第十五話:帰還
第三騎士団団長、ラディナ・オネイロス率いる一団の中にはアルデハイド国王アフロディーテ・アルデハイドまでもが含まれていた。アルデハイド王国に残された、残りのすべての騎士と国王を擁するその一団はもはや、アルデハイド王国そのものといっても過言ではない。
アルデハイドを出発したときは第一、第二騎士団の生き残りも含め一万に届くか届かないかといったところであった。その一団も今や、その数を数十まで減らし軍事的な意味に於いてではなく文字通りの意味での全滅を目前していた。
そんな逃亡者たちを追い討ち果たさんばかりに、後方からは魔法や矢の雨が飛来する。
それは、ラディナ達を追い詰めるかのようにわずか後方数十メートルまで迫った絶望だった。一人、また一人と断末魔を上げて倒れていく。だが、いや、だからこそ振り向かないように、懸命に前を向いて馬を走らせる。
一人でも多く生存させるために、列の最後尾に並ぶものは馬を反転させ敵陣に一人で突っ込む。友に、家族に、一人でも多くタナトスにたどり着いてもらうために。
誰もが皆、歯を食いしばって涙をこらえては前を見た。先頭を走るラディナはその中でもひときわ懸命に前を見た。行く先を決して塞がれないように、たとえ塞がれたとてもそれを穿って血路を切り開くために。
そして、それはようやく訪れたと言っていい、希望の光だった。地平線が隔てる先にタナトスの影が見えてきたのだ。ラディナは笑った、死者のような王に生のその本当に最後の一欠片の希望を託すなど皮肉なことであると。だが、同時にそれは確かに希望なのだ、辿り着いたが最後勝利を約束される絶対の希望。刮目し、それを確認し後方へと瞳を向け叫ぶ。
「皆! あと一歩だ! ゼアル王が……」
だが、ラディナの希望はその瞬間に討ち取られてしまったのだ。
突如前方より飛来する幾多の矢の雨、魔法の雨。そこには最初から居たのだ、三国の同盟軍が、壊滅寸前でなおラディナたちにとって圧倒的な数を誇る精強な軍隊が。
降り注いだ雨は、無慈悲にもラディナの後を着いてくる兵士たちの命を一つ、また一つと食い散らかしてゆく。辛うじて自分や、アフロディーテ国王、カロンなどの直ぐ側を着いてくる人間に降り注ぐ矢を払うことできても、それ以上は無理だった。だが、国王さえ生きているならいつかアルデハイド王国を再建することも不可能ではないそう思い、尚も歯を食いしばって前も見る。前を見て、矢を振り払いながら懸命に前に進む。そして、今度こそ誰にも希望を捨てさせまいとはっきりと、全力で叫んだ。
「ゼアル王が見えたぞ! タナトスは目と鼻の先だ! あと一歩踏ん張れ!」
ラディナが叫ぶと後方からは僅かではあるが歓声が上がる。一歩あと一歩と、歩を進め決して希望を捨てないように必死で死に抗う友たちの声が。
「おー!」
気勢を盛り返したと思った直後、後方からは何度目になるのかすらわからない風切り音の大合唱が聞こえる。
不意に、その中でひときわ大きな金属音が鳴り響いた。そんな、轟音を出すものなど一人しか居ないのだ。ラディナは思わず、振り向いて叫んだ。
「アレス!」
振り向いた先にはもはやカロンとアフロディーテ国王居なかった。だが、その視線の先には傷だらけになりながらも不敵に笑うアレスが居た。
「ラディナ、俺は大丈夫だ! 先に行きやがれ! ちっと、あばれたんねーからよ」
そう言いながら、体に刺さった矢を引き抜き大槌を片腕で振るう。幾多の魔法を撃ち落とすがそれでも尚もその槌の隙間を縫って魔法はアレスに直撃し、その鎧を砕いて削いで行く。
それでも尚も、笑い雄叫びを上げながらもアレスは真っ直ぐエイレーネーの軍に向かい突撃してゆく。
――だが、多勢に無勢が過ぎたのだ。――
アレスは、あと一歩踏み込めたのならその槌が、その相手に届き得る、そんな場所まで着て急に自分の足が動かなくなったのを感じた。いや、それどころから、足から腕から力が抜ける。あと一歩、一歩なのだと相手を睨みつけ、歯が砕けるほどに食いしばり、それでも尚も抜けていく力を無理矢理にとどめて一歩を踏み出した。
――それでもまだ、振るわねば、命は奪えない。――
届く、届くのだと確信した。だが、槌を持った腕が上がらない。どんな時も、どんな不利な戦争だって、共に切り抜けた自分の相棒が、武器が持ち上がらないのだ。それどころか、アレスの視界は次第に暗転し、闇に食われていった。
やがて訪れる、ドスっという短い衝撃。掠れ、ぼやけて揺らめいて、今や消える寸前の視界で捉える。腹に突き立った青い極光の槍を。それは結界すら貫通する魔法の槍だ、アレスがこれまで信じてきた強靭な鎧も、頑丈な彼自身の肉体も、それを阻むことなどできなかった。
「クソ野郎……」
