第二十話:重なり回る
タナトス王城、その最も高い塔の上。そこには聖杯とそれを満たす銀がある。地に描かれた<オルフェウス>の魔法陣。そのすぐ傍らに三つの影が佇む。
「ついて来たはいいが、一体僕たちは何を知ればいい? 自慢じゃないが、魔法はからっきしだ。」
ラディナが言った。自分で言うと通り、彼女は魔法を一つ、二つしか使えない。どんな魔法があるのか、どう対処すればいいのかということに関して多少の知識は持つがそれは、あくまで魔術師を相手に戦うための知識である。
「大丈夫です、ラディナ様。これほどの巨大な魔法陣、私にも理解することは不可能です。魔法を使える私でも、木偶に成り果てるでしょう。」
制御できる魔法陣の大きさとは、魔術師の持つ魔力量と、情報処理能力に比例する。たとえ、そこに魔法陣が既にあったとしても自らの実力を上回るものなど扱えるわけもないのだ。加えて、その魔法陣は永い魔法の歴史の中においても桁が違う規模なのである。一国を魔法陣にした魔術など存在しない、いや存在するはずもないというのが常識である。ならば、魔法を使えるダモクレスといえどその魔法を成すために貸せる力など存在しない。しかも、それに至ってはシャマルですらもそうである。
「ただ、ほんの少しの魔力を流し込む、それだけでいい。そうすれば、お前たちを失わずに済む。」
ゼアルが言うお前たちというのは、ラディナとダモクレスの記憶のことである。この巨大な魔法にほんの少しであろうと魔力が介入することで形式上ではあるが魔法の当事者になる。そうすることで、世界を改変する側の人間に周り改変の影響を避けるのだ。改変された、新しい世界の住人として記憶を再編される事なく、元のこの時代を生きた二人が残るのだ。
「ラディナよ、お前とはしばしの別れだ。餞別として、その剣にまじないをかけても構わないか?」
ラディナが、かつてタナトスの城下で買った真銀、あるいはミスリルと呼ばれる物質で作られた剣を指差してゼアルは言った。
「それは心強い。僕からもお願いしたいくらいだ。」
そう言いながら、ラディナは腰から剣を外しゼアルに渡す。
剣を受け取ったゼアルは、その剣を鞘から抜き放つと刀身をゆっくりとなでた。なんの変哲もない、むしろ手垢が錆の原因にもなるため手入れとして推奨されない行為だ。だが、それが終わると剣に青白く光る紋章が浮かび上がり、剣全体が白く光り輝くのだ。物語の中に出てくる、英雄が死線を共にした剣ですらこれほど美しくはないだろう。いくつもの魔法の文字が絡み合い、まるでオーナメント柄のエンブレムのようになっている。ラディナの剣は、鞘に収めるその瞬間まで輝きを翳らせることなく、それどころか増しているとすら思える。強い魔法だ、決して消えることのない強力な魔法の祝福が施されたのだと誰にでもわかるある種の神秘性を持った輝きだった。
「無事、再会出来る事を祈ろう。」
鞘に収めた剣をゼアルはラディナに渡した。
「ありがとう、ゼアルこそどうか元気で。」
ラディナは祈るような瞳でゼアルに言う。ラディナは間違ってもゼアルに死んで欲しくないとそう思っているのだ。
ダモクレスは、そんな二人の別れをただ見ていた。
名残を惜しむかのようなしばしの沈黙。だが、これ以上惜しんでしまえばせっかく固めた決意が無駄になる。
「始めるとするか。」
だからゼアルは強引に魔法の儀式を始める。
「わかりました。」
ダモクレスはただ、いつもどおりに。
「やろう!」
ラディナは寂しさに僅かに唇を噛み締めながら。
魔法陣の中央、巨大化された<オルフェウス>の魔法陣にゼアルはあらかじめ作っておいた流体のミスリルを流し込む。流体のミスリルは、掘られた溝をつたい魔法陣を完成へと導いていく。この魔法、その全ての陣を書くには最低でもミスリルの触媒が必要なのだ。だから、<オルフェウス>ですら流体ミスリルで描き出す。
やがて、魔法陣のための溝をミスリルが満たし、<オルフェウス>が完成する。ゼアルはそこに膨大な魔力を注ぎ込んだ。すると、魔法陣の中心に置かれた聖杯を満たす銀の彫像が光輝き、極光の玉に成って登っていく。ある一定の高さまで登ると、それは形を崩し崩壊するかのようにミスリルを聖杯に満たしていく。
