第三話:空虚な信仰
時は少し遡り、ラディナが初めてタナトスを訪れたころと大体同時期の話である。場所は、アルデハイドより少し南の王国、エイレーネー神聖国と呼ばれる国。この国家は多民族国家であり国政機関としての機能を担っているのが中央統一国教会と呼ばれる教会である。しかし、当然教会としての機能も保持しており、月に一度ミサが行われる。
「――ゆえに神は、我々をお救いくださいます」
教壇の上、そう語るのは教皇と呼ばれる人物であり、他国で言うところの国王に相当する権力を担う人物である。
「皆様も祈り、神に尽くしましょう。いずれ神は答えてくださいます、我々の平和に向けての願いをかなえてくださいます」
教皇は、そう言うと集まった国民に優しく微笑みかけゆったりとした動きで教壇を降りた。終始彼の見せた表情は柔らかくやさしげである。それを見守る国民たちの表情は、感動と希望に満ち溢れ今にも泣き出しそうなものも居るほどだ。
演説が終わり、教壇のわきにある扉から出ると急に歩調を強めその表情も冷めたものへと変わる。
「お疲れ様です、教皇猊下」
そう言って、いやらしい笑みを浮かべた深紅の衣に身を包んだ男が歩み寄り、温かい手拭き用のタオルを渡す。男がまとっている服とは、スータンであり、その色は身に纏っている者の階級を示す。スータンとは法衣のことである、そしてこの男の纏っている深紅のそれは男が枢機卿、つまり教皇に準ずる位を持つことを示す。つまりはエイレーネー神聖国の副王であるということだ。
「教皇というのも楽なものではないな。獣臭さが移ってしまう」
教皇は枢機卿に向けてひどく醜悪な笑顔を向けた。先ほどまで教壇で見せていたのとは全くの別人のような凶悪な笑顔だ。
「仕方ありません。我々は”牧人”でございますから」
と枢機卿は笑って見せた。ひどくうまいことを言う、教皇が信者を獣に例えたのだから枢機卿はその飼育員としての意味合いを込めて自分たちを牧人と呼んだ。だが、それが人道的な発言でないことなど言うまでもない。
「上手い冗談だな、さすがだ、アルゴス。ところで牧羊犬たちは上手くやっているか?」
枢機卿は、名をアルゴス・ネストルという。
「もちろん、今日も野山を駆け回り羊たちを追い立て、牛から乳を搾ってございます。ヘルメス陛下」
教皇は、ヘルメス・シシフォス。猊下と呼んだり、陛下と呼んだりとこの二人に信仰心など存在しない。
もちろんこの言葉は額面どおりの意味を持たない。牧羊犬が牛の乳を搾るなど、あり得ない話だ。この言葉の意味を理解するには彼らの悪趣味な比喩を紐解かなくては行かない。
羊飼いは、牧羊犬を飼うように彼らは司祭を飼う。中でも、よく言うことを聞き、ここで言われる羊、つまりは末端の司祭や騎士を働かせる者たち。つまりは高司祭のことである。
乳を搾るとは、搾取の比喩。つまり、高司祭たちは今日もしっかりと司祭を働かせ騎士を訓練へと追い立てる。そして、民からは最低限以外のすべてを搾り取り明らかに軍事に資金を割きすぎているこの国の王に私腹を肥やす潤いを与えているということを言っている。
「それは何よりだ、どれ一つ私も牧羊犬に化けて羊を追い立てるとしようか」
そう言って、庭へと続く扉を開ける。そのころには、ヘルメスもアルゴスも普段同様のやさしげな笑顔に戻っていた。
「教皇猊下、並びに枢機卿猊下! よくぞお越し下さいました」
庭では、騎士たちが演練を繰り広げ、司祭たちが魔法の練習に励んでいる。誰も彼もが信念を持った瞳を真っ直ぐに練習相手に向け、互いにしのぎを削っている。ヘルメスに声をかけたのは、高司祭と呼ばれる立場の人間で、その役割は騎士団長に相当する。
「お邪魔してしまいましたか?」
ヘルメスは人のよさそうな笑顔で騎士に言う。
「教皇様のなさることで邪魔をされたなどと思うものはございません。ご尊顔を拝する名誉にみな打ち震えておることでしょう」
誰も彼もが、ヘルメスを尊敬し、信仰し、彼のためならと簡単に命をなげうつ。いつか、この長い戦争の時代が終わると信じて、そして終わらせるのはヘルメスであると信じていとも簡単に命をなげうつ。
最初から死の恐怖を投げ捨てた軍勢ほど怖いものはない。だからこそ、エイレーネーの軍は強いのだ。そして何より数が多い。それは、この国の税率が法外に高いからこそ成立しているというのに、民はそんなことにすら気づいていない。
「そうですか、それはよかったです。なら、お邪魔ついでに一つ、休憩をしませんか? アルゴス?」
ヘルメスは言葉に出さず飲み水の用意ができているかと尋ねた。それに答えるようにアルゴスは手を叩いた。
中央統一国教会の静かな園庭にクラップの音が鳴り響く。使用人を呼ぶためのものである。
その音に答えるかのごとくアルゴスの背後で扉が開き、何人かの使用人が水差しとコップの乗った台車を押してくる。水差しの中にはアルコール度数が低く昼間の飲用に適したエールが入っている。
