第四話:ユートピアの憧憬
草原に寝転がって晴天の空を見上げる。それが、骸骨の王の行動であるなどとだれも思わないだろう。だが、ゼアル・タナトスに限ってそれは周知されている。
王城のそばタナトス王国領内で最も景色が美しいとされるイリスの丘の草原は彼の特等席と言われており、王城にゼアルが居ない場合そこに行けば会える確率が高いものと言われている。それは実際正しく、彼は政務に疲れて息抜きをするときここで寝転がって空を眺めている。
イリスの丘は美しい丘だ、七色の花や木々が彩り小鳥たちが空に向かって歌う。自然とそんな丘として成り立っており庭師の手入れを必要としない神秘の丘である。そんな性質のせいでこの丘にはよくタナトスの国民が休みに来る。
この国の国民は、国王が居ようと気にしない。それどころか、気さくに声をかけてくる者までいる。それは彼が国民に愛される王だからだ。
閑話休題。
現在時刻は午後二時五分、日付はラディナがタナトスに同盟の人質として来た日から数えて一週間後のことになる。この時間帯はゼアルは仕事しないと決めている。午後二時から午後三時までの一時間をこの丘で過ごすのが彼の日課だ。
一方ラディナはゼアルと何度か模擬戦という形で剣を交え、ゼアルとの間に深い交友関係を気づいていた。模擬戦ではゼアルは今のところラディナに一度も勝ったことがない。だが、そのすべての試合が名勝負であり、ラディナがこれまで戦ってきたどんな敵よりもゼアルの剣技は鋭かった。それに、ゼアルが魔法まで使って勝負に挑んだなら勝てないことをわかっているラディナにはゼアルが純粋に剣だけの勝負を受けてくれる事がとてもうれしかった。
「ここにいらっしゃいましたか、タナトス王様?」
少しいたずらっぽく笑うラディナのほほを風がそっと撫でて、髪がさらりと揺れる。
「この時間は、いつもこうしているのだ。お前も試してみたらどうだ? 存外心地よいかもしれないぞ」
ゼアルは、ほんの少しだけ顔を動かしてラディナを見ながらそんな魅力的な提案を投げかける。彼もそれが心地いいからそうしているのだ、そして彼にとって幸せとはその総量こそ大切であってそれ以外に興味はない。よって彼は、自分の幸せを簡単に他人に分け与える。
「ふふっ、本当に似合わないね。骸骨の王様が真昼間に草原で寝てるんだもの」
ラディナは軽く笑いながら倒れこむのように草原に体を投げ出して寝転がる。当然、ラディナにはゼアルを馬鹿にする意図などない。どちらかというと、その意外性にある種の魅力を感じて行っているのだ。その魅力とは親しみである、人間離れした見た目と力を持つ王が、そんな人間臭い一面を見せているのだからゼアルの人となりを知る者ならみんなそこにある種の親しみを感じるだろう。
「似合わない、そうかもしれないな。千年前だったら、きっと似合っただろうに」
そんなラディナの気持ちを知ってか知らずかゼアルはその声を低く小さく響かせる。そんなゼアルの様子はラディナには少し残念そうに見えた。
「そういう意味じゃなくてさ。意外ってことだよ! ボクはもっと怖い人だと思ってたんだよ!」
ラディナがあわててそういうと、今度はゼアルが笑う。
「ははは、この顔は演技をするのにうってつけだ。表情を悟られることがない」
ゼアルは、自らの骸骨の体をそれなりに満喫していた。それだからこそ使える技もいくつかあるのだ。なんせ、おかげで彼に突きは効きにくい。骨の間をすり抜けてしまうことが多々あるのだ。ラディナも、一度はそれに苦戦したことがあった。
「からかったね!?」
ゼアルは戦場でこそ冷徹だが、普段は気さくなたぐいだ。その話し方や、見た目からは想像できないほどに感情豊かでユーモアに富んでいる。
「そんなところだ」
ただし、誤解されがちなのを追記しておくべきだろう。彼の話し方は、冷淡なものである。あくまで彼は、そう親しくもないものから見れば恐ろしいだけの存在。だが、その親しみのかけらを知る国民からは恐ろしくも慈悲深い千年の王。そして、彼と親しい友人や、彼の副官にとっては誤解されがちな面白い人間となるのだ。だから、ゼアルは千年を王を続けて尚も孤高ではない。孤独を感じたことなど一切ない。彼の副官の座は変えるたびに大変な競争率になるのだ。
しばらく、二人で空を飛ぶ雲を数えるような、退屈なだけど充実した沈黙を楽しんだ。ゼアルにひどく似合わない、さわやかなひと時をを過ごした。イリスの丘の空は高く、風は歌うように木々を揺らす。大自然のやさしい歌が退屈を奪っていく。おかげで充実した癒しがそこにはあった。
そんなさなか、ラディナはポツリと話しだす。
「成したいことを成しただけって言ってたよね?」
静かな、だけど確かに届く。そんなつぶやきようでもあり投げかける言葉のようでもある声だった。
「言ったな」
同じような声でゼアルは答える。
「成したいことって何?」
大自然の歌声はとても小さく、そのせいか、二人の静かな声は互いに届いている。
「まだ成していないのだ……」
ゼアルは答えるのを少しだけためらうように。だけど、その声はどこか語りたそうにも聞こえる。まだ、成していない、だけど、いつか必ず成すという思いと、千年たって尚も届かないそんな気持ちがゼアルの乾いた心臓の奥で。死んで尚も、肉を失って尚も熱を放ち続ける心という臓器の中で混濁している。それは、声に出るほどにゼアルの心の大部分を占める夢の先にかかわることなのだ。
