんよ」
そしてこれは、ダモクレスが良く使う忠誠の言葉である。生まれ変わってもあなたのために仕えるとそんな意味を孕んでいる。よく知った、まるで友のようなやり取りすら時折見せる二人ではあるがあくまで家臣と王なのだ。
二人の間に、わずかな間の沈黙が流れる。流れて、去った後ゼアルは小さな溜息を吐いてダモクレスに言う。
「なぁ、ダモクレスよ。アルデハイドとの同盟でこの国は平和になったと思わないか?」
この時、タナトスにとっては異例の一週間の平和を享受していたのだ。大国に囲まれた小国。その大国たちが雌雄を決するためにはタナトスは立地上とても邪魔になる場所に立っているのだ。よって、タナトス王国は平和な日のほうが珍しいのだ。
「そうでございますね」
ダモクレスは遠くを見るような目で答えた。アルデハイドはこの世界、この時代で最も富んだ国。戦に積極的でないくせに兵は強く、民は勤勉であると言われている。それと戦い、なおも存続するタナトスと同盟国のアルデハイドのことも考えるとほかのどの国も攻め込むことができないのだ。
「しかし、いつまでも続かぬだろうな……」
ゼアルは静かな声で確かめるようにゆっくりとつぶやいた。
「そうでございましょうね」
ダモクレスはわざとさっきと似た言葉で返事をする。実際、ダモクレスにも仮初の平和であるということはわかっていた。わかっていても尚、続いてほしいと願っていた。
「ダモクレス、明日は彫刻家を何人か城に呼んでくれ」
あえて名前を呼ぶことでそれを命令として、しっかりとダモクレスに伝える。
「承知しました」
胸に手を当て、頭を下げてダモクレスはその命令の履行をしっかりと心に刻み込んで、部屋を出た。
夜は少し明けが差し、東から少しづつ茜が瑠璃を押しのけていく。茜から、白へと色を映す雲はいつか来る戦乱の終わりを期待するかのように踊る。
机の上に広げられた魔法陣。とその傍らに丸めて置かれた紙。ゼアルはその丸められた方の紙にはタナトスの街並みが記されていた。円形に広がる王国タナトスの、その街並みが。大きな紙だ、広げただけでゼアルの大きな机をはみ出して端が床に付きそうになる。ゼアルはそこに小さな文字で魔方陣を刻んでいく。その道の一つ一つに丁寧に。
それを書いては、試し、何度も消して、書き直し。繰り返し、繰り返して、鳥たちが鳴き始める。
そのころには魔方陣は完成し。ゼアルが試しに魔力を込めると浮き上がって、動き出す。
ゼアルは、タナトスの町を丸ごと一つの大きな魔方陣に変えるつもりなのだ。
巨大な、だけどその繊細な魔方陣を書き込むにはあまりに小さいその地図には常軌を逸した細かな線で魔方陣が刻まれていた。それは、繊細で、触れれば壊れてしまいそうな芸術品のような仕上がりだった。
ゼアルに、睡眠は必要ない。だからこうして、夜を徹しての作業も別段苦に思ったことはなかった。だが、それでも達成感と充実感からゼアルは呟いた。
「さすがに、疲れたな」
そう呟いて少しの間何もせず空の色が変わるのをずっと眺めていた。