第十七話:卑しきもの
それは唐突に目の前に現れた。想像するよりもよほど恐ろしく、魔王と呼ぶにはあまりに純粋な恐怖そのものだった。
なんの前触れもなく、気軽に、まるで自室の扉でも開けるかのように空間を切り裂いて無理やりつなげて現れたのだ。<ディオネ>の魔法空間を司るその魔法は並みの知覚では感知し得ない場所と場所、そのつながりを表す魔法なのである。そして、それはおおよそ人間の到れる英知の到達点、天才が百年の時を費やして到れる魔法の到達点の遥か先にある魔法。そもそも生物がこれを扱うことを前提から除外された魔法なのである。この魔法は決して人間の持つ矮小な脳で演算することのできない高度な魔法。それは、すべての空間を知覚してなおも耐えられる精神の持ち主にのみ許される魔法である。
「ば、化物!」
ヘルメスは腰を抜かし命乞いすら忘れ悲愴を浮かべてそう叫んだ。
「異国の王が、公式ではないとは言え訪問したのだ。いささか無礼とは思わないか?」
唐突に虚空から現れた骸骨の王は。死者の国の魔王ゼアル・タナトスは皮肉を交えた笑みをたたえながらヘルメスに言い放った。
「何をしに来たのだ化物! 猊下に危害の一つでも加えてみろ、許さぬぞ!」
ヘルメスの傍らに居た男、アルゴスは恐怖に震える声を懸命に叫びによって誤魔化しすくむ足を奮い立たせてヘルメスを庇うように立つ。無理やり唱えた魔法で剣を形成しそれを魔王に向けて懸命に立ち続けているのだ。ゼアルはそれが微笑ましくすら思えた。
「危害? まさか、これの正当な持ち主に危害を加えるつもりなどない。困っていたようなのでな、これを返しに来たのだ。」
剣を向けられているにも関わらず、そんなものは一切の驚異にならないとばかりにその声には余裕が滲んでいる。それどころか、無防備に差し出したその手にはエイレーネーの秘宝ゴルダの民が作った双極の物質フィロスフィアが置かれていた。
「か、返してくれるのか……。」
あまりの無防備さにヘルメスはその魔王に対しての敵意を忘れていた。いや、そうなるように仕組まれたのだ<エピメテウス>それは相手が考える力を一時的に奪う魔法である。その魔法に影響されたものは一つの例外もなく手を伸ばしてから物を考えるようになる。
「猊下! 危険です!」
アルゴスは自らの脇から伸びるその手を諌めようとする。だが、その時には既に遅かった。その手は、既にフィロスフィアに触れていたのだ。
「おぉ、見ろ我々の秘宝が戻ってきたぞ! 今、この手に!」
触れて、取り上げて、そしてやっと<エピメテウス>の魔法がその影響を及ぼせぬ段階へと移行する。よってヘルメスは正常な思考を取り戻す。この男は、魔王なのだと。それが、こんなにいとも簡単に秘宝を返す理由がないと。だが、ときは既に遅い、ヘルメスはパンドラの箱を既に開けてしまったのだ。
「あああぁ!? なんだ! なんだというのだこれは!?」
ヘルメスの手はフィロスフィアに触れた場所から緑色に変わっていく。緑色の、醜く歪んだイボだらけのそれに変わっていく。
「猊下!? 貴様、猊下に何をした!?」
アルゴスはヘルメスに駆け寄って必死になんとかしようと狼狽えるヘルメスを支えた。そう、つまりアルゴスはヘルメスに触ってしまったのだ。<エピメテウス>は手を伸ばした後に考えるように人の思考回路を一瞬だけ改ざんする。
「何も。その男になど何もしていないさ。」
ゼアルは最大限の皮肉を込めて笑いをかみ殺したような声でそう言った。
「な、な、なんだこれはあああああああぁ!?」
アルゴスも同様、既にパンドラの箱を開けてしまったのだ。ならば、たどる道はヘルメスと何も変わりはしない。そう、緑色の醜い生物に少しずつ姿を変えていく、
