第二十六話:再開の涙
王城から馬で駆けること三日、ラディナはその街にたどり着いた。それは偶然か、あるいは運命か。
魔族と人間が争うその戦線はひどく長い。どの方角に向けて旅立っても最前線にたどり着くほどである。なのにもかかわらず、彼女はそこにたどり着いたのだ。雑草ばかりが生えそろうその畑に。
偶然というのは予期せず続くものである。ラディナはその畑を辺で、少し休んでいた。少しは体を休めたくなるというもの。だから、草が生い茂るそこにラディナは腰を下ろしていた。
すると、少しも経たないうちに畑の傍にある一軒家、そこからひとりの青年が出てきたのだった。思わずラディナは声を掛けようとした。
「カロ……いや、そうだった……。」
ラディナは声を掛けようとした自分を自嘲する。覚えているはずなどないんだ、記憶は世界とともに改変されている。もはや、覚えているはずなどないんだ。
青年はラディナを見ている。カロン、青年の名前だ。名前を呼ばれて振り向かない人間などそうそうはいない。だから、呼ばれて、振り向いて、だけど、その先には知らない影。
変に思われてしまったのであればどうしたらいいのかと、ラディナは思案に暮れた。ラディナはひどく臆病だった。かつて共にあった戦友に嫌われたくない、そんなことすら考えていた。もう何も覚えていない、カロンはきっと平和な世界で幸せに暮らせるんだと言い聞かせて何も見ていないふりをした。
少し、痩せただろうか。農夫をやっているようだが、上手くやれているだろうか。そんな疑問ばかりが浮かぶ、別に彼の母親というわけでもないのに。感傷、それに浸るがゆえにそんな疑問ばかりが浮かび上がるのだろう。思い出、それは時として胸を締め付けるのだ。
長く、彼を見るのはやめよう。見るたび、辛くなってしまうから。違う記憶、違う歴史、まるで違う世界に生まれたかのようで。ラディナの中には共に歩んだ記憶があって、だけどカロンの中にはそんなものはない。わかってる、わかってる、とラディナは心の中で自分を言い聞かせ、屈服させて、歩き出す。まるで双子の別人を目にしたようだ。まるで、悪い夢のようだ。そうとすら思えた。
「待って!」
振り向い、消え去ろうとしたラディナにくさを踏みつける音が迫ってくる。それは、早く、そうだ、カロンはきっと走っている。
ラディナは、きっと不審なものだとでも思われてしまったのだと思った。あるいは畑泥棒とでも思われたのかと悲嘆に暮れた。ずっと、会いたかっただけなのに、せっかく、会えたのにと思いながらも唇を噛み締めた。
畑泥棒なら、きっと逃げるだろうな。ただの通りすがりだったら、呼び止められたとすら思わないだろう。だから、私は気にしない、とラディナは強がって強く拳を握り締めながら歩いた。
カロンはラディナを追いかけた。理由はわからない、彼女を見た瞬間とても胸が締め付けられた。だけど、温かい気持ちになったんだ。それが何なのか自分にもわからないまま、カロンは必死で走っていた。彼女が誰なのか知りたいと、彼女をもう二度と見失いたくないとカロンの心が叫ぶのだ。きっと、彼女は自分にとってとても大切なんだ。なぜだかわからない、軟派男と勘違いされるならそれを演じたって構わない。だけど、守れないなんてもう嫌だとまるで自分の感情でないかのように叫ぶ。だから、精一杯声を出そう。大嫌いなこの声でも、今だけはこれがあってよかったと心からそう思った。
「待って……話がある……!」
カロンにしては精一杯、大声を張り上げて追ってくる。
ラディナは心の中で何度もやめろ、やめろと叫んだ。そんな顔をされては忘れてしまえなくなるから、そんな声を出されたら、覚えていると勘違いしてしまうからと。
だけど、明らかに声をかけられた、ここまで近寄ってこられてもう、言い訳などできない。気付かないふりも、もう辞めるしかない。それがとても、辛い、それでもラディナは振り向いた。
振り向いた先で、カロンは辛そうな、だけどどこか安心したような顔をしていた。今にも泣き出しそうで、だけど、どこか決意に満ちた顔をしていた。
「僕に何か用かな?」
爪が手のひらに食い込む、今すぐにでも全てを話したい。だけど、今のカロンは自分の知っているカロンじゃないと痛いほどわかっている。とぼけて、笑ってみせた。
「どこかで……あったことある……?」
カロンがそんな事を言うから思わず笑ってしまいそうになる。使い古された、軟派男の台詞、それをカロンが吐くのだ。似合わない、キャラじゃない。だけど、それはある意味不器用なカロンにすごく似合ってもいた。
「どうだろうね、多分人違いだと思うよ。」
でも、カロンの記憶に自分はいないんだ、だからきっと人違い。きっと自分によく似た別の人。きっと街中で会って、一目惚れをした別の誰かだとラディナは自分に言い聞かせた。
「はぐらかさないで……教えて欲しい……あなたを見てるととても苦しい……。」
カロンは苦しかった。大切なはずなのに、何も思い出せない。思い出したいのに、ひどくぼんやりとしている。それがたまらなく苦しかった。
ラディナは、それがほんの少し嬉しかった。泣きそうな顔で、自分のために精一杯。無口で、不器用で、無愛想なカロンが自分のためにこんなに饒舌になっている。泣きそうなせいで、息を切らして、真剣な顔で必死に自分に声をかけてくる。
「第三騎士団……。」
ポツリとつぶやいてみた。あわよくば思い出してくれないかと、独りよがりだけど、つぶやかずにはいられなかった。
「え……?」
カロンは、それを知っている気がした。知っている言葉な気がした。ひどく懐かしく、だけど駄目だ、ぼやけて何も思い出せない。それが悔しかった、心の底から悔しいと思った。
「何でもないさ、本当に何でもない。」
寂しいとすら思った、一緒の歩いた道も、ともに戦った仲間も、全部カロンの中にはいないのだ。アレスも、ほかのみんなも、自分ですらも。そう考えるとラディナの中である種の踏ん切りがついた。だから、何でもないと言い張れた。
「教えて……。お願いだ……。思い出したい……。」
心の底から絞り出すような声、懇願するような、そんな声だった。切羽詰って、今にも心の糸が切れてしまうようなそんな声。
気づけば、カロンの頬を一筋の涙が伝って落ちた。
「ごめん、苦しめるつもりはなかったんだ。ただ、嬉しかったんだ……。」
泣いているのはラディナも同じだった。気が付けば温い、涙が頬を伝って滴り落ちる。心配だった、ずっと無事を確認したかった。タナトスの近くの平原で別れたその時からずっと。できれば、そして話をしたかった。だけど、全部わかっている。世界が改変されてカロンの記憶に自分がいなくなったことも。その時からラディナは一目見れたら運がいい、そう思っていた。望むべくもない再会を果たして、思わず声が漏れてしまったのだ。
「いい……。多分、大事な……記憶……。」
カロンはそう言って泣きながら笑った。無理をしているのが分かる、涙でくしゃくしゃの笑顔だった。そんな表情を見たことがなかった。
「改めて、最初からやり直そう。きっと僕たちは、思い出をまた作り直せる。」
いつか思い出すその時まで、いや、その時が来なかったとしても構わない。ねじれて、少しくらい歪んでたっていいんだ。それはきっと、大切な思い出だから。
「僕は勇者ラディナ。旅をしているところだ。」
ラディナは自分の名前を告げた。それに答えるようにカロンは自分の名前を告げる。
「俺は……カロン、農夫だ……。」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、二人で笑った。最初から、またここから始めればいいと総言い聞かせて。