第二十一話:魔王城
天高く、はるか雲海のその上まで続く塔。そのさらに上空に座す、巨大な魔法陣は常に極彩色の極光を放つ。いや、それは魔法陣などではない。ただの、魔法陣の核なのである。星の軌道、大地の地脈、この世の全てのありとあらゆるものはそれを中心に回る。そして、それらすべてを束ね統括する魔法陣の核こそこの城なのである。
天空に座する魔法陣を形作るのは、未だ空虚な器。まだ、この魔法陣はまだ完成していないのだ。これだけの巨大な魔法陣、その核になるべきそれには膨大な魔力が必要である。おおよそ、人が他のそれに収まらぬ巨大な魔力。魔力と形容することすらおこがましい、ケタ違いの力。それを、必要とするのだ。
故に型どられた円環は未だ色を持たず、故に黒い線が空に数本伸びている。
「仕事を始めるとするか。」
魔王城、その最も高い塔の最上階。未だ完成していない空虚な魔法陣の直下。その部屋に置かれた石造りの玉座に座るは魔族の王、ゼアル・タナトスである。
「必要なものは既に揃っておりますしね。」
傍らに佇む悪魔のような異形の男、ダモクレスはゼアルに否ということはない。傀儡ではない、全てにおいて一部の隙もなく突き放された絶対者に異を唱えるのが非生産的というだけだ。
魔王城、玉座の間に、玉座を中心に描かれるのは<オルフェウス>の魔法陣。天空の魔法陣の、足りない最後の材料、それを作る触媒とは魂である。正確には魂の持つ魔力の発生器官、要するに魔法を扱うための根源的な力を触媒として生まれ出すのが最後の材料である。
流体のミスリルで描かれた<オルフェウス>の魔法陣。そこにゼアルはほぼありったけの魔力を流し込む。四方八方に散らばる魔力の光が一度は拡散し、再び収束を始める。魔法陣のその中心、触媒に一番近い場所へと。
――心臓だ――
心臓、それは生命の臓器と言って良いだろう。おおよそ、生命と呼べるもの全てにはそれが存在する。魂は、心臓という檻に囚われ生命という強烈な魔力を発生させる。ゼアルの体は今や肉も、臓器も全て朽ち果てている。だが、ゼアルにもそれは存在しているのだ。もちろん肉をつなぎ止める力を失った彼の体には真っ当な形では存在しない。ゼアルの心臓とは、化石なのだ。太古の昔に鼓動を止め、腐り果ててその端から全て砂になって流れて消えた。だが、最後に残ったその砂の一粒こそ彼の心臓であり、彼の命の臓器なのだ。
光はそこへと収束し、白い極光を発しながらやがて浮かび上がる。
「う……ぐ……。」
生命の根源。魂を直接削り取られる痛みに既に痛覚と呼べるものが存在しないゼアルですら微かに呻きを上げる。
「陛下!」
ダモクレスは、ゼアルが痛みに喘ぐのを初めて見たのだ。それを心配せずにいられるだろうか。いられるわけもないのだ。千年の王が、一度の敗北も、一度の傷ですらなかった最強の怪物が、悲鳴をあげているのだ。
魂を削る痛みは、致死の痛覚である。人間とは、死が確定した状態で痛みを感じることはない。それは、必要がないからである。痛みというのは、生命に対する破壊が成されている、危険であると言う生命からの警告である。故に、死が確定しているのならそれはもはや警告の段階ではない。だが、魂へのダメージは別問題である。それは、世界の摂理からの警告である。肉体が、今生のものであるとするのであれば、魂とは永劫のものである。魂の瑕は、来世の可能性を削るものなのだ。故に、魂を削られる痛みは魂の最後の一片が消失して永劫に消え去るその時まで決して和らぐことはない。故に、強烈なのだ。
「大丈夫だ、わかっていたことだろう?」
強がって、笑っているような声に聞こえるようにしている。だが、その声には明らかな苦痛が滲んでいる。魂の限界を自ら踏破したゼアルであるからこそ耐えていられる。だが、それは、常人であればその痛みだけで容易く絶命するようなものだ。ゼアルは今、それすらも耐えて魔法の儀式を続けているのだ。
やがて、光はゼアルの体から抜け出し七色に光り輝く金属の円環へと変わった。オリハルコン、あるいはアボイタカラと言われる物質である。幾通りもの呼び名が有り、幾万の使い道がある。錬金術の双極の物質、その現世に存在しなかった片割れであり、智あるものはこれを単にこう呼ぶ<魔力炉>と。
錬金術の双極の物質、その片割れであるフィロスフィアが命を癒すとすれば、この物質は命そのものだ。永遠に魔力を生み出し続け、循環し、増幅させ続ける。魔力は魂から発せられる、そして、魂とは命あるもののみが持つ。よって、これはある種の生命であると言っても定義から逸脱することはないのだ。だが、フィロスフィアと比較しても明らかにこの物質はその作成難易度が高いのである。フィロスフィアの触媒が地脈であり、生命の息吹の集うその中心の場所であるに対し、魔力炉は命そのものを触媒として要求してくるのだ。
「陛下? 生きてらっしゃいますよね?」