そう吐き捨ててアレスは自分を殺した男を一瞬だけ睨みつけて呼吸をやめた。彼が生涯で最後に目にした男は自分に興味がなさそうに、つまらなそうに自分を見下ろしていた。ただ、だからというわけではないが悔しかった。もう、生きられないことも、ラディナと一緒に馬を並べて走ることも、国王を守れないことも悔しかったのだ。せめて、一太刀浴びせることが出来たなら、少しは気が晴れたのかもしれない。だが、それだってもう出来ないのだとアレスはもはや息もできず、消えていく意識の中で思った。
「つまらんものだな騎士よ、貴方の眠りに安らぎの在らんことを」
男は簡易的な追悼をし、すぐにラディナ達を追った。後たったの三人。たとえ殺しきれなくとも、アフロディーテを殺せばそれでアルデハイド王国は滅びる。そうすれば、文句のつけようのない完全な勝ち戦なのだ。男は、獲物を狩るような狡猾な笑みを浮かべながらも追撃の手を休めない。
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今もなお、逃げ続けるラディナの耳に馬の書ける音が聞こえてくる。それは、追撃の兵がすぐそこまで迫っていることを告げるとともに、アレスの死すらも知らせるのだ。だが、立ち止まれば次こそは国王諸共殺されるだろう。そうなっては、アレスの死をムダにすることになる。だからこそ、涙を堪えることが出来たのだ。
不意に国王アフロディーテがうめき声を上げた。
「う、うーん……」
それは断末魔と言うにはあまりに静か過ぎた。だが、その直後アフロディーテは自分の乗る馬から転げ落ちたのだ。それは、アフロディーテの死をラディナに知らせるには十分だった。
「国王陛下!」
叫びながら、馬を反転させ国王に駆け寄り、すぐに馬から飛び降りて、国王を抱き上げる。当然カロンも、同様に国王のもとに駆けつけた。
「何を……している……ラディナ……騎士団長……」
国王は息も絶え絶えに言う。だが、その表情はラディナがこれまで目にしてきたアフロディーテのどんな表情よりも険しかった。
「何故隠していたのです陛下! ひどいお怪我ではありませんか、すぐに治療を」
アフロディーテの胸元には魔法で貫かれたと思われる穴が空いていて、今そこから絶えず血が流れ続けている。
「言えば……足を止めたであろうが……」
アフロディーテはそう言って笑った。
「我々が走ったのは陛下が生き延びればと思ったからこそでございます。なのにッ……」
今にも泣き出しそうな顔をして、ラディナは必死に今にも死のうとするアフロディーテに食い付いた。だが、アフロディーテはその優しがゆえにそれを許しはしなかった。
「第三騎士団所属……暗殺騎士……カロン……そこに居るな? ……ラディナをタナトスへ送り届けよ……決して死ぬことは許さん……」
無言のままであったが悲痛な面持ちで国王を心配そうに眺めていたカロン。だが、黙っていたとしても、そしてもう見えなかったとしても、それでもさっきまで一緒に走っていたのだ。そこにいることはわかっていた、わかっていたから逆らえないようにそれを命令としてカロンに伝えた。だから、残り少ない自分の生きていられる時間を使ってでも長い所属を口にしたのだ。
「仰せのままに」
言われるがまま、カロンはラディナを馬に乗せる。その場で最も早い馬、ブケファラスに。そして、自分もそれに跨るとこれでもかと言うほどに手綱を強く握る。ブケファラスが走るのを妨げないよう、ギュッと手元だけで。
「降ろせカロン! 陛下が!」
カロンは答えなかった。だが、生まれて始めてみたその暗殺者のような騎士の泣き顔はラディナにもうそれ以上何も言わせなかった。
「ラディナ……カロン……幸せに生きよ……」
まだ、声が届くうちにと命のそこから振り絞った国王アフロディーテの声がラディナにも、カロンにも、確かに届いた。
「仰せのままに、国王陛下……」
そうつぶやきながらラディナは動かなくなってしまった国王に、すでに死んでしまった国王に哀悼を示した。
そうして、哀悼を示したまま国王が見えなくなるまで走った。凹凸の激しい地上で、地に伏す人間が見えなくなるのにそう時間はかからなかった。だが、それでもその時間の間に二人乗りの馬は随分と距離を詰められてしまったようだ。後ろから蹄の音が近づいてくる。
唐突に、カロンが馬を降りた。
「国王陛下の命令……。生きて送り届けろ……」
降りて、強がりな笑いを。目に涙を溜め込んだままラディナに向けた。
「死ぬ気か? あと少しなのだ一緒にッ……!」
言い終わらないうちに、カロンが大きな声を上げた。彼が彼であるまま、大声を上げるなどそれも初めてきいたのだ。
「俺は! 俺は……逃げるのがうまい……」
そう言って、ラディナが乗るブケファラスの知りを軽くひっぱたく。ブケファラスは賢い馬だった。ラディナが降りれないよう、即座に駆け出す。