やがて、聖杯は満ちて溢れ出す。聖杯から溢れたミスリルは模様のように掘られた溝を伝ってその塔に描かれた魔法陣を満たし、やがて城下へと下っていく。
だが、急いだにも関わらずゼアルは遅すぎたのだ。
「伝令! イタリカ、ラバル、カディナ三国の兵が迫っています。」
最悪とも言えるタイミングでその伝令の兵は塔に登ってきた。息を切らし、ひどく慌てた様子でタナトスの危機を伝える。おそらく、捕虜救出の作戦のつもりであろう。そんなものなどいないというのにと、ゼアルは内心歯がゆさを感じずにはいられなかった。今は、これを中断するわけにはいかないのだ。流れ出したミスリルはもう止まらない、そして陣を書いたまま放置すれば触媒は劣化していく。故に、今だけはゼアルはこの国を守れないのだ。
「すまない、手が離せない。しばし持ちこたえよ、すぐにゆく。」
ゼアルは、今は既に枯れ果てた自らの血涙を飲むようなそんな気持ちで答えた。
「僕がッ……ッ!」
僕が行くと言おうとしたラディなの言葉はダモクレスによって遮られた。
「なりません! あなたは、この魔法の当事者にならなくてはならない。でなければ、あなたの夢も、我が陛下の夢もすべてが水泡に帰してしまうのです。」
ダモクレスは、ゼアルを本当によく理解していた。ほとんどのことが出来てしまう王だ。それが人に頼るということはそれだけが最善の手であるということ。そして、誰よりも守るために戦いに行きたいのはゼアルであるということを。
「わかりました陛下。どうぞごゆるりと、いつまでも甘えては居れませんゆえ。」
伝令の兵は、そう言うと覚悟を決めた眼差しを浮かべて急いで塔を降りていった。
「待て! 行くな!」
そう叫ぶ、ゼアルの声すら届かぬほど急いで。
流れ出したミスリルは城下の溝を伝い魔法陣を完成させていく。無常にも溢れ出したそれは一切止まることなく。やがて、どこからともなく遠くから遠雷の様な爆音が聞こえる。生田の魔法が、タナトスの城壁に降り注いでいるのだ。
だが、その石材にはゼアルの魔法が込められている、ほんの短い時間ならいかなる猛攻だろうと耐えるのだ。だからこそ、滅びる前に世界を再編しなくてはならない。ゼアルは魔法の完成を急いだ。
「くそっ!」
長らく、口にしなかった悔恨を声に漏らしながらも、全ての思考を魔法に集中させる。
「ゼアル……。」
ラディナはゼアルを案じ声を掛けようとした。だが、それがゼアルに聞こえようはずもない。代わりに遮るようにゼアルが叫ぶ。
「魔力を込めろ。」
言われるがままに、ダモクレスもラディナも急いで魔法陣に魔力を流し込む。少しでも多く、たとえ尽きて意識を手放しても構わないと全力で。
同時に、その魔法を完成させるべくゼアルは閃光を発するほどの膨大な魔力を魔法陣に込めた。
――時間が、停止した――
宇宙の全ては、一点に、小さな小さな光の玉に収まる。だが、理を外れかけた錬金術の双極の物質だけはこの時形を保てず砕け切った。それは、余りにも密度の高すぎる物質だったが故に起きたことだ。現存する双極の物質、それは、片一方しか存在しない。砕け散ったのは、フィロスフィアだけだ。
そして、宇宙は再び広がり始める。星も、空も、場所すら何もかもが違う。人と魔族と混ざり合うことはなく、その二つの種は世界を二分した。
まるで、争いごとも何もなかったかのように一羽の鷹が真っ青な空を横切る。いや、争いごとも、イタリカ、ラバル、カディナも存在しないのだ。それはそういう魔法なのだ。
これからは、ずっと戦場なんて一つしかない。魔族と、人間との間できっと長く長く続くのだ。だからその代わりに、戦いも、何もかもが存在しない平和な場所がずっと広く続いていく。願いはいつか遂げられるだろう。
「早く再び相見えよう。」
どこまでも青く、どこまでもずっと続く空にゼアルはポツリと呟いた。
「さぁ、参りましょう。我らの城へ、我々の最後の地へ。」
ダモクレスはつぶやくゼアルにそう静かに告げるた。
ゼアルはその言葉に答えるように翻るとゆっくりと歩いていくのだった。