<ティシフォネ>呪いの魔法の一つである。この魔法は殺された人間の遺品を触媒に効果を発揮するのだ。ゼアルはヘルメスにもゴルダにも何もしていない。ただ、その魔法をフィロスフィアにかけていただけだ。<エピメテウス>も、ヘルメスたちを現在進行形で変化させているのもフィロスフィア自体である。そこに宿った、呪いが、誰の遺品でもないのなら誰にも復讐をしない魔法が復讐相手としてヘルメス達を選んだに過ぎない。あくまで復習用の呪いなのだ。発動のためには、それが遺品でなくてはならないし、相手が復讐の対象でなくてはならない。故に、ゼアルの言葉は何も間違ってはない。これでもかというほどの、悪意と、皮肉がこもっていたとしてもそれは一つも嘘ではないのだ。
ことが終わると、そこには地面に落ちたフィロスフィアとそれを忌々しげに睨みつける二匹の醜い魔物がいる。餓鬼のように膨れ上がった腹、緑のイボだらけの皮膚、醜悪な顔をした二つの醜い化物。しかし、彼らは間違いなくヘルメスとアルゴスなのだ。
「ゲギャ! グーギャ!」
人の言葉を失い、代わりにあるのはその醜悪な見た目にぴったりな醜悪な笑い声のような言語だけ。奪われたのだ、人の言葉を話す権利を。人である尊厳を。
少しして、騒ぎを聞きつけた何人かの彼らの近衛がやってくる。そしてそれらは、彼らを見つけてこう叫ぶ。
「醜悪な化け物め! 猊下をどこへやった!」
ヘルメスだった化物は答えた。彼らは人の言葉をしゃべる権利こそ奪われたがそれでも尚人の言葉を理解することはできるのだ。
「ゲギャ! ゲギャ!」
ヘルメスは叫んでいたのだ。私がヘルメスだ、助けてくれと。だが、近衛にそんなことはわからない。その、醜悪な笑い声を響かせながら擦り寄ってくる醜い化物だ。
「猊下、あなた様の服を一着ダメにしてしまいます。お許し下さい!」
そう言いながらその醜悪な化物を切り裂いたのだ。もちろん、その近衛はその化物の返り地を浴びる。飛び散った、返り血が、頬に、服に付着する。そして、付着した場所から変わっていくのだ。ヘルメスと同じ醜悪な化物に。
「はっはっは、答えようではないか。貴様の言う猊下とやら、確かヘルメスといったか。やつはそこにいるぞ。ほら、その猊下の服を着ているではないか。大方、貴様に助けを求めていたのだろう。だというのに斬ってしまうなど、良い忠誠心ではないか。」
ゆっくりとした侵食だ。近衛はまだ気づいていなかった。自分が、今しがた斬り殺した相手と同じ姿になり始めていることに。そう、その呪いが効果を及ぼすということはつまりはこの人間もゴルダの民なのだ。シャマルの民が復讐すべき相手なのだ。だから、それを罵り絶望の淵へ叩き落とすことにゼアルはなんのためらいも覚えない。
「悪魔め、嘘をつくな! 猊下がこのような姿に……。な、何が起きている!?」
無駄な事を言っている間に呪いは侵食を進めそしてようやく気づいた。自らの視点が下がっていることに、自らの皮膚が醜悪な緑色に変わっていくことに。
化物の生命力は強い、未だヘルメスは息絶えずに居た苦しそうに肩で息をしながらも笑い声のような彼らの言語をしゃべっている。血を吐きながらも笑ったようなのだ、薄気味悪いと言っても過言ではないだろう。
「ゲギャ……グギャ……。(信じてくれ、私がヘルメスなのだ……。)」
それと同じ化物に成り下がった近衛はそれが真実だと気づき始める。そう、彼らの言語を理解し始めたのだ。だから泣き出した、まるで笑ったように。
アルゴスは何も言わず、いや何も言えずにその醜い化物を解放している。最も、アルゴスですら既に同じこと。醜い化物同士がきっと悲痛な顔のつもりなのであろうその表情で助け合うようにしているのだ。
「なんとも、醜悪な光景だ。わが友は、シャマルはどれほどまでに彼らを恨んだのだろうな……。」
