第二十九話:燻り
朝が来れば、小鳥たちの歌が響き渡る。東の空の極光が森の木々に遮られ、すっかり柔らかくなった陽光がまぶたを撫でる。青く、どこまでも高い空を螺旋の雲が貫く。
風たちは、朝凪に羽を休めて。未だ目覚めぬ森たちは、歌うのをやめる。小鳥が森を目覚めさせるより速く、凪が終わらぬうちに目を覚ました二人は一夜を守ってくれた未だ燻る焚き火の釜を壊して歩き始めた。
その頃には凪の時間も終りを告げ、穏やかな追い風が吹き始めていた。半日ほど進んで、人間と魔族その境界より一回り内側の町にたどり着いた。
思えば長く旅をしたものだ、それなのに戦場なんて一度も見ていない。ひどく楽な旅だと思えた。改変前、争いの時代に比べれば、随分と平和になったものだと言えるだろう。ゼアルの思惑は成功したと言えるだろう。
ラディナたちがたどり着いた街はどこか荒れている。畑には無秩序に掘り起こされた痕跡があるし、家畜の死骸も時折転がっている。風には、血の匂いすら混じっている。まるで、略奪にでもあったように思えて、ラディナは通りすがりの町人に声をかけた。
「すまない、僕は旅人でこの町の事情には詳しくないんだ。よかったら何があったか教えてくれないか?」
町人は、ひどくくたびれた表情をしていた、それに飢えているようでひどく痩せていた。
「ゴブリンだよ、夜な夜な畑を荒らしやがる。一体何だってこの街に。」
町人の声には怒りが滲んでいた。
「ゴブリンだと!?」
ラディナはゴブリンを知っていた。自らの仇でもあるのだ、声には強い怒りが表れた。
「知ってる……?」
カロンは、ラディナに問う。
「知ってる、よければ奴らがどこにいるのか教えてくれないか?」
ゴブリンと言うのは、呪われたゴルダの民である。かつて、ラディナが住んでいた王国アルデハイドを侵略し滅ぼしたゴルダの民そのものなのである。ラディナも一度は復讐をやめようと思った。醜い姿に変えられ、全てに嫌われる呪いを孕んだそれらに復讐する気など起きなかったからだ。だが、尚も仇なそうというのなら、容赦すまいと思っていた。
「あんた、戦士か?」
好戦的な表情を浮かべるラディナに町人は訊ねた。戦う術を持たない者は、適当に励ましその場を去る。自分の力でどうにもできない面倒事など触りたくないのだ。
「これでも勇者だ。」
ラディナは答えた。
「なら、一つ頼まれてくれないか。奴らはここから東の森に集落を作っている。何とかしてくれたら謝礼を払うよ。何がいい?」
ラディナは別段金には困っていない。アルデハイドの騎士として稼いだ金は、まだ十分残っているのだ。だから別のものを求めていた。
「健康な馬は残っているか? 一匹買い取らせて欲しい。」
ラディナが現状一番困っているのは馬だ、カロンには未だ移動用の馬を確保してやれていない。それを、気にしていたのだ。依頼を受けれることは好都合だったといえよう。
「わからない、町長に聞いてみるよ。いたら是非連れて行って欲しい、せめてもの恩返しだ。」
だが、ラディナは期待しているわけではなかった。無償でやっても構わないと思っていた。何より、今もなお人間に仇なすゴブリンを許してはおけない。その気持ちが強かったからだ。
「よろしく頼むよ。僕はこれから言われたとおり東の森を探してみる。」
ラディナに、ちらりと目線を送られてカロンは力強く頷いて見せた。猟師とともに、狩りを経験したカロンは森での探索に長けている。カロンは、必ず見つけてみせるという決意のもと頷いたのだ。ラディナにとってそれはこの上なく心強かった。
「いいのかい? まだ、馬を渡せるかわからないのに。」
町人は恐る恐る聞いた。ラディナに馬を渡してやりたい気持ちはあるが、そもそも無事な馬が残っているかわからないのだ。無償で、助けてもらうなんてありえないと思っていたのだ。
「構わない、僕にとっても胸糞悪い……。」
ラディナはまる、つばでも吐き捨てるように言い放った。ゴブリンに対する怒りの感情を町人と共有したかったのだ。
「ありがとう! 困ったことがあったらなんでも言ってくれ、力になれる範囲になってしまうができる限りの手助けはするよ。」
町人はすっかりラディナを信用した。共通の怒りに触れ親近感を覚えたからだ。
「さて、僕は行く。馬のことは、もし居ればでいい。そのくらいに思っておいてくれ。」
ラディナはそう言って踵を返し、まずは町の東側へと向かった。
――――――――
街の東側、そこは本当にひどい有様だった。収穫前であろう作物は踏み荒らされ、可食部分は根こそぎ取られている。どう見ても収穫されたようには見えない、荒らされたというのが正しいだろう。家畜たちの血が大地を汚し、また一部の家畜は骨が剥きだしの状態で転がっている。
死臭、素人にでもわかる肉の腐った臭い、すえた臭いだ。立っているだけで吐き気を催しそうになるほど濃い死の匂いは家畜のものだけではなかった。
そこには人の死体すら転がっている。
死体には蠅が集り、死者の腐肉をを食い荒らしている。また、ある死体は蛆すら湧いている。きっとこの街では埋葬者の手も足りていないのだろう。幾多の死体がひしめき合い、腐り果てて埋葬にさらに手間取るようになる。手間取るようになれば、さらに埋葬者たちの人では不足し、したいの埋葬が遅れる。悪循環である。