もはや、一人になったらディナだったがブケファラスが下ろしてくれないから同仕様もなく走り続けた。目の前がぼやけて霞むけど、そんなのは関係ない。今はラディナはブケファラスを操ってなど居ない。彼女は、ただ何も出来ず乗っているだけだ。いや、むしろ乗らされているだけだ。だから、走ったと言うより走られているだけだ。
あと少し、もう少しで。もう少しで、何なのだとラディナは自問した。もう彼女には何もない。帰るべき国も、守るべき家族も、共に戦った仲間もこの世界には残っていないのだ。世界でただ一人だけの気がした。ラディナは自分の心の中が空虚に満たされていくのを感じていた。不安で、何もなくて、ただ無為に生き残って何のために生きていけば良いのかわからなかったのだ。
何度も何度もきいたあの音だ、カロン一人では大した足止めにもならなかったのだ。逃げるのが得意といった割に死んでしまったじゃないか。と乾いた、投げやりな笑いを浮かべていた。
――ふいに雨が降り出した。――
もうどうにもならないのだとわかっていても、生きろと言われた以上。もう、どこにも行先がない以上タナトスへ向かうしか無いのだ。
ふいにブケファラスが嘶き、そのまま倒れる。直前に見たのは巨大な魔法の青い矢。胸のあたりの骨が何本も折れている。もう動かなくなってしまった。きっと、魔法に貫かれて死んでしまったのだ。
「何をしているのだろうな、私は。友から貰った馬ですら返せないなんて、情けない……せめて、返せなかった私のこの首で贖うとしよう……」
そうつぶやいて、倒れてボロボロになった体を引きずってゼアルを目指す。この体で行くのには少し遠いなと、贖うことも出来ないとは本当に情けないと、悔しくて、悔しくて噛み締めた唇から流れた血が顎を伝い地面に落ちた。
それでも、諦めず一歩、もう一歩と歩いていく。息が止まりそうなほど苦しくても、目眩がして倒れそうになっても。一歩、また一歩と歩いて行く。
不意に、ラディナはゼアルが自分の方を見るのを見た。
まばたきをして。
次に目を開けたときには、ゼアルの腕の中に居た。
「よく帰ってきた」
背中を、そっと支えられ倒れてしまわないように。だけど、壊してしまわないようにそんなふうに優しく抱きしめられるのだ。
「すまない、本当に済まない。あなたが望むのなら、僕の首でもなんでも差し出すから」
今にも泣き出しそうになってゼアルを見つめた。
「何も謝ることなど無い。お前は帰ってきたのだ、約束を苦を守ったのだ」
ゼアルの声は、強く、そして優しく響いた。
「でも……でもッ……」
それでもラディナは自分を許すことが出来ず謝ろうと、謝らなくてはと。
「良いのだ、お前が帰ってきただけで私は嬉しいのだ」
謝る理由も、ずべて許されることによって奪われて。帰る場所がない不安も、受け入れられることで取り除かれてしまった。ラディナの心の中にはただ、失ってしまった悲しみだけが残った。だから、ラディナはもう食いしばれなくなってしまったのだ。
「うわあああああぁぁぁぁ!!!」
降りしきり雨の中に慟哭が響きわたる。ラディナの心のなかに生まれた、まるで心臓を締め付けるような、あるいは肺を満たしてしまうような鈍くて重いそれを叫び、流すことで消費していく。自分の心が決して押しつぶされてしまわないように。ラディナは許されることで、自分を許し自分を守ることが出来たのだ。
「まったく、手のかかる友だ」
一度堰を切ったように溢れ出した涙は止まらなかった。だが、止まらなくても良いのだとすら思えた。その声が、優しかったから。
「ごめんなさい!」
と言いながらも、甘えるようにすがりついて涙を流し続ける。それでも、謝らなくったってゼアルは許してくれるとわかっているから。こんなもの、ちょっとした意地悪なのだ。早く泣き止むことが出来るよう、意地悪をして茶化しているだけなのだ。それが優しくて、嬉しくて、余計に涙は止まらなくなってしまうのだ。
ひとしきり泣いて、泣きはらした目であたりを見渡すとそこには誰も居なかった。敵の一人も。ただ、いつもどおりの青空が広がるタナトスの直ぐ側の、最初に戦ったあの丘の光景だ。
「驚いたか? 友との再会を邪魔されたくなくて蹴散らしたのだ」
雲も、雨も、敵ですらもすべての害意ある物を遺失させる魔法<アイテル>。全ての魔法の祖とも呼ばれる最も古い魔法。ただ一人、ゼアルを除いてこれを唱えられた者は存在しない。
「済まない……」
少しうつむきながらも、未だ少し憂いを帯びていようとももう大丈夫だと思える声だった。
「謝ることはもう無い……」
ゼアルは、そう言ってそっとラディナの頭に手を置いた。
だが、この時のラディナにはフィロスフィアの共振<アポロン>の魔法による命の水の雨でカロンが一命をとりとめたことはまだ知る由もなかった。