<ティシフォネ>は呪いの魔法ではあるが、その性質は呪い自体ではないのだ。それに関連する人間たちの最後に抱いた感情を呼び起こし、それに力を与えるだけなのだ。呪いの効果は抱いた恨みによって決まる。必要な魔力もだ。故に<ティシフォネ>は最も不確実な魔法の一つである。だが、復讐としては殺された本人たちの恨みをそのまま相手に還元するという意味で最も確実な魔法である。
ゼアルは、もはやそれを見るに見かねて再び空間を開き自らの城へと帰っていった。フィロスフィアをその場に残して。
呪いは未だ終わったわけではない。ゆっくり、ゆっくりと同じような惨劇を繰り返して広がっていった。あるものは化物に成り果てた教皇が本人だと気付き、それに触れる事によって呪いを受け。あるものは、それらを討伐せんと切りつけた返り血に犯された。それはまるで病のように、広がっていく。
だが、それでもシャマルは許しはしなかったのだ。
呪いを受けて、一月の間その醜悪な化け物たちはまるで不死であるかのように心臓を切り裂かれようが、ボロボロにされようが肉の一辺でも残っていれば死ぬことはなかった。いや、死ぬことは許されなかったのだ。
呪いの感染から三日を超えると、理性を失い始める。人を襲うようになり始めるのだ。だが、それはこの呪い自体が自らの目的を果たすため取らせた行動だ。襲われるのはゴルダの民が中心であった。だが、この化物は不死性こそ持つが戦闘能力は極めて低い。当然だ、相手を殺すことより返り血を浴びせることが目的なのである。襲いかかるのはそもそもが返り血を浴びせるためであり、返り討ちにされるためだ。
感染から一週間を過ぎると今度は女をさらうようになる。これも、ゴルダの民が残っている限りそれが中心だ。さらわれた女は、犯され、孕まされ、その化物を産み落とす。そして、自我が崩壊する寸前に同様の化物に成り果てるのだ。この化物は、消極的ではあったが他の民族の血が流れる女も同様にさらった。さらって同じことをするのだ。だが、ゴルダの民でない限り同様の化物に成り下がることはなかった。そう、ただシャマルはこの化物を全てから嫌われるように仕向けたかったのだ。
そして、感染から一ヶ月を過ぎるとその化け物たちは急に不死性を失う。それが許しなのだろう。一ヶ月を過ぎてようやく死ぬことを許されるようになるのだ。その間、化け物たちは強要され続けるのだ。笑って人を襲い、笑って斬られて、笑って自分と同じ民族を、自分の家族を自分と同じ化物に変えることを。
それは、過去最悪の復讐だった。決して許さないというシャマルの恨みの深さの表れだった。ゴルダは、その秘宝を奪うためだけにその種を根絶したのだ。それも、腹の中側から茸に突き破らせるという方法でだ。生きたまま、少しづつ胃の中で大きくなっていく茸にその腹を破裂させられるまで内側から圧迫をされ続けるのだ。どれほど苦しかったか、どれほど、恐ろしかったか。やがて、死ねるとき、それはシャマルにとってもはや開放の時だったのだろう。それを招いたゴルダをシャマルは許せるはずがないのだ。ゆっくりゆっくりと、自分が殺されていく時を待つシャマルはきっと最期の時まで激痛を恨みで紛らわすことによってしか自分を慰められなかったのだろう。それほど大きな恨みであるとしても納得はできるだろう。末代まで呪うという言葉があるが、シャマルの恨みはまさにそれだった。たとえ、自分たちを殺した原因でなくても決して許さない。だからこそ<ティシフォネ>はここまで残酷な魔法に姿を変えたのだ。
後にエイレーネー事変と呼ばれたこの呪いは、半年をかけてエイレーネーのゴルダの民を全て怪物へと変えていった。そして、元はゴルダの民であるそれは卑しきゴルダの民という意味を込めてゴブリンと呼ばれるようになったのである。
そして、すべてのゴルダがゴブリンと化したエイレーネーに一度だけゼアルは戻ったのだった。