この地方の水は硬水で、飲用には適さない。もし、飲んだとすれば腹を下すだろう。
「さぁ、みなさん。ほら、訓練で喉が乾いたでしょう? お飲みください」
満面の笑みでヘルメスが庭中の全ての人に声をかけると、人々は台車の前に並び一様に感謝の言葉を述べてエールを受け取る。そして、全員が訓練の疲れから地べたに座り込み、それをひと時の憩いとして大切に喉の奥に流し込む。
中には立っているものもいるがそれらは総じて身分の高いもの。ヘルメスとアルゴスが言うところの牧羊犬に当たるものたちである。
しばらく、兵士たちがそうしているのを眺めているとヘルメスは静かに語りだした。
「みなさんに苦労をかけます。戦争が終われば、平和な時代が訪れればこんな苦労もする必要がないというのに全く、不甲斐ないばかりでございます」
そう言いながら、ヘルメスは手のひらで顔覆って俯いた。
「猊下……。お気にやまないでください。我々は、猊下の望む世界を実現するべくやっているだけです。我々も同じ夢を見ているのです。我々は猊下に与えてもらったこの命で最後まで猊下のためにお仕え致します」
牧羊犬のひとり、いやヘルメスにとって一頭が胸の前に拳を置き跪いて言う。
それを見た、兵士たちはその牧羊犬の後ろに整列し同様のポーズを取って声を合わせる。
「我ら、ヘルメスの鳥。与えられた翼でどこまでも!」
これは騎士団の号令の一つである。だが、それは歪められており本来とは全く異なる意味で言われている。この言葉には原典が存在する。古き魔術師リープリーが残した魔法書の一節「私はヘルメスの鳥、自らの羽を喰らい、飼い慣らされる、」が原典である。ヘルメスは言っているのだ暗に飼い慣らされろと。それが皮肉にまみれた教皇から贈られた騎士団の号令の言葉である。リープリーの遺した魔法書にあるヘルメスは幻惑の魔法の最上位に至るにあたって知ることにになる言葉である。この、宗教という幻影を利用する詐欺師のことではない。
「ありがとうございます、私は、きっと辛いことを強いているというのにこんなにも愛されて幸せです」
そう言って目尻に涙をにじませて顔をあげる。
もちろんヘルメスのこの涙は感動の涙などではない。先ほどまで、爆笑をこらえていたせいで滲んだ涙だ。
「おいみんな、教皇猊下のためにもう一頑張りだ!」
またしても牧羊犬が言う。
「はっ!」
すべての兵士たちは声を揃え、訓練に打ち込んだ。まるで、自分がそれを望んでいるかの様な錯覚を抱きながら。
訓練を再開する兵士たちを尻目にヘルメスとアルゴスはどこかへと消えていく。いなくなるために静かに振り向いた時には既にしたり顔をして。
それから数分と立たず、ヘルメスとアルゴスは二人で教会の時計塔の直下、二階に存在する政務室へと入室した。
ここは、いかに私腹を肥やすかという会議を行うためにエイレーネー神聖国を建国したとある民族だけが入れる場所である。
そのような場所に出入りする人間がまともなはずがない。嘘と作り笑顔が得意な悪魔たちの巣窟である。
エイレーネー神聖国を建国した民族とは、ゴルダの民と呼ばれる民族だ。商才に秀で、優れた智慧を持つ民族。それ故か、自分たちから見て知略に劣る他民族を見下す傾向を持っている。長年それを続けてきた一族の子孫たちなのだそれはもう酷いとしか言いようのない見下し方である。
「そろそろ、巨大な牧場が欲しい。そのためにはまず小さな牧場から切り崩していくのがいいと思うのだ」
ヘルメスが言うところの牧場とは国家のことである。エイレーネー神聖国以外のすべての国家それを指して牧場と言っている。いや、むしろ彼らは自分の国ですら自分の牧場としか思っていないのだ。
「良きお考えです教皇猊下」
すっかり人の良さそうな笑が染み付いた男が言う。彼は、大司教である。他にも数人この元老院に立ち入るものは司教以上の位を持ったものばかりだ。
「さて、さしあたってどこの牧場が欲しい?」
ヘルメスが言う。
「カルミナなどいかがでしょう」
司教の一人が答えた。
それを聞いて、ヘルメスは満足そうにアルゴスを見やる。
「では、君には明日からこれを着てカルミナ王国の国王様とお話してきてもらいます。見事、国を手に入れた暁にはこれは生涯あなたのものになるでしょう。でなければ切られますからね」
アルゴスがそう言いながら手にとったのは大司教のスータンだった。それはつまり、交渉まで上手く運べばこの司教を大司教に召し上げるということだ。そして、ヘルメスもアルゴスもそして、その司教もそれは簡単なことだと考えている。智慧に優れるゴルダの民がたかだか一国の王騙せぬはずもないと。
「ありがたき幸せ、早速今日から準備を始めます」
そして一週間の後、カルミナ王国は戦うこともなくエイレーネーの属国となった。それに伴いカルミナ攻略を進言した司教は大司教となり、カルミナ王国はエイレーネーの宗教と平和を巧みに利用した洗脳によって徐々にエイレーネーのほかの民のように染まっていくことになった