第二十二話:幻想郷
ここには、戦いも、飢餓も存在しない。人間たちの王国のその奥深く、あるいは中央に存在するこの王国はには遠く戦火の音は届いてなどこないのだ。巨大な王城とそれを支える豊かな城下町、そしてそこから算出される余剰なほどの資材。人間たちは潤っている、遥か遠く戦を続ける兵たちは確かに存在する。だが、そんなことは対岸の火事、それどころか他国の夕食事情である。つまるところ、なんの影響もないということである。だからこそ、平和な地域なのである。
誰も彼もが忘れた記憶、この世界でたったの三人のみが知る改変前の世界。そこでは、戦争等日常茶飯事だった。毎日のように、世界のいたるところで戦争は起こり、気が付けば自分の息子が徴兵されて死んでしまう。そんなこともあった世界だったのだ。
間違いなく平和になったといえよう。改変前の世界より圧倒的に大規模で、しかし確かに局所的かつ少数の戦場である。国境とは戦場である、そんな格言すら生まれた改変前の世界とは違う。よほど運が悪くない限り、生まれたものは戦場から遠く離れた場所で暮らすのだ。だから、かつての世界よりずっと幸福であると言わざるを得ない。
とはいえ、何も脅威がないわけではないのだ。それがなければ、人間は、いや魔族ですら些細なことから同族同士で戦いを始める。故に、それを避けるためにはこの世すべての恐怖を体現する存在が必要である。
「魔王、なぜ動かん……? あれが動けば、簡単に人間など踏み潰してしまえるというのに。嘲笑っているのか? 遊んでいるのか? 悪魔め!」
それを担うは魔王、人々の記憶で神殺しの大罪人である。
だが、当の魔王ゼアルが神殺しを成すのはそれよりしばらく後の話。人間たちは、未だ神を殺していない未遂の神殺しにおびえているのだ。そしてそれは、ゼアルによって植えつけられた偽りの記憶。だが、偽りであろうとなかろうと、それが嘘であると証明する手立てがないのであれば、あるいは真実であると証明する手がかりが多いのであればそれは真実に悖らない。即ち、この時代、この国に生きる人々にとっては魔王は神を殺したということこそが真実でなのだ。
「勇者はまだ召喚できんのか?」
勇者の召喚には幾許かの魔力と、神が記した魔法陣、そして切なる願いが必要とされている。それは、遠い昔神によって伝えられたものである。その神は名をラディナと名乗った。
「申し訳ありません、急いでおりますが複雑でございますので。」
勇者召喚の陣を描く魔術師の一人が慌てた様子で謝罪をする。王家に伝わる勇者召喚の魔法陣、それは神が作ったとされるものでありとあらゆる魔術師が理解不能であると匙を投げた魔法陣である。当然だ、その魔法陣はゼアルが作ったものであり、その魔法陣は複雑な術式を持つ。だが、その魔法陣自体の効果はちかりを発し僅かに音を鳴らすだけのものである。要は茶番なのだ。その魔法陣自体は実際何でもない、ただの目印としての役割である。今回召喚される勇者も、その召喚される場所も決まりきっている。だから、事今回に関しては全くの無意味である。だから、その次の、あるいは次の次の勇者のために用意されたものこそこの魔法陣である。
「あ、いや、急かしているわけではないのだ。だが、魔王がいつ動き出すかと思うと居ても立ってもいられなくてな。その、すまん……。」
この世界を作ったのはゼアルである、故に、人間の王は選定されているのだ。この男は、ミノス・ボレアスは、アフロディーテ・アルデハイドの親戚にあたる人間である。王位継承権第三十四位、王族とは名ばかりの伯爵であった。故にエイレーネーによってアルデハイドが滅ぼされた際、伯爵領内での求心力を失わないために生かされていた男である。
少しばかり、ゼアルによって作られた神話を記そう。この世界は二つの神格によって作られた。一つは、守護と慈悲を司る女神ラディナである。彼女は人間は初めに、人を作る力を持った一人の魔術師を作った。その名は、アフロディーテ・アルデハイド。作られたアフロディーテは孤独を憎み、多くの人を作った。そして、作られた人々がアフロディーテの元作った王国が人間の王国の始まりである。よって、人間の国は名をアルデハイドと定めたのだった。