死体を増やす原因、ゴブリンをどうにかしなければこの街は何れ墓標で埋め尽くされるだろう。十字の石像が立ち並ぶ街など悪夢でしかない。
ラディナは静かに激昂しながらも、冷静にカロンに言った。
「何かわかるか?」
カロンは、周りに神経を研ぎ澄ませている。周囲のありとあらゆる痕跡を自分の経験に当てはめ、その中からゴブリンのものを探しているのだ。
「人をかじった痕跡……どこかに血の跡がある……はず……。」
カロンは言った。人が襲われた形跡から、人の血が痕跡と残っていることを推測したのだ。カロンはしゃがみこんで、血の痕跡、土に紛れてほとんど見えなくなってしまったそれを探し始めた。
カロンが安心してゴブリンを探せるようにラディナは周りの音に、気配に、匂いに五感を研ぎ澄ませる。万に一つ、ゴブリンが襲ってきたとしてもすぐにその音に気が付けるように。
だが、研ぎ澄まされるにつれて別の音。いや、声がラディナの耳に届くようになってくる。
「魔王め、あいつが来る前はこんなことはなかった!」
「許さない! 絶対に許さない! もう何人も死んだんだ!」
それは、魔王に対する怨嗟の声。それが、ラディナにとってはひどく悲しかった。ゴブリンなど、魔王の知るところではない。ゼアルの知るところではない。ゼアルですら、ゴブリンを嫌っている。だからこそ、ゴブリンは呪いをかけられたというのに。
しかし、それはゼアルの所為であると言っても過言ではなかった。ゴブリンはゼアルが作った種族だ。友を滅ぼしたゴルダを、呪いによってゴブリンに変えたのはゼアルだ。
「見つけた……。血の痕跡……。」
ゴブリンになる前のゴルダは良くも悪くも賢かった。だが、その智慧はシャマルによって奪われ、もはや痕跡を隠す知能すら有していないようだ。おかげで随分と楽に見つけることができた。それは、ラディナにとって喜ばしいことだった。ここには、ゼアルに対する、友に対する怨嗟が溢れている。できれば一刻一秒ですらこの場所にとどまりたくなかったのだ。
「行こう。」
ラディナは、カロン痕跡を調べさせ自分はカロンがそれに集中できるように周囲に警戒しながらゆっくりと森へ入ってく。だが、血の痕跡は長く続かなかった。
「血の痕跡……途切れてる……でも、地質が柔らかい、どこかに足跡が……。」
また、カロンは周囲を探索する。低く、より細かく調べるカロンに対し高い視点で辺りを見渡すラディナ。故に今回はラディナが異変を見つけた。
「そこの草が倒れてる。怪しくないか?」
ラディナはカロンに訊ねた。尋ねられたカロンは背の高い草の根をかき分け痕跡を探す。
「ゴブリン……足の指は五本……人間に近いが、裸足?」
カロンはどうやらそれらしい痕跡を見つけたようだ。ラディナの記憶とも一致する。
「おそらくそれだ!」
ラディナは答えた。足跡が残るほど柔らかい地質と、ゴブリンの知能が高くないおかげで簡単に痕跡を見つけることができた。
「こっち……。」
カロンは足跡を辿ってまた、少しずつ奥へ向かった。風に、少しずつ悪臭が混じってくる。いよいよゴブリンの集落に近づいてきたのだ。
「足跡が増えてる……。多分生活圏内……。」
カロンはダガーを抜き臨戦態勢を取った。ここまでくれば、もはや痕跡の追跡は不要だ。おそらく足跡の延長線上に集落があるのだろう。
不意にカロンが姿を消した。
緑色の体躯を持つゴブリンはこういった、場所では隠密能力に長ける。だが、その低い身長のせいで草に視界を遮られ見通しが効かない。
次の瞬間にはラディナも気がついた、草を踏むかすかな音が近づいてくる。だがゆっくりとだ。視認されてはいない、視認できるほどそばにはいないのだろう。
不意に、ドサッという音がした。
音がしたあと、少し遅れてカロンがラディナのすぐ横に姿を現した。
「一匹……。」
ラディナは理解して冷や汗を書いた。草の生い茂る森で、草を踏む音を鳴らさずにカロンはゴブリンを狩って帰ってきたのだ。頼もしいが、森の中でカロンと戦うのは御免だと思ったのだ。
「腕を上げたな……。」
だが、今のところはカロンを賞賛した。
「ん……向こう……。」
カロンは頷くと、そのまままっすぐゴブリンの集落を目指した。
――――――
集落のすぐそばまで来てラディナたちは背の高い草の中に身を隠しその中を偵察する。集落にいるゴブリンの総数は百と少し。街一つを攻め滅ぼせる戦力だ。
中心近くでは攫ってきたのであろう家畜が、人間すら生きたまま喰らわれている。ゴブリン達のひどい悪臭が、いやそれだけではない死そのものの匂いが立ち込めている。血の匂いや吐瀉物の匂い。破られた腸から漂う排泄物の匂い。この世の悪臭の全てがそこにはあった。おおよそ生物が生理的嫌悪を示すすべての匂いだ。
「カロン……。」
声を殺してラディナはタイミングを図ろうとカロンの名を呼ぶ。
「行ける……。」
ゴブリンのあまりの残酷さに、悔い改めぬ様に燻っていた怒りが再び火を灯すのをラディナは感じていた。