ダモクレスはゼアルに恐る恐る近寄ると、震える声を投げかけた。魔力炉を作る<オルフェウス>の儀式は確かに魂を要求する。だが、魂の全てを要求するわけではない。あくまで、その一部である。耐え得る物は耐える、だがそれはある種の奇跡であると言える。そして、同時に絶望でもあると言える。魂の瑕は、それが癒えるまで長いあいだその魂の持ち主を激痛で苛むのである。
魂の瑕は、癒えるまでにとてつもない時間を要する。僅かな傷ですら百年と言われている。だが、自分の魂から魔力炉を作り上げた者が魂に負う瑕は果てしなく深い。それが、癒えるのにかかる時間はきっと千年は下らぬだろう。ゼアルが生きているとして、ゼアルはその永劫にも思える間を魂の激痛に耐えながら生きねばならないのだ。
「当たり前だ。まだ死ぬわけには行かないからな……。」
死を選ぼうと思えば、容易に死ぬことができただろう。だが、ゼアルはそのすべてを知ってなおも生きることを選んだ。
痛みに息を荒げながらも、少しだけ強い声でゼアルはダモクレスに告げた。
「陛下、よくぞご無事で……。」
ダモクレスはまるで神にでも祈る気持ちで、再びゼアルが口を開くそのときを待っていたのだ。
魂の瑕の痛みは決して和らぐことはない。だが、それに慣れる事は出来る。強靭な精神で、常に押し寄せる致死の激痛に耐え続けた末に世界を超克した者だけが。だが、その日はゼアルですら立ち上がることすらできなかった。
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翌日になり、ゼアルはようやく自らの足で立ち上がることが出来た。
魔法陣の触媒、通常のものは、それで魔法陣を描いた瞬間に劣化が始まる。それは、双極を除いた最高の触媒であるミスリルですらそうだ。だが、魔力炉だけは違う。それだけは逆なのだ、それを用いて魔法陣を描けば描いた瞬間から成長が始まるのだ。魔法陣としてそれが存在し始めた瞬間から、それは膨大な魔力を生産し始め自らの内に留める。故に魔力炉なのである。
その性質故、ゼアルは魔法陣の完成を急いだ。<裁理の円環>とは、その内に秘める魔力が大きければ大きいほど成功率が高まるのだ。
だが、それでもダモクレスは異を唱えたかった。
「もう少し休んでも良いかと思われますが……。」
だが、明確にそれを告げるには、ダモクレスはあまりに無力だった。そもそも<裁理の円環>を成す者など、生命を逸脱しているのだ。空の御座を開く鍵、理にすら届き得る刃を持つもの。それは、神に準ずるものであり、あるいは、次なる神である。
「そうも言ってられぬ……。夢が、すぐそこにあるのだ。この手の届くところに。」
そう言って重たい足を引きずって玉座の上、魔王城の最も高い場所を目指す。
塔の屋上へたどり着くと、ゼアルはその魔力炉の円環を空に掲げた。やがてそれはゼアルの手を離れ空へと、魔法陣へと浮かび上がり、空虚な魔法陣の周りを描く空の円環にピタリと嵌る。
ふと、空を一匹の龍が横切り。旋回して戻ってきた。
「我が名は、エキドナと申します。我が翼の主よお目にかかれて光栄でございます。」
龍はエキドナと名乗った。青い空の色を映し出した、空色の鱗を持つ美しい牝竜であった。
「何故参った?」
ゼアルは痛みに耐えながらも必死に威厳を保ち訪ねた。
「かつて、私にはリザードマンだった記憶がございます。ですが目覚めてみれば、我が背には翼があり、空を、素晴らしい自由を手にできた。この感謝を伝えたかっただけでございます。未だかつて見たこともない美しき物、これを作れるあなた様以外に翼を授けるなどできようはずもありません。」
そう言って龍は頭を垂れた。
ゼアルは、罪悪感を抱いていたのだ。それが平和のためであれ、多くの命を歪めてしまった。だからこそ、心に病み、気に病み、そして必ず成し遂げなければいけないと言う過剰な責任感にすらその心を苛まれていたのだ。
この竜はかつてリザードマンだったと言う。だから、きっと世界を改変したあとリザードマンとしての改変された記憶が残ったのだ。そして、目覚めたら竜へと変わっていた。だが、それを気に病む様子もなくそれどころか喜び勇んでゼアルを探しに来た。
それを知ってゼアルは少しだけ優しい気持ちになることができたのだ。罪の意識からではなく、この気のいい竜もいつか幸せな世界に連れて行ってやりたいと。責任ではなく、自らの欲望で世界の理だって曲げてみせる。そんなかつての、賢王にゼアルはほんの一言で戻ることができたのである。
「気に入ったのなら、僥倖だ。その翼はお前のもの、好きに空を、自由を謳歌せよ。」
ゼアルは龍に向け言い放った。
「ありがたき幸せ。何かあれば呼んでくださいませ、きっと駆けつけてみせます。あなたに頂いた翼で。」
そう言って竜は自らの背中に生えた翼を少しだけはためかせてみせたのだった。