もうひとつの神は、可能性と智慧、戦いを司る辺境の神オケアノスである。それは、男神であり、彼は多様性を求めた、そして数多の異形、魔族と呼ばれるそれを作ったのである。オケアノスは、いつか人と魔族が手を取り合って生きることを望んだ。だからこそ、魔族を作ったのである。だが、今はそのオケアノスが作った魔族によって人の神ラディナは滅ぼされている。故に、人はオケアノスと、それから生まれた異形を魔族を憎むようになった。
閑話休題。
ミノスは気弱な男ではある、王というよりはその副官に向いている。だが、ほかに選択肢もなかったのだ。残虐な王、豪遊の王、虚構の王が多い中ミノスだけは優しい王になり得たのである。故にゼアルはミノスを王に据えた。
「私も同じ気持ちです、だから謝らないでください。半分は陛下のため、半分は自分のためでございます。」
とはいえ、この王も王としての素質を十分に持つ。この王は人たらしの王なのである。優しく、そして時に賢く、思いやりのあるさまはカリスマとは別の方向性で人を惹きつける。
「ワシは、良き部下を持ったものだ……。」
故に、欠点が欠点のままにならないのである。この王の致命的欠点と思われた部分、それは涙もろいことである。それも病的なほどに。少しのことにも感動し、涙を流す。しかし、だからこそ愛されたのである。時に、その涙は人の親しみを誘った。人のいい、涙もろいじいさんと言うのがこの国王の印象である。
「ははは、相変わらず涙もろいですね……。」
そんな風にからかわれても、ミノスは決して怒らない。それどころか、笑い飛ばすのだ。
「年を取るとどうにも、涙腺が言うことを聞かんからな、ははは!」
そんな話をしているうちに魔法陣はぼぼ完成する。最後の一辺、魔法陣の頂点に位置するペンタグラムを魔法の触媒となる物質で描きながら魔術師は言う。
「完成しましたよ陛下。これで、ようやく平和が訪れますね。」
魔術師は、完成した魔法陣を見て息を飲んだ。美しいのだ。これは、ゼアルの遊び心である。ゼアルは、魔法陣にフェイクを混ぜるとき何よりも芸術性を優先する。魔法陣自体がそもそも美しいものであり、そこに加えるゼアルの遊びは千年の時を経て一流へと消化したものだ。幾何学模様の織り成すアート、そのくらいの感覚でゼアルは魔法陣にフェイクを混ぜるのだ。
「早速、詠唱に取り掛かってくれ!」
ミノスはできる限りの威厳を込めて言い放った。これが、最後の決戦の火蓋になると感じて、お歌る責任を果たすため全力で。
「はっ!」
魔術師も親しみを捨て、儀式のために全神経を注ぎ込む。
そして、魔法陣を囲む幾人かの魔術師たちが歌うように、合唱のように詠唱を始める。
「願いをここへ、我ら弱きもの、故に庇護を願う。我らが求むるは、単に安息なり。我らが求むるは、そのための平和なり。優しきものよ、声に応えよ。我らに、平和の凱歌を運び給え。いずれ我ら、刃を棄て去るそのときを待ちわびる。誓う、我ら何れ来たるその時、刃を捨て、血を拭おう。恨みを忘れ、手をつなごう。そのために、使者を使わせたまえ!」
この詠唱ですら大部分が魔法とは関係ない。代わりに、ゼアルが持たせた意味を孕んでいる。改変前の世界で、全ての者が望んだ平和。この詠唱は、何れ来たる平和の時代に剣を捨てようとそう思って欲しい。そんなゼアルの願いを詠唱に載せたのである。
魔法陣が光輝き、澄み渡った金の音が鳴り響く。純白の羽が舞い上がり、地面へと落ちる前に消えていく。やがて眩しい光は収まり、光の中から一人の美しい女が姿を表す。
ミノスは確信した。いや、その瞬間を目撃した全ての人間が確信した、彼女こそが勇者であると。魔王を倒すべく、女神によって遣わされたもの、あるいは女神であるとすら思った。彼女はあまりに女神と瓜二つだったから。
――ここで、記憶は終わる。――
それまでの全ては、ゼアルによって造られた偽りの記憶である。ここまで作らないと不自然になってしまうからだ。世界が改変されたあとラディナは人間の国、アルデハイドの王城に居る。
急に現れては、大切な勇者が囚われの姫になりかねない。よって、ゼアルはそこまでの記憶を作ることのしたのだ。改変後の世界でラディナが困ってしまうことのないように。