「それでも、聞かせてほしい……」
ラディナはそこに答えを求めた。自分が剣を振るう理由。戦いの哲学、その答えを。
「争いのない国だ。人々は自由に笑いあい、怯えることもなく、諍いも決してない。だが、自由で笑って暮らせる。そんな国を作りたいのだ。ありきたりだろう?」
ゼアルにはわかっていた。そんなもの決して存在しない、いやむしろ存在してはいけないのだ。根本から矛盾した理想だ。人間とは、時に漠然とした恐怖を抱き心にわだかまりを溜め、それを小さな諍いに変換することで心の平静を保つ。そのわだかまりをぶつけられた人間は、それが自身のわだかまりとなる、ぶつけられた時よりほんの少しだけ大きくなったわだかまりに。それを投棄する場所が、最終的に戦場になる。そして、わだかまりはそれだけに生まれるものじゃない。立場の違いによって生まれたわだかまりや、小さな苛立ちもどこかへ逃がさなければならない。人間はどうしても敵をつくりたがるのはそういう理由なのだろうとわかっていた。
そして、そんな夢はこの時代の王にはありきたりな夢だった。アルデハイドの王も似たような夢を持つ、ほかのいくつもの国がそんな願いを持つ。そしてその願いをだれもかなえられずにいるのだ。
「でも、ゼアルはできるまでやろうとしてるんじゃないの?」
ラディナの言葉はもっともだった。ほかのすべての王があきらめた、青二才の王が掲げる夢をこの千年の王はあきらめていなかった。それどころか、できるまで生き続け挑み続ける。ゼアルとはそんな偉大な王なのだ。偉業を成す才を与えられたのではない、そのすべては、彼が自ら勝ち取ったものなのだ。
「そうだな、できるまで何度でも。たとえ永劫を彷徨ったとしてもとは思っている」
その言葉に偽りはなかった。千年を生きるのは並みの精神では不可能だ。寿命とは世界に飽きて、心が死ぬ寸前に世界から魂を救い出すために存在しているのだ。千年を生きる途中で、普通は心が死ぬ。
「だとしたら、それはありきたりじゃないと思う」
たとえ、目指す景色が平凡だとしても、この男の覚悟だけは平凡と言って捨ててはだめだとラディナは思った。そんな偉大な王などほかにいないのだ。
「ありがとう。その言葉だけで、あと千年は夢の輝きを追い続けられよう……」
感慨深げにゼアルは言った。それは、あまりにも重く、そして自分の大切な宝物を比喩するかのような響きをはらんでいた。
ゼアルにとっては、そんな言葉がとても大切だったのだ。
だから、それはラディナをすこしの間黙らせるに足る声だった。
「ゼアル、君の夢を聞いてしまうと。僕はどうして剣を振るっているのか、分からなくなってしまうんだ。君は、その夢のためなんだよね?」
しかし、しばし黙ってラディナは問いを投げた。
「然り。剣を振るうとき、自らの背陣に切って捨てた者たちを加えて、私の夢の先へ連れて行くつもりで斬っている」
故にゼアルの肩には数千数万の夢の重みがかかっている。それだけの責任をいつか必ず果たすと、約束して容易く数万の命を薙ぎ払うのだ。
「僕は何のために剣を振るっているんだろう」
ゼアルは一瞬の逡巡の後にその答えを口にした。その逡巡はあまりにも短く、考えていないとすら思えた。
「それは、当然自分のためだ。端的に言ってしまえばな……」
ゼアルにとって、それは当然であり、だが同時にほかのすべての兵士にとって容認しがたいことだった。
「そうなのかな?」
ラディナも当然、安易には受け入れがたい。この時ラディナの顔は、悲嘆に暮れていた。
「それ以外で剣を振るう者はいない。だが、その罪を何かに擦り付けることで、平静を保つのだ」
そういわれたとたん、ラディナはそれまでに斬って捨ててきたすべての人間に対し、罪悪感と、同情にも似た感情を抱いた。
「僕は、ひどいことをしてしまったのかな?」
急に空は今にも泣きだしそうな真っ黒な雲を連れてくる。まるでラディナの心を映すかのように。
「皆同じだ、そうして考えるだけ、お前は高潔であると言えよう」
何の慰めにもならなかった。ラディナにとってそれは重すぎたのだ。思い当たる節があるからこそ目を背けられない正しすぎるその言葉が重たすぎて、今にも泣きだしてしまいそうになる。
「僕は、僕は……」
そう言って言葉に詰まる。
「肝心なのは、自分の何のために剣を振るうかだ。それはきっと、納得のいくものだろう。それを知った時、きっとお前の剣は私の魔法に匹敵するだろう」
ゼアルがそういうと無慈悲にも午後三時を告げる鐘が鳴り響いた。「時間だ」と短い一言を残してゼアルが去ると、空が泣き出して土砂降りの雨が降る。
ラディナは思わず泣いてしまった。その嗚咽も土砂降りの雨にかき消されて、誰もラディナが泣いていることなどわからないほどにずぶぬれになっていく。
ラディナも分かっていた、自分で答えを出すしかない事だと。だからこそ、考えさせるために「時間だ」と言って一人残したのだと。武の答えとは、ラディナの思うよりずっと重たく冷たく心に刺さった。それは、自らの剣に責任を負うことに他ならないのだから当たり前とすら言えるだろう。
ゼアルは、執務室からラディナを時折見ていた。時折見ては、心の片隅で少しだけ心配をしながら書類の山に埋もれた。
その日初めて、ゼアルはラディナに剣のみの勝負で勝利したのだった。